LOGINしかし、律は困ったように小さく笑うだけだった。「心配しなくていい。本当に何でもないんだ。昨日はどうしても断れない接待があって、少しペースを乱されてしまっただけだよ」それは、あからさまな嘘だった。律の性格上、どれほど重要な接待であろうと、己を見失うまで酒を飲むような失態は絶対に犯さない。彼が真実を言わないのは、紫音をこのドロドロとした問題に巻き込みたくないからだ。話したところで紫音に解決できるわけではなく、ただ彼女を不安にさせるだけだと、彼はそう思っているのだ。「……嘘。私の前で誤魔化せると思ってるの?」紫音は握った彼の手を、さらに強く握り返した。「何も起きてないのに、あなたがあんなにボロボロになるはずないじゃない。……また、親戚の人たちが会社に口出しをしてきたの?それとも、何か別のトラブルがあったの?」「紫音……」「私じゃ、直接的な仕事の役には立てないかもしれない。でも、苦しみを半分こすることはできるでしょう?一人で心の中に溜め込んでいるなんて、絶対に辛いはずだよ。私は……あなたが一人でボロボロになっていくのを、黙って見ていたくないの」声が震えるのを止められなかった。私たちは、いずれ夫婦になるのだ。この世界で一番、お互いの近くにいる存在になるはずだ。それなのに、彼が一番苦しい時に頼ってもらえないのだとしたら、私は何のために彼の側にいるのだろうか。「あなたはいつも自分を過信して、全部一人で背負おうとする。でも、たまには周りの人を……私を頼ってよ。二人で一緒に考えれば、絶対に乗り越えられるから」紫音の切実な声が、静かな寝室に響いた。彼にこの思いが届いてほしいと、紫音はただ祈るように、律の深い漆黒の瞳を見つめ返した。紫音の真っ直ぐで切実な瞳に見つめられ、律はついに観念したように小さく息を吐いた。「……進行中のいくつかのプロジェクトで、同時にトラブルが起きているんだ」ためらいがちに紡がれたその言葉に、紫音は息を呑んだ。「伯父さんたちが裏で手を回しているんだよ。事態が収束するまでは、君を不安にさせたくなくて……黙っているつもりだった」志津が亡くなってからというもの、拝島家の親族たちの動きは日に日にエスカレートしていた。彼らはあの手この手で律の足を引っ張り、会社を自分たちの手に収めよ
「紫音……ごめん。君に、心配ばかりかけて……」紫音の肩に顔を埋めたまま、律がぽつりと呟いた。「最近、本当に忙しくて……君との時間も作れなかった。……すまない。必ず、埋め合わせをするから」「そんなのいいの。気にしないで」「……君がいてくれて、本当によかった。君が側にいるだけで、私は……救われるんだ」すがりつくような、切実な響きだった。「だから……お願いだ。何があっても、私から離れないでほしい。私にはもう、君しかいないんだ……」それは、まるで迷子になった子供のような、か細く震える声だった。普段の、あの余裕に満ちた律からは想像もつかないほど、今の彼はひどく脆く、無防備だった。律……本当は彼だって、誰かにすがりたくて、甘えたくて仕方なかったのだ。それなのに、彼はすべてを自分一人で背負い込もうとする。どうして私に話してくれないのだろう。たとえ仕事の助けにはなれなくても、話を聞いて、一緒に悩むことくらいはできるのに。私たちはいずれ夫婦になるのだ。嬉しいことも苦しいことも、二人で分け合っていくはずじゃないか。彼は絶対に、自分の苦しみを私に押し付けようとはしない。こうして限界まで酔い潰れでもしない限り、私の前で弱音を吐くことすら自分に許さないのだ。以前なら、志津が彼の話を聞いて、導いてくれたのかもしれない。けれど今はもう、彼を庇護してくれる存在はいない。私には心配をかけまいと「大丈夫だ」と笑うばかりで、本音を明かしてはくれない。ずっと、ずっと一人で耐えてきたのだ。ギリギリまで感情を押し殺し続けて、今日、ついに限界を超えてしまったのだろう。アルコールに逃げなければ、息もできないほどに。彼の孤独を思うと、紫音の胸は張り裂けそうだった。それなのに、今の自分には彼を根本から救い出す術がわからない。その事実が、ひどく悔しい。やがて、律は完全に意識を手放したのか、それ以上何も喋らなくなった。重たい身体から力が抜け、静かな寝息だけが聞こえてくる。その夜。紫音は一睡もすることなく、彼のベッドの傍らに座り続けた。熱を出したわけではないから、特別な看病が必要だったわけではない。ただ、傷ついた彼の寝顔を見つめながら、夜が明けるまでそっとその手を握りしめていることしか、今の紫音にはできなかった。翌日の昼前。
州と他愛のない冗談を交わし、彼を見送った後、ふと時計に目をやるとすっかり夜更けになっていた。兄のおかげで紫音の心はずいぶん軽くなっていたが、律はまだ帰ってきていない。今日もまた、夜遅くまで仕事に追われているのだろう。もともと、彼は尋常ではないほどの仕事量を抱えていた。たまに早く帰ってきてくれる日もあるが、それは彼が意図的に仕事をスケジュールから弾き出し、無理をして紫音との時間を作ってくれているだけなのだ。彼がどれほど過酷な状況で戦っているか、紫音は痛いほどわかっていた。巨大な組織の上に立つ者として、どんな困難が降りかかろうと、彼は一人で矢面に立ち、すべてを解決しなければならない。あの冷酷な世界で、彼を本当の意味で助けてくれる人間などいないのだ。それなのに、自分には何一つできない。彼の仕事を手伝うことも、その重荷を代わりに背負ってあげることもできない己の無力さが、紫音は時々ひどく歯がゆかった。紫音にできるのは、ただ胸を痛めながら、彼が無事に帰ってくるのを待つことだけ。一体どうすれば、彼の背負うものを本当の意味で軽くしてあげられるのだろうか。――志津が亡くなってから、律は明らかに変わってしまった。紫音の前では決して見せないが、彼の心にはぽっかりと暗い穴が空いているはずだ。人はいつか別れを迎える。志津が永遠に生きられるわけではないことなど、頭ではわかっていた。けれど、冷え切ったあの親族たちの中で、志津だけが律に無条件の温もりと、安心を与えてくれる唯一の存在だったのだ。その祖母は去り際、律に会社を託すという、あまりにも重い期待を残していった。律は昔からそうだ。どんなに苦しくても、絶対に弱音を吐かない。すべてを自分の中だけに押し込めて、決して誰かのせいにしたり、誰かに寄りかかったりしようとはしない。紫音にすら、余計な心配をかけまいと穏やかに微笑んでみせるのだ。一人で抱え込み、一人で耐え忍ぶ。そんな彼の不器用で孤独な生き方が、紫音はどうしようもなく愛おしくて――そして、たまらなく痛々しかった。時計の針が深夜を大きく回った頃、玄関の開く重たい音が静寂を破った。急いで足音のする方へ向かった紫音は、そこに立つ人物の姿に息を呑んだ。現れた律は、いつもの隙のない優雅な佇まいとはまるで違い、憔悴しきった様子
「お兄ちゃんは、ね」州の言葉に、紫音は顔を上げ、今度は少しだけ真っ直ぐな瞳で答えを返した。「え?」「お兄ちゃんはゆっくり考えればいいよ。でも、私の進む道はもうハッキリしてるから」紫音は小さく息を吸い込み、はっきりと言い切った。「私と彼らとの関係は、絶対に変わらない。色々ややこしいことは起きたけど、私はこれからもずっと、今まで通りの私でいるつもりよ」先ほどまでの沈んだ様子からは一転して、紫音の声には確かな自信が宿っていた。そう、彼女には信じられる根拠があったのだ。浩一さんがずっと私を想い続けていたこと。そして、蘭をはじめとする周りの友人たちが、それに気づきながらも何年も黙っていたこと。今まで誰もその秘密を口に出さなかったのは、全員が「今の関係」を壊したくなかったからに他ならない。誰も、その見えない境界線を越えようとはしなかった。今回、貴子によって無理やりその殻が破られ、真実が暴露されてしまったけれど――それでも、当事者である誰も「だから縁を切ろう」なんて思っていないのだ。彼らにとって、紫音は絶対に失いたくない大切な存在だった。そして紫音にとっても、彼らはかけがえのない大切な友人だ。誰も離れたくないって思ってる。だったら、私はこれまで通りに振る舞うわ。今回のことは、「最初から何もなかったこと」にして、笑い飛ばしてやるんだから。きっと、浩一さんも蘭も同じように思ってくれているはずだ。その確信があったからこそ、紫音は心の奥底にまとわりついていた泥のような罪悪感を振り払い、迷わずに前を向くことができると信じられたのだ。目の前で吹っ切れたように笑う妹を見て、州は心底感心したように息を吐いた。本当に、こいつのこの前向きな明るさには救われるよな。どれほど面倒なトラブルが降りかかっても、最終的には自分自身の力で立ち直り、光を見出そうとする。そのブレない芯の強さと楽観的な態度は、今の州が一番見習わなければならないものだった。「本当に、お前のそのポジティブさには敵わないよ」州はどこか羨むような目を向けた。「でも、その考え方が絶対に正しいと思う。お前は何も間違えていないし、後ろめたく感じる必要なんて一切ない。お前が勝手に罪悪感を抱え込んで苦しむような筋合いなんて、どこにもないんだから」頭の中
それからしばらくの間、二人は何も言わず、ただぼんやりと虚空を見つめていた。話したところで、今の最悪な状況が好転するわけではない。まるで出口のない迷路に迷い込んでしまったように、解決策など何一つ見出せないまま、時間だけが過ぎていく。このまま立ち止まっていれば、いつか心ごと暗闇に飲み込まれてしまうと分かっているのに。それでも、一歩を踏み出す気力すら湧いてこなかった。沈黙を破ったのは、紫音だった。「ねえ、お兄ちゃん……私、これからどうしたらいいのかな。どうしても、胸のつかえが取れないの。どうすれば、この息苦しさから抜け出せるの……?」その問いかけに、州は困ったように肩をすくめた。「俺を過大評価しすぎだぞ。その答えを知ってたら、真っ先にお前を助けてるさ。……残念ながら、今の俺にはお前を導いてやる余裕なんて全くない。何が正解なのか、俺自身が一番分かってないんだからな」州はソファに深く背を預け、天井を仰ぎ見た。「親友とその恋人の間に挟まれて、身動きが取れなくなってるお前のことも、兄貴として心底心配してるよ。……でも、情けないことに、今は自分自身が抱えてる問題だけで手一杯なんだ。どう足掻いても八方塞がりで……本当に、どうしてこんなことになっちまったんだろうな」「……そうだよね。本当に、私たち……最悪な状況だよね」そこにあるのは、行き場のない閉塞感だけ。互いの苦しみを理解し合えるからこそ、解決できない現実がより一層重くのしかかってくる。どうすればいいのか分からない。何もできない。二人はただ、それぞれの心に巣食う絶望と無力感にじっと耐えながら、静かに時間をやり過ごすことしかできなかった。「分かった。もう無理に慰めるのはやめるね。お兄ちゃん自身で折り合いをつけられるなら、それでいい。これ以上、悲しい話をするのも嫌だし」「俺のことは気にしなくていいって言ってるだろ。それより、俺が一番心配なのはお前のことだよ。お前、絶対に一人でぐるぐるとドツボにハマってるだろ」州は呆れたように息を吐いた。「いいか、紫音。この件はお前には一切責任がないんだ。それなのに、なんで全部自分のせいにしようとするんだよ。お前一人の力でどうにかできるような問題じゃないんだから、これ以上自分を追い詰めて、勝手に傷つくのはやめろ」「……
しかし、これ以上落ち込んだ姿を見せて、兄を心配させるわけにはいかない。紫音は小さく深呼吸をして、無理やり顔を上げた。「……うん、そうだね。あんまり考えすぎないようにする」そして、わざと少しだけおどけたようなトーンを作って、兄に言葉を返した。「それにしても、お兄ちゃんも人のこと言えないじゃない。自分のことだって、まだまだ全然整理がついてないくせに。お兄ちゃんこそ、色んな悩みを抱えて毎日しんどい思いをしてるんでしょ?お互い様だよ」紫音の指摘に、州は少しだけ苦笑いを浮かべた。「……やっぱり、お前には敵わないな。正直、こんなことでいつまでも悩んでる俺って、男として情けないんじゃないかって、時々すごく嫌になるんだよ」「そんなことないよ!どうしてお兄ちゃんが自分を責めるの?」紫音は少し強い口調で否定した。「お兄ちゃんは何も悪くないよ。お兄ちゃんも……浩一さんも、結局は同じ。自分の意志とは関係なく、周りの力に振り回されているだけの被害者じゃない。大好きな人がいるのに、自分の家や親の力によって無理やり引き裂かれようとしている。それって、一番残酷で逃げ場のない苦しみだもの」一番愛情を注いでくれるはずの家族が、自分を最も縛り付ける枷になる。その抗いようのない絶対的な力の前では、どれだけ足掻いても絶望と無力感しか残らない。「お兄ちゃんがどれだけ苦しい思いをしてきたか、私には痛いほど分かるよ。でも、私はただ話を聞いてあげることしかできなくて……お兄ちゃんを、その苦しみから救い出してあげられないのが、すごくもどかしいの」紫音の悲痛な思いに、州は何も答えることができなかった。リビングには、重く、沈んだ沈黙が降り下りた。兄妹の抱える悩みは、それぞれ全く違うようでいて、根底にある「親の支配」という理不尽さにおいて共通していた。どうにもならない現実。逃げ場のないプレッシャー。二人とも、もはや自分たちの力ではどうすることもできない泥沼の真ん中で、ただ息を潜めて耐えることしかできないのだ。抗うすべを持たない無力さが、二人の心を深い悲しみと閉塞感で満たしていく。この息の詰まるような重圧を、彼らはただ黙って飲み込み、耐え続けるしかなかった。「……やめよう、この話は」州は耐えきれなくなったように、深いため息をついて