Masuk夫は重度の不眠症を患っており、彼が眠る時は、家の中に物音ひとつ立ててはならなかった。 そのため、結婚して六年、私はすっかり息を潜めて暮らすことに慣れきっていた。 毎晩九時を過ぎたら、テレビもつけず、電話もかけず、何も口にしない。足音が響かないよう、歩く時でさえ常につま先立ちだった。 彼がベッドでぐっすり眠る姿を見られるなら、それだけで私の苦労はすべて報われる気がしていた。 あの日、彼に書類を届けに行き、社長室のドアが閉まりきっていないのを目にするまでは。 新しく入った若い秘書は、カーペットの上にあぐらをかき、ポテトチップスをバリバリと食べながら、大音量でバラエティ番組を流していた。 鳴海征史(なるみ まさし)は、そのすぐ横のソファで眠っていた。 秘書がテレビの音量を下げようとすると、征史は目も開けないまま手を伸ばし、彼女の髪を優しく撫でた。 「下げなくていい。少しくらいうるさい方が、かえってよく眠れる」 私はドアの外に立ち尽くしたまま、先月ひどい風邪を引いた夜のことを思い出していた。 咳で彼の眠りを妨げるのが怖くて、私は顔を枕に深く埋め、一晩中必死に咳を押し殺して耐えた。 ところが翌朝、彼は不快そうに眉をひそめてこう言い放ったのだ。 「昨夜はお前の鼻息がうるさすぎて、一睡もできなかった。次からは気をつけろ」 ポテトチップスをかじる音と、征史の穏やかな寝息が入り混じる中、私はゆっくりと後ずさった。 彼の不眠症を治せるのは、張り詰めた静けさなんかじゃなかったのだ。 ただ、彼を安心させられるのが「私」ではなかったという、それだけのことだった。 ――あの日から、私が夜に彼の眠りを妨げることは、二度となかった。
Lihat lebih banyak「今は、すべて俺の誤解だったとわかっている。紬、離婚はできない」けれど私は、その言葉には答えず、代わりにこう尋ねた。「征史、もし私が聞いていたら?どうして『TSUMUGI』を使わなかったのかと聞いたら、あなたは何と答えるつもりだったの?」征史は苦しげに足を止めた。長い沈黙の末、ようやく口を開いた。「俺は、こう言うつもりだった……『TSUMUGI』を使ってほしいなら、俺の子供を産めって。子供ができれば、お前はもう、ほかの男のことを考えなくなるだろうって」私は声も出ずに笑った。大学時代、征史のルームメイトが彼を評した言葉を思い出した。情に流されず、公私を混同せず、何事にも筋を通す男だと。けれど同時にひどく頑固で、何があっても自分の考えを曲げないとも言っていた。あの頃は、征史が私にとても甘かったため、頑固には見えなかった。長い結婚生活を経て、ようやくその言葉が本当だったと気づいた。「征史、私はあなたとの子供が欲しかった。でも、私に触れるたび、あなたはすぐに離れたでしょう。私を気味悪がっていたのに、どうやって子供を作れるというの?それに、医師から言われた妊活中の注意を、あなたはいくつ守ったの?」征史は、風香をかばって何杯も酒を飲んだことを思い出したのだろう。「違う。あれは、風香がまだ若いから……」「だから、瀬戸さんに酒を勧められたら、私は飲まなきゃいけなかったの?」征史は唇を噛み、うつむいた。「すまなかった。全部、俺が悪い。すぐに風香を解雇する。二度と連絡も取らない。もう勝手な思い込みもしない。これからはちゃんと夫婦としてやっていこう。だから、離婚しないでくれ」征史も、頭を下げて謝ることができたのだ。では、彼のために神経をすり減らし、睡眠薬を飲み続けた私の六年間は、いったい何だったのだろう。「鳴海社長、もう遅いんです。私はもう、あなたを愛していません。私、滝沢紬は、愛していない男性と夫婦でいるつもりはありません」征史の目がたちまち赤くなった。私はアシスタントを呼び、征史を外まで送るよう頼んだ。「離婚協議書への署名をお忘れなく。お互いのためにも、揉めずに別れましょう」征史は重い足取りでオフィスを出ていった。立ち去る前、私に尋ねた。「紬、俺は本当に
だから、あの時彼にプロポーズされた瞬間、万感の思いが込み上げたのだ。すべてを捨てて彼を選んだ私の決断は、間違っていなかったと心から思った。ただ、あの熱烈なプロポーズが、純粋に私を愛しているからではなかったなどとは、夢にも思わなかった。では、何のためだったのか。今の私にはもうわからない。この六年、私たちは二人とも苦しんできた。お互いを傷つけるだけのこんな結婚を、これ以上続ける意味はない。その夜も、私は一睡もできなかった。夜が明けると病院の予約を取り、もう一度睡眠薬を処方してもらうことにした。会社に着くと、アシスタントから「自動車メーカーの担当者がお見えです」と聞かされた。慌てて応接室へ向かうと、そこには思いがけない懐かしい顔があった。紘一は穏やかな笑みを浮かべ、私に手を差し出した。「会社名が『滝沢クリエイティブ』だったから、もしかして君の会社じゃないかと思ったんだ。昔からコンテンツ制作の仕事で独立したいって言ってただろう?今日、わざわざ確かめに来てみたら、やっぱり君だった」打ち合わせを終え、紘一を私の社長室へと案内した。六年ぶりの再会に、互いに月日の流れの早さを感じずにはいられなかった。「インスタで見たわ。息子さん、もう五歳になったのね」紘一は嬉しそうに頷き、スマホの写真を見せてくれた。「ああ、やんちゃ坊主でさ。毎日、妻をへとへとにさせてるよ。だからこのプロジェクトが終わったら、長い休みを取って家族とゆっくり旅行にでも行くつもりなんだ」私も自然と笑みがこぼれた。「本当に幸せそうね」「ああ。昔は情熱的でドラマチックな恋こそが幸せだと思ってたけど、今は何げない穏やかな毎日こそが本当の幸せなんだってわかったよ。君はどう?征史くんとも相変わらず仲がいいんだろう?」私の笑みがこわばった。気まずく顔をそらし、小さく肩をすくめた。「今、離婚の話をしてるところなの」紘一は驚いて目を見開いた。まったく信じられないという様子だった。「どうして?あの頃、君はあれほど彼を愛していたし、彼だって君を心から愛していたじゃないか。うちの社員に君たちと同じ大学の出身者がいて、二人の写真を見せてもらったことがあるよ。本当にお似合いだったのに」私は口を開いたものの、何を言えばいいのかわからなかった。かつて
「だから私は毎晩九時を過ぎたら、テレビもつけず、電話もかけず、何も食べなかった。足音が響かないように業者に頼んで家中にカーペットを敷き詰めて、歩く時もずっとつま先立ちだったわ」征史は首を横に振った。やつれた顔には、固い決意が浮かんでいた。「いや、俺がゲストルームで寝る。とにかく、離婚だけはしない」私は眉をひそめて立ち上がり、彼の言葉を遮った。「征史、どうして離婚できないの?あなたが眠れないのは、私のせいなんでしょう?私が寝返りを打ってもうるさい。つばを飲み込んでもうるさい。何もせずただ隣に横になって息をしているだけで、眠りを邪魔したと責め立てたでしょう。前は、重い不眠症だからどんな音にも耐えられないんだと思ってた。でも今は、あなたが私をひどく嫌悪していることも、瀬戸さんのそばならぐっすり眠れることもわかったわ。だったら離婚して、私から離れて暮らせばいい。それでも駄目なの?あなたがぐっすり眠れる相手のところへ行けばいいじゃない。それでも駄目?それとも、両家の親が怒るのが怖いの?だったら私が説明するわ。あなたのご両親はもともと私をよく思っていないんだから、離婚すると言えばむしろ喜ぶはずよ」そう言うと、私はスマホを取り出して電話をかけようとした。だが突然、目の前に手が伸びてきて、スマホを強引に奪い取られた。顔を上げると、彼の目の縁が赤くなっていた。征史は歯を食いしばり、私に問い返した。「じゃあお前はどうなんだ、紬。お前が眠れないのは誰のせいだ?柏木がほかの女と結婚し、子供までできたから悲しいのか?それとも、愛してもいない男の隣で寝るのが、そんなに嫌なのか!」胸の奥が鈍く痛んだ。征史は、私が毎日睡眠薬を飲んでいることは知っていた。けれど、なぜ眠れないのかはわかっていなかったのだ。「征史、あなたはまだわかってないわ。私は毎日、自分の立てる音があなたの眠りを邪魔するんじゃないか、あなたが機嫌を損ねるんじゃないかと怯えていたのよ。あんなに神経を張り詰めた毎日の中で、眠れるわけがないでしょう?」征史は呆然と立ち尽くしていた。デスクの上の離婚協議書に目を落とし、それからもう一度、信じられないというように私を見た。「俺はてっきり、お前が……」彼が言い終わる前に、奪い取られた私のスマホが鳴
その目が笑うだけで、征史はどんな悩みも忘れられたのだ。次に目を覚ました時には、もう午後五時を回っていた。征史はソファから飛び起き、隣でドラマを見ていた風香を驚かせた。「どうして起こさなかった!」風香はきょとんとした顔をした。「鳴海社長、気持ちよさそうに寝ていたのに、どうして起こすんですか?」「今日は重要な会議が二つ入っていたんだぞ。それに……」それ以上話す暇もなく、征史はジャケットを掴んで外へ駆け出した。「鳴海社長、待ってください!」「自分でタクシーを拾って帰れ」征史はアクセルを踏み込んだ。だが社用車では思うように速度が出ず、会社に着くまで二十分もかかってしまった。車を降りる時には何度か深呼吸をし、焦りが顔に出ないように表情を整えた。ところが、会議室には誰もいなかった。嫌な予感を覚え、すぐにコスメ部門の責任者に電話をかけた。「滝沢クリエイティブの連中は会議に来なかったのか?」「鳴海社長、お戻りだったんですね。朝から何度もお電話したのですが、瀬戸秘書が『社長はお休み中だから邪魔しないで』とおっしゃるので、私は……」「俺は、なぜ滝沢クリエイティブが会議に来なかったのかと聞いているんだ!」「あの……」責任者は怯えきった声で答えた。「滝沢社長のアシスタントから、両社の提携はずっと順調に進まず、これ以上引き延ばせばサンクコストが膨らむばかりだから、契約を終了すると連絡がありました」征史は会議室の入り口に立ち尽くし、息を詰めた。「向こうの一存で勝手に契約を終わらせられるわけがないだろう。俺の同意は取ったのか!」「ですが、瀬戸秘書が、社長ももともと滝沢クリエイティブを評価していなかったと……お昼に会社へ戻り、社長の印鑑を持ち出して、契約終了の合意書に押印したそうです」征史は乱暴に電話を切った。納得など、できるわけがなかった。サンクコストも、提携が順調でないという話も、彼にはどうでもよかった。なぜ紬が「終わりだ」と言えば、それで簡単に終わってしまうのか。大学卒業の時も、両家の親に反対されると、紬はあっさりと別れを切り出した。今度もまた、一方的に契約を終わらせる。紬は自分のことを一体何だと思っているのか。征史は唇を噛みしめ、紬に電話をかけた。だが耳に届いたのは、無機質な
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