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第20話

Auteur: 林 安奈
Y市警視庁・交通総務課。

雅紀は作成したばかりの事故分析報告書を手に、勢いよくオフィスのドアを押し開けた。

さっきまで顔を寄せ合ってひそひそ話していた連中は、彼が入ってきた瞬間、慌ててそれぞれ手元の資料に目を落とし、何事もなかったふりをした。

「雅紀係長、お疲れ様です」

雅紀は車のキーをデスクに放り投げ、上着を脱いで椅子の背もたれに掛けた。

昨夜はろくに休めなかった。

椿のことは落ち着かせたものの、彼自身は全然眠っておらず、その眉間には隠しきれない苛立ちが滲んでいる。

席に着いた途端、また誰かにうかがわれているような気配を感じた。彼は目を上げ、一番近くにいる隼人へ冷ややかな視線を送った。

「お前ら、そんなに暇なのか?」

隼人は目を泳がせ、しどろもどろになって言葉に詰まった。

そこへ警部補の石井直人(いしい なおと)がにやにやしながらふらりとやって来た。

「やるじゃないか、雅紀。とぼける気か?うちは規律が厳しいが、今回のイメージアップには、課長も君に功労賞を出すべきだね」

雅紀は少し眉をひそめ、うんざりした顔をした。

「何の話だ?」

「本当に知らないのか?」

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