Masuk別れの品など、見れば辛くなるだけだと頭では分かっていた。それでも、自分の叶わなかった恋のささやかな記念品として、どうしても手元に残しておきたかった。マンションを出て、夜の冷たい風に当たった瞬間。堪えていた涙が、堰を切ったように頬を伝い落ちた。「……っ、うぅ……」強がってはみても、心はまだ言うことを聞いてくれない。蘭は夜の街角で立ち止まり、誰の目も憚らず、ただポロポロと泣きじゃくった。一方、蘭を見送った浩一は、ようやく肩の荷が下りたように深く息を吐き出した。それにしても、まさかあの子に自分の本心を見透かされていたとは全くの予想外だった。自分が紫音を好きだということに、一体どうして気がついたのだろうか。紫音が婚約して以来、浩一は彼女に接する際、行動に細心の注意を払ってきた。彼女の婚約者である律に余計な誤解を与えないよう、あえて一定の距離を保ち、ただ静かに遠くから見守るポジションに徹していたはずなのに。ともあれ、これで蘭との関係には完全にケリがついた。浩一はすぐに紫音へ電話をかけ、彼女と直接話し合ってすべてを清算したことを伝えた。「……報告してくれてありがとう、浩一さん。あれから色々考えたんだけど、今回の件、実はあんたに非はないのよね。最初からちゃんとはっきり断ってたのに、私が間に入って変にけしかけたせいで拗れさせちゃったんだわ」電話口の紫音の声には、深い後悔が滲んでいた。「うちの蘭は恋愛経験が少ないから、私が後ろから色々と入れ知恵をして背中を押していたの。まさか、あの子をこんなに傷つける結果になっちゃうなんて思わなくて……」今回の顛末について、紫音は自分の無神経な行動が最大の原因だったと猛省していた。よかれと思ってやったお節介が、結果的に浩一にも蘭にも多大な迷惑と心の傷を負わせてしまったのだ。だが、ここまで事が終わってしまっては、もういくら悔やもうと後の祭りだ。二人に心底申し訳ないと思いつつも、今の彼女にはただこうして謝罪の言葉を口にすることしかできなかった。「いいさ、謝ることなんてないよ。お前が俺たちのことを思ってやってくれたことくらい、よくわかってる。お前なりに、俺と蘭さんがくっつけばお似合いだと思ってくれたんだろう?」浩一は柔らかい声で答えた。彼女を責める気など微塵もない。紫音は、自分やお互いがフリーであるこ
蘭は小さく息を吐き出すと、俯いていた顔を上げて彼を真っ直ぐに見た。「塚山さん。今日ここに来たのは、今の気持ちをちゃんと伝えるためです。これからも仕事でお会いする機会はあるでしょうから、その時に気まずくなりたくなかったんです」「それと、安心してください。……塚山さんが紫音さんのことを好きだってこと、私、絶対に誰にも言いませんから」実際、蘭はこれまで一度だって紫音の前でこの話題を出したことはなかった。浩一の行動や視線を見れば、その想いは十分にダダ漏れなのだが、当の紫音本人はまるで気づいていない。彼女にとって浩一は、あくまで「気の置けない男友達」でしかなかったのだ。「……ありがとう。秘密にしておいてくれると助かる」浩一は苦笑いを浮かべた。「俺だって……君がつきっきりで看病してくれてる間、その想いに応えようと努力はしたんだ。だけど、駄目だった。俺の心には……やっぱりあいつしかいないんだ。たとえ一生、あいつと結ばれることがなくても構わない。あいつ以外、誰も心に入れないから。……だから、君の気持ちに応えられない俺を許してほしい」かつて紫音が不破清也と婚約していた時も、浩一はただ黙って彼女を見守ってきた。そして、破綻したと知った時、「今度こそ自分にチャンスが巡ってきた」と胸を躍らせたのも束の間――彼女の隣には、すでに拝島律という完璧な男が立っていたのだ。「不破清也と別れた時は、ようやく俺の番が来たと思ったんだけどな……気づいたら、あいつの隣にはもう別の奴がいたよ」そのことを語る浩一の口調には、隠しきれないやるせなさが滲んでいた。どれだけ長く深く愛し続けても、決して手が届かない相手。誰よりも、恋の理不尽さを思い知っているのは浩一自身だったのだ。「塚山さんを責めたことなんて、一度もありませんよ。今日お話しして、お互いの気持ちがはっきりして良かったです。これで、私の変な執着も綺麗さっぱり終わりました。これからはまた、気持ちいいビジネスパートナーとしてよろしくお願いしますね」蘭はそう言って、憑き物が落ちたようにふわりと微笑んだ。本心だった。きっぱりと見込みがないと分かったことで、見え透いた期待に一喜一憂しなくて済む。もう、終わったことなのだ。これからは変に気負うことなく、仕事に集中できるはずだ。「……君は本当にいい子だよ。気配りも完璧だし、
【実は俺も、一度ゆっくり話したいと思ってたんだ。ちょうど電話しようとしてたところだよ。もし都合が良ければ家まで来てくれないか。運転手を迎えに行かせるよ】すぐに返信が来た。【お心遣いありがとうございます、でもお迎えは結構です。もう仕事も終わりましたので、一人で伺います】三十分後。蘭は浩一の自宅マンションに到着した。リビングまで通されると、浩一はソファに体を横たえていた。まだ完治していないせいか、少し顔色が優れない。自由に身動きが取れない毎日は、彼にとってひどく退屈でストレスの溜まるものらしかった。「……塚山さん」いざ顔を合わせると、蘭はどう接していいかわからず、彼の目を真っ直ぐ見ることができなかった。「蘭さん。……君のこと、紫音から聞いたよ」浩一は静かに切り出した。「今回のことは、俺が悪かった。恋愛感情がないとわかっていながら、はっきり伝えないまま君に色々と甘えすぎてしまった」「君とは、恋人としては合わないと思う。でも、友人としてなら喜んで付き合っていきたい。あんなに長い間、不平一つ言わず細やかに世話をしてくれたこと、本当に、心から感謝してるんだ。でも……恋愛だけは、どうにもならない。どちらか一方が頑張ればどうにかなるってもんじゃないんだ。だから……こんな俺のことは忘れてほしい」言い終えると、浩一は傍らのサイドテーブルから小さな包みを取り出し、蘭に差し出した。「これ、入院中に君のために用意したんだ。ずっとちゃんとお礼をしたいと思ってて」せめてもの彼なりの誠意であり、彼女の好意にこれ以上甘えないという、決別の印でもあった。「塚山さん……そんなふうに気を遣わないでください。恋愛が、頑張ったからってどうにかなるものじゃないことは、私だってわかっています。だから、あなたを困らせるつもりはなかったんです」蘭は差し出された包みを受け取ろうとはせず、ただ静かに言葉を紡いだ。「私、知ってましたよ。塚山さんの心の中にずっといる人が、紫音さんだってこと」その言葉に、浩一は思わず息を呑んだ。自分の秘めた想いは、絶対に周囲には悟られていないと思っていた。だが、彼と紫音のやり取りを見ている周囲の人間からすれば、とうに丸わかりだったのかもしれない。自分だけが、うまく隠せていると思い込んでいただけなのだ。「紫音さんは結婚されましたし、もうお二
「紫音さん、どうかそんな顔しないでください。私、紫音さんには感謝しかないです。私のためにずっと心配してくださったこと、わかってますから」泣き出しそうな顔を隠すように、蘭は無理に口角を上げた。「恋愛って、本当にどうにもならないんですね。どんなに頑張ったって、結果が出るとは限らない。だから……誰のせいでもありません」紫音にこれ以上申し訳なく思わせまいとする、蘭なりの必死の思いやりだった。「……そうね。せっかく会社に戻ってきたんだし、今日からは仕事に打ち込みましょう。今、すごくやり甲斐のあるプロジェクトが動いてるの。これを蘭に任せようと思うわ。成功させれば、絶対あなたの大きなキャリアになるから」恋愛で力になれなかった分、せめて仕事で彼女を引っ張り上げたい。紫音はそう心に決めていた。「ありがとうございます、紫音さん……私、頑張ります!」蘭の目に、微かに光が宿った。「私に遠慮なんかしないで。最近の蘭の働きぶりなら、一人で立派に回せる実力は十分にあるわ」失恋の傷を癒す一番の特効薬は、忙しく働くことだ。目の前のタスクに没頭していれば、辛い記憶もいずれ薄れていくはずだと、紫音は力強く微笑んだ。「はい。それじゃあ、仕事に戻りますね」気丈に振る舞い、自席へ戻った蘭だったが、モニターに向かっても文字はまるで頭に入ってこなかった。心の中にぽっかりと大きな穴が空いたようで、何をどう手をつければいいのかわからない。仕事への集中力など到底保てるはずもなく、気がつけば浩一のことばかり考えていた。やれることは全てやった。持てる力を振り絞って、この恋に向き合ってきたつもりだ。これで駄目ならきっぱり諦めようと、自分に何度も言い聞かせてきた「最後の挑戦」だった。けれど、いざ本当にその結末を突きつけられてみると、そう簡単に割り切れるものではない。あれだけ尽くしてきたのに、報われなかったという事実が、どうしても悔しくてたまらなかった。気もそぞろなまま、どうにか定時を迎えた。今日ばかりは残業する気にもなれず、蘭は逃げるようにオフィスを飛び出した。全く仕事にならず、一日中上の空だった自分を責めながら、重い足取りで家路につく。いつになれば、この苦しさから解放されるのだろうか。外の冷たい空気に触れた途端、我慢していた涙がどっと溢れ出した。まだ付き
彼とて、相手が蘭でなければ、とうの昔に非情なほどキッパリと突き放していただろう。だが、蘭は紫音の大切な部下だ。紫音の顔を立てるためにも、無碍に扱うわけにはいかなかった。――それに、何より紫音自身に隠しておきたい『本心』があった。彼はその秘密を決して悟られないよう、言葉を選び続けていたのだ。だが、そのことについて二人が踏み込んで語り合うことは、決してなかった。「……わかったわ。どうするべきか見えた。もう二度と、うちの蘭には手を出さないで。あの子には、私からちゃんと言い聞かせておくから」これだけ長い時間一緒に過ごしても、何の感情も湧かなかったというのなら、二人は根本的に縁がなかったということだ。通話を終えた紫音は、しばらくその場に立ち尽くしていた。オフィスに戻る足取りは重い。蘭にどう切り出せばいいのか、言葉が見つからなかった。あの子は、見返りを求めず、ひたむきに尽くしてきた。自分の想いが報われないかもしれないと薄々勘付きながらも、いつか自分の方を向いてくれると信じて、ギリギリまで耐え抜いてきたはずだ。その希望を、無残に打ち砕かなければならないのだから。「紫音さん、戻られたんですね……随分長く話してましたけど、塚山さん、なんて言ってましたか……?」オフィスに戻った紫音の沈痛な表情を見た瞬間、蘭はすべてを察した。自分が拒絶されたのだと。それでも、微かな希望にしがみつくように、どうしても結果を聞かずにはいられなかった。「蘭……ちゃんと本人から聞いてきたわ。……あんなに長く一緒にいたけれど、どうしても特別な感情は持てなかったって」紫音は言葉を選びながら、ゆっくりと告げた。「だから、どうか傷つかないで。自分を責めないでね。恋愛って、お互いの気持ちがぴったり合わないとうまくいかないものだから……ただ、二人には縁がなかったってことなのよ」紫音は、胸が痛むばかりで上手な慰めの言葉を見つけられなかった。元はと言えば、二人が近づくきっかけを作り、看病を勧めたのは自分自身なのだ。蘭にこれほど辛い思いをさせ、多くの時間と労力を費やさせてしまったことに、紫音は深い罪悪感を抱いていた。「……紫音さん、わかりました。人の気持ちはどうにもならないですものね。私からあれだけアピールしても振り向いてもらえなかったんだから、もう……塚山さんのことで
浩一がここまで遠回しで気を使った対応をしたのも、すべては蘭が「紫音の右腕」だからに他ならない。全くの無関係な相手なら、とうの昔に情け容赦なく冷たく突き放して終わらせていただろう。だが、紫音の顔に泥を塗るわけにはいかない以上、こうするしか彼には道がなかったのだ。紫音は胸が締め付けられる思いだった。健気なアシスタントの頑張りを知っているだけに、この結末はあまりに切ない。だが、相手がここまで明確に線を引いている以上、これ以上外野がとやかく言うことはできないし、無理強いなどできるはずもなかった。「……浩一さん、前からずっと気になってたんだけどさ。あんたの心にずっと住み着いてる『その人』って、一体誰なの?昔はただのチャラ男だと思ってたのに、まさかそんなに一途なところがあったなんてね」紫音は少し声のトーンを落として尋ねた。「私たち、もう長いつき合いじゃない。私にも教えてくれないの?前にも何度か聞いたことあるけど、いつもはぐらかしてきたでしょ」正直なところ、紫音はずっと不思議に思っていたのだ。この男にそこまで深く、長く愛され続けている女性とは、一体どんな人物なのだろうと。「絶対に、手に入らない人だよ」電話越しの浩一の声は、どこか自嘲気味だった。「その人が誰なのかは、聞かないでくれ。お前には関係のないことだ。……たぶん、一生結ばれることはない。でも、だからといって、俺の中で彼女の存在が消えることはないんだ」「俺って、自分で言うのも何だけど、意外と一途なんだよ。彼女以外、俺の隣に立つ人間なんて考えられない。結ばれない運命なら、俺の一生はこのままでいい。他の誰かで妥協するつもりなんてないよ。蘭さんには、本当に申し訳ないと思ってる。あんなに長い間世話を焼かせてしまったからな。自分から諦めてくれるのを待ってたのに、まさか最後まで寄り添ってくれるとは思わなかった。実はな、医者からはあと一週間は入院しろって言われてたんだ。でも、これ以上あの子を引っ張るわけにいかないから、無理言って退院を早めてもらったんだよ。……だから紫音、もうこれ以上俺を責めないでくれ」ここまで腹を割って話されてしまっては、紫音も返す言葉がなかった。これ以上彼を問い詰めるのは酷というものだし、恋愛ばかりは他人がどうこう言って解決する問題ではないのだ。「浩一さん、あんたのこと、もっと責任