LOGIN紗夜を失って10年。直哉は40歳になっていた。ある商談の最中、突然、倒れた。検査の結果は、末期の骨のがんだった。医師は診療記録を見てから、こめかみに白髪の交じる男へ目を向けた。目には生気がない。医師はため息をついた。これも、運命なのだろうか。「もう助からないことは、わかっています」直哉は穏やかだった。どこか、ほっとしたようにさえ見えた。「妻と、妻の父と、同じ病気ですね」医師はうなずいた。「それなら、よかった」かすかに笑った。その笑顔には、ほんの少し、本当のぬくもりがあった。「ようやく、あの人の痛みがどれほどだったのか、身をもってわかるんですから」積極的な治療は受けず、痛みを和らげる治療だけを選んだ。会社の仕事を引き継がせ、財産の大半を基金に入れ、もっと多くの骨のがん患者を助けるために使った。けれど、自分の病は進むに任せた。彼にとって、死は終わりではなかった。紗夜に、会いに行くことだった。家へ戻ると、夫婦の寝室のベッドを医療用ベッドに替えさせ、そこに横になった。傍らには、紗夜の骨壺とラブレターを置いた。毎日、その言葉を読み返して、ようやく眠れた。痛みは日ごとに強くなった。骨の奥から広がり、全身をのみ込んでいく。冷や汗が流れ、歯がかちかちと鳴っても、決して声を上げなかった。ただ、骨壺を強く抱きしめた。痛い。こんなにも痛い。紗夜、あのとき、どれほど痛かったんだろう。本当に、死んで当然だ。こんなに苦しんでいた君を、俺はまだ傷つけていた。君の涙も、痛みも、絶望も。ようやく、わかったよ。意識がかすむと、いつも20歳の紗夜が見えた。白いワンピースを着て、陽の光の中で手を振っている。まぶしいほど、笑っていた。そちらへ行こうとしても、見えない壁に遮られた。「紗夜……待って……今度は俺が、痛みも絶望も引き受けるから」かすかな声でつぶやいた。今度こそ、もう少し速く歩けば追いつける。紗夜、もう置いていかないでくれ。……最後の午後は、よく晴れていた。介護スタッフに支えてもらい、窓辺のロッキングチェアへ移った。紗夜の骨壺を抱えたまま、一番上の手紙を手に取った。紙はもろくなっていたが、文字には若々しい勢いがあった。【紗夜、今日、虹を見た。真っ先に、写真を撮って君に見せたいと
莉奈は逮捕され、刑務所へ送られた。罪を恐れて逃げたものの、直哉にはかなわず、数日で連れ戻された。逃亡したことも響き、刑期はさらに2年長くなった。手錠をかけられた瞬間に、ようやく思い知った。恵まれた日々は終わったのだ。これから待っているのは、終わりの見えない地獄だった。……5年後、直哉は35歳になっていた。仕事では以前にも増して冷酷になり、両親とはとうに縁を切っていた。暮らしているのは、紗夜との短い結婚生活を送った、あの家だけだった。家具も配置も変えていない。紗夜が読みかけていた本は、今もソファの同じ場所で開かれていた。再婚は、生涯しなかった。そばに女性を置くことも、誰かと浮ついた関係を持つこともなかった。周囲は知っていた。篠宮社長の心には、若くして亡くなった忘れられない女性がいる。その話には、触れてはいけない。それが、決して逃れられない悪夢なのだと知る人は、ごくわずかだった。直哉は、口数の少ない男になった。毎年、紗夜の命日と誕生日には、数日間、姿を消した。骨壺を抱え、恋人だった頃に訪れた場所へ行った。大学の湖畔、初めてデートした屋台通り、プロポーズをした山の上……骨壺に向かって、この何年かの出来事を話した。どれほど会いたいかを話した。今日、街で後ろ姿の似た女性を見かけ、いくつもの通りを越えて追いかけた末に、人違いだとわかったことも。話しているうちに、顔は涙でぬれていった。体は、すっかり弱っていた。長年の深酒と不規則な食事で、胃も肝臓も傷んでいた。医師の警告にも耳を貸さない。ゆっくりと自分を死なせようとしているようだった。胃からの出血で入院し、一命を取り留めたとき、秘書が目を赤くして言った。「社長。こんなお姿を天国の奥様がご覧になったら、心配なさいます」直哉は、虚ろな目で窓の外を見ていた。「見てくれるわけがない。俺を憎んでいるだろうから」「奥様は、もうお許しになっているかもしれません」「許してもらう必要なんかない」泣き顔よりもつらそうな笑みが浮かんだ。「俺は、覚えていればいい。どれほどひどい男だったか、どれだけ彼女に償わなきゃいけないか。安らぐ資格なんて、一生ないってことを」莉奈は服役3年目に、苦痛と以前の暮らしとの落差に耐えきれず、歯ブラシを使って自ら命を絶とうとしたことがあった
直哉が目を覚ましたのは病院だった。手の甲には、まだ点滴の針が刺さっていた。記憶が戻るなり、勢いよく身を起こし、針を抜き取った。「どこにいる?紗夜はどこだ!」充血した目で叫んでいると、秘書と弁護士が、重い表情で入ってきた。「奥様のご遺体は、病院の霊安室に安置されています。警察は自殺と判断しました」秘書が声を落とした。「ご遺族の署名が必要で……」「俺が夫だ!俺が署名する!家に連れて帰る!」無理にベッドから下りようとする直哉に、弁護士が書類の入った封筒を差し出した。「社長。その前に、知っていただかなければならないことがあります」会場を出る前、秘書に調べるよう命じたものだった。震える手で開くと、調査報告書、写真、銀行の取引明細、診療記録の写しが入っていた。言い逃れのできない証拠が、書類の中にそろっていた。莉奈がどのようにメッセージを握りつぶし、紗夜を詐欺師に見せる証拠を偽造したのか。紗夜の父の本当の診療記録と、苦労しながら娘を育ててきた日々。そして、紗夜が診断を受けてからの、すべての診療記録。そこに記される医師の見通しは、回を追うごとに厳しくなっていた。1枚読むたびに血の気が引いていった。最後には、紙を持っていることさえ難しかった。「水瀬、莉奈」その名を、歯の間から絞り出した。声に、抑えきれない憎しみがこもった。「訴えてくれ」かすれた声は、氷のように冷たかった。「あの女の信用も立場も、すべて失わせる。死んだほうがましだと思うほどに」秘書と弁護士が出ていくと、病室には直哉ひとりが残った。紗夜の診療記録を手に取り、「骨のがん、末期」という文字を指先でなぞった。息ができないほど、胸が痛んだ。スマホの非公開アルバムを開いた。パスコードは結婚記念日。そこには、紗夜に気づかれないように撮った写真があった。料理をする横顔。眠っている姿。陽の光の中で、自分に笑いかける顔。付き合っていた頃、ふざけて撮ったふたりの写真もあった。1枚ずつ見ていると、声もなく涙が落ちた。一生大切にすると、約束したのに。その約束を、破った。「ごめん……ごめん……」子供のように体を丸め、声を上げて泣いた。やがて立ち上がって顔を洗い、鏡の中のやつれきった男を見つめた。自信にあふれていた頃の直哉は、もう死ん
直哉はスマホの画面を見つめた。紗夜が送ってきた、あの言葉があった。【私も、お父さんと同じ骨のがんだと診断されたの】耳の奥が鳴っていた。あの日のことが、突然、鮮明によみがえった。莉奈の部屋にいた。彼のスマホを手にした彼女が、笑って言ったのだ。「紗夜さんが、またお金をねだってきたの?私が代わりに送っておくね」それから……何もなかった。紗夜が何を言っていたのか、ろくに読もうとさえしなかった。本当に、骨のがんなのか。けれど、莉奈が調べたはずでは……両親もずっと言っていた。あの女は裕福な男を狙い、あちこちで金をだまし取っている、と。最初は信じなかった。それでも、結婚した途端に父親が入院して、多額の手術代が必要になるなんて。そんなに都合のいい偶然があるのかと思った。頭が割れそうだった。誰を信じればいいのか、本当にわからなかった。ただ、ひとつだけわかっていた。紗夜を失うことだけは、耐えられない。震える指で、履歴をさかのぼった。びっしりと並ぶ送金メッセージ。その文字が目に刺さった。父が亡くなったと伝えてきた彼女に、自分は20,000円を送っていた。痛みを訴えたときも、心が壊れそうになったときも、助けを求めたときも。返っていたのは、いつだって送金だけだった。その操作をしていたのは、ほとんどの場合、莉奈だった。もし……紗夜が詐欺師ではなかったとしたら。莉奈は、俺のスマホとアカウントを使って、俺が一番愛する人を傷つけ続けていたのか。震えが止まらなくなった。胸の奥から湧き上がった恐怖が、手足の先まで広がっていく。「社長?」電話の向こうで、秘書が控えめに呼んだ。直哉は、もう限界だった。「市立第一病院の記録を調べてくれ。それと、莉奈のことも。今すぐだ!」声はかすれ、途切れた。ただ、怖くてたまらなかった。パーティー会場を飛び出した。背後で莉奈が慌てて呼び止めたが、振り返らなかった。車を飛ばし、古い市街地へ向かった。途中、いくつ赤信号を無視したのかさえわからなかった。位置情報が示していた、あの古い集合住宅。階段を駆け上がり、考える間もなくドアを蹴り開けた。室内はきちんと片づいていて、かすかに埃のにおいがした。寝室の扉は閉まっていた。ここまで来て、急に足がすくんだ。入れない。心臓が、信じられな
あの家には帰りたくなくて、父と暮らした実家へ戻った。スマホが震えた。直哉から、3年ぶりに文字のメッセージが届いた。【帰ってきて、莉奈におしるこを作って謝れ】長いこと見つめていると、少し笑いたくなった。ようやく電話でも話せた。彼の声には、いら立ちがにじんでいた。「聞いてるのか?莉奈が、君の作ったものを食べたいって……」「直哉」私は静かな声で遮った。「私が死んだら、悲しい?」何か月も胸につかえていた問いを、ようやく口にできた。向こうが数秒、静かになった。それから、急に声が大きくなった。「最近、いったい何を血迷ってるんだ?誰に教わって、そんな縁起でもないことばかり言う?いくら欲しいのか、はっきり言えばいいだろ。払わないなんて言ってない!今どこにいる?すぐ行く」結局、答えはもらえなかった。でも、もうどうでもよかった。私は電話を切った。子供の頃、父と身を寄せ合って眠った木のベッドに横になった。古いブリキの缶から、昔使っていたスマホを取り出す。そこには、ふたりが20代になったばかりの頃のやり取りが残っていた。【虹を見た。今日なら告白、うまくいくかな】【誰に告白するの?】【松原紗夜(まつばら さや)にね。こっちの気持ちに気づくまで、地球をひと回りできそうなくらい時間のかかる、不思議な子】脚の骨から始まった激痛は、もう全身に広がっていた。体の内側を、いくつもの手で引き裂かれるようだった。笑いたい。泣きたい。叫びたい。声を上げたい。それなのに、何の音も出てこない。目尻が、ほんの少しぬれただけだった。8000件を超えるメッセージを、黙って最後まで読んだ。そして、すべて削除した。残った力で睡眠薬と痛み止めを飲んだ。意識が重くなり、体の痛みが薄れていく。何か月ぶりだろう。ようやく心から笑えた。私は目を閉じた。直哉。もう、楽になれるよ。あなたを恨んではいない。今度こそ、本当に愛している人と結婚できますように。……切れた電話を見つめながら、直哉はいら立っていた。無意識に、位置情報を確かめるアプリを開いた。付き合っていた頃、自分が甘えて紗夜に入れてもらったものだ。あの頃は、しょっちゅう確かめていた。紗夜を詐欺師だと信じるようになってからは、一度も開いていなかった。赤い点
顔から、さらに血の気が引いていった。私の体が弱くて失ってしまった、あの子。父親である直哉は、その存在さえ一度も信じてくれなかった。妊娠を示す検査結果を、うれしくてたまらない気持ちで差し出したときも、彼の目には嘲りしかなかった。流産した日、私は泣きながら何度も電話をかけ、何度もメッセージを送った。返ってきたのは、数えきれない送金メッセージと、莉奈のこんな言葉だった。「ごめんなさい、紗夜さん。直哉くん、今、私に飲み物を用意してくれてるの」あのとき、本当に何かが壊れた。部屋中の物をたたき壊し、婚姻届受理証明書を引き裂いて、泣き叫びながら直哉を問い詰めた。「どうして返事をくれないの?なんで、お金ばっかり送ってくるの?どういうつもりなの!」彼は笑った。「欲しかったのはこれだろ。何、足りないのか?」苦しくて、自分の髪を引っ張った。頭皮が痛むほど引っ張ってもやめられず、涙で顔がぐしゃぐしゃになった。「そんなに私が憎いなら、どうして妊娠させたの?どうして離婚してくれないの?」それでも彼は、笑うだけだった。「紗夜、すっかり役になりきってるな。自分までだますなよ」あの日を境に、私はあまり話さなくなった。……「お母さん、そんなに焦らなくても」直哉のおばが笑いながら、莉奈をちらりと見た。「この子に期待したって仕方ないわ。莉奈ちゃんのほうが頼りになるでしょう。丈夫そうだし、子供も産んでくれそうだもの」莉奈は頬を赤らめ、うつむいた。すると直哉が、不意に眉をひそめた。「変なこと言わないでくれ。莉奈のことは、ずっと妹みたいに思ってる」「はいはい、わかってるわ。妹みたいにかわいい恋人、ってことね」おばは口元を押さえて笑った。「子供の頃、莉奈ちゃんに書いたラブレター、まだ取ってあるのよ」「あの頃は、まだ子供だったから――」胃がむかつき、もう我慢できなかった。勢いよく立ち上がった拍子に、小皿を倒してしまった。ぱりん、と皿が割れた。その瞬間、全員が嫌悪の目を私に向けた。「ごめんなさい」声が震えた。よろめきながら玄関へ向かった。「紗夜!」直哉が険しい顔で、玄関まで追ってきた。「まともに歩くこともできないのか?また弱ってるふりかよ。本当に具合が悪いなら病院へ行けばいいだろ。何を無理し