FAZER LOGIN俺の名前は大野慎一(おおの しんいち)。 恋人の石井彩香(いしい あやか)は、自分が重度の潔癖症だと言っていた。自分の物に触られたり、プライベートの空間に踏み込まれたりするのをひどく嫌がっていた。 一緒に暮らしたいと何度頼んでも断られていたが、付き合って5年目に、彩香はやっと同棲を受け入れてくれた。 俺はスーツケースを引いて彩香のマンションへ向かい、建物の前で5時間も待った。だが、何度電話をかけても電源が切れていて、まったくつながらなかった。 冷たい風にさらされ、手足の感覚もなくなりかけた頃、ふと見上げると、彩香の部屋に明かりがついていた。 いつの間にか帰っていたのかと思い、エントランスにいた管理人に事情を話してオートロックを開けてもらい、彩香の部屋へ向かった。 インターホンを3回押すと、ようやくドアが開いた。 そこには、彩香の大学時代の後輩で、この春卒業したばかりの相沢郁人(あいざわ いくと)が、上半身裸で立っていた。 「あれ、慎一さん。どうしてここに?」 郁人は濡れた髪をタオルで拭きながら、不思議そうに俺を見た。 「これから数日、台風で天気が荒れるらしくて。僕の部屋が雨漏りしたら困るだろうって、彩香さんが鍵を渡してくれたんです。半月くらいなら、ここに泊まっていいって」 開いたドアの隙間から見えた靴箱には、郁人の限定スニーカーがぎっしり詰め込まれていた。 無言で立ち尽くしていると、ちょうど彩香からLINEが届いた。 【会社で急に出張が入ったから、同棲は来月からにしよう】 一方、郁人のSNSには、10分前にこんな投稿が公開された。 【優しい先輩がいるって最高。シーツまで、僕のいちばん好きなディープブルーに替えてくれた!】 投稿には、彩香が腰をかがめてベッドのシーツを替えている後ろ姿が写っていた。 結局、彩香のいわゆる重度の潔癖症は、俺が相手のときだけだったのだ。
Ver mais2年後。B市でも有名な海沿いのチャペルでは、ステンドグラス越しの光が、白いバージンロードに降り注いでいた。新郎控室では、スタッフが俺のタキシードの襟元を整えていた。ベストマンの渉は隣のソファでスマホを眺めながら、さっきから何度も愉快そうに笑っていた。「慎一、面白い話が入ってきたぞ」「何だ?」鏡越しに目を向けると、渉はにやにやしながら口を開いた。「石井の会社、とうとう倒産したらしい。2年前、氷室社長があのパーティーで取引を打ち切るって言ってから、ほかの会社も次々に手を引いたんだと。大口の取引先も、ほとんど残らなかったらしい。その後も判断を誤ってばかりで、とうとう資金が回らなくなった。昨日は差し押さえまで入って、今じゃ借金が2億円近くまで膨らんでるらしい。あれだけ大事にしてたマンションも、競売に出されたってさ」カフリンクスを整えていた指先が、ほんの一瞬だけ止まった。けれど次の瞬間には、何事もなかったように動作を続けた。「そうか。相沢は?」「あいつは相変わらずだよ」渉は呆れたように笑った。「石井の会社が潰れたと分かった途端、口座に残ってた最後の200万円を持ち逃げしたらしい。今は20歳以上も年上の金持ちの女に取り入ってるんだと。数日前には、その女に買ってもらった偽物のブランド時計をSNSに載せて、自慢してたらしいぞ」ひとしきり笑ったあと、渉はふと声を落とした。「それから石井だけど、もうまともな状態じゃないらしい。毎日、お前たちが一緒に暮らすはずだったマンションの前に座り込んで、空の酒瓶を抱えたまま泣いたり笑ったりしてるんだと。誰に会っても、もうすぐ夫がここに越してくるって言い張って、警備員に追い払われてもまた戻ってくるらしい。もう、まともに話も通じないってさ」そこまで聞いても、心は不思議なくらい静かだった。ようやく報いを受けたのだと喜ぶ気にもなれず、かといって、彩香を哀れむ気持ちも湧かなかった。まるで、赤の他人の話を聞いているようだった。誰かが罰を与えなくても、人を傷つけ、欲に任せて生きていれば、いつか自分で自分の首を絞めることになる。2人はただ、そうなるべくしてなっただけだった。「もういい。せっかくの日に、あいつらの話はやめよう」腕時計を着けて立ち上がると、控室のドアがそっと
警備員に取り押さえられた彩香を見て、思わず鼻で笑った。「もうあいつを追い出したって言っただろうな。それなのにあいつが殴られているのを見たら、思わず庇ってしまったんじゃないのか?」俺は床にうずくまる郁人へ目をやった。「そんなにそいつが大事なら、俺にすがる必要なんてないだろ。お前たちで勝手にやってろ。よく似合ってるよ」彩香は伸ばしかけていた手を見つめ、はっとしたように引っ込めた。顔からさっと血の気が引いた。「違うの。私はただ……」「もういい」俺は彩香の言葉を遮った。「自分の物に触られるのも、プライベートに踏み込まれるのも嫌だって、よく言えたな。相沢には何をされても平気だったくせに」静まり返った会場で、彩香は唇を震わせたまま何も言えずにいた。「あいつがお前のフォークを使っても、着信音を勝手に変えても、俺と暮らすはずだった部屋に居座っても、お前は何も言わなかった。そのくせ、俺にはあれこれ決まりを押しつけてばかりだった。ずいぶん分かりやすい温度差だよな」俺は郁人を見下ろし、そのまま続けた。「自分勝手なお前には、何も知らないふりをして人を振り回すあいつがお似合いだよ。これからは2人で好きにすればいい。もう俺を捜すな。俺にとって、お前はもうどうでもいい存在だ」彩香はその場に立ち尽くしたまま、何かを言おうとした。けれど、唇が震えるだけで、声は出なかった。俺がもう戻らないことを、そこでようやく悟ったのだろう。俺たちが終わった理由は、1度の喧嘩でも、あの台風の夜でもなかった。この5年間、軽く扱われ、彩香の決めたルールを押しつけられるたびに、俺の気持ちは少しずつ冷めていった。すべてを爆発させる導火線に過ぎなかったのだ。そばで黙って見ていた瑞希が、そっと俺の肩に手を置き、警備員へ目を向けた。「お願いします」警備員たちは、呆然とする彩香となおも騒ぎ続ける郁人を、すぐに会場の外へ連れ出した。扉が閉まると、瑞希はスタッフに声をかけ、温かいお茶を受け取って俺に差し出した。「手、痛くない?」さっきまでの騒ぎなどなかったかのような、いつも通りの口調だった。「平気です」俺がお茶を受け取ると、瑞希は安心したように笑った。そのあと、瑞希はグラスを手に会場の中央へ進み、出席者に向かって口を開いた。「
入口のほうから、警備員の制止する声と女の怒鳴り声が聞こえ、会場がざわめき始めた。「どいて!人を捜してるの!ここに入っていくのを見たんだから!」流れていた音楽に交じって、聞き覚えのある声が耳に届いた。振り返った瞬間、顔から笑みが消えた。彩香だった。会うのはたった1か月ぶりなのに、一瞬、誰なのか分からなかった。いつも隙のない化粧で、人を寄せつけない雰囲気をまとい、自分の物に触れられたり、プライベートの空間に踏み込まれたりするのをあれほど嫌っていたあの彩香が、今は見る影もなくやつれていた。彩香は警備員を振り切ると、まっすぐ俺のもとへ駆けてきた。瑞希はわずかに眉を寄せると、彩香を遮るように俺の前へ立った。「申し訳ありませんが、こちらは招待制のパーティーです。お引き取りください」声は静かだったが、きっぱりとしていた。それでも彩香は瑞希を見ようともせず、俺だけを見つめていた。みるみる目に涙がにじんだ。「慎一、やっと見つけた……」彩香は声を詰まらせ、俺に手を伸ばした。「郁人はもう部屋から追い出したわ。あれから1度も会ってない。業者に頼んで、部屋も隅から隅まで3回消毒してもらったし、郁人が触った物も全部捨てたの。おそろいのルームウェアも買ったわ。慎一が選んでたものを10組も買って、全部クローゼットにしまってあるの。お願い、一緒に帰ろう。あなたがいないと駄目なの。この1か月、ずっと捜してた。もう、どうしたらいいのか分からない……」泣きながら必死に訴える彩香を見ても、俺の心は少しも動かなかった。胸がすくこともなく、ただ、うんざりしただけだった。「石井さん。もう俺の名前を呼ばないでくれ。呼ばれるだけで気分が悪い」俺はそのまま続けた。「部屋を何回消毒したって、もう俺には関係ない。あの家に戻るつもりもない」「違うの、慎一。お願い、話を聞いて。あの夜、あんな大けがをしてたなんて、本当に知らなかったの……」彩香は涙を流しながら、それでも俺に近づこうとした。「彩香さん!」その声に、彩香の言葉が途切れた。宴会場の入口を見ると、郁人が息を切らして駆け込んできた。会場には不釣り合いな安物のスーツを着て、髪は乱れ、顔も涙でぐしゃぐしゃになっていた。郁人は俺の前まで来るなり、周囲の視線も構わず、そ
彩香は袋からコートを取り出し、乾いてこわばった布を両手で握りしめた。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。大粒の涙が次々とこぼれ、黒ずんだ血の跡を濡らしていった。ふいに、3年前の雨の夜がよみがえった。残業と会食が続いた末に、彩香が胃出血を起こし、借りていた部屋で動けなくなった夜だった。当時、俺たちは遠距離だった。知らせを受けた俺はすぐに新幹線に飛び乗り、駅から土砂降りの中を走って彩香のもとへ駆けつけた。全身ずぶ濡れのまま彩香を背負い、階段を下りて病院へ急いだ。途中で足を滑らせて膝をすりむいても、彩香を背負ったまま歩き続けた。それなのに、俺が血まみれで助けを求めていたあの夜、彩香は何をしていたのか。郁人のそばにいて、俺が嫉妬のあまり嘘をついていると決めつけ、電話を切った。思い返すたび、後悔と罪悪感で胸が締めつけられ、息まで苦しくなった。そのとき、バッグの中から、郁人が勝手に設定したあの着信音がまた流れた。「彩香さん、電話ですよ~早く出てくださ~い」彩香はぼんやりしたままスマホを取り出し、電話に出た。「彩香さん、まだ帰ってこないの?」郁人の甘えるような声が聞こえてきた。「ここのWi-Fi、遅くてゲームできないんだ。早く帰ってきて、どうにかしてよ。あと、南町のいちごケーキも買ってきて」彩香は以前、郁人のそんな甘えた声さえかわいいと思っていた。だが今は、聞いているだけで吐き気がした。「郁人」彩香は低い声で名前を呼んだ。「今すぐ荷物をまとめて、私の部屋から出ていって」電話の向こうで郁人が黙り込んだあと、泣きそうな声で聞き返した。「彩香さん、急にどうしたの?僕、何かした?」「出ていって!」彩香は電話に向かって怒鳴った。「二度と私の前に現れないで。次に顔を見せたら、ただじゃおかないから!」彩香が通話を切るなりスマホを床に叩きつけると、画面に大きなひびが走った。郁人のわがままを優先するたび、彩香は俺の気持ちを後回しにしてきた。その積み重ねで、誰よりも自分を大切にしてくれた俺を失ったのだと、ようやく思い知った。だが、もう取り返しはつかなかった。それから1か月後、B市。俺は仕立てのいい黒のスーツに身を包み、空になったグラスを手に、クリスタルのシャンデリアが輝く宴会場に立って