LOGIN「おばあちゃん。はじめまして、孫の颯馬です」凍りつくような空気の中、颯馬がすっと前に出た。「父からおばあちゃんが倒れたと聞いて……心配で、手元の仕事を放り出して急いで帰ってきたんです」「顔を合わせるのは初めてですけど、僕は全然そんな気がしていません。小さい頃から、父さんがいつもおばあちゃんがどれほどすごい人だったかを話してくれていましたから。僕が昔からビジネスに興味を持っているのも、きっとおばあちゃんの遺伝を継いでいるせいだって……おばあちゃん、ゆっくり休んで、早くよくなって退院してくださいね。僕、向こうの仕事を長期休養にしてきたんです。これからはしばらく国内に残って、僕がおばあちゃんの傍にいますから」颯馬は陽だまりのように屈託のない明るさを纏っていた。その声のトーンは淡々としているが、父親とは似ても似つかないほど穏やかで優しい。何より不思議だったのは、彼からは拝島家の親族たちが一様に発している、あのギラギラとした野心や強欲さがまったく感じられないことだ。ただそこにいるだけで空気を和らげるような、素朴で穏やかな佇まい。紫音の目から見ても、その青年が根っからの悪人であるようには思えなかった。もしこの人に拝島グループを率いるだけの実力と誠実さがあるのなら、志津様がいっそ彼に会社を譲ってしまうのも一つの手ではないだろうか。紫音は胸の内でそっと考えた。律自身、会社や権力そのものに執着しているわけではない。このまま泥沼の権力闘争を続けるよりも、実の孫である彼にすべてを渡し、拝島家と縁を切ってしまえば、律もようやくあの過酷な重圧から解放されるのに、と。「おばあちゃん、誤解しないでくださいね。僕、会社を乗っ取ろうだなんて、これっぽっちも思ってませんから」静まり返った病室に、颯馬の柔らかい声が響く。「律兄さんがいかに優秀で、会社を完璧にまとめ上げているかはよく知っています。……実は帰国する前、少し会社の資料に目を通したんです。この五年間、業績は右肩上がりで、今や世界でもトップレベルの規模を維持している。ここまで会社を成長させることがどれほど困難か、同業を学んできた僕には痛いほどわかります。僕なんかじゃ足元にも及ばない。むしろ、律兄さんから学ぶべきことが山ほどあると思っています」「もし兄さんさえよければ、これからは一から勉強させてほしいし、おば
今日の志津は昨日よりもずっと顔色が良い。声にもいくぶん張りが戻っている。言葉を紡ぐのさえひどく苦しそうだった昨日の様子を思えば、見違えるような回復ぶりだった。「志津様、今日は二人とも仕事が早めに終わったので、顔を見に来たんですよ。ご飯はちゃんと召し上がりましたか?あまり食欲がないって聞きましたけど……早く元気になってもらうためにも、少しは食べなきゃダメですからね」紫音はベッド脇に歩み寄り、志津の手をそっと握りしめた。その手がひんやりと冷たくて、紫音の胸がチクリと痛む。こんなにも優しく、慈愛に満ちた人なのに、どうして親族たちはあんなにも冷酷に振る舞えるのだろうか。拝島家の面々がいったい何を企んでいるのか、紫音には本当に理解できなかった。血の繋がった家族の命より欲を優先するあの人たちには、一片の良心すら残っていないのだろうか。「お昼はしっかり食べたよ。お医者様の言う通りにお薬も飲んだから、心配いらないよ」志津は柔らかな笑みを浮かべた。二人の嘘偽りない心遣いを感じるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。拝島の人間全員がこうして穏やかに思いやれたなら、自分の体調などとうの昔に回復していただろうに。「母さん、見てくれ!今日は誰を連れてきたと思います?」だがその温かな空気を切り裂くように、不意に背後から声が響いた。宏がズカズカと病室の奥へ足を踏み入れる。その背後には、律より数歳年下と思われる青年を伴っていた。「颯馬、ほら、おばあちゃんだぞ」宏は青年を前に促し、得意げに紹介を始めた。「母さん、おれの息子ですよ。つまり母さんの『血の繋がった本当の孫』である、拝島颯馬(はいじま そうま)です。今までずっとおれと海外で暮らしていたから顔を合わせるのは初めてですが、母さんのことは常々こいつに話して聞かせていましてね」痛いところを突くような言い回しに、病室の空気がピリッと張り詰める。しかし宏は意に介す様子もなく言葉を続けた。「若くして国内有数の大企業をトップに押し上げた、おばあちゃんは本当にすごい人なんだってね。昔、親子三人で身を寄せ合って生きてきた頃の苦労話もよくしましたよ」「颯馬のやつ、母さんを心から尊敬していると言っていましてね。ずっと向こうで経営学を学んでいたからご挨拶が遅れましたが、こいつは国内外の企業マネジメントにおいて、実に
「これからの人生、時間はいくらでもあるわ」紫音は少し明るい声を作って、励ますように言った。「あなたも今は限界まで気を張っているんだし、そんなに自分を追い詰めないで。私のちょっとした我儘で、あなたをさらに苦しめたいわけじゃないの」紫音は優しく微笑んで、続けた。「もし本当に申し訳ないと思っているなら、いつか落ち着いた時、たっぷり埋め合わせしてよね。……ただ、時々ふと思うの。いっそのこと、あなたがこの会社を手放してしまえば、どんなに楽だろうって。あんな人たちの中で毎日すり減らしていくことに、本当に意味があるのかしらって」本当なら、とっくにすべてを投げ出していたかもしれない。それでも律が踏みとどまっているのは、ただ志津を守るためだった。周囲の目には、血の繋がらない律が会社に居座っているのは「正当な血筋である息子たちから、財産と権力を奪い取るため」と映るだろう。そんな謂れのない悪意やプレッシャーに晒されてなお、彼は決して逃げ出そうとはしなかった。彼が自ら「会社を降りる」と口にするような日があるとしたら、それは純粋に志津の命を救うための苦肉の策でしかなかった。「……君に寂しい思いをさせている分は、いつか必ず倍にして返すよ」律はハンドルを握る手に少しだけ力を込めた。「本当は、ただ君が笑って私のそばにいてくれるだけでいいんだ。仕事なんてすべて投げ出して、君と過ごす時間だけを大事にできたらどんなにいいか。……だが、今はまだそれが叶いそうにない」実際のところ、律は今、完全に身動きが取れない状態にあった。会社がいつになれば本当に安定するのか、全く見通しが立たないのだ。親族たちが日々社内外で騒ぎ立てているせいで、役員たちも拝島の人間に対する不信感を募らせている。ただ、律の圧倒的な手腕によってグループの業績が盤石に保たれているため、役員たちも表立って異論を唱えることはない。正人はあの手この手で役員に甘い汁を吸わせ、自分の陣営に抱き込もうと画策しているが、利益に聡い彼らがそう簡単に靡くはずもなかった。とはいえ、正人たちが裏で蠢き続ける限り火種は尽きず、律は毎日その火消しに追われることになる。「はい、もうすぐ家に着くわ。暗い話はこれでお・し・ま・い」紫音は少しだけ明るい声を出して、車内の重い空気を振り払った。「松田さんが、とびきり美味しいご飯を作って待って
「ううん……もう遅いし、家に帰りましょうよ。今日はさすがに疲れちゃった。真っ直ぐ帰って休みたいわ」紫音は軽く首を横に振って微笑んだ。本音を言えば、最近は互いに仕事が忙しく、ゆっくり食事をとる時間すらなかったため、今夜は二人でディナーを楽しみたいと思っていたのだ。しかし、志津の急変でそんな余裕は完全に吹き飛んでしまった。今後数日も、律は志津のことで頭がいっぱいだろうし、紫音自身も病院の往復で気が休まらないはずだ。それに、自宅には家政婦の松田が美味しい料理を用意して待ってくれている。愛する人と一緒にいられるなら、豪華なレストランでなくとも、そこが一番の安らぎの場所になる。「わかった。君が一番リラックスできるのがいい」律は短く応じ、車の進路を自宅へと向けた。紫音が心身ともに疲労困憊しているのが、彼にも手に取るようにわかった。拝島家のあの異様な空気に当てられれば、憔悴するのも無理はない。「ねえ、律」車窓を流れる街灯の光を眺めながら、紫音はぽつりと零した。「私のためだからって、無理に自分を変えようとしなくていいのよ。あなたは、あなたのままで十分だわ」「以前はね、あなたと一緒にいてもどこか事務的で、味気ないって不満に思ってた。でも……あの時ちゃんと話し合って気付いたの。あなたは不器用なだけで、常に私を一番に考えて、全力を尽くしてくれているんだって」紫音は視線を律に向け、柔らかく微笑んだ。「その実直な愛を受け取れて、私、本当に幸せよ。退屈だなんて二度と思わない。長く寄り添っていくって、きっとこういう穏やかな時間の積み重ねのことなのね」かつては、映画のようなドラマチックで情熱的な出来事ばかりが「愛」なのだと思い込んでいた時期もあった。だが今は違う。どんな困難な状況下でも決して揺るがず、常に自分の隣で確かな安心を与えてくれるこの男の存在こそが、何にも代えがたい「愛」だと、紫音は深く実感していた。「いや……私の方こそ、至らなかった」律は前を見据えたまま、懺悔するように低く呟いた。「君が本当に求めていたものを、私は理解しようとしていなかったんだ。『自分なりの最善』を尽くしているつもりで、肝心な君の心に寄り添えていなかった。君に寂しい思いをさせていたのは、間違いなく私の落ち度だ」すれ違ってからというもの、律は何度も何度も自分を省みていた。他者に対して
紫音は小さく頷きながら、暗い夜の闇を見つめた。拝島家の面々の行動は、人間の欲と醜さをそのまま煮詰めたかのようだった。底なしの利己主義に支配された人間が、どれほど無情になれるのかをまざまざと見せつけられた気がする。「ねえ、律」紫音はシートベルトを外しながら、隣に座る律を見据えた。「私、時々あなたのことが堪らなく気の毒になるわ。こんな冷酷な人たちの中で、よく真っ当に育ってきたわね。毎日あの人たちと顔を合わせていて、平気だったの?」どうしてこんなにも不憫に思えるのだろう。拝島家の中で、彼の味方は決して多くない。しかも、律の母である朱美は、根は陽気で善良な人だが、母親としてはどこか無責任なところがあった。自分の趣味や遊びには熱心でも、息子である律と真剣に向き合い、守ってくれるようなタイプではない。彼は常に、たった一人でこの泥沼の環境を生き抜いてきたのだ。「同情なんていらないよ、もう慣れっこだ」律は微かに口角を上げて、自嘲気味に笑った。「むしろ、彼らのおかげで私は強くなれたんだ。冷遇され、蹴落とされそうになる環境だったからこそ、今の私がある」幼い頃から、律は一つの真理を悟っていた。他人に支配されず、自分の足で立ち向かうためには、誰よりも強くなるしかないのだと。彼らと同じように醜く争うのではなく、圧倒的な実力を身につけて生き抜くこと。その矜持があったからこそ、志津は律を信頼し、グループの全権を託してくれたのだ。今の拝島律という男の強さは、彼自身の血と汗で勝ち取った結果だった。「さて、病院での重苦しい話はここまでにしよう。遅くなってしまったし、どこかで食事でもどうだ?君もまだ何も食べていないだろう」空気を変えようと、律は穏やかな声をかけた。愛する女性にひもじい思いなどさせたくなかったし、拝島家のゴタゴタのせいで、これ以上紫音に陰鬱な思いをさせるのは耐えられなかった。紫音と結ばれたからには、自分のすべてを懸けて彼女に最高の生活と幸福を与えるつもりだった。それなのに、二人が婚約してからというもの、拝島家は揉め事ばかりだ。それどころか、親族たちは事あるごとに紫音を目の敵にし、「拝島家の権威と財力にすがりつこうとしている」などと的外れな見下し方をしている。律は痛いほどわかっていた。紫音は過去に反発して実家と距離を置いていた時期があるもの
「あそこまで自己中心的な人だと、母親の命すらどうでもいいのね。自分のことしか考えていない……本当に欲深い人たちだわ」ふと、正人と早苗の様子が頭をよぎった。今は結託しているように見える夫婦だが、もし正人がすべてを失って無一文になれば、早苗は一瞬の躊躇もなく彼を見捨てるだろう。彼らの身勝手な欲望が、志津の寿命を確実に削り取っている。その事実が、紫音の心を深く抉った。痛みに耐える志津の姿を思い出すだけで胸が締め付けられるのに、自分には何もしてあげられないという無力感が悔しかった。「私、志津様のために何をして差し上げられるのかしら……もし、このまま志津様が目を覚まさなかったら、あの人たちは後悔すらしないの?一生、平気な顔をして生きていくのかしら」理解できない悪意に触れた戸惑いと、大切な人を守りきれないもどかしさが入り混じり、紫音は俯いて小さく唇を噛んだ。「拝島家の内部は、君が思っている以上に腐敗している。彼らは昔からそういう人間だ。自分の利益以外は一切目に入らない。あの者たちに人並みの良心や情を求めても、土台無理な話だよ。だから……怒るだけ無駄なんだ」運転席でハンドルを握る律は、前を真っ直ぐ見据えたまま静かに言った。その声は酷く凪いでいて、長い間に培われた諦念が滲ませていた。「私たちができるのは、おばあちゃんが生きている間に、少しでも苦しみを和らげ、安心させることだけだ。結果がどうであれ、自分たちがやれるだけのことをやり尽くす。それしか……ないんだ」律はすでに覚悟を決めていた。志津の容体がどれほど絶望的か、主治医の言葉を聞くまでもなく彼が一番理解している。いつその時が来てもおかしくない。だからこそ、その日が永遠に来ないことを祈りながらも、最期の瞬間に「もっと何かできたはずだ」と後悔することだけはしたくなかった。律の静かな横顔を見つめながら、紫音は胸のつかえが取れないでいた。たっぷりの愛情を注がれて育ってきた紫音にとって、実の親を切り捨てるような血みどろの権力闘争は、どうしても受け入れがたいものだった。家族の絆すら平気で踏みにじり、裏で足の引っ張り合いを続ける人間たちが、同じ世界に生きているとは到底思えなかった。早苗が余計な身辺調査さえしなければ、律が拝島家の血を引いていないという秘密も暴かれることはなく、ここまでドロドロの争い







