転移の光が収まった瞬間、冷えた空気が頬を撫でた。ユウリたちは、崩れかけた大広間の中央に立っていた。天井の高い空間には、かつての威容を誇ったであろう書架が幾列も並び、その多くが傾き、棚板からは砕けた木片や劣化した紙が散乱している。わずかに差し込む光は天井の割れ目から射し込み、空気中には砂塵と紙片がゆっくりと漂っていた。落ちてくるそれは雪にも似ているが、近づけばインクの痕跡がまだ残る古い詩の断片だった。「……まだ、生きてる本がある」セリアが視線を奥へ向ける。長机の上に、他の本とは違う淡い光を帯びた魔導書が数冊並んでいた。ユウリは足を踏み入れる前に呼吸を整え、机へと近づいた。指先で表紙に触れた瞬間、魔導書がわずかに震え、ページが一枚、勝手に開く。そこに現れた文字を見て、彼は思わず息を呑んだ。——見覚えのある筆跡。親友が使っていた、癖のある字形。その字で、短い詩が綴られていた。「……これ、なんで……」ユウリが呟くと、反対側にいたトアも別の本を手に取っていた。彼女の瞳に映るページには、青い花畑の情景が細かく描かれている。彼女は小さく首を傾げ、「知らない……けど、懐かしい」と唇を動かした。セリアも別の一冊を開き、眉を寄せる。「この本……読む人によって、見える内容が変わってる。読み手の“最も読ませたい言葉”を映す仕組みね」三人は無言で互いの本を見比べたが、ページの内容はそれぞれにしか見えないらしい。ユウリは親友の筆跡を指でなぞりながら、胸の奥にじわりと熱いものが込み上げるのを感じた。——まるで、この本たちが、それぞれの心を覗いているようだった。机の上の本から視線を外したとき、ユウリはふと奥の書架に目を留めた。半ば倒れかけた棚の下、崩れた木材と古い巻物の隙間から、淡い脈動が漏れている。「……あれ、光ってないか?」声を潜めながら近づくと、セリアが息を呑んだ。「黒頁……! 間違いない、あの輝きは」慎重に瓦礫をどけると、そこには手のひらほどの黒い紙片があった。表面にはまだ解読不能な文字がびっしりと刻まれ、触れる前から微かなざわめきが指先をくすぐるように伝わってくる。トアが歩み寄ると、欠けた彼女の花紋が急に脈打ち、銀色の光が広がった。黒頁の欠片はそれに呼応し、花弁の欠けた輪郭を一瞬だけ埋めるように輝く。「……あたたかい……」トアの声は
夜明けの光が、草原の端に淡く降りていた。谷を抜けた風はまだ冷たく、靴底に触れる土は、夜露をたっぷりと含んでいる。ユウリは歩きながら、胸の奥に沈む黒頁の欠片をそっと指先で確かめた。指に伝わるひやりとした感触は、ただの紙のはずなのに、時折脈を打つように微かに震えている。横を歩くセリアが、ちらと彼を見た。「……まだ反応してる?」「うん。谷で拾ったときより弱まってはいるけど、完全には消えてない」ユウリはそう答え、視線を前方に移す。遠く、朝靄の向こうに広がるのは、草原と岩場が混じった荒涼地帯。そこだけ色彩が抜けたように見え、風も乾いている。その中央、緩やかな丘が盛り上がり、その上に黒く細い影が二つ並んでいた。木か、岩か、それとも——。「“二つの影が交わる丘”……黒頁の詩が示したのは、あそこかもしれない」ユウリの言葉に、セリアが頷く。だがその瞬間、後方から小さな吐息が聞こえた。トアが立ち止まり、両手で耳を押さえている。「……ざわめき、が……聞こえる」掠れた声が、風に溶けた。ユウリも耳を澄ます。はじめは何もなかったが、やがて微かな低音が、地面を通して響いてくる。人の声とも、風音とも違う。——詩が眠りから身じろぎする音。「黙詩派の仕業かもしれない」セリアは険しい表情になり、魔導書を抱き直す。「このざわめき、聞き続けると“読む前に意味を奪われる”わ。以前、報告書で読んだことがある」ユウリは唇を噛んだ。前回の詩の獣戦で掴んだ手応え——読むよりも語ることで未詩に抗える感覚——が脳裏をよぎる。しかしセリアの警告は重い。「敵は学習してくる」。ならば、今度は語ることすら許さない仕掛けを持ってくるはずだ。丘の黒い影が、朝靄の中でゆっくりと形を変えていく。まるで、誰かがこちらを待っているかのように。その輪郭が重なった瞬間、ざわめきが一段と大きくなった。「行こう。ここで立ち止まっても、向こうから来る」ユウリは短く告げ、歩みを早めた。背後で、トアの欠けた花紋が淡く光を放ち、その光が丘の方向を指し示していた。丘の頂には、きっと新たな頁が待っている——だが同時に、言葉を奪う敵もまた、そこにいる。丘を登るにつれ、草の色は徐々に褪せ、足元の土は灰色を帯びていった。風は弱まり、代わりにあの低いざわめきが耳を侵食するように強まっていく。まるで地面その
夜明け前、空がまだ青く眠っている頃。ユウリは目を覚ました。昨夜までの疲れが体に残っているはずなのに、不思議と意識は冴えていた。原因は、枕元に置いた小さな黒い紙片——分館で手に入れた黒頁の欠片だ。指先で触れる。ひやりとした感触のあと、視界の奥に一瞬だけ文字が浮かんだ。——“花は欠けても、咲く”短い詩の断片。意味をつかむ前に、その言葉は霧のように消える。「……なんだ、今の」呟いた瞬間、隣で眠っていたトアが身じろぎをした。そして——彼女の胸元に刻まれた花紋が、淡く光を帯びた。「……ユウリ?」まだ半分夢の中のような声。だが光は確かに、欠けた花弁の縁から脈動していた。その様子に気づいたセリアが、寝袋から顔を出す。「今、反応した……それ、黒頁に触れたときでしょ」ユウリはうなずく。「トアの花紋と繋がってるみたいだ」トアは不安そうに自分の胸元を押さえる。「痛くはないけど……あたたかい。呼ばれてる、みたい」光はまるで脈拍のように強弱を繰り返す。そして、ほんのわずかに方角を示すかのように揺れていた。「これは……導きだな」セリアは立ち上がり、周囲の地図を広げる。「でも反応が安定しない。このまま追っていいのかは……」「行くべきだ」ユウリは即答した。「これは偶然じゃない。何かに繋がってる」トアは短く息を吸い込み、ゆっくりとうなずいた。「なら……一緒に行く。怖いけど、知りたい」夜明けの光が地平から差し込み、黒頁の欠片に反射する。その輝きは、まるで次の物語の頁を開こうとしているようだった。黒頁の欠片が示す光の揺らぎを頼りに、三人は森を抜けた。朝靄の中、鳥の鳴き声が遠くで響く。しかし歩を進めるごとに、その音も少しずつ遠のいていく。代わりに耳に届き始めたのは——かすかな囁き。誰かがすぐそばで、本を読むような、淡い声。「……聞こえるか?」ユウリが振り返ると、トアもセリアも頷いた。「文字を読む音……でも、人じゃない」セリアは耳を澄ませたまま歩く速度を落とす。やがて木々が途切れ、目の前に荒れた丘陵地帯が広がった。大地はひび割れ、ところどころに灰色の花びらが積もっている。その花びらは乾いているのに、風が吹くたび微かに震え、何かをささやいているようだった。「……言葉の残響」セリアが低く呟く。「昔、誰かが読んだ詩が、
詩の獣は、音もなく空間を満たしていく。最初に感じたのは、言葉の匂いだった。古びた紙の香りではない。燃え残った詩文と、湿った墨の気配が混じり合い、嗅いだだけで胸の奥にざらつきが残るような、そんな気配。ユウリが一歩踏み出した瞬間、獣の体が揺れた。その皮膚にはびっしりと詩文が刻まれている。まるで、誰かが何百、何千という詩を“書き捨てていった”かのように。目も口も持たないその顔の中心には、黒い円——未詩の花が、開きかけたまま凍りついていた。「……あれが、“咲かなかった詩”の成れの果て」セリアが呆然とつぶやいた。それは魔法というより、呪いだった。魔導書の構造すら無視して咲き続ける、“読み手を持たなかった詩”。詩の獣は、腕のような触手を伸ばすと、空気にひとつの詩を放った。目に見える文字列が、空間に焼き付けられる。まるで天に浮かぶ黒い書。それを読んだ——いや、見ただけで、ユウリの頭が揺れた。「うっ……!」意味が、勝手に流れ込んでくる。言葉の意味、構文、詩の解釈。それらが一斉に脳へと押し寄せ、思考の回路を塗りつぶしていく。「読むな! 見るなユウリ!」セリアが叫んだ。だが、すでに視界には詩の痕跡が焼きついていた。“読む”ことが本能であるこの世界において、“読むな”という行為は、目を閉じても避けられない。次の瞬間、地面が裂けた。詩が“咲いた”。まるで爆発のように、花弁にも似た文字が空間に拡がる。壁を穿ち、空気を裂き、風を沈黙させる黒い花。ユウリが身を引こうとしたそのとき、トアが彼を抱き寄せて転倒した。直後、彼らの背後をかすめて、詩の花が咲き砕いた岩が吹き飛んだ。「……っ、ありがとう」「読むと、喰われる……わたし、あれ、知ってる」トアの声は震えていた。彼女の記憶に、あの獣が刻まれている。けれど思い出せない。過去が、読めない詩文のように心の奥に封じられている。「また、来た……」その言葉の意味を、ユウリはまだ知らなかった。詩の獣が咲かせるのは、言葉の罠だった。目に映るだけで、意味が流れ込んでくる。詠唱も、魔導構造も超えた、“読む”という衝動そのものに干渉する暴力。「意味が……脳に、勝手に……っ!」ユウリが額を押さえ、膝をついた。彼の魔導書がページを開いたまま震えている。そこに刻まれた詩文が、読み取れな
霧の深い山間を抜け、谷底へと続く崖道を降りた先。そこに、“それ”は眠っていた。断崖の地肌に埋もれるように作られた巨大な石の門。苔に覆われ、風化した魔導装置の名残だけが、その場の異質さを語っている。だが、ユウリたちの前に現れた門は、ただの遺跡ではなかった。「これが……分館……?」ユウリの声は自然と低くなる。トアの魔導書に導かれ、辿り着いた先。そこには確かに、かつて“魔法図書館の外縁”として存在した、封印された研究施設の痕跡があった。門の中央には、閉ざされた魔導書のレリーフがはめ込まれている。けれど表紙に記された文字は擦れており、かすかに浮かぶ花紋だけが光を湛えていた。「反応するのは……詩の刻まれた花紋だけ、かもしれない」セリアがそっとつぶやく。ユウリが言葉を返す前に、トアが一歩前へ出た。彼女の左手に刻まれた“壊れた花紋”が、光の揺らぎとともに脈動をはじめる。無言のまま、そっとその手を門へと伸ばす。ぴたり。指先が触れた瞬間、花紋の光が不安定に揺れた。門の魔力もまた、わずかに波打つ。だが、何も起こらなかった。風が止まり、鳥の声さえ遠のいた空間で、ただ、沈黙だけが残った。「……ダメか」ユウリがぼそりとつぶやく。トアは目を伏せ、小さく肩を落とした。彼女の花紋は、確かに反応を示した。けれど、“咲かなかった”。セリアが眉をひそめる。「……壊れた花紋では、鍵にならない。まだ早い、のかもしれない」ユウリが歩み寄り、トアの隣に立つ。自分の左手を見つめ、そっと力を込めると、花紋が光を放った。彼の花紋は、トアのように欠けてはいない。けれど、まだすべてが開いているわけでもない。未完成の光が、門へと向かって伸びていく。次の瞬間——重い石が軋むような音とともに、門が微かに震えた。魔導書のレリーフが割れるように左右へ開き、封印された空気が外へと流れ出す。「開いた……!」だが、扉の奥から流れ出てきたのは、古びた本の匂いではなかった。言葉にならない、沈黙の気配。空間そのものが“読むな”と警告しているような、異常な静寂だった。ユウリはごくりと喉を鳴らし、一歩、門の内へと足を踏み入れた。ユウリが門をくぐった瞬間、空気の質が変わった。それは温度でも湿度でもない。“読む”という行為そのものが、空間に拒絶されているような違和感。足を踏み出
村を離れてすぐ、ユウリは何度かトアに話しかけてみた。「疲れてない?」「歩けるか?」彼女は声こそまだ弱いが、こくん、と小さく頷いて返す。その仕草だけでも、彼女がこの旅に“自分の意思”でついて来ていることが伝わった。「言葉、ゆっくりでいい。焦らなくて大丈夫だから」そう言いながら、ユウリは懐から取り出したノートを手渡した。白紙のページに、ひらがなで「た」「お」「は」などの簡単な音を書き、筆談を促す。「……ありが、と」ぎこちないが、トアは確かに言葉を口にした。その顔には微かに笑みが浮かび、ユウリもセリアも自然と笑顔になる。しばらく歩いた後、小川のほとりで休憩を取る。そのとき、ふとユウリが訊いた。「なあ、トア……お前の花紋、どうしてそんなに……?」彼女の左手にある“花紋”は、他の者とは明らかに違っていた。円形の中に花弁が広がるような模様。だがその一部は黒く焦げたように染まり、欠けている。花が咲きかけて、途中で止まったような印象だった。トアはうつむいたまま、そっと自分の手を握りしめた。そして一言、ぽつりとつぶやいた。「……こわれた、の」それ以上は言えない。言葉が続かないのではなく、心がそこで止まっている。それだけで、何があったかを理解するには充分だった。「壊れた、って……花紋って、そんなふうになるもんじゃないだろ?」セリアが眉をひそめる。「普通はね。花紋は魂に刻まれる“詩の根”だから。破損なんて、聞いたことない」ユウリは黙ったまま、トアの花紋を見つめた。壊れた花紋。咲きかけの詩。彼女は“何か”を失ったことで、その花を止めてしまったのかもしれない。けれどそれでも——彼女は、旅に出ることを選んだ。その決意が、何よりも強く、美しかった。森の抜け道を歩いていたそのときだった。風が止まり、鳥の声も消える。空間がひと息、沈黙を呑みこんだ。「……来る」セリアが即座に立ち止まり、魔導書を構える。その前方、木々の間から現れたのは、黒衣の男だった。長い外套に顔のほとんどを隠す深いフード。手には本すら持たず、ただ無言で立っている。「名を……名乗る気はないのか?」ユウリが問うと、男は笑った。いや、“声”が響いたのは確かだが、口は一度も動いていなかった。《名に意味はない。語る言葉こそ、力だ》その“声”が放たれた瞬間、