Share

第10話

Author: 五八萬
一瞬、遼の頭の中で鈍い音が響き、途方もない焦りと混乱が全身を包み込んだ。

車に乗り込みエンジンをかけたときも、両手はまだ痺れていた。

だが、バックミラーに映った、動揺と困惑を隠せない自分の顔を見た瞬間、遼は考えを切り替えた。

たしかに、由奈に誘われて心を乱されたのは、自分の落ち度だ。

しかし、花咲のやったことはあまりにも行き過ぎている。

由奈をケーキ台の下に突き飛ばすなんて。

あんな重い支え棒がもし頭に落ちていたら、命に関わっていたはずだ。

急いで由奈を病院へ運んだのも、花咲のためを思ってのことだ。

いくら愛しているとはいえ、彼女のわがままを際限なく許すわけにはいかない。

それなのに、花咲は自分の気持ちをまるで顧みず、容赦なくブロックしてきた。まったく、子供じみている。

遼はハンドルを握りしめ、歯を食いしばったまま決意を固めた。

しばらくは花咲を放っておこう。

お互い頭を冷やしたあとで、改めて腰を据えて話し合えばいい――そう考えた。

薄く目を細め、遼はハンドルを切って会社へと戻った。

そして、あっという間に三日が過ぎた。

だが、花咲からは一切、歩み寄る気配がない。

ついに。

堪えきれなくなった遼は、車いっぱいに花咲の好きな花を積み込み、彼女の勤める病院の前で待つことにした。

一番目につく場所をわざわざ選んだ。

このあと顔を合わせたら、花咲は怒って花を投げ捨てるかもしれない。

それでも構わない。とにかく早く仲直りしたかった。

そうでもしなければ、この数日、何をしても身が入らないんだ。

そうして四時間近くが過ぎた。

病院から出てくる人影は次第にまばらになっていく。

しかし、あの見慣れた姿は一向に現れず、遼の眉間には深い皺が刻まれた。

遼は、見覚えのある医師の一人を呼び止め、やや早口で問いかけた。

「すみません、月岡花咲先生は今夜も手術の予定がありますか?」

「月岡花咲先生?」

その医師は少し驚いたように言葉を繰り返し、隣を歩く同僚の表情にも、微かな違和感が浮かんでいる。

遼は、二人が花咲を知らないのだと思い、花咲の所属している科を説明しようとした。

名刺まで取り出そうとした。

だが、意外そうな声が耳に届いた。

「月岡先生なら、一週間前に病院を辞めましたよ。何かご用ですか」

もう一人の医師も頷きながら続けた
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 花咲の響き、何処とも知らず   第29話

    花咲が遼の病室に足を踏み入れたとき、彼はちょうど窓際でガラス片を手に、自らの手首を切ろうとしていた。彼女の足音が近づくのを耳にして、彼はようやくその手を止め、ゆっくりと振り返った。灰色に沈んだ瞳に、ふっと星明かりのような光と喜びが差した。やつれた体を支え、弱々しく立ち上がった彼の真っ白な顔には、驚きと嬉しさが入り混じった笑みがあった。「花咲……どうしてここに?君、一昨日の便じゃなかったっけ?」花咲は手にしていた証拠をベッドの上に叩きつけ、冷えきった声で言い放った。「結城遼、もう白々しい芝居はやめなさい」遼は蒼白な唇をわずかに動かしたが、結局何も言い返さず、ただ苦く笑みを浮かべた。由奈が騒ぎを起こしてから、花咲はやはり何かがおかしいと感じていた。色々調べ上げ、そして辿り着いた答えに、胸の奥がすっと冷え込んだ。あの日、彼女を襲おうとした男――その影にいたのは、ほかでもない遼だった。由奈が配信者たちを集め、花咲を晒し上げることができたのも、遼の後押しがあったからだ。窓辺の男は、二十年以上前と変わらず端正で穏やかな面影を残していた。だが、もう、あの頃には戻れない。遼はその日、初めて知ったのだ。花咲が祖父の功績を使って、離婚を申し出ていたことを。あまりにもきっぱりとしていて、二人の間には、もう一片の余地すら残さなかった。彼女の瞳の奥で、氷のような冷たさが嫌悪へと変わっていく。それを見て、遼はついに取り乱した。目を赤くし、慌てて近づこうとした。だが、花咲は素早く後ずさり、その手を避けた。口を開き、冷たく感情のない声で告げた。「結城遼、私、後悔してる。あの時、あなたと結ばれるべきじゃなかった」その言葉は、遼の心を細切れにされるような痛みを与えた。彼はふらつく足取りで花咲の前に膝をつき、目尻を赤く染め、乞うように彼女を見上げた。「花咲……全部、愛してるからだ。俺は、君を愛しすぎたんだ。なのに、どうして償う機会さえ与えてくれないか?ただ……そばに置いておきたかっただけなんだ。小林由奈には、君を傷つけさせない。あいつは所詮ただの駒だ。君さえ戻ってきてくれれば、俺が必ずすべて片をつける」花咲は必死に縋りつく遼を見下ろし、胸の奥に失望が込み上げた。静かに首を振り、その言葉を遮った。「

  • 花咲の響き、何処とも知らず   第28話

    由奈が智也へ近づこうとするのを見て、花咲の胸がわずかにざわめいた。だが、彼女はあえて何か弁解しようとはしなかった。もし智也が本気で自分を疑い、由奈をかばうつもりなら、何を言っても無駄だと分かっていたからだ。ところが、智也は由奈が腕に触れようとするのをするりとかわした。その眼差しは氷のように冷たく、そして、わずかな嫌悪すら宿っていた。彼は口を開き、言葉を叩きつけるように放った。「口では花咲を罵りながら、その顔で僕を誘惑しようなんて。はっきり言っておく。事実がどうであれ、僕は彼女を信じるし、おまえみたいな女に惹かれることも絶対にない」その言葉に、由奈の美しい顔が怒りでゆがみかけた。足を踏み鳴らし、歯を食いしばって言い返した。「誰があなたなんか誘惑するのよ。ただ忠告しただけだ。騙されたいなら勝手にすれば」花咲は、智也が迷いなく自分の味方として立ちはだかる姿を見つめていた。ふと、三年前の誕生日パーティーの日を思い出した。あの時も、二者択一の場面だったが、遼は決して揺るぎなく彼女の側に立つことはなかった。その瞬間、花咲ははっきりと悟った。遼が抱いていたのは愛ではなく、ただの占有欲だったのだ。愛とは、無条件の信頼と守り抜くことだ。決してペットを檻に閉じ込めて飼うようなものではない。智也はその隙を逃さず、警察へ通報した。やがて警察が到着し、騒然としていた場はようやく鎮まっていった。由奈の瞳に一瞬、悔しさがよぎった。だが焦りはない。今回の件が虚偽の告発だとわかっているから、法的に花咲が処罰されることはない。けれど、遼と花咲が離婚していないのは事実だ。これから先、花咲の名誉は地に落ちるだろう。警察が来たのを見て、花咲は込み上げる悔し涙をこらえながら、顔なじみの男性に向かって声をかけた。「武おじさん」ここの警察署の署長は、かつては彼女の祖父の弟子で、両家の付き合いも深かった。それでも花咲は、こうした私事で彼らの手を煩わせ、治安の仕事に支障を与えるようなことは決してしなかった。もし今回、こんな濡れ衣を着せられることがなければ、彼女が口を開くこともなかっただろう。花咲は胸の奥で渦巻く感情を押さえ込み、口を開いた。「武おじさん、私が離婚しているかどうかを皆さんに教えていただけませんか?

  • 花咲の響き、何処とも知らず   第27話

    認めざるを得ないが、由奈の演技は見事だった。涙は雨に打たれる花のようにこぼれ落ち、声は哀れを誘うほどか細く、まるで血を吐くかのような悲痛さを帯びていた。さらに傍らでは、泣きすぎて今にも声が枯れそうな幼い子がいいて、人々は否応なく彼女に同情を寄せ始めた。花咲が反論する間もなく、由奈は人前で涙ながらの訴えを続けた。「このあたりで、誰だって知ってるわ。遼はあなたを溺れるほど愛してる。そんな彼が浮気なんてするはずない。全部あなたたちが仕組んだことよ。私のお腹を借り物にして子どもを産ませるために。もし本当に浮気だったのなら、なぜあなたは彼と離婚せず、ひとりでヨーロッパへ行ったの?あれは夫婦そろっての芝居だったんよね。私はあの時、あなたの病院の婦人科を受診した記録だって持ってる。表向きは診察に見せかけて、実際には私のお腹をどう使うか相談してたじゃないか?」花咲はあまりの怒りに頭が真っ白になった。理由はただ一つ、こんなにも厚かましい人間は初めて見たからだ。黒を白と言い、白を黒と言いくるめる。だが同時に、花咲は一つの抜け穴に気づいた。彼女は由奈の手をぐいと掴み、冷ややかな笑みを浮かべて問い返した。「何を根拠に、私と遼が離婚していないと思っているの?」由奈は顔を上げ、涙はまだ頬を伝っていたが、その奥底には隠しきれない怨嗟と嫉妬が滲んでいた。「あなたはあの日の翌日には出て行ったじゃない?遼と一緒に役所へ行って離婚の手続きをしたわけでもないし、あれだけあなたを愛していた遼が、離婚に応じるはずがないわ。今だって、あなたたちはまだ夫婦のままよ。本当に彼の浮気が我慢ならないのなら、どうして今まで離婚していないの?」――これこそが、由奈が花咲を貶めるための切り札だった。花咲が去ってから、由奈は何度も遼と一緒になろうとした。だが、そのたびに遼はきっぱりと断った。さらには、人前でも容赦なく彼女の尊厳を踏みにじった。由奈は後になって、ようやく理由がわかった。それは、花咲がまだ遼を繋ぎとめたまま離婚しようとしないからだ。遼が彼女を拒み続けるのも、自分にまだチャンスがあると思い込んでいたから。今回、花咲が戻ってきて、遼が彼女のために命さえ投げ出そうとしたことで、由奈はますます自分の推測に確信を深めた。怒りに我を忘れていなけ

  • 花咲の響き、何処とも知らず   第26話

    入口にたどり着いた花咲は、由奈の口から飛び出す言葉をはっきりと耳にした。彼女は、まだ二歳ほどに見える子どもを抱きしめながら、地面に膝をつき、涙で顔を濡らしていた。その後には、スマートフォンを構えた男女が数人。配信画面に向かって視聴者とやり取りをしている。一目で、由奈がわざわざ呼び寄せた配信者だとわかる。警備員たちも、こんな光景は初めてらしく、誰もがどうしていいかわからず立ちすくんでいた。下手に手を出して由奈や子どもを引き離せば、二人はさらに大きな声で泣き叫び、まるでいじめられたかのような芝居を打つだろう。しかも、この場には配信している人が大勢いる。もし動画がネットに上がり、誹謗中傷の的になれば、この先まともな日常などはもう望めない。花咲は人混みを抜け、カメラの前で泣き崩れている由奈を冷ややかな眼差しで見据えた。「小林さん、望みどおり私が来たわ。話があるなら、場所を変えて話そう。ここで騒ぐのはやめなさい」だが由奈は小さく身を縮め、怯えたように顔を上げた。「月岡家のお嬢様、あなたはお金も権力もお持ちですけれど、もし私と莉子が本当にあなたについて行ったら、私、生きて帰れるのでしょうか?」花咲は拳をぎゅっと握り、深く息を吸って怒りを押し殺した。「それで、何が望みなの?」由奈は子どもをそっと降ろし、膝をついたまま花咲の服を掴んだ。泥に伏すような卑屈さで、震える声を絞り出した。「ほかに望みはありません。ただ、私とこの子から手を引いてほしいんです」花咲はその言葉を聞き、思わず怒り混じりの笑みがこぼれそうになった。「私があなたから手を引く?それは逆じゃないか?三年前、あなたは遼を誘惑して私の家庭を壊した。私はそれを遼の自制のなさだと受け止め、あなたを責めずに身を引き、席を譲った。それなのに今になって、こうしてしつこくまとわりつくなんて」この騒ぎに気づいた往来の人々が、次々と足を止めた。花咲の言葉を耳にした人々は、すぐさま由奈を指さし、ひそひそと囁き合った。「こんな若くてきれいな子が、どうして不倫相手なんかになるのかしら」「見え見えじゃない。金持ちに取り入ろうとして、子どもまで産んだのに捨てられて、今度は元妻に絡んでるんだろう」「こんな恥知らずな不倫女に遠慮なんていらない。私なら人を呼んで叩き

  • 花咲の響き、何処とも知らず   第25話

    絵里の結婚式の当日、花咲と智也は時間通りに会場へ到着した。会場は賑やかな空気に包まれ、煩わしい顔ぶれもいない。花咲の気分はそれだけでずいぶん良くなっていた。歓声に包まれる中、新郎新婦が指輪の交換を始めた。智也は珍しく見とれており、美しい黒い瞳には読み取れない感情が揺れていた。時折、壇上の二人に視線を送り、また客席の花咲へと戻す。その意味は、言葉にしなくても明らかだった。花咲はあえて気づかぬふりを続けたが、その熱い視線だけは無視しきれなかった。ただ笑って言った。「絵里もこれで一生のパートナーが決まったし、次はあなたの番ね。あなたが結婚するとなった時は、私、たっぷりご祝儀を包むわ」目の前で朗らかに笑う花咲を見て、智也の瞳にはわずかな苦みが宿った。そしてぽつりと落とした。「花咲、もしあの時、もう少し勇気があったら、僕たちは今、違う結末を迎えていたんだろうか」その問いに、花咲は答えなかった。花咲がそれを知ったのは、ずっと後になってからだった。智也は、もっと前に彼女と出会っていたのだ。その頃、彼女の両親はまだ健在で、花咲は月岡家で最も愛されるお嬢様だった。両親に伴われて数々の華やかな社交の場を渡り歩く中、智也と初めて出会い、彼は一瞬で心を奪われた。白川家もまた大きな事業を抱えていたが、その多くは海外にあった。花咲に心を寄せてから、彼はずっと密かに彼女を見守ってきた。遼が花咲に熱烈な想いを寄せる姿も、そのすべてを目にしてきた。正々堂々と遼と競い合いたいと願ったが、二人が幼なじみで、すでに深い感情で結ばれていると知った。自分が踏み込めば、ただの第三者になるだけだった。智也は、そうして自らの想いを胸の奥に封じ込めた。やがて遼の想いが実り、二人がまもなく結婚の門をくぐろうとしていると知ったとき、智也は家の意向に従って海外留学を決めた。それでも彼女への関心が途切れることはなかった。花咲が勤務する病院からヨーロッパ研修への派遣が決まったとき、智也は七、八年学び続けた金融の道を捨て、医学を学び始めた。幸いにも、もともと学業に長けた彼は、心血を注いだ末に、花咲と同じ第一研究室に配属されることになった。再会の日、智也の胸は躍っていた。これが運命の贈り物だとずっと信じていた。

  • 花咲の響き、何処とも知らず   第24話

    「遼……」由奈はまだ諦めきれず、再び飛びつくようにして遼の手を握った。「私よ。そばに来たんだ」「出ていけ!出ていけ」遼は目を覚ましたばかりで声はまだかすれていたが、それでも由奈に向かって怒鳴りつけることには一点の迷いもなかった。由奈が動じないのを見て、彼女を追い出そうと、遼はさらに重傷の体を押してベッドから降りようとした。腰の傷口からは、無理な動きで再び血が滲み出した。ちょうど回診に来た医師と看護師が異変に気づき、すぐさま駆け寄って遼を押さえつけた。看護師も慌てて由奈を外へ促した。「ご家族の方、いったん外へ出てください。患者さんが取り乱しておられますので、落ち着かせないといけません」屈辱と悲しみで胸がいっぱいになり、由奈は唇を噛みしめた。もう少しで血が滲みそうだ。ついに堪えきれず、声を荒げた。「どうして私が出ていかなきゃいけないの!私は彼の恋人なの」その言葉を聞くなり、遼の感情はさらに激しく燃え上がった。血走った目で由奈を睨みつけ、その視線には恨みと冷たさが宿り、まるで仇敵を見るようだった。「どうしてお前なんだ……どうして花咲じゃない?俺のそばにいるべきなのは花咲だ!お前が花咲を追い出したんだろう!小林由奈、もう一度でも俺の前に現れたら、お前とその忌々しいガキをまとめて海外に叩き出してやる」最後の一言が、由奈の心を直撃した。抱いていたすべての希望を粉々に打ち砕いた。由奈は顔から生気を失ったまま、人に引きずられて病室から連れ出された。病院の廊下で行き交う人々の訝しげな視線など意にも介さず、そのまま力尽きたように床へ崩れ落ち、生気を失ったように座り込んだ。だが、スカートの裾を握る指先は、ゆっくりと力を込めていた。うつむいた髪の奥には、溢れんばかりの狂気と怨嗟が潜んでいた。人としての情けから、花咲はそれでも遼に一本の電話をかけ、容体を気遣った。電話の向こうで、遼は執拗に問いかけてくる。「一目でいい、会いに来てくれないか?」弱々しい声には、おずおずとした願いと切なる望みが滲んでいた。花咲は長い沈黙ののち、やがてひとつ言い訳を口にした。「午後の便で海外に行くの。ごめんなさい。」遼はまるで一気に空気の抜けた風船のように力を失い、苦みを帯びた声でぽつりとつぶやいた。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status