LOGIN翌朝。蘭はいつもと変わらぬ様子でオフィスに出社し、デスクに向かって業務をこなしていた。プライベートでどれほど心がすり減るような出来事があろうと、仕事の手を抜くことなど絶対に考えられなかった。学歴も家柄もない自分に、これほど大きなチャンスを与えてくれた大切な場所だ。そして何より、ここで誰よりも尊敬できる恩人に出会えた。今あるこの環境を、そして浩一とのこれまでの道のりを、蘭は心の底から愛おしく思っている。だからこそ、決して立ち止まるわけにはいかなかった。「蘭。あちらの家の件、どうなった?昨日、彼からあの女にきっちり話をつけてもらったんでしょうね?こういうのは彼自身に引導を渡させないと駄目よ。遠慮なんて一切いらないわ」朝早くから出社してきた社長の紫音は、蘭の顔を見るなりそう切り出した。「ああいう手合いは、少しでも隙を見せたら図に乗るだけよ。だから徹底的にやらないと。あなたがプレッシャーを感じたり、理不尽に罪悪感を抱く必要なんて、これっぽっちもないんだからね」はっきりとした力強い言葉。それは、思い詰める蘭の迷いを断ち切るための、紫音なりの不器用で温かい優しさだった。蘭はふっと表情を和ませると、静かに首を振った。「ご心配をおかけしました、紫音さん。大丈夫です。昨日、浩一さんがご両親と白鳥さんに、はっきりと伝えてくれました。ただ……私のせいで、彼はまたご両親とひどく衝突してしまって」蘭の瞳に、かすかな痛みの色が滲む。「彼があんな風に家族と傷つけ合う姿を見るのは、本当に辛いです。でも、今の私には寄り添うことしかできなくて……」ぎゅっと膝の上のスカートを握りしめ、蘭はすがるような視線を紫音に向けた。「紫音さん。私、どうしても分からないんです。浩一さんのご両親は、どうしてあそこまで私たちを引き裂こうとするんでしょうか。浩一さんは、白鳥さんのことなんて微塵も愛していないのに。あの家にとっては、会社の利益や家柄がすべてなんですか?自分の息子の幸せなんて、本当にどうでもいいんでしょうか……?あれが息子のための行動だなんて、私には到底思えなくて」上司であり、時に姉のように自分を庇護してくれる絶対的な存在。紫音に深く心を許しているからこそ、蘭は無理に取り繕うことなく、その胸の内を打ち明けることができた。
そんな彼からの不器用で深い愛情を受け取り、蘭の瞳にじんわりと熱いものが込み上げた。「……私も、浩一さんと一緒にいられるなら、これからどんな困難があろうと逃げたりしないわ」蘭は真っ直ぐに浩一を見つめ返し、柔らかく、けれど揺るぎない声で告げた。「あのね、以前は私もたくさん迷っていたの。ご両親に反対されるような身分違いの私じゃ、やっぱりあなたと一緒になるのは無理なんじゃないかって……」彼女は小さく微笑み、浩一の大きな手をそっと包み込むように撫でた。「でも、今は違う。私たちがここまでお互いを想い合い、一緒に歩いてきた時間は本物だから。何があっても、あなたを信じてついていきたいって心から思えるようになったの。……私、もう浩一さんがいない人生なんて、考えられないもの」その言葉には、かつての迷いや卑屈さは一切なかった。「だから、どんな障害があろうと、私はあなたを信じ抜くわ。二人で一緒に立ち向かえば、絶対に幸せになれるって確信しているから」お互いを深く信じ合い、何があっても手を離さないこと。それこそが、二人の愛を永遠に結びつける唯一の道なのだと、蘭は迷いのない澄んだ瞳で浩一に伝えたのだった。「……さあ、湿っぽい話はここまでにしよう」浩一はわざと明るい声を出して、蘭の手を優しく引いた。「美味しいものでも食べに行こうか。ここ数日、ずっと君がそばにいてくれたおかげで、俺は本当に心から救われていたんだ。君と一緒に食べるご飯が、俺は世界で一番好きだよ」ふっと相好を崩す浩一の笑顔には、先ほどまでの陰鬱な影はすっかり消え去っていた。「昔はさ……親もいなかったし、何をするにもいつも一人きりだったんだ。でも、君が俺の人生に現れてくれて、こうして毎日一緒にご飯を食べて、笑い合って……そんな当たり前のことが、俺にとっては信じられないくらい温かくて、幸せなことなんだよ」浩一にとって、蘭と向かい合って温かな食卓を囲む時間は、何にも代えがたい至福のひとときだった。彼にとって「家族の温もり」とは、両親から与えられるものではなく、蘭と共に築き上げていくこのささやかな日常の中にこそ存在していたのだ。だからこそ、浩一は蘭との未来を守るためなら、どんな犠牲も厭わない覚悟を決めていた。両親との完全な決別すら、すでに彼の腹の中では決まってい
蘭は浩一の心を解きほぐすように、ゆっくりと言葉を紡いだ。彼女が最も望んでいるのは、浩一が自分自身の力で両親に認めてもらうことだった。自分の存在が原因で、彼が実の親と泥沼の決裂をしてしまうことだけは、どうしても避けたかったのだ。それに、長く海外に住んでいた両親がせっかく帰国したというのに、顔を合わせるたびにいがみ合っていては、二人の関係もどんどんこじれてしまう。どうにかして穏便に解決する道はないのかと、蘭は心を痛め、どうしようもない無力感を感じていた。しかし、そんな彼女の気遣いに満ちた言葉を聞いて、浩一は自嘲気味に力なく首を振った。「違うんだ、蘭。俺たち親子の関係は、ずっと昔からこんな風に破綻していたんだ。だから、君のせいじゃない。たとえ君がいなかったとしても、俺とあの両親は結局こうなる運命だったんだよ」浩一は蘭の肩にすっと頭を預け、絞り出すように本音を零し始めた。「俺の両親は、どうしようもないほど身勝手な人間なんだ。自分たちのことしか考えていない。彼らにとって一番大切なのは、仕事での成功と、権力や名声を得ることだけ。そこには『息子を愛する』という感情なんて、最初から欠片も存在しなかった」「俺が昔、どこか人を寄せ付けないような冷めた性格だったの、君も気づいてただろ?……あれは、親の愛情というものを一度も感じたことがなかったからだ。彼らは自分の野心を満たすために、まだ子供だった俺を国内に置き去りにしたんだよ」浩一の声には、長年胸の奥に閉じ込めてきた深い絶望と痛みが滲んでいた。「俺たちが離れて暮らしていた数年間、俺から連絡したことは一度もないし、向こうから心配して連絡が来たこともない。まるで、最初から俺という息子が存在しないかのように扱われていたんだ。……そんな冷酷な親がいること、君には信じられるか?」「だから、俺と親の関係が冷え切っているのは昔からのことなんだ。君が気負う必要なんて、これっぽっちもない。だから……これ以上、君自身を責めないでくれ。俺は絶対に、あの親たちの言いなりにはならないから」浩一は蘭の目を見つめ、はっきりとそう断言した。これは彼が心の奥底にずっと抱え込んできた、嘘偽りのない最も生々しい「真実」だった。だからこそ、最愛の女性である蘭の前では、これ以上何も取り繕う気に
「なっ……」「今日のような卑劣な嫌がらせを平気でやってのける。そんな最低限の品性すらない人間と、俺が人生を共にすると思うか?」容赦のない浩一の言葉が、結衣のプライドをずたずたに切り裂いていく。「それから、これ以上うちの両親に余計なことを吹き込むなよ。俺と親の関係がどれだけ悪化しようと、たとえこのまま完全に縁を切ることになろうと、俺の痛くも痒くもない。あいつらは長年俺を放置してきた。俺にとってあの親は、とうの昔にどうでもいい存在なんだ」浩一は虫けらでも見るかのような目で結衣を見下ろし、冷徹に告げた。「だから、無駄な期待を抱くのはやめろ。俺がお前と一緒になる日は、永遠に来ない」それは、一片の情すら残されていない、完璧な決別の言葉だった。言い捨てるように告げた浩一は、結衣を完全に無視して歩き出そうとした。しかし、結衣は必死の形相で彼の前に回り込み、両手を広げて行く手を塞いだのだ。「待って!どうしてそこまで意固地になるの!?」結衣は悲痛な声で叫んだ。「私はただ、あなたと一緒にいたいだけなのに……!小さい頃からずっと、あなたのことが好きだったのよ!だから両親からこの縁談を持ちかけられた時、運命だと思ったわ。だって、私の大好きな人が、私の一番ふさわしい結婚相手だったんだもの!」彼女の瞳には、狂気じみた執着が浮かんでいた。「両家が協力してビジネスを大きくして、私たちが夫婦として結ばれる。そして時間をかけて愛を育んでいく……誰もが羨むような、完璧で幸せな人生じゃない!どうしてそれをわざわざ自分から壊してまで、ご両親に逆らおうとするの!?」結衣には、本気で浩一の気持ちが理解できなかった。自分と結婚すれば、名声も地位も、そして莫大な富もすべて手に入るというのに。あんな見すぼらしい一般庶民の小娘の、いったい何が良いというのか。彼の女性を見る目はどうかしているとしか思えなかった。しかし、浩一は結衣の必死の訴えを聞いても、欠片も心を動かされることはなかった。ただ、底知れぬほど冷ややかな目で彼女を見下ろしただけだ。「……お前との結婚で得られるのは、見せかけの幸せと金だけだ。俺は、愛する人と一緒に生きていけるならそれだけでいい。愛のない結婚に、幸せなんてあるはずがない」浩一の言葉は、まるで氷のよう
「それに比べて、私たちは家柄も釣り合っているし、何より小さい頃からお互いをよく知っているじゃない。私たちの結婚は、両親たちが望んだ完璧な組み合わせなのよ?どうして私じゃダメなの?少しだけでもいいから、私と向き合う時間を作ってちょうだい。そうすれば、私たちがどれだけ相性ピッタリか分かるはずよ」結衣の言葉には、どこまでも「自分こそが選ばれるべき人間だ」という絶対的な自信と傲慢さが張り付いていた。「お願いよ、浩一くん。私はわざわざあなたと結婚するために帰国したのよ?なのに、こんな風に拒絶されたら、私の両親にも顔向けできないわ。私の方があの女よりずっと美しくて、教養もあって、あなたの力になれるのに……!」自分が一番優れていると信じて疑わない結衣は、浩一がなぜ蘭のような「格下」の女を選ぶのか、本気で不思議でたまらないといった様子だった。浩一は、そんな彼女の言葉を聞いて――思わず鼻で笑ってしまった。こいつ、本気で言っているのか……?自分のプライドと家柄の都合しか頭になく、他人の気持ちをこれっぽっちも理解しようとしない。どこまでも自己中心的で、恥知らずな女だ。「……お前が自分の親にどう顔向けしようが、そんなことは俺の知ったことじゃない」浩一の冷え切った声が、結衣の言葉を切り捨てた。「それよりも、今日お前が蘭の職場に乗り込んで、彼女を大勢の前で侮辱したこと……俺が何も知らないとでも思ったか?」その言葉に、結衣はわずかに肩をビクッと震わせた。「いいか、よく聞け。お前がどんな手を使って俺を取り込もうとしようが、俺にとってはただの不愉快な嫌がらせでしかない。今日はお前がのこのこ俺の前に現れたから、わざわざこうして警告してやっているんだ。昔から知っているよしみで、今回はこれ以上手荒な真似はしないでおいてやる」浩一は一歩踏み出し、見下ろすように結衣を凄んだ。「だが、次はないぞ。もしこれ以上、蘭に手を出したり嫌がらせをしたりするようなことがあれば……相手が誰であろうと、俺は絶対に容赦しない。徹底的に潰す」それは、ただの脅しではない。本気の「殺意」すら滲む宣戦布告だった。幼馴染だから、家族同士の付き合いがあるから。これまではそんなしがらみもあって、角が立たないように彼女を避けてきたつもりだった。親の決めた政略結婚さえ
「……好きにしろ」浩一はそれだけを吐き捨てると、今度こそ一切振り返ることなく、足早にサロンを立ち去った。「おい、待て!浩一!私の話はまだ終わっていないぞ!」背後から征爾の怒号が響き渡ったが、浩一の歩みは一度たりとも止まることはなかった。重厚な玄関のドアがバタンと乱暴に閉められ、本邸には不気味な静寂が取り残された。「……あの馬鹿息子がッ!本当にどこまでも生意気になりおって……!」征爾は怒りに任せて、近くにあった高価な花瓶を床に叩きつけた。ガシャーンという甲高い破砕音が響き渡る。征爾の目には、浩一はいつまで経っても「自分の言いなりになるべき未熟な子ども」としてしか映っていなかった。まさかここまで親に牙を剥き、家を捨てる覚悟で反抗してくるとは想定していなかったのだ。どこで育て方を間違えた……あんな小娘の分際で、私の息子をここまで誑かすとは。もはや親子の関係など修復不可能に思える状況の中、征爾の胸には息子への怒りよりも、息子をそそのかした蘭に対する底知れぬ憎悪と、己の権力を見せつけてやらねばならないという傲慢な自尊心だけが黒く渦巻いていた。塚山家の本邸を飛び出した浩一は、夜風に吹かれながら自嘲気味に笑った。俺は……いったい何を期待していたんだろうな。胸の奥には、どうしようもない喪失感と悲しみが渦巻いていた。表面上は両親を拒絶し、憎まれ口を叩いていたが、彼の心の奥底には「親に愛されたい」「家族として歩み寄りたい」という、捨てきれない幼い願いがずっと眠っていたのだ。だからこそ、長年海外にいた両親が帰国すると知った時、浩一は心のどこかで密かに喜んですらいた。もしかしたら、今度こそ普通の親子のように笑い合えるのではないか――そんな淡い期待を抱いていたのだ。だが、現実はあまりにも残酷だった。彼らがわざわざ帰国した本当の理由は、息子を政略結婚の道具として利用するためだけ。両親にとって自分は、最初から最後まで、塚山家の事業を拡大するための「便利な駒」でしかなかったのだ。これまでの俺の努力も、思いも……全部無駄だったってことか。冷たい絶望に蝕まれ、浩一は足取り重く夜の街をさまよった。今すぐ蘭の待つマンションへ帰って、彼女の温もりにすがりたかった。しかし、これ以上彼女に負担をかけるわけにはいかない。こんな荒れ