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第009話

Author: 墨染 雪
「彼女がやったのよ……っ」

理恵は目元をわずかに赤くし、震える声で言った。

「この女、部屋に入ってくるなり『あかりが私をバカにした』と言いがかりをつけて、いきなりあかりに平手打ちを食らわせたの。私が止める間もなかったわ……」

そう言うと、理恵は心底心配そうな表情を作り、しゃがみ込んであかりの頬に手を伸ばした。

「あかりちゃん、痛かったわよね……?」

あかりは強烈な敵意を込めた瞳で理恵を睨みつけると、パチン!と力いっぱいその手を払いのけた。

そして涼介の腕の中から抜け出し、足を引きずる紗月のもとへ駆け寄ってその指をぎゅっと握った。

「おばさん、大丈夫!?」

紗月は背中に走る激痛に耐えながら、必死に背筋を伸ばした。「……大丈夫よ」

理恵のヒールでの一蹴りは、容赦ない力が込められていた。

紗月には五年前の事故で負った背中の古傷があり、その蹴りが傷に響き、自力でまっすぐ立ち上がるのすら辛かったのだ。

あかりも紗月の古傷のことを知っていた。だからこそ焦ったように紗月の指を握り、彼女を労るようにソファへ座らせた。「おばさん、痛い……?」

その異様なほどのあかりの優しさに、涼介は険しく眉をひそめた。

「……理恵。本当にこの女がやったのか?」

理恵は、両手を体の前で静かにぎゅっと握りしめた。

まさか、このクソガキがこれほどまでにあの使用人に懐いているなんて……!

「私にも不思議だわ。なぜあかりちゃんは、自分を殴った相手にこんなにも優しくするのかしら」

理恵は悲しげに唇を噛んだ。

「……もしかしたらあかりちゃんは、この使用人を庇うことで、私がやったのだと涼介に思い込ませようとしているのかもしれないわ」

そう言うと、彼女の目からポロリと涙がこぼれ落ちた。

「でも、さっきこの部屋には私たち三人しかいなかった……この女が認めない限り、私がどれだけ無実を訴えても、誰も信じてはくれないでしょうね……っ」

理恵のその言葉に、あかりは信じられないものを見るように目を大きく見開いた。

「っ……あかりを叩いたのは、あんたでしょ!!」

海外で大人たちに守られ、たっぷりの愛情を受けて育ってきたあかりは、これほど息を吐くように堂々と嘘をつく大人を生まれて初めて見たのだ。

「……あかりちゃんがそういうことにしたいなら、それでいいわ。私、子供と争うようなみっともない真似はしたくないもの」

理恵は悲劇のヒロインのようにうつむいた。

紗月は冷ややかに目を細め、理恵を見据えた。

この女、私が思っていた以上に狡猾で性根が腐りきっているわ。

あかりを殴ったのは明らかに理恵だというのに、今や自分が被害者のように振る舞い、見事に白を黒と言いくるめようとしている!

「あかりちゃん……ごめんなさいね」

理恵はヒクッと鼻をすすり、か細く怯えたような声で言った。

「私はあかりちゃんを殴ってなんていないけれど……それでも私に謝れと言うのなら、謝るわ。ごめんなさい」

あかりは怒りと驚きで目を見開いた。「叩いたくせに!」

「じゃあ、これでどうかしら」

理恵は自分の頬を、ペチッ、ペチッとわざとらしく軽く叩いた。

「私がやったと言い張るなら、今度は私が自分を叩くわ。これで……おあいこね?」

そう言って、彼女は涙を拭いながら涼介にすがるような目を向けた。

「あかりちゃん、もうこれで終わりにしましょう?これ以上、涼介を困らせないであげて……」

あかりは怒りのあまり、全身をガタガタと震わせ始めた。

この女、一体何を言ってるの!?

自分があかりを全力でぶったくせに、今ではまるであかりが理不尽なワガママを言っているかのように話している!

あかりはギリッと唇を噛みしめたが、ついに悔しさで大粒の涙が溢れ出した。

「あんたは悪い人だ!嘘つきの悪い人!!

あかりを叩いたのはあんたなのに!おばさんに罪をなすりつけて……本当に、最低の悪い人だぁっ!!」

あかりはボロボロと涙を流し、小さな体を震わせて泣き叫んだ。

彼女はまだたった六歳の子供だ。これほど狡猾で計算高い大人の女の詭弁に、言葉で太刀打ちできるはずもなかった。

紗月は唇を噛みしめると、手を伸ばしてあかりをしっかりと抱き寄せ、その背中を優しく撫でた。

そして、氷のように冷たい声で口を開いた。

「……桜井さん。私があかりお嬢様を叩いたと、本気でそうおっしゃるのですね?」

理恵はわざとらしく顔をそむけた。

「もういいわ、この件はここで終わりにしましょう!私も謝罪したし、これ以上は追及しないわ。もう二度とこの話は持ち出さないで。あかりちゃんが可哀想だから……」

あかりを抱きしめたまま、紗月は口元にぞっとするような冷たい微笑みを浮かべて言った。

「――もし私が、どうしてもこの話を最後まで追及すると言ったら?」

涼介はソファに深く腰を下ろし、氷のように冷たい目で紗月の顔をじっと見つめていた。

紗月はふっと余裕の笑みを浮かべると、あかりから手を離し、トレンチコートのポケットからボイスレコーダーを取り出した。

それを見た瞬間、理恵の顔から一気に血の気が引いた!

「なっ……!?」

彼女は驚愕に目を剥き、反射的に録音機を奪い取ろうと手を伸ばした。

しかし、紗月は冷静に体をかわし、レコーダーをしっかりと握ったまま再生ボタンを押した。

そこには、紗月がこのリビングに飛び込んできた直後のやり取りが、クリアな音声で記録されていた。

『私がやったのよ』

『この小さな厄介者のために、使用人の分際で私に食ってかかるつもり?』

『子供だからって、殴られないとでも思ってるわけ?このクソ生意気なガキ、勝手に涼介を「パパ」なんて呼ぶからよ。殴られて当然だわ』

理恵の冷たく傲慢な声が、レコーダーから静まり返ったリビングにはっきりと響き渡った。

理恵はその場で石のように凍りつき、顔を青と赤に交互に変えながらわなないた。

録音の再生が終わると、紗月はレコーダーを再びポケットにしまい、冷ややかな声で問いかけた。

「桜井さん。これで証拠は完全に揃いました。……あなたはまだ、『私があかりお嬢様を叩いた』と言い張るおつもりですか?」

そう言い終えると、紗月はあかりの顔に残る痛々しい平手打ちの痕をじっと見つめ、心を痛めながら言葉を続けた。

「この平手打ち、大人の全力で叩かれたようですね。手のひらの形だけでなく、指の跡までくっきりと見えます。

桜井さん、自分の手のサイズとあかりお嬢様の顔の痕、今ここで合わせてみますか?」

理恵は完全に言葉を失い、後ずさった。

彼女はギリッと唇を噛みしめ、焦燥に満ちた顔で振り返った。「り、涼介……これは、その……」

背後に座る涼介は、依然として優雅にソファに腰を下ろしていた。

しかし、彼が纏う気配は先ほどよりもはるかに冷たく、重圧感を増していた。

まるで、長い年月をかけて凍りついた巨大な氷山が今にも崩れ落ち、周囲のすべてを飲み込もうとしているかのようだった。

「佐藤さん。これであかりお嬢様を叩いたのが誰なのか、明らかになりましたね」

紗月は一つ深呼吸をして立ち上がると、涙目のあかりを抱き上げた。

「私に責任がないことが証明されましたので、お嬢様の顔に薬を塗りに行ってまいります」

それだけを言い残し、紗月はあかりを抱えたまま、迷いのない足取りで階段を上がっていった。

涼介はその紗月の背中を、底知れぬ冷ややかな光を宿した瞳でじっと見つめていた。

「涼介……っ!」

理恵は歯を食いしばり、すがるように弁解しようとした。「違うの、実は……」

「――あかりは、俺の娘だ」

涼介の低い声は、一切の感情を排した絶対零度のものだった。

「この六年間、あかりがどのように生きてきたかは知らない。だが、これからの人生において、俺はあかりに持ち得る限りのすべてを与え、最善の人生を送らせるつもりだ」

彼はその深淵のような瞳で、紗月の平手打ちによって赤く腫れ上がった理恵の顔を一瞥した。

「……どうやら俺の世話係が、あかりの代わりにやり返してくれたようだな。だから今回は、俺からお前に手を下すことはしない」

理恵は一瞬、安堵と喜びの表情を浮かべ、急いで涼介にすり寄ろうとした。しかし、再び発せられた涼介の冷酷な言葉が、彼女の足を縫い留めた。

「だが、二度とこの邸宅には近づくな」

理恵の心は一気に奈落の底へと突き落とされた。

彼女はワナワナと唇を震わせた。「ど、どうして……私、一応は涼介の『表向きの婚約者』なのよ!?私に会いに来るなと言うなんて……!」

「そう、『表向きの婚約者』に過ぎない」

涼介はゆっくりと立ち上がり、その長身で彼女を見下ろした。

「最初にお前を婚約者として手元に置くことを決めたのは、他でもない『桜井紗月』の遺志を尊重してのことだ。

だが今、お前は俺と桜井紗月の娘を傷つけた。

もし今日の出来事を紗月が知ったら、彼女は決してお前があかりに近づくことを許さないだろうからな」

そう言い捨てると、涼介は氷のような背中を向け、そのまま階段の方へと歩き出した。

「――お見送りをしろ」

控えていた悠真が進み出た。

「桜井様、どうぞお引き取りを」

理恵は血が出るほど強く唇を噛みしめ、燃え上がるような憎しみを込めて、階段の先へと消えていった紗月とあかり、そして涼介の後ろ姿を睨みつけていた。

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