Masuk亮介はぞっとするほど冷たい顔で、沙織の顎をつかんだ。その指が食い込み、沙織は痛みに顔を歪める。「沙織、俺は離婚しないって言っただろ。幸乃だって、俺と離婚するわけがない!」「亮介さん、私が悪かった。助けて、お願い……お腹の子を助けて……」沙織の足元に血が広がった。沙織は震えながら、亮介にすがった。亮介は何も言わず、救急車を呼んだ。沙織が病院に運ばれたときには、もう子どもは助からなかった。医師からは、今後妊娠するのは難しいだろうとも告げられた。その知らせを聞いた亮介の両親は取り乱し、それでも高瀬家の子を残せと亮介に迫った。うんざりした亮介は、いっそパイプカットを受けた。両親に責められても、亮介はただこう言った。「幸乃と約束したんだ。幸乃が子どもを産めないなら、俺も一生、子どもはいらないって」……春崎市に着いてから、私は両親の会社で働くようになった。二人は仕事のことを一から教えてくれた。目の前のことに追われているうちに、亮介のことで痛んでいた心も、少しずつ落ち着いていった。自分の言葉で商談を進め、自分の判断で仕事を動かしていく。それは思っていた以上に楽しかった。亮介の妻として、高瀬家の嫁として生きていたころには、知らなかった感覚だった。親戚の集まりでは、いい人がいるからと男性を紹介されることもあった。私を気に入ってくれた人もいたし、仕事に向き合う私の姿を素敵だと言ってくれる人もいた。けれど私は、すべてやんわり断った。今の私にとって、恋愛はあってもなくてもいいものだった。そして結婚だけは、もう二度とごめんだった。両親はそんな私を責めることなく、何も言わずに見守ってくれた。亮介と顔を合わせたのは、半月後だった。その日は市役所に離婚届を出す日だった。亮介はひどくやつれていた。くたびれた白いTシャツを着て、手には道端で摘んできたような花を持っていた。まるで、あの日私にプロポーズしたときのようだった。一方の私は、納車されたばかりの高級車で市役所へ向かった。仕事用のスーツに細いフレームの眼鏡を合わせた私は、昔の私とは何もかもが違っていた。亮介は私を見るなり、呆然と立ち尽くし、涙を浮かべた。「幸乃……車、一人で運転できるようになったんだな。免許を取ったあとも、怖いって言ってたのに」「昔はあなたに
写真立てが床に落ち、ガラスが割れて散らばった。亮介は足元をふらつかせながら、寝室へ向かった。ドアを開けた瞬間、亮介はその場で固まり、胸の奥がきつく締めつけられるように痛んだ。部屋はがらんとしていた。ベッドの上には、小さなぬいぐるみが置かれていた。幸乃は、部屋にいなかった。ベッドの上にあったその小さなぬいぐるみは、幸乃が18歳のころに亮介へ贈ったものだった。あのころ、なかなか幸乃に会えなかった亮介は、ぬいぐるみに録音された幸乃の声を、電池が切れるまで何度も聞いていた。亮介はベッドに近づき、ぬいぐるみを手に取った。胸がずきりと痛んだ。電池を探して入れ替えようとしたとき、電池ケースの奥に小さな紙切れが挟まっているのを見つけた。黄ばんだ紙には、幸乃の字でこう書かれていた。「亮ちゃんのばか。電池が切れるまで聞くくらいなら、早く帰ってきてよ。早く帰ってきて、私をお嫁さんにしてね!」全身から血の気が引いていくような感覚の中で、亮介は震える手で電池を入れた。小さなぬいぐるみから、懐かしい声が流れた。――亮ちゃん、今何してるの?会いたいよ。いつ帰ってくるの?その声が、亮介を20年前へ引き戻した。その瞬間、亮介はもう涙をこらえられなかった。「ごめん、幸乃、ごめん……」亮介は眼鏡を外し、両手で顔を覆って肩を震わせた。涙が指の隙間からこぼれ落ちた。しばらく泣いたあと、亮介は我に返ったようにスマホを掴んだ。何度も幸乃に電話をかけたが、つながらない。すると今度は、LINEを送り続けた。【幸乃、俺が悪かった。離婚しないでくれ】【幸乃、今どこにいる? 頼む、教えてくれ……】【会社も車も家も、全部お前に渡す。だから離婚だけはやめてくれ……頼む……お前がいないと、俺は生きていけないんだ……】99通目のメッセージを送ったとき、ようやく幸乃から返信が来た。【亮介、私たちはもう離婚したの】その一文を見た瞬間、亮介の体から力が抜けた。目を真っ赤にしたまま、その場に崩れるように座り込んだ。……亮介は一睡もできなかった。スマホには、式場の担当者や両親、それに沙織からの不在着信がいくつも残っていた。折り返す気にもなれず、亮介は伸びた無精ひげもそのままに、やつれた顔で友人に電話をかけた。その友人は亮介の会社の共同経営者
彼女は以前から、あのバラ園をとても羨ましがっていた。だから私は、バラを彼女に譲ることにした。隣家の娘さんは、私の後ろのトラックに積まれたバラを見た瞬間、目を丸くした。「お姉さん、これ、本当にいいんですか?このバラ、旦那さんがお姉さんのために用意した大事なものですよね。夏になると、お二人がこのバラに囲まれて食事してるのをよく見かけて、すごく素敵だなって思ってたんです。私がもらっちゃって、本当に大丈夫ですか?」私は少しだけ笑った。「いいの。もう、とっくに私のものじゃなかったから」バラをすべて根ごと掘り起こしてもらい、トラックに積み終えると、庭はすっかり空っぽになった。それを見ていると、不思議なくらい心が軽くなり、私はふっと笑った。それから家に戻って荷物をまとめていると、部屋の隅で埃をかぶった、小さなぬいぐるみを見つけた。18歳の亮介は、この街でなんとかやっていくために必死で、一日に8つもアルバイトを掛け持ちしていた。なかなか会えない日が続いたので、少しでも寂しくならないようにと、私はこの小さなぬいぐるみを亮介に贈った。それは声を録音できるぬいぐるみで、私は中に自分の声を吹き込んでいた。「亮ちゃん、今何してるの?会いたいよ。いつ帰ってくるの?」けれど、ぬいぐるみの電池はとっくに切れていた。28歳のときに引っ越した際、荷物に紛れて部屋の隅へ転がり、そのまま埃をかぶっていた。亮介がそれを思い出すことは、もうなかった。私はそのぬいぐるみをベッドの上に置いた。そして、亮介を想い続けた20年分の気持ちも、そこに置いていくことにした。私はスーツケースを引き、振り返ることなく家を出た。これから先。この場所はもう、私とは何の関係もない。……沙織の件を済ませた亮介は、まだ朝早いうちから車を飛ばし、昔暮らしていたあたりの古い商店街まで、幸乃が食べたいと言っていたたまごサンドを買いに行った。昨日、電話越しに幸乃が何を言ったのか、亮介は聞き取れていなかった。家へ戻る途中、亮介はネクタイを少し緩めた。なぜか胸騒ぎがしていた。車を家の前に停め、亮介が門をくぐると、庭が妙にがらんとしていることに気づいた。幸乃のために植えた一面のバラが、跡形もなく消えていた。亮介は胸が詰まり、うまく息ができなくなった。「幸乃……
言い終わる前に、スマホが立て続けに鳴った。亮介は私から手を離し、スマホを取り出した。家族のLINEグループからだった。亮介の両親と私たち夫婦だけの4人グループだったはずなのに、いつの間にかメンバーが5人になっている。何を読んだのか、亮介の顔色がさっと変わった。彼は画面を見つめたまま、急いで返信を打ちはじめた。しばらくして、亮介はスマホを置き、私の頭を撫でながら、少しだけ声をやわらげた。「幸乃、ごめん。会社で急ぎの用ができた。もう一度出なきゃいけない。さっき何か言ったか?聞こえなかった」私は力なく口元を引き、首を横に振った。それから、テーブルに置いてあった、両親が弁護士に頼んで用意してくれた離婚協議書を手に取り、署名欄のページを開いて亮介に差し出した。「何でもない。ただ、サインしてほしい書類があるの」亮介は急いでいたせいか、書類に目を通しもしないままペンを取り、名前を書いた。「幸乃、悪い。俺、もう行くから。家で待っててくれ」そう言って、亮介は慌ただしく出ていった。亮介の背中が玄関の向こうに消えていくのを見ていると、喉の奥がぎゅっと詰まり、息をするだけで痛かった。私はスマホを取り出し、読み上げ機能を切って、半年ぶりにLINEを開いた。家族のLINEグループに新しく入っていた5人目は、沙織だった。履歴をさかのぼると、亮介の母が沙織とのツーショット写真を嬉しそうに送り、亮介を名指ししていた。【亮介、いつまで母さんに黙ってるつもりだったの?沙織さんが来てくれなかったら、二人のことも、お腹の子のことも知らないままだったわ】その下に、3分後の亮介の返信があった。【母さん!そんなことをグループに書くな。幸乃が見たらどうするんだ。話は俺が戻ってからにしてくれ!】亮介の父は、まったく気にしていないようだった。【何をそんなに慌ててるんだ。幸乃さんは目が見えなくなってから、LINEなんてほとんど開いていないだろう。だいたい、前に母さんが離婚しろと言ったとき、聞かなかったのはお前じゃないか。それなのに今さら式を挙げるなんて】【沙織さんは妊娠している。誰かがそばにいてやらないといけない。離婚したくないなら、今日から平日は沙織さんのところにいて、週末だけ幸乃さんのところに戻ればいい】画面の文字が滲んで見えた。あん
「そう」私は小さく返事をして、何も感じていないような顔で立っていた。亮介が私に嘘をついたのは、これで三度目だった。このスタジオは、亮介がとっくに貸し切りにしている。ほかに客がいるわけがない。周りのスタッフたちは何か言いたそうにしながらも黙り込み、私に同情するような視線を向けていた。亮介の態度が気に入らなかったのか、沙織はむっとして床を軽く踏み鳴らし、私をちらりと見て、きつい口調で言った。「亮介さん!病院まで一緒に来てくれないなら、私、帰らないから!二人でウェディングフォトを撮るなら、私も撮る!」沙織のわがままに、亮介は苛立ちを隠せない様子だった。けれど、私に真実を知られるのが怖いのだろう。結局、強くは出られなかった。亮介はこめかみを揉み、しばらく黙り込んだあと、結局うなずいた。沙織はわざと、私と同じデザインのウェディングドレスに着替えた。三人で撮るウェディングフォトなんて、私たちの結婚に区切りをつけるには、むしろふさわしかったのかもしれない。「ねえ、写真はもう撮り終わったでしょ?病院まで一緒に来てくれるよね。じゃないと奥さんに言っちゃうよ?」沙織は私の目の前で、平然と亮介の腕をつかんだ。私が「見えていない」と思い込んでいるから、こんなことができるのだ。私は口元を引きつらせ、ぎこちなく笑った。亮介は険しい顔でネクタイに指をかけたまま、しばらく迷っていた。やがて、申し訳なさそうに私を見た。「幸乃、会社から急ぎの電話だ。少し外すから、ここで待っててくれ」四度目の嘘だった。「うん」私は小さく頷いた。その直後、亮介は沙織の手を引いて外へ出た。二人は店の入口で何かを話していた。その場に一人残された私は、置き去りにされた子どもみたいだった。見かねた店長が、おずおずと声をかけてきた。「幸乃様、よろしければお写真をご確認なさいますか?」言ってから、店長ははっとしたように慌てて言い直した。「申し訳ございません、幸乃様。失礼いたしました。実は、その、ご主人が……」店長が言い終える前に、私は近くの画面に映っていた写真を指さして遮った。「すみません。あとで修整するとき、私だけ消してもらえますか。二人だけ残してくれれば大丈夫です」「見えていらっしゃるんですか?」店長は目を見開いた。
私は幼いころ、迷子になった先でさらわれ、そのまま売られた。少し前、私を育ててくれた両親が亡くなってから、実の両親がようやく私を見つけ出した。二人は、私を春崎市へ連れて帰り、今度こそ家族として迎えたいと言ってくれた。私の目も、二人が探し回ってくれた医師のおかげで治った。目が見えるようになったことは、まだ亮介に話していなかった。電話の向こうで、母は声を震わせて喜んだ。「幸乃、目が見えるようになったのね。よかった、本当によかった……!」父もひどく興奮していて、声が少し上ずっていた。「帰ってきてくれるんだな。安心したよ。弁護士のことは任せなさい。いちばん腕のいい人を探すから。3日後、迎えに行く。春崎市へ帰ろう」……3日後は、私がこの家を出る日。そして、十年前に挙げられなかった結婚式を、亮介と挙げることになっていた日でもあった。結婚した当時、私たちにはお金がなかった。ウェディングドレスも着られず、記念写真も撮れず、まともな結婚指輪さえ用意できなかった。婚姻届を出した日のことは、今でも覚えている。その日、亮介は道端で見つけた小さな花を一輪手にして、私の前に片膝をついた。「幸乃、こんな形でごめん。でもいつか金に余裕ができたら、必ずちゃんと式を挙げる。みんなが羨むくらい、綺麗な花嫁にしてやるから」その後、暮らしは少しずつ楽になり、亮介はどんどん忙しくなっていった。いつの間にか彼は高瀬社長と呼ばれるようになった。それなのに式の話だけは、何度も後回しにされた。半年前、私の目が見えなくなってから、亮介は落ち込む私を元気づけようと、あれこれ手を尽くしてくれた。プロのプランナーまで呼び、今度こそ盛大な式を挙げようと言ってくれた。今となっては、そのすべてがひどく皮肉に思える。午前1時、浴室の水音がようやく止まった。我に返った私は、亮介が沙織を抱えて出てくるのを見た。彼は眠っている沙織をそっとベッドに下ろし、自分は私と沙織の間に横になった。亮介は私のほうを向いて横になり、腕を伸ばして抱き寄せようとした。近づいた瞬間、彼の体から沙織の香水の匂いがした。吐き気がした。どうしようもなく、気持ち悪かった……胃の奥から酸っぱいものがこみ上げ、思わずえずきそうになった。私はそれをこらえ、亮介の手から逃げるように寝返りを打ち、