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第008話

Author: 墨染 雪
「あかりから絶対に目を離すな、すぐに戻る!」

涼介は電話を切ると、すぐに立ち上がって部屋を出ようとした。

「待って!」

あかりの名前が出た瞬間、紗月は血相を変えて立ち上がった。「あかりに、何かあったんですか!?」

涼介はドアノブを握る手をピタリと止めた。

彼がゆっくりと振り返り、冷ややかな疑念の目を向けると、紗月はハッとして深呼吸をし、感情を抑え込んだ。

「……今後、あかりお嬢様の専属の世話係になるのですから、彼女の身を案じるのは私の『仕事』です」

涼介は無言のままドアを開け、大股で廊下へと出た。「……ついて来い」

青湾の邸宅へと急ぐ車内で、紗月はどうにかしてあかりの状況を聞き出そうと口を開いた。

涼介はそんな彼女を横目でチラリと見ると、先ほど彼女がサインしたばかりの契約書を無造作に投げ返した。

「……お前はまだ、正式な専属の世話係ではない」

紗月はギリッと唇を噛み締め、その場で契約書の控えを彼に押し返した。

「佐藤さん。これで、あかりお嬢様に何があったか教えていただけますね?」

涼介は不快げに眉をひそめた。

「……理恵が家に来て、あかりの部屋へ押し入ったそうだ」

その一言を聞いた瞬間、紗月の心臓が氷水に突き落とされたように冷え切った。

理恵が、あかりに会いに行った……!?

あの女は、あかりに何をするつもりなの!?

あかりは三人の子供の中で一番小さく、お腹の中にいた頃から二人の兄に栄養を多く取られていたため、生まれつき体が弱かった。しかも、これまで紗月とこんなに長く離れたことは一度もなかったのだ。

紗月はもう、冷静さを保つことなどできなかった。

彼女は焦燥感を隠しきれない顔で、前の座席に向かって叫んだ。

「運転手!もっとスピードを出して!」

その声に、隣に座る涼介の目がスッと鋭く細められた。

彼は紗月を観察するように見つめ、低く冷たい声で言った。

「……椎名さん。お前はまるで、実の父親である俺よりも、あかりを心配しているようだな」

紗月は一瞬、息を呑んで固まった。

涼介の指摘通り、自分はあかりへの執着と愛情を露わにしすぎていた。ただの世話係やシッターの枠を完全に超えた、異常なほどの取り乱し方だ。

紗月は必死に唇を噛み、声を震わせないように答えた。

「契約を交わした以上、あかりお嬢様は私の最も重要なクライアントです。心配するのは当然でしょう」

涼介は薄く嘲るような笑みを浮かべ、彼女の顔を覗き込んだ。

「……それだけか?」

彼の色を探るような視線に不快感を覚え、紗月は顔を背けて短く頷いた。「そうです」

涼介はそれ以上、何も言わなかった。

やがて、車は青湾の邸宅に到着した。

「涼介様、やっとお戻りになられましたか!」

車が停まるやいなや、外で待機していた使用人が慌てて駆け寄ってきた。

「状況はどうなっている?」

涼介が車を降りながら眉をひそめて尋ねた。

「それが、理恵様とあかり様が……」

使用人が言いかけたその時、車の反対側のドアがバン!と勢いよく開き、紗月が矢のようなスピードで邸宅の中へ飛び込んでいった。

リビングに足を踏み入れた瞬間、紗月の鼻をかすかな血の匂いが掠めた。

「あかり……っ!」

紗月が駆け込むと、あかりは広大なソファの片隅で小さく身を縮め、生気を失ったように頭をうなだれていた。

そしてその向かい側には、怒りに満ちた顔の理恵が腕を組んで座り込んでいる。

紗月は何も考えられず、あかりの小さな体をきつく抱きしめた。

「大丈夫!?ねえ、あかり……っ、大丈夫なの!?」

彼女の声は、コントロールできないほど震えていた。

あかりはゆっくりと小さな手を伸ばし、紗月の腕をそっと握り返した。

「……だいじょうぶ」

「あんた、誰よ?」

理恵は冷ややかな目で紗月を一瞥し、あからさまな軽蔑の色を浮かべた。

「新しい使用人?……ずいぶんと色目を使うような顔つきじゃない。誰を誘惑するつもりでそんな顔してんの?」

その侮辱の言葉に、紗月はギリッと奥歯を噛み締めた。

だが今は、理恵などという女と口論している暇はない。彼女はうつむいたままのあかりの顔を覗き込もうとした。「顔を見せて」

「……いいの」

あかりは頑なに頭を下げ、紗月に顔を見せようとしない。

胸の奥で嫌な予感が爆発し、紗月は半ば強引にあかりの顎を持ち上げた。

果たして――

あかりの白くて柔らかい頬には、真っ赤に腫れ上がった『手形』がくっきりと浮かび上がっていた!

その手形はひどく痛々しく、大人の指の跡までがはっきりと残っている。

大人が、憎しみを込めて全力でビンタをしなければ、こんな痕にはならない。

紗月は心臓を刃物でえぐられたように痛み、視界が涙で滲んだ。

「だいじょうぶだよ」

あかりは弱々しい声で、必死に紗月を慰めようとした。

「執事のおじいちゃんがね、氷で冷やしてくれたから……もう痛くないよ」

幼い娘の健気な言葉に、紗月の心は鋭い刃物でえぐられたように痛み、締めつけられた。

彼女は顔を上げ、両手で拳を固く握りしめながら理恵を睨みつけた。

「私がやったのよ」

理恵は悪びれる様子もなく、冷ややかに腕を組んだ。「この小さな厄介者のために、使用人の分際で私に食ってかかるつもり?」

「……誰が厄介者ですって?」

紗月はギリッと歯を鳴らし、あかりの体をそっとソファに下ろすと、理恵に向かって一歩、また一歩と近づいた。

「こんな小さな子供に、よくも手を上げられたわね!大人が六歳の女の子をこんな風に殴るなんて、あなたには人間の心がないの!?」

理恵は鼻で笑い、見下すような目で紗月をねめつけた。

「子供だからって、殴られないとでも思ってるわけ?このクソ生意気なガキ、勝手に涼介を『パパ』なんて呼ぶからよ。殴られて当然だわ」

理恵がその言葉を言い終わるか終わらないかのうちに、紗月はすかさず彼女に飛びかかり、渾身の力を込めてその頬を平手打ちした。

パァァンッ!!

鋭く乾いた音が、広いリビングに響き渡った。

理恵はまともにビンタを食らい、ソファに倒れ込んだ。頭の奥で鈍い痛みが鳴り響き、しばらくの間、何が起きたのか理解できず起き上がれなかった。

紗月は唇を強く噛みしめ、眼下の理恵を見下ろしていた。

――かつて、理恵は紗月にとって最も大切な妹だった。

たった一人の妹だからこそ、紗月は自分の持っているすべてを彼女に与えてきた。

結婚後、理恵が仕事を見つけられずに苦労していると知れば、涼介の会社に彼女を推薦した。

だがその結果はどうだ。理恵は涼介の専属アシスタントとなり、彼と共謀して紗月を深い絶望の淵へと突き落としたのだ!

そして今、理恵はあかりを殴った!

平手打ち一発で、紗月の胸の奥で煮えたぎる怒りが鎮まるはずもなかった。

「あ、あんた……私を叩いたわね!?」

正気を取り戻した理恵はソファから跳ね起き、夜叉のような顔で紗月に突進してきた。

「自分が誰を相手にしてるか分かってるの!?私は佐藤涼介の婚約者で、この家の未来の女主人よ!あんた、これからもここで働きたいなら、自分の立場をよく考えることね!

――おい!誰か、こいつを外に引きずり出して!」

理恵は周囲の使用人たちに叫んだが、皆遠巻きに見ているだけで、誰一人として動こうとはしなかった。

「……使えない連中ね!」

理恵は舌打ちすると、そのまま自ら紗月に飛びかかり、二人は激しく揉み合いになった。

「やめて……喧嘩はやめて……っ!」

その時、背後からあかりの泣きそうな声が聞こえてきた。

小さなあかりはソファから立ち上がり、二人を止めようと駆け寄ろうとしたが、焦りのあまり分厚い絨毯に足を取られ、派手に転んでしまった。

「あかり……っ!」

背後で娘が転倒する音に、紗月の意識は完全にそちらへ向き、本能的に振り返ろうとした。

理恵はその一瞬の隙を見逃さなかった。彼女は紗月の腕を強く掴み引き寄せる。

パァンッ!

理恵の平手打ちが、紗月の頬に炸裂した。

紗月の頭が大きく揺さぶられ、口の中に生臭い血の味が広がる。

理恵は勝ち誇った顔で、さらにもう一発叩き込もうと手を振り上げた。

しかし、普段から甘やかされて生きてきた彼女には、生死の境を彷徨った紗月ほどの反射神経も力も備わっていなかった。

紗月は逆に理恵の腕を掴み返し、そのまま強い力で彼女を床へと押し倒した。

紗月は口の端から流れる血を親指で乱暴に拭い去り、見下ろした。

「……まだ叩かれたいの?」

紗月が容赦なく手を振り上げ、理恵の顔に向けて平手打ちを振り下ろそうとした、その瞬間――

突然、彼女の手首が、万力のような力で誰かに背後から掴まれた。

涼介だった。

彼は氷のように冷たい表情で言い放った。「お前たち、ここで何をしている」

「涼介!この女が私を叩いたのよ!」

涼介が紗月の腕を拘束したのを見るや否や、理恵は素早く立ち上がり、尖ったヒールの先端で紗月の背中を力強く蹴り上げた。

「ただの使用人の分際で私に手を出すなんて、自分の立場を分かってるの!?」

背中に走った鋭い痛みに、紗月は顔をしかめた。

「おばさん!」

その様子を見ていたあかりは慌てて立ち上がり、涙をこぼしながら紗月のもとへ駆け寄った。そして、涼介が掴んでいる紗月の腕を小さな両手で必死に引き離そうとした。

「おばさん、大丈夫……!?」

涼介は振り返り、騒ぎを起こした娘を叱りつけようと口を開きかけた。

しかし、あかりの顔に目を留めた瞬間――彼の表情が完全に凍りついた。

あかりの白く幼い頬には、真っ赤に腫れ上がった大人の『平手打ちの痕』が、残酷なほどはっきりと残っていたのだ!

涼介は次の瞬間、あかりを自らの腕の中に引き寄せ、周囲の空気を凍らせるような、恐ろしいほどの怒りを込めた声で地を這うように問い詰めた。

「……誰が、これをやった」

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