Share

第10話

Author: サヨ
思考がプツリと断ち切られ、克樹は石のように硬直した。

どれほどの時間が過ぎただろうか。部下が恐る恐る、沈黙を破った。

「これほど波が高いのです、広瀬さんは恐らく……もう、生きては……!」

ドガッ!

克樹は部下を蹴り飛ばした。怒声がほとばしる。

「黙れ!時乃は絶対に死なん!

あいつは強い。誰よりも優秀だ。百人の殺し合いでただ一人生き残った女だぞ!こんなあっけなく死ぬわけがねえだろうがッ!」

部下は傍らで震え上がり、言葉も出ない。

克樹の声が掠れた。

「失せろ!全員消えろ!」

人が去り、彼はふらりと海辺に歩み寄った。その瞳は血走っていた。

「時乃!時乃ッ!

死ぬわけがない……俺を置いていくはずがない……

言っただろう、お前は俺を守るために生きていると……」

時乃の言葉が、耳元で呪いのように木霊する。だが、彼女の姿はもうどこにもない。

口の中に鉄錆のような血の味が広がり、ついに克樹は砂浜に崩れ落ちた。

言葉にならない嗚咽が漏れる。

ふと、海に落ちる寸前の時乃の瞳が脳裏をよぎった。

そこにあったのは、あまりにも深い失望と、そして微かな「解放」の色……

この間、絢斗のために狂ったように彼女を苦しめた。

彼女の目の前で、見せつけるように来幸を可愛がり、時乃が嫉妬に歪む顔を見たかった。

だが時乃は、自分が何をしようとも眉一つ動かさず、人形のように感情を見せなかった。

彼女がいなくなったと知った時、克樹は発狂しそうになった。

転んだ来幸も無視して探し回った。

輝良が時乃を連れ去ったと聞き、克樹はドアを蹴破った。

彼女が絢斗のために、辱めを受けることさえ厭わず耐えている姿を見て、理性が消し飛んだ。

怒りの矛先を見失い、彼女を熱湯に沈めた。

スープを作らせ、谷川家へ行かせ、闘犬場に置き去りにし……

裏切りの証拠を見せられ、崖に吊るした。

だが、どうあっても、殺すつもりなど微塵もなかった。

それなのに、結局はこの手で引き金を引いてしまった……

ポタリ。

温かい雫が克樹の手の甲に落ちた。

息を呑み、自分の頬に触れる。

……泣いている。

克樹は後悔している。

こんなことになるなら、たとえ時乃の心にいるのが自分じゃなくても、ただそばにいてくれるだけでよかったのに。

初めて、絢斗の死を悔いた。

あの時、怒りに任せて輝良に
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 繁花散りて、君への愛も消え果てた   第21話

    広瀬家の本邸。時乃は熱い茶を両手で包み込み、体の奥に残る冷えを追い払おうとしていた。さきほど克樹の姿を見た瞬間、兄が無残に殺された光景がフラッシュバックした。過去の記憶はあまりに鮮明で、胸の奥底に巣食う怨恨は消えそうになかった。「時乃。おじさんが、家政婦さんが苺のケーキを焼いたって言ってたけど、少し食べる?」蒼介の優しい気遣いには答えず、彼女は茶を一口啜り、ポツリと漏らした。「ねえ蒼介。私って、本当に情けないわ。兄さんを殺した張本人は彼なのに……彼を見た瞬間、体が勝手に『隠れなきゃ』って反応してしまったの。十数年もの間、毎日彼に忠誠を尽くせと刷り込まれ続けてきた。今日になっても、体はその『本能』を覚えている……かつては本気で信じていたの。彼がいる場所こそが、私の家なんだって」言葉が終わらぬうちに、時乃は蒼介に優しく抱き寄せられた。「君は悪くない。自分を責める必要なんてないんだ」彼から漂う清潔なシダーウッドの香りに包まれ、時乃の強張った体が無意識に解けていく。「これからは、おじさんと俺が君の最強の盾になる。ここが、君の家だ」温かな感情が時乃の全身に染み渡り、彼女は静かに頷いた。……三ヶ月後。時乃の体の傷は完全に癒えた。心理カウンセリングの効果もあり、彼女は徐々に心の闇から抜け出しつつあった。蒼介は毎日、彼女の心を解そうと、あの手この手で尽くしてくれた。海辺で貝殻を拾ったり、山頂で満天の星空を眺めたり、可愛い子猫を贈ってくれたり……二人の距離は、日を追うごとに縮まっていった。蒼介の献身的なサポートもあり、時乃は社会人入試に合格し、大学への進学が決まった。入学式を終え、校門を出た直後のことだった。一人の男が道の真ん中で彼女の前に立ちはだかった。「時乃……!」顔を上げると、そこにいたのは克樹だった。彼は以前とは別人のようにやつれ、目は充血し、深い隈が刻まれている。時乃は数歩後ずさり、警戒心を露わにした。「……また来たの?」この数ヶ月、梶本グループは加納家を中心とする勢力から総攻撃を受けていた。克樹は私財の半分を投げ打ち、辛うじて持ち堪えている状態だった。彼は毎日、酒と煙草で神経を麻痺させ、時乃を忘れようとした。だが、できなかった。時乃という存在は、既に

  • 繁花散りて、君への愛も消え果てた   第20話

    克樹は身じろぎもせず、打ち下ろされる木刀の雨をその身で受け止めた。一度たりとも、無様な悲鳴は上げなかった。控えていた護衛たちが主を守ろうと動いたが、彼は手で制した。「全員そこにいろ。動くな!」彼は痛いほど理解していた。京志郎の許しを得なければ、永遠に時乃には会えないと。絢斗を死に追いやったのも、時乃を撃ったのも自分だ。殴られることなど、物の数ではない。火の中だろうと水の中だろうと、喜んで飛び込んでやる。十数回殴打し、京志郎は息を切らせて木刀を止めた。「さっさと失せろ!お前のような畜生に、広瀬家の敷居を跨ぐ資格はない!」克樹の表情は微動だにしなかった。彼はドサッと膝をつき、泥に塗れて土下座した。「全て私の過ちです!時乃に会わせていただけるなら、どんな罰でも受けます!」京志郎は彼をじっと見下ろし、やがて木刀を投げ捨てて冷笑した。「自分で言ったんだな。俺が課す『十の試練』を乗り越えられたら、時乃に会わせてやらんこともない」克樹は迷いなく、力強く答えた。「やります」第一の試練、刃の上を歩く。第二の試練、灼熱の炭火の上に一時間立ち続ける。第三の試練、九十九発の鞭を受ける……すべての試練を終えた頃には、克樹は満身創痍となり、地面に這いつくばって虫の息だった。彼は懇願するような眼差しを向け、掠れた声で絞り出した。「広瀬さん……これで……時乃に会わせて、いただけますか?」「寝言を言うな」京志郎は鼻で笑い、足元の彼に見向きもしなかった。「兄をなぶり殺しにしたお前を、あの子が許すとでも思ったか?」ズドンッ!轟音と共に、重厚な扉が無慈悲に閉ざされた。克樹が抱いた一縷の希望は、完全に打ち砕かれた。空から冷たい雨が降り始めた。彼は泥の中に横たわり、指一本動かせない。意識が遠のく中、不意に、軽やかな足音が近づいてくるのが聞こえた。「……どうしてここにいるの?」時乃の声だ。克樹は力を振り絞って体を起こし、見上げた。夢にまで見たあの顔が、ついに目の前にあった。時乃は純白のドレスを纏い、耳元にはパールのイヤリングが揺れていた。かつての冷徹な護衛姿とはまるで違う、可憐で美しい姿。克樹の目頭が熱くなった。よろめきながら立ち上がった。「時乃……お前を迎えに来たんだ。どうして…

  • 繁花散りて、君への愛も消え果てた   第19話

    梶本家の別荘。来幸は三日間、闘犬場に放置されていた。全身は赤に染まり、少しでも動けば肉が裂けるような激痛が走る。彼女は涙も枯れ果て、ただ低く呻いて許しを乞うことしかできなかった。「克樹……本当にごめんなさい……許して……」克樹は冷ややかに彼女を見下ろした。「いいだろう。こいつを訓練キャンプへ放り込め。どれだけ持ちこたえられるか見ものだな」「嫌!嫌よぉッ!」来幸は絶叫した。梶本家の訓練キャンプがどれほど地獄のような場所か、彼女は熟知している。そこに行くくらいなら、まだ闘犬場の方がマシだ。「怖いか?」克樹は能面のような無表情で告げた。「時乃はわずか七歳で入所し、幾多の死線を潜り抜けて俺の前に立ったんだ。……彼女を殺したのは、お前だ」来幸は恐怖に震え、涙と血で汚れた顔を地面に擦り付けて懇願した。「私が悪かったわ!ねえ克樹、本当に反省しているの……!」克樹は目を閉じ、部下に彼女を引きずるよう命じた。「言ったはずだ。時乃が味わった苦しみは、すべてお前も味わうんだとな!」……あの日以来、克樹は完全に抜け殻のようになった。特注の氷棺を用意し、時乃と思しき遺体を保存させ、毎日その前で泥酔した。時折、いっそ死んで楽になりたいとさえ思った。そうすれば、来世で彼女に会って許しを請えるかもしれないと。彼が三度目の自殺未遂、手首を切って病院に搬送された時だ。秘書が血相を変えて病室に飛び込んできた。「社長!ひ、広瀬さんを見かけたとの情報が!」克樹は虚ろな目で、天井を見上げたまま言った。「嘘をつくな……無駄だ」秘書は一枚の新聞を彼の目の前に突きつけた。「本当です!これをご覧ください!」克樹は眉をひそめ、億劫そうに目を開けた。だが、新聞の写真を見た瞬間、弾かれたように上半身を起こした。「時乃……?」写真の中で、時乃は中年男性と並んで立ち、太陽のように明るく微笑んでいた。一目で確信した。これは、間違いなく時乃だ!「すぐにあの遺体を再鑑定に出せ!別人かどうか確認しろ!」次の瞬間、克樹は腕の点滴を引き抜き、運転手に電話をかけた。「車を出せ!今すぐ翼澤市へ向かうぞ!」……翼澤市、広瀬家。東都市から翼澤市へ向かう道中、克樹の心は狂喜に満ちていた。まさか、時乃

  • 繁花散りて、君への愛も消え果てた   第18話

    翼澤市。食卓を埋め尽くす豪華な料理と滋養品の数々を前に、時乃の箸は止まったままだった。加納蒼介(かのう そうすけ)に救われ、加納家に連れ帰られてから一ヶ月。彼は専門医に体を検査させただけでなく、栄養学の専門家までつけて徹底的な体調管理をしてくれた。おかげで傷の回復は順調で、体にも少しずつ健康的な丸みが戻りつつあった。「加納さん、もう食べられません」蒼介は箸で山芋を掴み、彼女の茶碗に入れた。「まだ痩せすぎだ。もう少し食べて」時乃はふと、数年前のことを思い出した。目の前にいるこの清廉で優雅な男が、まだ少年だった頃のことだ。当時、彼はまだ十代そこそこで、重傷を負って雪の中に倒れ、今にも命の灯火が消えそうだった。任務からの撤収中、時乃は彼を見つけて足を止めた。訓練キャンプの鉄則では、克樹以外の命は、たとえ自分の命であっても無価値だと教え込まれていた。だが、いつも冷徹な彼女が、自分でも制御できずに彼を救った。その瞬間、彼の姿に兄の面影が重なったからだった。その時の気まぐれな善行が巡り巡って、蒼介が海辺で彼女を救うことになった。目覚めた時、蒼介が最初に言った言葉はこうだった。「すまない、君のお兄さんを……救えなかった」絢斗の骨壷を時乃の手に渡した。「俺にできたのは、これだけだった」あの日、時乃は兄の骨壷を抱きしめ、声が枯れるまで泣き叫んだ。長年押し殺してきた感情が、ようやく出口を見つけたようだった。その後、蒼介が加納家の当主を継ぎ、かつてのような綱渡りの日々から解放されたことを知った。彼の熱心な誘いを受け、時乃は加納家に身を寄せることになった。「スープも飲んで。回復にいいから」蒼介の気遣わしげな声が、時乃を回想から引き戻した。この一ヶ月、彼の献身的な世話は、彼女にこれまで感じたことのない温もりを与えてくれた。夜中に悪夢にうなされても、彼がそばにいれば安心して眠ることができた。スープを口にし、何か言おうとした時、蒼介が一つの書類封筒をテーブルに置いた。「時乃。君に伝えておくべきことがある。実は、君は翼澤市の広瀬家が長年探し続けていた令嬢なんだ。君の父親は、片時も君とお兄さんを探すのを諦めてはいなかった」時乃はスプーンを置き、その封筒を長い間見つめた。声が震える。

  • 繁花散りて、君への愛も消え果てた   第17話

    克樹は目を血走らせ、手にしたノートを握り潰さんばかりに力を込めていた。口の中で「時乃」の名を何度も、何度も反芻する。そこに綴られた文字の一つひとつが、まるで身を切り刻む刃となって心臓を抉り、魂を引き裂いていく。脳裏に浮かぶのは、時乃の強がりな横顔。息ができなくなるほどの激痛が襲う。彼女はいつだって、危険があれば迷わず自分の前に立ちふさがった。どれほど傷つき、血を流しても、弱音ひとつ吐かなかった。来幸に虐げられ、嘲笑されても、一言の弁解もしなかった。時乃は自分を愛していた。本当に、自分を愛してくれていた。それなのに……この手で彼女を奈落の底へと突き落とした……克樹は冷たい床に跪き、獣のような咆哮を上げた。胸が張り裂けるような慟哭が地下室に響く。やがて一陣の風が吹き抜け、やっと我に返らせた。顔を上げた時、その瞳は氷河のように凍てついていた。来幸。お前には、相応の代償を払ってもらう。克樹はノートを宝物のように懐へしまい込むと、大股でさらに奥の地下牢へと向かった。地下牢の扉に近づくと、中から来幸の甲高い罵声が漏れ聞こえてきた。「あいつが死んだのは自業自得よ!私の知ったことじゃないわ!」彼女の声は鋭く、猛毒を含んでいた。「殺したのは克樹でしょう!?ええ、二人の仲を裂こうとしたわよ。でも、それを信じて実行したのは克樹じゃない?絢斗を兄さんに引き渡してなぶり者にさせたのも、わざと見殺しにしたのも……全部克樹自分で選んだことよ!それに、時乃だって……」克樹は眉間に皺を寄せ、ドアの隙間から中の様子をうかがった。来幸は椅子に縛り付けられ、全身に鞭の跡が走り、その形相は悪鬼のように歪んでいた。肩から血を流しながら、唇を噛み切らんばかりに叫んでいる。「……あいつは、一度だって克樹を裏切ってなんかいなかったのよ!」克樹は息を呑んだ。信じられないという色が瞳をよぎる。「あの時、病院で自分の血を分け与えて克樹を救ったのは時乃よ!血を抜きすぎて気絶したあいつを、私が部下に命じて谷川家の門前に捨てさせ、写真を撮らせただけ!アハハハハ!傑作でしょう?克樹は確かめもしなかった。問答無用で彼女を罰したのよ!ねえ、これって私のせいかしら?彼が本当に時乃を愛していたなら、どうしてそこまで

  • 繁花散りて、君への愛も消え果てた   第16話

    警察署。克樹の顔色は蝋のように白く、指先は小刻みに震えていた。意を決して、ベッドの上の白い布をめくり上げる。そこに横たわる時乃は、静かに目を閉じていた。顔は海水に浸かって白くふやけ、浮腫んで変わり果てている。だが、一目で分かった。これは時乃だと。白く細い手首には、ロープで縛られた痕が痛々しく残っていた。あの日、自分が一晩中、海辺の崖に吊るさせた痕だ……手首に彫られた「KATSUKI」という文字のタトゥーが、まるで彼を嘲笑っているかのように目に焼き付く。克樹の目尻が赤く染まり、震える指先がそっと彼女の手首を撫でた。かつて、時乃に自分の名前を彫らせたものだ。こうすれば、彼女は自分のものだと証明できると思った。誰にも奪わせないために。ポタリ。一滴の涙がこぼれ、時乃の手の甲で弾けた。視線を落とすと、彼女の腹部に空いた弾痕が目に入る。一体、時乃に何をしたんだ?克樹は糸が切れたようにその場に崩れ落ち、獣のような嗚咽を漏らした。どれほど彼女のそばに座り込んでいただろう。一日、二日、いや三日か……お悔やみを言いに来た人々は皆、狂気を孕んだ彼の様子に怯えて逃げ出した。克樹はただ、冷たくなった時乃の手をきつく握りしめ、片時も放そうとしなかった。まるで、彼女がまだ生きているかのように。「時乃……俺が悪かった。本当に、悪かったよ……戻ってきてくれ、頼む……」虚ろな部屋に、彼の懇願する声だけが空しく木霊する。二人はどうしてこんな所まで来てしまったんだろう?自分の心には、時乃しかいなかったのに。あの時、きっぱりと政略結婚を拒絶し、時乃を匿い、親父をねじ伏せていればよかったんだ。自分が間違っていた!喉の奥から鉄錆のような味がこみ上げ、ゴフッ、と血を吐き出した。「社長!」外で見守っていた部下が、異変に気づいて飛び込んでくる。視界が暗転し、克樹は深い闇の底へと沈んでいった。「……克樹様!」目を開けると、そこには時乃の姿があった。ただ、以前とは違っていた。甘く微笑み、普段なら決して着ようとしなかった華やかなドレスを身に纏っている。「克樹、明日は私たちの結婚式よ?一日中デートに付き合ってくれるって約束したじゃない。まだ寝てるの?本当にお寝坊さんなんだから!」

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status