All Chapters of 花紋の少年と魔法図書館: Chapter 1 - Chapter 10

52 Chapters

咲かない言葉

朝の光が、町の広場をやわらかく照らしていた。土で舗装された訓練場では、数人の少年少女が輪を作り、それぞれ手元の魔導書を読み上げている。「花が開け、風が流れよ——《風舞の一節》!」少女の声が響くと同時に、風の花弁がくるりと舞い上がり、目の前の的をそっと撫でた。周囲から歓声が上がる。彼女は恥ずかしそうに笑いながら本を閉じた。その光景の少し外れで、一人の少年が立っていた。ユウリ。優しい金の髪と、少し気弱そうな目元。魔導書を胸に抱え、目を閉じる。深く息を吸って——声を発した。「炎よ、目覚めて……」「……」魔導書は何も反応しない。ページが風にめくられるだけ。魔法の兆しは、一片もなかった。しばし沈黙。やがて、近くにいた教官の男が眉をひそめて歩み寄ってくる。「またか。ユウリ、お前、読むときの“解釈”が甘すぎるんだよ」「……はい」「ただ読んだって魔法は出ねえ。“感じる”んだ、言葉を。魔導書は機械じゃない」ユウリはただ、小さくうなずいた。——わかってる。そんなことは、何度も言われてきた。彼の手の中にあるのは、古びた魔導書だった。他の子たちのように学校で与えられた本ではない。数年前、魔法事故で命を落とした親友が残した、世界に一冊だけの魔導書。ページの端は焦げ、ところどころ文字がにじんで読めない。それでもユウリは、この本だけは手放せなかった。「……また、咲かなかったな」小さく呟いた声は、誰の耳にも届かなかった。少年の周囲では今日も、魔法の花が軽やかに咲き誇っていた。夜の静けさが広がる部屋の隅、ユウリは一人、灯の消えた魔導書を膝に置いていた。ページを指でなぞる。焼け焦げた跡の先には、もう読めなくなった詩文の断片だけが残っていた。「……これ、何て書いてあったっけな」問いかけは、当然誰にも返されない。けれどユウリの脳裏には、あの日の光景がはっきりと浮かんでいた。あいつは笑っていた。魔法の訓練中、みんなの前で堂々と詩を読み上げ、綺麗に咲かせた花を見て、「どうだ」と胸を張っていた。ユウリは、そんな親友の背を少しだけ羨ましく思いながら、心から尊敬していた。でも、それは一瞬で終わった。読み間違い。魔導書の暴走。封印魔法の不発。真っ白な花が咲いた瞬間、それは爆ぜた。誰も対処できなかった。ユウリは、ただその場に立ち尽くしていた。何もでき
last updateLast Updated : 2025-07-27
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花紋者という異物

夜の森を駆け抜ける足音だけが、静寂を切り裂いていた。ユウリは息を殺し、草をかき分け、ただ前へと走っていた。胸にはあの魔導書。誰にも渡さない、それだけは決めていた。背後からは複数の足音。規則的な隊列、魔力の気配、まちがいなく“追ってくる者たち”のものだった。「非登録花紋者、確認。対象は十五歳程度の少年。詩による雷系魔法を所持」森に響くのは、冷たく訓練された声だった。行政魔術監視隊──国家が花紋者を管理・登録するための部隊。咲いたばかりのユウリの力は、彼らにとって“未申告の危険魔法”に他ならなかった。「待ってくれ、俺は……!」木立の中で振り返り、声を上げる。けれど返事はなかった。代わりに飛んできたのは、拘束結界の詩。「《停止命句・五連鎖》!」魔法が編まれる音と共に、青白い鎖がユウリの足元に巻きついた。詩を読む暇もない。感情が暴れた。「やめろっ……!」反射的に魔導書が開く。ページが光り、言葉にならない言葉が弾けた。咲いたのは、不安定な雷の花。形を保てずに軌道が逸れ、周囲の木々を焼き払った。「制御が……できないっ……!」ユウリは自分の手に怯えながら、それでも逃げ続けた。誰かを助けるために咲いたはずの花が、今は誰かを傷つけかけている。「これが……花紋者ってやつかよ……」そのときだった。森の奥から、まったく別の魔力の気配が広がった。やわらかく、けれど澄んだ感触。次の瞬間、淡い光が放たれ、追跡隊の足元に結界の花が咲く。「……ここから先は、通さないわ」静かな声が、闇を貫いた。光が咲いた。それは攻撃でも防御でもなく、ただ“拒む”ための魔法だった。追跡部隊の足元に展開された半透明の結界が、静かにその場の動きを止める。「詩結界……これは、正式な構文……?」隊の一人が驚きに息を呑む。彼らが使う術式とはまるで系統が違う、上位詩文だった。「退いて。これ以上は許可されていない追撃行為になるわよ」声がした方を振り返る。そこには、白衣のような上着を羽織った少女が立っていた。銀髪が月明かりに照らされ、瞳は淡い青。その胸元には、はっきりと花紋が浮かんでいた。「あなた……花紋者……?」「国家登録済の、医療補助任務担当よ。コードは西部第七区所属、セリア=ノルン。ちゃんと名乗ったわよね?」隊員たちは顔を見合わせると、無言で退いた。国家登録の花
last updateLast Updated : 2025-07-27
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咲かない言葉も誰かとなら

朝靄が森の端を覆っていた。鳥たちの声が遠くで響き、風が枝葉を揺らす。昨日までの騒がしさが嘘のように静かだった。ユウリは小さな道を、セリアと並んで歩いていた。互いに無理に話すこともせず、魔導書だけが二人の共通点のように肩に寄り添っていた。「ねえ、ユウリ」セリアが前を向いたまま言った。「あなたの旅の目的、本当に“死をほどく魔法”なの?」「……うん」「誰かを、生き返らせたいんだね」「いや……もう遅いのはわかってる。でも、読めなかった言葉があったんだ。あのとき、何も言えなかった。だから……」ユウリは足元の土を見ながら言葉を選んだ。「せめて、読めるようになりたい。“伝えられなかった想い”ってやつを」セリアは小さく笑ってうなずいた。「それなら、いい旅になるわ。私も似たようなものよ。ずっと昔、“読まなかった言葉”があるの。怖くて、逃げたの」彼女の声に、一瞬だけ寂しさが混じった気がした。けれどそれ以上は聞かず、ユウリも無理に探らなかった。二人が向かっているのは、“詩の標”と呼ばれる場所。この世界に点在する、魔法図書館の痕跡。かつて“分館”とされていた場所にだけ現れる、特別な記録の石碑。「詩の標には、今はもう読めない古い魔導詩が刻まれているらしいわ。 でも、花紋者なら“触れるだけで意味が流れ込む”って噂もあるの」「……それ、本当なのかな」「確かめに行くのよ、これから」セリアがふわっと笑った。その笑顔を見て、ユウリは少しだけ気を抜いたように息を吐く。不安はまだあった。けれど、昨日までの“独りの旅”とは明らかに違う。言葉を交わせる誰かが隣にいるというだけで、足取りは少しだけ軽かった。森の道を進みながら、ユウリは何度も魔導書を開いていた。ページは風に揺れ、詩文はそこに確かに在る。けれど何度読み上げても、魔法は咲かなかった。「《還雷の詩・第二節》……」言葉に出す。感情を込める。意識を集中する。それでも光は灯らない。音もなく、ただ沈黙が残るだけだった。セリアが横で足を止め、少しだけ首をかしげた。「少し焦ってない? 魔法って、無理やり咲かせるものじゃないから」「昨日は……ちゃんと咲いたんだ。セリアと一緒に」「うん。でもあれは“共鳴”だった。言葉と想いが一瞬だけ重なったから、咲いたんだよ」セリアは足元の草を撫でるようにしゃがみ込
last updateLast Updated : 2025-08-01
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読めない魔法と、語らない少年

足元の草がざらりと鳴った。森の奥深く、そこは明らかに“何かが違う”空間だった。風の流れは不規則で、葉擦れの音も不自然に間延びしている。空気そのものがねじれているような感覚——それが“詩の干渉領域”。「この先……普通の地形じゃないかもしれない」セリアが立ち止まり、周囲を見渡す。彼女の魔導書のページが、一枚だけふわりと浮き上がった。文字がにじみ、読めないほどに歪んでいる。「詩が……乱れてる?」「うん。“咲かれなかった詩”や、“読まれなかった記録”が沈んだ場所に近いと、こうなることがあるの。空間そのものが“未読の言葉”に引きずられて、現実が揺らぐのよ」ユウリも自分の魔導書を開く。すると、一ページが勝手にめくられ、そこに奇妙な詩文が浮かび上がった。それは詩というにはあまりに未完成だった。単語の羅列、断片的な韻、途中で終わった言葉たち。けれどその断片が、なぜか心に引っかかる。「これ……なんだろう。俺の記憶じゃないのに、懐かしい感じがする」「それ、“記録反応”かもね。誰かの“読めなかった言葉”が、この空間を通して共鳴してるのかもしれない」そう言い終わるか終わらないかのうちに、空気が揺れた。草の色が一瞬だけ褪せ、空が白く反転する。景色が砂のように崩れ、別の何かへと塗り替わる。幻覚——そう呼ぶにはあまりに生々しい。“何かの記憶”を、無理やり見せられているかのような強制力がそこにはあった。「っ……ユウリ、目を閉じて!」セリアがとっさに詠唱を始める。癒光の詩が空間を包み、歪みを押し戻していく。ユウリは目を閉じながら、ただ一つの“気配”を感じていた。——誰かが、いる。それは、森の奥から流れてきた。言葉のない、けれど確かに“呼ばれている”ような、そんな感覚。「……誰かが、読まれるのを待ってる」ユウリの声に、セリアがそっと魔導書を閉じた。そして二人は、言葉なき呼び声に導かれるように、森の奥へと足を踏み入れた。森の奥は、不自然なほど静かだった。風も止み、木々のざわめきさえ途絶えている。そこに立っていたのは、ひとりの少年だった。年齢はユウリより少し下に見える。灰色の髪は短く整えられ、瞳はどこか虚ろ。身なりはぼろぼろで、手には魔導書らしきものは見当たらない。「……人?」ユウリがつぶやいた瞬間、少年の背後に何かが浮かび上
last updateLast Updated : 2025-08-03
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言葉を拒む村

丘を越えた先に、その村はあった。森に囲まれた小さな集落。けれど、その静けさは自然の穏やかさではなく、不自然な沈黙に包まれていた。「……なんか、変だな」ユウリがつぶやいた。村の中には人の気配がある。家の窓から人影が見え、洗濯物が風に揺れている。けれど、誰ひとりとして声を発しようとしない。こちらに気づいても、目を逸らし、足早に家へと戻っていく。「歓迎されてない、ってことかな」セリアが苦笑気味に言うが、笑いはすぐに消える。村全体が、まるで“言葉そのもの”を恐れているようだった。「……こんにちは」ユウリが勇気を出して声をかけてみる。近くにいた老女がびくりと肩を震わせた。そして、恐る恐る口を開きかけたその瞬間——ズキン、と頭に鋭い痛みが走った。「……っ!」ユウリは頭を押さえて膝をつく。直後、セリアも顔をしかめてその場にしゃがみ込んだ。「い、今のは……何?」「わからない……けど、声を出した途端に……!」老女は何も言わず、申し訳なさそうな目をして、ただ頭を下げると足早に去っていった。「もしかして……言葉に反応する“呪い”?」「可能性はあるね。詩の影響を受けた結界かも」二人は言葉を交わすのをやめ、ジェスチャーで合図を送りながら村を歩き出す。村の中央には、大きな大木が立っていた。根元には石造りの台座があり、その上に古びた本が封印されている。本は鎖で縛られ、ページは風でめくれぬよう押さえつけられていた。ただそこにあるだけで、周囲の空気が重く、圧し掛かるような圧力を放っている。「……あれが、この村を縛ってる“詩”の正体かもしれない」ユウリが無言でうなずく。声を発すれば痛みが走る。けれど、魔導書を読むには、言葉が必要だった。沈黙の村に、ふたりの旅人は深く足を踏み入れていく。セリアがゆっくりと台座に近づいた。古びた魔導書は、錆びた鎖と重々しい鉄の枷で封じられている。表紙は黒ずんでいたが、中央に刻まれた文様だけがわずかに光を放っていた。“詩の結界”その言葉が、セリアの脳裏をよぎった。彼女は慎重に手を伸ばし、表紙の縁に指先を触れる。その瞬間——風が止まった。次の瞬間、激しい魔力のうねりが村全体に広がる。大木の根元から広がるように、薄く透明な膜が走り、村全体を覆う結界が再活性化した。ユウリの喉に、鋭い痛みが走っ
last updateLast Updated : 2025-08-04
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咲かない花と、黒衣の詩人

村を離れてすぐ、ユウリは何度かトアに話しかけてみた。「疲れてない?」「歩けるか?」彼女は声こそまだ弱いが、こくん、と小さく頷いて返す。その仕草だけでも、彼女がこの旅に“自分の意思”でついて来ていることが伝わった。「言葉、ゆっくりでいい。焦らなくて大丈夫だから」そう言いながら、ユウリは懐から取り出したノートを手渡した。白紙のページに、ひらがなで「た」「お」「は」などの簡単な音を書き、筆談を促す。「……ありが、と」ぎこちないが、トアは確かに言葉を口にした。その顔には微かに笑みが浮かび、ユウリもセリアも自然と笑顔になる。しばらく歩いた後、小川のほとりで休憩を取る。そのとき、ふとユウリが訊いた。「なあ、トア……お前の花紋、どうしてそんなに……?」彼女の左手にある“花紋”は、他の者とは明らかに違っていた。円形の中に花弁が広がるような模様。だがその一部は黒く焦げたように染まり、欠けている。花が咲きかけて、途中で止まったような印象だった。トアはうつむいたまま、そっと自分の手を握りしめた。そして一言、ぽつりとつぶやいた。「……こわれた、の」それ以上は言えない。言葉が続かないのではなく、心がそこで止まっている。それだけで、何があったかを理解するには充分だった。「壊れた、って……花紋って、そんなふうになるもんじゃないだろ?」セリアが眉をひそめる。「普通はね。花紋は魂に刻まれる“詩の根”だから。破損なんて、聞いたことない」ユウリは黙ったまま、トアの花紋を見つめた。壊れた花紋。咲きかけの詩。彼女は“何か”を失ったことで、その花を止めてしまったのかもしれない。けれどそれでも——彼女は、旅に出ることを選んだ。その決意が、何よりも強く、美しかった。森の抜け道を歩いていたそのときだった。風が止まり、鳥の声も消える。空間がひと息、沈黙を呑みこんだ。「……来る」セリアが即座に立ち止まり、魔導書を構える。その前方、木々の間から現れたのは、黒衣の男だった。長い外套に顔のほとんどを隠す深いフード。手には本すら持たず、ただ無言で立っている。「名を……名乗る気はないのか?」ユウリが問うと、男は笑った。いや、“声”が響いたのは確かだが、口は一度も動いていなかった。《名に意味はない。語る言葉こそ、力だ》その“声”が放たれた瞬間、
last updateLast Updated : 2025-08-05
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読むなかれ、咲くなかれ

霧の深い山間を抜け、谷底へと続く崖道を降りた先。そこに、“それ”は眠っていた。断崖の地肌に埋もれるように作られた巨大な石の門。苔に覆われ、風化した魔導装置の名残だけが、その場の異質さを語っている。だが、ユウリたちの前に現れた門は、ただの遺跡ではなかった。「これが……分館……?」ユウリの声は自然と低くなる。トアの魔導書に導かれ、辿り着いた先。そこには確かに、かつて“魔法図書館の外縁”として存在した、封印された研究施設の痕跡があった。門の中央には、閉ざされた魔導書のレリーフがはめ込まれている。けれど表紙に記された文字は擦れており、かすかに浮かぶ花紋だけが光を湛えていた。「反応するのは……詩の刻まれた花紋だけ、かもしれない」セリアがそっとつぶやく。ユウリが言葉を返す前に、トアが一歩前へ出た。彼女の左手に刻まれた“壊れた花紋”が、光の揺らぎとともに脈動をはじめる。無言のまま、そっとその手を門へと伸ばす。ぴたり。指先が触れた瞬間、花紋の光が不安定に揺れた。門の魔力もまた、わずかに波打つ。だが、何も起こらなかった。風が止まり、鳥の声さえ遠のいた空間で、ただ、沈黙だけが残った。「……ダメか」ユウリがぼそりとつぶやく。トアは目を伏せ、小さく肩を落とした。彼女の花紋は、確かに反応を示した。けれど、“咲かなかった”。セリアが眉をひそめる。「……壊れた花紋では、鍵にならない。まだ早い、のかもしれない」ユウリが歩み寄り、トアの隣に立つ。自分の左手を見つめ、そっと力を込めると、花紋が光を放った。彼の花紋は、トアのように欠けてはいない。けれど、まだすべてが開いているわけでもない。未完成の光が、門へと向かって伸びていく。次の瞬間——重い石が軋むような音とともに、門が微かに震えた。魔導書のレリーフが割れるように左右へ開き、封印された空気が外へと流れ出す。「開いた……!」だが、扉の奥から流れ出てきたのは、古びた本の匂いではなかった。言葉にならない、沈黙の気配。空間そのものが“読むな”と警告しているような、異常な静寂だった。ユウリはごくりと喉を鳴らし、一歩、門の内へと足を踏み入れた。ユウリが門をくぐった瞬間、空気の質が変わった。それは温度でも湿度でもない。“読む”という行為そのものが、空間に拒絶されているような違和感。足を踏み出
last updateLast Updated : 2025-08-06
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黒頁の牙

詩の獣は、音もなく空間を満たしていく。最初に感じたのは、言葉の匂いだった。古びた紙の香りではない。燃え残った詩文と、湿った墨の気配が混じり合い、嗅いだだけで胸の奥にざらつきが残るような、そんな気配。ユウリが一歩踏み出した瞬間、獣の体が揺れた。その皮膚にはびっしりと詩文が刻まれている。まるで、誰かが何百、何千という詩を“書き捨てていった”かのように。目も口も持たないその顔の中心には、黒い円——未詩の花が、開きかけたまま凍りついていた。「……あれが、“咲かなかった詩”の成れの果て」セリアが呆然とつぶやいた。それは魔法というより、呪いだった。魔導書の構造すら無視して咲き続ける、“読み手を持たなかった詩”。詩の獣は、腕のような触手を伸ばすと、空気にひとつの詩を放った。目に見える文字列が、空間に焼き付けられる。まるで天に浮かぶ黒い書。それを読んだ——いや、見ただけで、ユウリの頭が揺れた。「うっ……!」意味が、勝手に流れ込んでくる。言葉の意味、構文、詩の解釈。それらが一斉に脳へと押し寄せ、思考の回路を塗りつぶしていく。「読むな! 見るなユウリ!」セリアが叫んだ。だが、すでに視界には詩の痕跡が焼きついていた。“読む”ことが本能であるこの世界において、“読むな”という行為は、目を閉じても避けられない。次の瞬間、地面が裂けた。詩が“咲いた”。まるで爆発のように、花弁にも似た文字が空間に拡がる。壁を穿ち、空気を裂き、風を沈黙させる黒い花。ユウリが身を引こうとしたそのとき、トアが彼を抱き寄せて転倒した。直後、彼らの背後をかすめて、詩の花が咲き砕いた岩が吹き飛んだ。「……っ、ありがとう」「読むと、喰われる……わたし、あれ、知ってる」トアの声は震えていた。彼女の記憶に、あの獣が刻まれている。けれど思い出せない。過去が、読めない詩文のように心の奥に封じられている。「また、来た……」その言葉の意味を、ユウリはまだ知らなかった。詩の獣が咲かせるのは、言葉の罠だった。目に映るだけで、意味が流れ込んでくる。詠唱も、魔導構造も超えた、“読む”という衝動そのものに干渉する暴力。「意味が……脳に、勝手に……っ!」ユウリが額を押さえ、膝をついた。彼の魔導書がページを開いたまま震えている。そこに刻まれた詩文が、読み取れな
last updateLast Updated : 2025-08-07
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言葉の残響

夜明け前、空がまだ青く眠っている頃。ユウリは目を覚ました。昨夜までの疲れが体に残っているはずなのに、不思議と意識は冴えていた。原因は、枕元に置いた小さな黒い紙片——分館で手に入れた黒頁の欠片だ。指先で触れる。ひやりとした感触のあと、視界の奥に一瞬だけ文字が浮かんだ。——“花は欠けても、咲く”短い詩の断片。意味をつかむ前に、その言葉は霧のように消える。「……なんだ、今の」呟いた瞬間、隣で眠っていたトアが身じろぎをした。そして——彼女の胸元に刻まれた花紋が、淡く光を帯びた。「……ユウリ?」まだ半分夢の中のような声。だが光は確かに、欠けた花弁の縁から脈動していた。その様子に気づいたセリアが、寝袋から顔を出す。「今、反応した……それ、黒頁に触れたときでしょ」ユウリはうなずく。「トアの花紋と繋がってるみたいだ」トアは不安そうに自分の胸元を押さえる。「痛くはないけど……あたたかい。呼ばれてる、みたい」光はまるで脈拍のように強弱を繰り返す。そして、ほんのわずかに方角を示すかのように揺れていた。「これは……導きだな」セリアは立ち上がり、周囲の地図を広げる。「でも反応が安定しない。このまま追っていいのかは……」「行くべきだ」ユウリは即答した。「これは偶然じゃない。何かに繋がってる」トアは短く息を吸い込み、ゆっくりとうなずいた。「なら……一緒に行く。怖いけど、知りたい」夜明けの光が地平から差し込み、黒頁の欠片に反射する。その輝きは、まるで次の物語の頁を開こうとしているようだった。黒頁の欠片が示す光の揺らぎを頼りに、三人は森を抜けた。朝靄の中、鳥の鳴き声が遠くで響く。しかし歩を進めるごとに、その音も少しずつ遠のいていく。代わりに耳に届き始めたのは——かすかな囁き。誰かがすぐそばで、本を読むような、淡い声。「……聞こえるか?」ユウリが振り返ると、トアもセリアも頷いた。「文字を読む音……でも、人じゃない」セリアは耳を澄ませたまま歩く速度を落とす。やがて木々が途切れ、目の前に荒れた丘陵地帯が広がった。大地はひび割れ、ところどころに灰色の花びらが積もっている。その花びらは乾いているのに、風が吹くたび微かに震え、何かをささやいているようだった。「……言葉の残響」セリアが低く呟く。「昔、誰かが読んだ詩が、
last updateLast Updated : 2025-08-08
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沈黙を破る花

夜明けの光が、草原の端に淡く降りていた。谷を抜けた風はまだ冷たく、靴底に触れる土は、夜露をたっぷりと含んでいる。ユウリは歩きながら、胸の奥に沈む黒頁の欠片をそっと指先で確かめた。指に伝わるひやりとした感触は、ただの紙のはずなのに、時折脈を打つように微かに震えている。横を歩くセリアが、ちらと彼を見た。「……まだ反応してる?」「うん。谷で拾ったときより弱まってはいるけど、完全には消えてない」ユウリはそう答え、視線を前方に移す。遠く、朝靄の向こうに広がるのは、草原と岩場が混じった荒涼地帯。そこだけ色彩が抜けたように見え、風も乾いている。その中央、緩やかな丘が盛り上がり、その上に黒く細い影が二つ並んでいた。木か、岩か、それとも——。「“二つの影が交わる丘”……黒頁の詩が示したのは、あそこかもしれない」ユウリの言葉に、セリアが頷く。だがその瞬間、後方から小さな吐息が聞こえた。トアが立ち止まり、両手で耳を押さえている。「……ざわめき、が……聞こえる」掠れた声が、風に溶けた。ユウリも耳を澄ます。はじめは何もなかったが、やがて微かな低音が、地面を通して響いてくる。人の声とも、風音とも違う。——詩が眠りから身じろぎする音。「黙詩派の仕業かもしれない」セリアは険しい表情になり、魔導書を抱き直す。「このざわめき、聞き続けると“読む前に意味を奪われる”わ。以前、報告書で読んだことがある」ユウリは唇を噛んだ。前回の詩の獣戦で掴んだ手応え——読むよりも語ることで未詩に抗える感覚——が脳裏をよぎる。しかしセリアの警告は重い。「敵は学習してくる」。ならば、今度は語ることすら許さない仕掛けを持ってくるはずだ。丘の黒い影が、朝靄の中でゆっくりと形を変えていく。まるで、誰かがこちらを待っているかのように。その輪郭が重なった瞬間、ざわめきが一段と大きくなった。「行こう。ここで立ち止まっても、向こうから来る」ユウリは短く告げ、歩みを早めた。背後で、トアの欠けた花紋が淡く光を放ち、その光が丘の方向を指し示していた。丘の頂には、きっと新たな頁が待っている——だが同時に、言葉を奪う敵もまた、そこにいる。丘を登るにつれ、草の色は徐々に褪せ、足元の土は灰色を帯びていった。風は弱まり、代わりにあの低いざわめきが耳を侵食するように強まっていく。まるで地面その
last updateLast Updated : 2025-08-09
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