Share

第6話

Author: 青葉凛
一方、紫音の背後をついて歩いていた蘭は、重い足取りで唇を噛み締めていた。その瞳には迷いと葛藤の色が浮かんでいる。何かを言いかけては、言葉を飲み込む動作を繰り返していた。

背中の気配でその異変に気づいたのか、紫音はふと足を止めた。ゆっくりと振り返った彼女の瞳は、夜の湖面のように静まり返っていた。

「……蘭、調べてちょうだい。麗華さんがプールに落ちた『本当の事故原因』を」

「!……はい、承知いたしました!」蘭は弾かれたように顔を上げ、緊張した面持ちで即答した。

そして、今度は迷いのない足取りで、使命を帯びた背中を見せて走り去っていった。

紫音は足を止めると、片眉を器用に持ち上げた。そして、優雅な足取りでテーブルへと近づき、その華奢な指先で赤ワインのグラスを手に取る。深紅の液体は照明を浴びて、妖艶な光を放っていた。

グラスを軽く揺らしながら、会場の隅へと身を移す。その凛とした立ち姿は、まるで夜闇に咲き誇る一輪の薔薇のようだった。

宴もたけなわとなり、行き交う人々が増えてくると、何人かが紫音に気づき、挨拶をしようと歩み寄ってきた。

その時、煌びやかなドレスに身を包んだ一人の女が、腰をくねらせながら近づいてくる。顔には嘲りの色が浮かんでおり、その鋭い刃物のような笑みは、明らかに敵意を含んでいた。

「あら、京極さん。今日は不破さんはいらっしゃらないの?」女はわざとらしく語尾を伸ばし、その瞳には意地悪な光を宿している。

かつて清也と紫音の仲が睦まじかった頃、二人はつねに影の形に添うが如く寄り添っていたものだ。どの社交場に顔を出しても、二人は注目の的だった。

どこへ行っても、紫音は誰より眩しい存在として君臨していた。

美貌と才能を兼ね備え、清也との愛も順風満帆、ビジネスでも飛ぶ鳥を落とす勢い。誰もが羨む完璧な人生に見えたことだろう。

それに引き換え、自分の夫はどうだ。結婚して七年、浮気相手を追いかけ回すか、あるいはその証拠集めに奔走するかの毎日だ。

だが、あの完璧な二人でさえ、わずか七年でこの有様だ。男と女の縁とは、なんと呆気なく脆いものか。

女は胸の内で密かに冷笑を漏らす。所詮、男なんてどいつもこいつも同じなのだ。

紫音が口を開く暇も与えず、女は驚いたふりをして口元を手で覆い、目を丸くしてみせた。

そして、これ見よがしにこう言った。

「あら嫌だ、私ったら。そういえばさっき、入り口で不破さんが例の義妹さんといらしてるのをお見かけしましたわ。……まさか、気づいてらっしゃらないなんてこと、ないわよね?」

その口ぶりは、まるでとてつもない秘密を暴露してやったとでも言わんばかりだった。

紫音はスッと瞳を細めた。その奥に氷のような冷たさが過ったのを悟られることなく、彼女は艶やかに口角を持ち上げた。

そして、余裕すら感じさせる笑みを浮かべ、事もなげに言った。「あら、皆様にお伝えするのを忘れていましたわ。不破清也とは破談になりましたの。近々別の者と結婚いたしますので、その際は招待状をお送りしますわね」

その声は凪いだ水面のように穏やかで、しかし確固たる意志が宿っており、微塵の動揺も感じさせない。

それを聞いた工藤夫人は、嘲りの色を一層濃くした。彼女は一歩踏み出し、紫音の顔を凝視する。

夫人は紫音の表情から悲壮感を読み取ろうとしたようだが、あいにくその涼しげな顔からは何も読み取れない。苛立ち紛れに、夫人はさらに食い下がった。

「京極さん、まさか強がりをおっしゃってるんじゃありませんこと?お二人の仲睦まじさは誰もが知るところですもの。あんなにお熱かったのに、ぽっと出の泥棒猫なんかのために身を引くなんて……本当に未練はないんですの?」

彼女の声がヒステリックに跳ね上がり、周囲の人々が何事かと視線を向けてくる。

紫音はあくまで優雅だった。赤ワインを一口含むと、グラスを置き、両手を前で上品に組んで工藤夫人を真っ直ぐに見据える。

「未練があるかないかは、もう過去の話ですわ。人生、前を向いて歩まなくては。……それとも工藤様は、盛りのついた種馬のような男に真心をお捧げになるのがお好きなんですの?」

言いながら、紫音の視線は夫人の背後にある人影へと注がれていた。

そこには夫人の夫がいた。その傍らには、親子ほども歳の離れた派手な化粧の女がべったりと寄り添い、男の肩に頭を預けて猫なで声を上げている。

紫音の視線を追うように、工藤夫人がゆっくりと振り返る。その光景を目にした瞬間、彼女の瞳孔は収縮し、顔色はみるみるうちに憤怒の朱に染まった。

バンッ!両手で近くのテーブルを力任せに叩く。その衝撃でグラスが音を立てて揺れ、零れたワインが純白のテーブルクロスに染みを作った。

彼女はカッと目を見開き、喉が張り裂けんばかりの大声で怒鳴った。「和夫(かずお)!あんたって人は……このろくでなしが!!」

狂気を帯びた金切り声が、華やかな宴会場を切り裂いた。

紫音は、嘲るように鼻を鳴らした。優雅な手つきでグラスを置き、カツンと乾いた音がテーブルに響く。

彼女は背筋をピンと伸ばし、こんな不快な場所からは早々に立ち去ろうと踵を返した。

ところが、振り返ったその瞬間、視界に入ってきたのは少し離れた場所に立つ芙花と清也の姿だった。

純白のワンピースを身に纏い、まるで穢れを知らぬ白百合のように振る舞う芙花は、小走りで紫音に駆け寄ってくる。そして、あろうことか馴れ馴れしく紫音の腕に自分の腕を絡め、無邪気を装った笑顔を向けた。

「紫音さん、お兄ちゃんはまだ結婚をOKしてないみたいだけど……そんなふうに勝手に言いふらしたら、みんな誤解しちゃうよ?」

甘ったるく猫なで声で作られたその言葉は、しかし鋭い針のように正確に紫音の心を刺しに来ていた。

傍らに立つ清也は眉間に深い皺を刻み、瞳に不満の色を滲ませて不機嫌を隠そうともしない。

彼は大股で紫音の前に立ちはだかり、苛立ちをぶつけるように言った。「紫音、俺たちは結婚するとは言ったが、今すぐじゃないと言ったはずだ。お前も少しは弁えたらどうなんだ?よりによってこんな場所で騒ぎを起こすな」

「今日、ここでお前が西園寺家に頭を下げて謝罪するなら、最近の癇癪は許してやってもいい」

清也は腕を組み、心底うんざりしたような目で紫音を見下ろしている。まるで彼女の行動全てが理不尽な我が侭だと言わんばかりだ。

彼らは到着が遅れたため、紫音の「結婚します」という言葉だけを都合よく耳にし、前後の文脈も、彼女が誰と結婚すると言ったのかも知らぬまま、一方的に責め立てているのだ。

紫音は両手をポケットに入れ、凛と立ち尽くしたまま、氷のような冷たい瞳で清也を見据えた。その口元には冷笑が浮かび、そこには底知れぬ軽蔑と決別の意志が込められていた。

「不破清也、もう一度だけ言っておくわ。私たちは終わったの。私は半月後に結婚する。その時はあなたを……いいえ、あなた『たち』をご招待してあげるわ」

迷いのないその声は力強く、二人の間に漂う、まやかしのベールを切り裂く刃のようだった。

それを聞いた清也は一瞬呆気にとられたが、すぐに鼻で笑い、馬鹿にしたような表情を浮かべた。

「紫音、強がりもいい加減にしろ。俺たちは七年も付き合ってきたんだぞ。お前がいきなり他の男と結婚できるわけがないだろう。自分を騙すのはやめろ」

清也の瞳には、隠しきれない侮蔑の色が浮かんでいた。まるで、紫音が子供のような癇癪を起こしているだけで、放っておけばすぐに尻尾を振って戻ってくるだろうと高を括っているようだ。

何しろ、こいつは俺を死ぬほど愛しているのだから。

俺から離れられるはずがない。

そう確信している彼は、追い打ちをかけるように残酷な言葉を吐いた。「両親にも捨てられたお前が、さらに俺から離れてどうする?それこそ本当に天涯孤独だぞ」

その心無い一言に、紫音の整った顔立ちは一瞬にして陰り、嵐の前の空のように暗く沈んだ。

太腿の横で握りしめた拳は、関節が白く浮き出るほど力が込められている。小刻みに震えるその肩は、煮えくり返るような怒りと、深すぎる悲しみが入り混じっている証拠だった。

――ああ、やはり。最も愛した人こそが、最も深く人を傷つける術を知っている。

かつての美しかった思い出が、今は鋭利な刃へと姿を変え、容赦なく彼女の心を抉っていく。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる   第434話

    浩一としては、自分の行動の理由を自分なりに正当化して説明したつもりだった。「じゃあ、この話はここまでね。そろそろ電話を切るわ。蘭がいつ戻れるか分からない以上、会社の仕事は全部私一人でこなさなきゃいけないから……その上、実家の方でも色々トラブルがあって、お兄ちゃんの件でもバタバタしてるの」紫音は大きなため息をついた。仕事の膨大なタスクと、頭の痛い家族の問題。全てが同時に押し寄せてきて、自分がどれから手をつければいいのか見失いそうになるほど疲労困憊していた。「州に何かあったのか?俺たち、昔から兄弟みたいに仲が良かっただろう?もし何か力になれることがあるなら言ってくれ。俺から連絡して、話を聞きに行こうか?」浩一の声が真剣なものへと変わった。お互いに自分の事業を始めてからは会う機会も減っていたが、昔からの固い絆は健在だ。友人の危機と聞けば、自ら駆けつけるくらいには情に厚いのだ。「お兄ちゃん、恋愛関係でちょっと深刻な問題が起きてね。こればっかりは他人がどうこうできる問題じゃないから、浩一さんが直接手助けできることはないと思う。ただ……お兄ちゃん、今すごく落ち込んでるから、時間がある時にでも飲みに誘って話を聞いてやってくれない?今のお兄ちゃんには、そういう相手が必要だと思うの」紫音は、浩一の面倒見が良く、どこか人を安心させるような穏やかな人柄を頼りにしていた。妹の自分には心配をかけまいと強がって言えないような弱音も、気心の知れた同性の友人になら、少しは吐き出せるかもしれない。そうやって感情を外に出すことで、少しでも兄の救いになればと心から願った。「任せてよ。俺が責任持って、州を失恋のショックから立ち直らせてみせるから。君が言わなくてもだいたい想像がつくよ。あの州が恋愛で深刻に悩むなんて、フラれたに決まってる。今頃、戻ってきてくれって相手に泣きついてるんじゃないか?」浩一は電話の向こうで冗談めかして言った。浩一にとって、昔からの親友が恋愛沙汰でここまで感情を乱すというのは珍しいことであり、ほんの少し面白くもあったのだ。「それが……今は相手の居場所すらつかめていない状態なのよ。それに、今回はお兄ちゃんにはどうすることもできない事情があるし……電話じゃうまく説明できないから、直接会って話を聞いてみて」紫音はそれ以上深くは説明せず、手短に電話

  • 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる   第433話

    「浩一さん、どうしたの?昨日のプロジェクトの件、まだ何か不備でもあった?送る前にしっかり見直したはずなんだけど……」電話に出るなり、紫音は矢継ぎ早に尋ねた。今の彼女にとって一番恐ろしいのは、クライアントからのクレームや仕事のトラブルだった。一人でアシスタントの分まで抱え込んでいる現状では、これ以上のイレギュラーな対応は死活問題に直結する。「いや、仕事の話じゃないんだ。君が送ってくれた企画案は完璧だったよ。……その、君のアシスタントのことなんだけど。蘭さんはどう?少しは良くなった?」電話越しに聞こえる浩一の声は、どこか歯切れが悪かった。昨日、彼が蘭の体調不良を聞いた時は冷淡な反応を示していたはずだ。しかし、やはり心のどこかで引っかかっていたらしく、一晩経ってたまらず様子を聞きにきたようだった。「どうして今さらそんなこと気にするの?警告しておくけど、蘭はやっとの思いであなたへの想いを吹っ切ろうとしてるんだから、絶対にちょっかいを出さないでよ。中途半端な優しさでまた彼女を傷つけたら、いくら昔からの友達でも容赦しないからね。だいたい、あなたからきっぱりフッておいて、今さら何がしたいわけ?」紫音は語気を強めてピシャリと言い放った。浩一が何を考えているのか全く理解できない。自分から明確に拒絶しておきながら、相手が諦めようとしている矢先に様子を窺ってくるなど、あまりにも身勝手で筋が通らない。長年の友人だからこそ、これ以上情けなく無責任な行動をとる前に、紫音が断固として釘を刺さなければならなかった。「いや、だって俺が入院してた時、彼女にはずっと世話になってたからさ。心配するくらい普通だろ?別に変に期待を持たせるつもりなんてないよ。ただ君の口から状況を聞けたらそれでいいんだ」浩一は苦笑交じりに弁解した。だが彼自身、なぜ自分がこれほどまでに蘭のことが気になっているのか分かっていなかった。昨日から妙に心がざわつき、仕事中も上の空で、何度病院へ見舞いに行こうかと迷ったことか。「蘭の症状は落ち着いてるわ。明日には退院できると思う。また何かあったら知らせるけど……いいこと?絶対に彼女の前に姿を現さないでよ。分かったわね!」紫音は最後にもう一度強く念を押した。ただでさえ実家のゴタゴタで心身共に疲弊しているのだ。これ以上、周囲に火種を増やされてはたま

  • 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる   第432話

    「……心配するな。俺だって、色んな修羅場をくぐり抜けてきたんだ。たかが一度の失恋で、一生引きずるほどヤワじゃないさ」州は自嘲気味に笑った。「ただな……俺は今回の一件が、どうしても理不尽だと思えてならないんだ。俺は明らかに、あいつに借りを作ってしまった。だから今、申し訳なさで胸が張り裂けそうなんだよ。これからあいつにどう顔を合わせればいいのか分からない……それに、あいつが無事なのかどうかが一番心配なんだ。この一件で深く傷ついて、何か馬鹿な真似をしてないか……それだけが気がかりで仕方ないんだよ」一生消えることのない深いトラウマ。どう足掻いてもそこから抜け出せない苦しみ。そんなデリケートな傷跡を、あろうことか自分の家族が二度も無惨にえぐってしまったのだ。愛する人が受けた仕打ちを思うと、州の胸は千切れるように痛んだ。これまで幾人かの女性と付き合ってきたが、ここまで真剣に、生涯を共にしたいと固く決意した相手は有加里が初めてだった。やっと見つけた、自分だけの心安らぐ居場所。それがこんな形で奪われるなんて、思いもしなかった。「私も、とにかく有加里さんを見つけ出したいと思ってる」紫音は静かに頷いた。「どんな結論を出すにしても、きちんと言葉を交わすべきだと思う。それに、今回の一件は完全にうちの家族の落ち度だもの。あんな過去、有加里さんだって望んで背負ったわけじゃない」紫音は有加里の背負う重い十字架を思い、深く息を吐いた。「本当の受難者は有加里さん自身だわ。あの凄絶な過去の苦しみなんて、他人に本当の意味で理解できるはずがない。私だったらとっくに絶望して壊れていたかもしれないのに、あんなふうに明るく、優しく生きているなんて……それだけでも本当に凄いことよ」「だから……たとえ二人が元の関係に戻れなかったとしても、最後はちゃんと向かい合って話をしてほしい。お兄ちゃんと一緒に、私も全力で彼女を探すから。それで、全てのわだかまりを解いて……有加里さんには、どうか幸せになってほしい」やはり二人には、結ばれる「縁」がなかったのだろうか。度重なる試練の末に突きつけられた絶望的な状況を前に、もはや誰にも運命を覆すことはできないように思えた。もし二人が再び手を取るとすれば、それは有加里自身が、心の傷を乗り越えて「それでも州のそばにいたい」と自ら立ち上がってくれた時だけだ。そ

  • 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる   第431話

    「だから……もう、流れに身を任せるしかないんじゃないかな。もちろん探すのは手伝う。でも、もしどうしても見つからなかったら、その時は潔く諦めるしかないよ。人の気持ちは、無理強いできるものじゃないから」紫音はあえて厳しいことを言った。悲痛な現実だが、二人の関係はすでに致命的なダメージを受け、有加里自身も完全に背を向けてしまったのだ。これ以上執着したところで、誰も救われない。紫音の切実な願いは一つだけだった。大事な兄に、どうか一日も早く立ち直って前を向いてほしい。いつかまた、心を許せる新しい誰かと出会える日が来るかもしれない。変えられない過去に縛り付けられず、なんとか平穏な日常を取り戻してほしかったのだ。しかし、州の意思は固かった。「俺の中では、まだ何も終わってない。こんな形で終わらせるなんて絶対に嫌だ。あいつを見つけ出して、俺たちの関係を修復するために、最後までやれるだけのことは全てやりたいんだよ!」その言葉からは、痛いほどの未練と執念が滲み出ていた。一度決めたら決して曲げない頑固な性格の彼にとって、「仕方ない」と諦めることなど到底できなかった。「お兄ちゃん……お願いだから、あの時みたいに自暴自棄にならないで。仕事も手に付かなくて、毎日抜け殻みたいになってたあの頃に戻らないで。どんな結果になろうと、ちゃんと前を向いて普通に生きてほしいの」紫音の目には再び涙が浮かんでいた。兄を心配する切実な想いと、何もしてやれない無力感。紫音はどう言葉を尽くせば、この救いようのない苦しみから兄を引っ張り出せるのか、全くわからなかった。「分かったよ。紫音だって、自分の家のゴタゴタで大変だろう。毎日仕事も山積みなんだから、俺のことまで背負い込むな。こればっかりは俺自身の問題だ、一人でなんとかするよ。お前が手出しできることじゃない」州は少しだけ声音を和らげ、妹を気遣うように言った。結局のところ、これは当事者にしか解決できない問題であり、自分自身でこの暗闇から抜け出すしか道はないのだ。「お兄ちゃん……何かあったら、昼夜問わずいつでも電話してね。何の役にも立たないかもしれないけど、話を聞いてずっとそばにいることくらいはできるから。だから……どうか早く立ち直って」紫音はすがるように見つめた。「お兄ちゃん、この世に乗り越えられないことなんてないよ。誰がい

  • 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる   第430話

    しかし、子供たちが成長し、自らの手を離れそうになるにつれて、彼女の行動は「子供のため」という大義名分のもと、周囲の痛みを顧みない近視眼的なものへと変わっていってしまった。見方を変えれば、なりふり構わず子供を守ろうとする強烈な母性の表れでもあり、身内以外でそこまで泥を被ってくれる人間など他にいないのも事実だ。ただ、その愛情の形があまりにも歪で、致命的に独善的だっただけだ。兄を追ってマンションのエントランスを飛び出した紫音は、駐車場に向かう州の絶望に満ちた横顔を見て息を呑んだ。有加里を失うかもしれない恐怖と怒りが入り交じり、今にも限界を迎えそうだった。運転席に乗り込もうとする州の前に、紫音が立ちはだかった。「お兄ちゃん、お願いだから動かないで!こんなに取り乱した状態で運転なんて絶対ダメ!もし事故でも起こしたらどうするの……!」紫音の目から、たまらず大粒の涙が溢れ出した。いつも穏やかで理性的な兄が、これほどまでに追い詰められている姿を見るのは初めてで、恐ろしさすら感じていた。「紫音……」州は妹の涙を見て、微かに表情を和らげた。「俺のことはいいから、お前は部屋に戻ってやってくれ。お母さんもあれだけ感情的になってたし、もともと体も強くないから、倒れたりしないか心配だ」決定的な亀裂が決定的になった直後でさえ、州は母の体調を気遣う優しさを捨てきれずにいた。それが余計に、紫音の胸を締め付けた。「お母さんのことは私とお父さんがついているから大丈夫。それより、私がいちばん心配なのはお兄ちゃんのことなの。有加里さん、まだ見つからないんでしょう?今回のことで、彼女はそう簡単には姿を見せないと思う……あんなに深く傷ついてるはずだもの。うちの家族が二度も彼女の古傷をえぐってしまって、私自身、本当に申し訳ないと思ってる」もしこんな最悪の事態を招くと分かっていれば、かつて紫音自身が有加里の過去を調べたりはしなかったし、兄にそれを伝えることもなかったはずだ。二人は心から愛し合い、互いを必要としていた。それなのに、周囲の身勝手な事情で無理やり引き裂かれるなんて、あまりにも理不尽で残酷すぎる。深く傷ついたまま突然姿を消してしまった有加里が、絶望のあまり何か取り返しのつかないことをしてしまうのではないかと、紫音は恐怖すら感じていた。「……ああ。俺も、あいつに

  • 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる   第429話

    「お母さん……俺たちの間では、もうとっくに話はついてただろ?なのになんで、わざわざ有加里のところへ直接乗り込んだりしたんだよ!百歩譲って俺たちがいずれ別れる道を選んだとして、他に理由はいくらでも作れたはずだ。あいつの過去の傷をわざわざえぐり出したりする必要がどこにあった!?そんなの、あんまりじゃないか!」州の声は怒りよりも、深い悲痛に染まっていた。「今、有加里はどこにもいなくて、連絡もつかない。だけど俺は……どうあってもお母さんたちに分かってもらいたいんだ。俺は有加里を心から愛してる。一生を共に生きていきたいと思ってるのは、あいつだけなんだよ」「だから……こんな形で、お互いを傷つけ合うようなマネはしたくなかった。お母さんがこんな決定的なことをしてしまったら、俺と有加里は、本当に取り返しのつかないことになってしまう……!」州の胸を満たしていたのは、深すぎる絶望だった。有加里と別れることなど、一度も考えたことはない。苦難を乗り越え、紫音の助けもあってようやく結ばれた二人だ。もしここで彼女を失えば、もう二度と元には戻れないと分かっていた。有加里は本来、とても優しく陽気な女性だ。しかし、彼女の抱える複雑な家庭環境と過去は、心の奥底に刻まれた最も深い生傷なのだ。そこに無遠慮に塩を塗るような真似をされれば、彼女の自尊心は決定的に打ち砕かれる。彼女が再び自分を受け入れてくれる可能性は、限りなくゼロに近いだろう。「お母さん……他のことなら、俺はなんだって許せた。でも、今日のことだけは絶対に許せない。俺にはどうやっても受け入れられない」州は低くくぐもった声で告げた。「言いたいことは全部言った。これからはもう、この家には戻らない」「俺はこれから、有加里のところへ戻る。どんな顔をして会えばいいか分からないけど……それでも、全力で彼女の心を取り戻してみせる。俺は、愛する人と一緒に生きたいんだ」それだけを言い残し、州は背を向けて玄関へと歩き出した。州は、かつての紫音のように大声で泣き叫んだり、両親に激しく詰め寄ったりはしなかった。両親の体調が万全でないことも、齢を重ねた親と今さら声を荒らげて口論したところで、すでに起きてしまった致命的な事態が覆るわけではないことも、冷静に理解していたからだ。だが、到底怒りを抑えきれるはずもない。荒れ狂う感情を抑え込むた

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status