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第5話

Auteur: 青葉凛
「紫音さん、明日は引っ越しのお手伝いに伺います」

帰りの車中で、蘭は紫音の決意が固いことを再確認していた。清也との別れは本気であり、会社における紫音の権利もすべて回収して去るつもりだと。

紫音の部下である以上、蘭も彼女についていく腹積もりだ。

紫音は静かに頷いた。

蘭の車が走り去り、見えなくなるのを見届けてから、紫音は踵を返して別荘へと足を向けた。数歩も歩かないうちに、バッグの中で携帯が鳴り響く。

画面に表示されたのは、かつて身を寄せた施設の『園長』の名前だった。

通話ボタンを押した瞬間、園長の悲鳴のような声が飛び込んできた。「紫音ちゃん、大変なの!先ほど不破商事の方から連絡があって、養護施設への支援を打ち切るって……!それだけじゃないの、提携病院に入院している子供たちまで、今すぐ引き取れって言われて……どうしたらいいの!?」

養護施設、そして不破商事。

この二つの言葉が並んだだけで、清也の狙いは明白だった。

紫音の表情から温度が消える。彼女は感情を押し殺し、冷静に答えた。「園長先生、すぐに私の方で手配しますから、安心してください」

紫音のその一言で、電話口の園長の息遣いが安堵に変わる。

不破グループが支援していたのは、先天性の持病を抱え、高度な医療機器なしでは一日たりとも生きられない子供たちだ。一瞬でも電源が落ちれば、それはすなわち死を意味する。

そんなこと、清也が一番よく分かっているはずなのに。

通話を切ると、紫音は一秒の迷いもなく、長らく避けてきたある番号を呼び出した。

「はい、京極州(きょうごく しゅう)です」

コール音もそこそこに、懐かしい男の声が耳に届く。

紫音はスマートフォンを握りしめ、熱くなる目頭をこらえながら、震える声で呼びかけた。「お兄ちゃん」

回線の向こうで、二秒ほどの沈黙が落ちた。

やがて返ってきたのは、皮肉たっぷりの声だった。「おやおや、これは珍しい。「真実の愛」と「自由」を求めて家を飛び出したお嬢様じゃないか。どういう風の吹き回しだ?世界一優しくて献身的なフィアンセ殿はどうしたんだ?」

胸の奥からこみ上げる悔しさを懸命にのみ込んだが、それでも声が湿るのを止められなかった。

「……彼とは別れたわ。お願い、力を貸して」

彼女は手短に施設の窮状を説明し、そこがかつて幼い自分が拉致された際、保護してくれた恩ある場所であることも付け加えた。

「分かった。そっちの件は俺がすべて引き受ける」

州の声色から棘が消えた。前の件でまだ怒ってはいたが、手塩にかけて育てた妹が涙声で助けを求めてきて、心が痛まない兄などいない。

少しの間を置いて、彼は意を決したように続けた。「お前が拝島律との政略結婚に踏み切ろうとしているのは知っている。……だが、もし今でもまだ気が進まないのなら、俺から両親を説得してやってもいい。ただ、不破清也だけは絶対に駄目だ。紫音、俺はお前の不幸を願って言ってるんじゃないんだぞ」

兄の不器用な優しさに、またしても涙腺が緩む。

「分かってる」

紫音は胸の痛みが引くのを待ち、努めて平静を装って答えた。「こっちの整理がついたら、家に帰るわ。……お兄ちゃんたちの言う通りだった。不破清也は、私が愛していい相手じゃなかったのよ」

兄妹としての会話を終え、電話を切る。

二分もしないうちに、州からメッセージが届いた。施設の件は解決済みだという報告と共に、明日についての指示が書かれていた。「明日は京極家の名代として、西園寺家当主の古希祝いに出席してくれ。それから、どうやら西園寺の令嬢が何者かにプールに突き落とされ、未だに意識不明らしい。見舞いも兼ねて顔を出してこい」

京極家と西園寺家は代々の付き合いがある。無視するわけにはいかない。

紫音は短く承諾の返信を送った。

その晩、清也は家に戻らなかった。代わりに芙花から勝ち誇ったような挑発メッセージが届いたが、紫音は迷わずブロックして通知を切った。

翌日。迎えに来た蘭に、まずは西園寺家の屋敷へ送るよう指示し、その足で荷物を新居へ運ぶよう頼んだ。

西園寺邸の前に到着し、車を降りて門をくぐろうとした時だった。

背後から腕を力任せに引かれ、紫音はバランスを崩してよろめきそうになる。

「何をするの?」

振り返ると、そこには清也の姿があった。紫音の眼差しが一瞬で凍りつく。

清也は目の前の紫音を見つめた。見慣れたはずのその顔が、どこか他人のように冷たくよそよそしい。指の隙間から砂がこぼれ落ちていくように、彼女が自分の手から離れていくような、得体の知れない不安が胸をよぎった。

「……ようやく反省したようだな」清也は努めて傲慢な口調で言った。「ここに来たってことは、分をわきまえたってことだろう?」

紫音は怪訝な顔で清也を一瞥しただけで、まともに取り合おうともしない。「わけが分からないわ」

会話をするだけ時間の無駄だと判断し、彼女は踵を返して屋敷へ入ろうとした。今日の彼女は、あくまで『京極家の令嬢』としてここに来たのだから。

「紫音さん」

行く手を遮るように、芙花が立ちはだかった。無邪気を装った笑顔を浮かべ、かわいらしい声で言う。「今日はわたしの代わりに謝りに来てくれて、本当にありがとう。紫音さんは一応お兄ちゃんの婚約者だもの、西園寺家の人たちだって、あなたを無碍にはできないわ」

紫音の胸に違和感が走る。

彼女は清也と芙花の顔を交互に見比べ、ようやく合点がいった。

――この二人は、私が芙花の身代わりになって謝罪しに来たと勘違いしているのだ。

「勘違いしないで」紫音の唇に冷ややかな笑みが浮かぶ。「私がここに来たのは、あなたたちのためじゃない。あなたたちの不始末なんて、私には関係ないわ」

芙花は紫音の言葉を全く信じていない様子だった。彼女は勝ち誇ったように身を寄せ、紫音の耳元でささやき声で告げた。

「言ったでしょう、あなたはわたしには勝てないって。ねえ、見て。わたしが西園寺のお嬢様をプールに突き落としたって、お兄ちゃんはわたしをかばって、あなたに身代わりをさせるのよ。彼の心の中には、あなたの居場所なんて最初からないの」

その言葉を聞いた瞬間、紫音の表情が凍りついた。鋭い刃のような視線が芙花を射抜く。

「……麗華さんを突き落としたのは、あなただったの?」

芙花は得意げに目を細め、鼻で笑った。「ええ、そうよ。あの女、生意気にもわたしと張り合おうとするから……自業自得よ」

言い終わるか終わらないかのうちに、芙花の髪が乱暴に掴まれた。

バチンッ!バチンッ!強烈な平手打ちが二度、立て続けに見舞われる。

頬に走る鋭い痛みと熱。何が起きたのか理解した瞬間、芙花の口から金切り声が上がった。

「紫音!」

事態を飲み込んだ清也が血相を変えて割って入り、紫音の手首を乱暴に掴み上げた。「何のつもりだ!気でも狂ったのか?手を離せ!」

二度の平手打ちを食らって呆然としていた芙花だったが、清也が助けに入った途端、待ってましたと言わんばかりに顔を覆って泣き崩れた。

「ひどい……お兄ちゃん……っ。わたし、紫音さんのことを心配して声をかけただけなのに、いきなり殴るなんて……どうしてこんなひどいことができるの……!」

紫音は掴まれた腕を力任せに振りほどくと、眉をひそめて嘲笑交じりの視線を清也に送った。「何?彼女の代わりに、今度はあなたが私を殴り返すとでも言うの?」

その言葉に含まれた明らかな挑発に、清也は言葉を詰まらせた。目の前にいる紫音が、まるで別人のように感じられた。以前の彼女なら、こんな刺々しい口調で自分に逆らうことなど決してなかった。一体誰が、これほどまでに彼女を増長させたのか。

彼が怒りに任せて何か言いかけた時、紫音は冷徹な声でそれを遮った。

「私はあなたたちに関わるつもりはないわ。だから、あなたたちも私に近づかないで。それから――彼女の代わりに私が謝罪するなんて、夢にも思わないことね」

言い終えると、彼女は口元の笑みを消し、氷点下の眼差しで清也を見据え、一言一言噛み締めるように告げた。「私たちはもう別れたのよ、清也。……別れた男は、死んだ人間と同じ。二度と現れないのがマナーよ」

そう言い捨てると、紫音は二人に見向きもせず、西園寺家の屋敷へと足を進めた。

残された清也の表情は、どす黒く沈んでいた。隣で芙花が怒りに震えているのが分かったが、彼女はすぐに健気な被害者の仮面を被り直した。

「お兄ちゃん……全部わたしのせいね。わたしが余計なことを言ったから、紫音さんをあんなふうに怒らせてしまったんだわ……わたし、今から西園寺様たちに謝ってくる。お兄ちゃんの立場が悪くなるようなこと、絶対させないから……」

「馬鹿なことを言うな!」

清也は芙花の手首を掴んで止めた。その声色は、紫音に向けるものとは対照的に、どこまでも甘く優しい。「この件は俺が解決する。お前は黙っていろ」

彼は屋敷の中へと消えていく紫音の背中を睨みつけ、苛立ち紛れに眉間の皺を深くした。

あいつ、一体いつまで意地を張り続けるつもりだ?

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