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虹の果てまで、君を追う

虹の果てまで、君を追う

Par:  こぶたまんまんComplété
Langue: Japanese
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骨のがんは、もう末期だった。医師は私に、脚を切断する手術を受けるかと尋ねた。 息が詰まった。迷いに迷った末、夫の篠宮直哉(しのみや なおや)にメッセージを送った。 【脚を切断する手術で、1年延命できるんだって。私に受けてほしい?】 手術室に入る1分前、ようやくスマホが震えた。返ってきたのは、送金メッセージだった。この3年、私が何を送ってもそうだったように。 スマホを置き、黙り込むしかなかった。 結婚初夜に、1000万円を貸してほしいと頼んでから、彼は私を、友人たちの言う通りの「金目当ての女」だと決めつけている。 流産したときも、父の葬儀に来てほしいと頼んだときも、返ってきたのは送金だけだった。 半年前、私は遺伝性の骨のがんと診断された。遠くない将来、父と同じように、何本もの管につながれ、手足の一部を失った体でベッドに横たわり、死を待つことになる。 耐えきれず、泣きながら長い音声メッセージを97件送った。届いたのは、97件の送金メッセージだった。 そして今、本当に命をつなぐために脚を切ろうとしているのに、彼は幼なじみの水瀬莉奈(みなせ りな)とアイロンビーズを作っている。 莉奈の幸せそうなSNSの投稿と、画面を埋める祝福の言葉を見ながら、私は苦笑して点滴の針を抜いた。 直哉はかつて、憎しみを隠そうともせずに言った。私のような金にしか興味のない女のために莉奈との婚約を破棄したことが、人生で一番の後悔だと。 それなら今度こそ、後悔しないでね。

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Chapitre 1

第1話

針を抜くと、先端に血が一滴にじんだ。

看護師が駆け寄り、慌てて私の腕を押さえた。

「何をしてるんですか」

私は静かに笑いかけただけだった。

「すみません。手術をキャンセルしていただけますか」

すぐに呼ばれた医師は、長いこと黙っていた。やがて痛み止めを処方し、私を帰らせてくれた。

病室へ戻る途中、看護師が不満を漏らす声が聞こえた。

「三浦先生、命がかかってるんですよ!脚を切らなければ、がんが全身に広がって、1週間も生きられないのに」

1週間。

そんなに早く、楽になれるんだ。

主任医師の三浦修一(みうら しゅういち)先生が、苦く笑った。

「あの子の父親も、同じ病気で、あのベッドで亡くなったんだ。知っていたかい」

足が止まった。

「この半年、抗がん剤の治療に来るときは、いつもひとりだった。ほかの患者には、夜も付き添い、食事を食べさせたり体を拭いたりする家族がいる。あの子は痛みで丸まって震えていても、自分でナースコールを押すんだ。

夫は一度も来ていない。ある夜、あの子が電話をかけたら、出たのは別の女性だったらしい……」

先生の声が低くなった。

「運命なのかもしれないな」

手にした処方箋を握りしめる。爪が手のひらに食い込んだ。

そう。運命なのかもしれない。

骨のがんだとわかったとき、父はあんなに痛がっていたのに、私の手を握って笑っていた。

「紗夜、怖がらなくていい。お父さんなら大丈夫だから」

その父は、私の腕の中で息を引き取った。

父を救うために、新婚の夜、直哉に1000万円を貸してほしいと頼んだときもそうだった。彼の目に浮かんだ驚きと、傷ついたような表情を、今でも覚えている。

「紗夜(さや)。俺は君にとって、ただの金づるなのか?父さんも母さんも、友人も、莉奈まで、君は詐欺師だと言っていた。でも俺は信じなかった。

父さんに殴られて、病院に運ばれるときでさえ、君と結婚すると叫んでたんだぞ」

声はかすれ、目は赤く充血していた。

そんな反応をされるなんて、思ってもみなかった。たちまち涙が目にあふれた。

「違うの、直哉。お父さんが……」

「今日、結婚したばかりなんだぞ」

私の言葉を遮り、彼はネクタイを引き抜いて床に投げた。

「もう本性を現すつもりか?」

「直哉、お金は必ず何とかして返すから……

ううん、やっぱり借りない。自分で何とかする。だから、怒らないで……お願い」

彼はカードを私の顔にたたきつけ、こわばった口元をゆがめた。

「一度つかんだ金を、君が手放すわけないだろ。もう芝居はやめろよ。みんなの言うとおりだったな」

ドアをたたきつけるように閉めて、出ていった。

それが、私たちの新婚初夜だった。

リビングで午前4時まで待った末に現れたのは、莉奈だった。意識もないほど酔った直哉が、彼女に半身を預けている。玄関の明かりに照らされた首筋のキスマークが、痛いほど赤かった。

莉奈は、申し訳なさそうな、けれど何も悪くないと言いたげな笑みを浮かべた。

「紗夜さん、ごめんなさい。直哉くん、私が相手をしてあげたから、もうすっきりしたみたい。安心して休んでね」

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第1話
針を抜くと、先端に血が一滴にじんだ。看護師が駆け寄り、慌てて私の腕を押さえた。「何をしてるんですか」私は静かに笑いかけただけだった。「すみません。手術をキャンセルしていただけますか」すぐに呼ばれた医師は、長いこと黙っていた。やがて痛み止めを処方し、私を帰らせてくれた。病室へ戻る途中、看護師が不満を漏らす声が聞こえた。「三浦先生、命がかかってるんですよ!脚を切らなければ、がんが全身に広がって、1週間も生きられないのに」1週間。そんなに早く、楽になれるんだ。主任医師の三浦修一(みうら しゅういち)先生が、苦く笑った。「あの子の父親も、同じ病気で、あのベッドで亡くなったんだ。知っていたかい」足が止まった。「この半年、抗がん剤の治療に来るときは、いつもひとりだった。ほかの患者には、夜も付き添い、食事を食べさせたり体を拭いたりする家族がいる。あの子は痛みで丸まって震えていても、自分でナースコールを押すんだ。夫は一度も来ていない。ある夜、あの子が電話をかけたら、出たのは別の女性だったらしい……」先生の声が低くなった。「運命なのかもしれないな」手にした処方箋を握りしめる。爪が手のひらに食い込んだ。そう。運命なのかもしれない。骨のがんだとわかったとき、父はあんなに痛がっていたのに、私の手を握って笑っていた。「紗夜、怖がらなくていい。お父さんなら大丈夫だから」その父は、私の腕の中で息を引き取った。父を救うために、新婚の夜、直哉に1000万円を貸してほしいと頼んだときもそうだった。彼の目に浮かんだ驚きと、傷ついたような表情を、今でも覚えている。「紗夜(さや)。俺は君にとって、ただの金づるなのか?父さんも母さんも、友人も、莉奈まで、君は詐欺師だと言っていた。でも俺は信じなかった。父さんに殴られて、病院に運ばれるときでさえ、君と結婚すると叫んでたんだぞ」声はかすれ、目は赤く充血していた。そんな反応をされるなんて、思ってもみなかった。たちまち涙が目にあふれた。「違うの、直哉。お父さんが……」「今日、結婚したばかりなんだぞ」私の言葉を遮り、彼はネクタイを引き抜いて床に投げた。「もう本性を現すつもりか?」「直哉、お金は必ず何とかして返すから……ううん、やっぱり借りない。
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第2話
あの頃の私は、まだ若すぎた。どうすればいいのかわからず、ただ、感覚がなくなりそうなほど胸が痛かった。また誤解されるのが怖くて、彼のカードには手をつけられなかった。結局、その1000万円は彼の友人が「貸して」くれた。一晩、酒に付き合うことが条件だった。会員制のクラブで、私は胃から出血するほど飲まされた。夜明け前に迎えに来た直哉の顔は、青ざめていた。帰り道、彼はひと言も話さなかった。家に着いてから、ようやく怒りをぶつけてきた。「俺がもう少し遅かったら、どうなっていたかわかってるのか?そんなに金が大事か。恥ずかしくないのかよ!」浴びせられた言葉に、身の置き場がなかった。胃が痛い。それ以上に、心が冷えきっていた。その日から、「金目当て」「男にたかる女」というレッテルが、私から剥がれることはなかった。友人たちがからかっても、彼は否定しない。時には、一緒になって笑っていた。その後、父は持ちこたえられずに亡くなった。あの日、泣き崩れながら直哉に電話をかけた。何を話しているのか、自分でもわからなかった。会議中だった彼は、電話を切った。それでも音声メッセージを何件も送った。事情を説明し、苦しさを訴えた。ずいぶんたってから、送金メッセージが届いた。【送金がありました】画面には、20,000円。手の震えが止まらず、顔から血の気が引いていった。それ以来、私たちは書類の上では夫婦でも、暮らしの中では他人になった。彼はもう、私のメッセージには何ひとつ答えない。ただお金を送りつけ、私は恥知らずな金目当ての女なのだと、何度も突きつけてきた。それなのに不思議なことに、一度も離婚を口にしなかった。……薬局で薬を受け取り、家に帰った。部屋は冷えきっていた。脚の痛みが激しくなっていく。骨の奥から突き上げ、肉を貫くような痛みだった。震える手で痛み止めを取り出し、睡眠薬も2錠飲んだ。薬はすぐに効き始めた。意識がかすむ中で顔を上げると、壁に掛かった大きな結婚写真が目に入った。直哉は心から楽しそうに笑っていた。その瞳に映っていたのは、陽の光と私。ふたりが一番愛し合っていた頃に撮った写真だ。私の頬を両手で包んで軽くキスをし、彼は笑って言った。「紗夜。一生、大切にするから」一生。なんて軽い嘘だったんだろう。震える指で、トーク画
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第3話
目が覚めたのは、3日目の朝だった。ベッド脇のテーブルにあるスマホを、やっとの思いで手に取り、ロックを解除した。24時間以上眠っていたのに、アプリの通知が数件あるだけだった。直哉からの不在着信も、メッセージもない。トーク履歴は送金のところで止まったまま、何も言わずに私をあざ笑っていた。彼のSNSを開くと、10分前に数枚の写真が投稿されていた。まだ莉奈のマンションにいた。暖かな黄色い明かり。床一面に広がる色とりどりのアイロンビーズ。直哉はカーペットに座り、ピンセットを手にしていた。灯りの下で何かに集中する横顔は、とても穏やかで優しかった。【どこかの誰かが、完成するまで寝ないって。こだわりが強すぎるので、徹夜に付き合ってます】投稿の下には、共通の知人たちのいいねと、はやし立てるコメントが並んでいた。【ごちそうさま。見せつけてくれるね】【直哉って、こんなに気が長かったっけ?莉奈さん、すっかり手なずけたな】【もう早く一緒になっちゃいなよ。結婚式はいつ?】【こういうのが本当の愛だよね】莉奈が「アイロンビーズって面白そう」とひと言言えば、直哉は覚えている。道具をひと通り買いそろえ、いく晩も彼女の作業に付き合う。夜中に街の西側の店のおしるこが食べたいと言えば、街を大きく横切ってまで、車で買いに行った。彼女が風邪で熱を出せば、億単位の契約さえ後回しにして、一晩中ベッドのそばにいた。莉奈の過去の投稿をたどっていくと、恋の日記を開いているようだった。分厚いその日記は、かつて私のものでもあった。20歳の直哉も、19歳の私のためなら何も惜しまなかった。婚約を破棄して家を追い出されたときは、バイトを3つ掛け持ちして、ダイヤの指輪を買ってくれた。けれど今、画面を指で送り、写真を1枚ずつ見ていくうちに、気づいてしまった。いつからだろう。彼の薬指から、結婚指輪が消えていた。もう見ていられなかった。力が抜け、何も考えられなくなった。薬の効き目が薄れ、喉がからからだった。水が飲みたい。でも、痛くてベッドから下りられない。再び襲ってきた激痛が、痛み止めでようやく引いたところへ、直哉から電話がかかってきた。「今夜、実家で食事だ」いつもどおりの、冷たい声だった。私はしばらく黙ってから答えた。「体調が悪いの」向こうで、鼻で笑
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第4話
顔から、さらに血の気が引いていった。私の体が弱くて失ってしまった、あの子。父親である直哉は、その存在さえ一度も信じてくれなかった。妊娠を示す検査結果を、うれしくてたまらない気持ちで差し出したときも、彼の目には嘲りしかなかった。流産した日、私は泣きながら何度も電話をかけ、何度もメッセージを送った。返ってきたのは、数えきれない送金メッセージと、莉奈のこんな言葉だった。「ごめんなさい、紗夜さん。直哉くん、今、私に飲み物を用意してくれてるの」あのとき、本当に何かが壊れた。部屋中の物をたたき壊し、婚姻届受理証明書を引き裂いて、泣き叫びながら直哉を問い詰めた。「どうして返事をくれないの?なんで、お金ばっかり送ってくるの?どういうつもりなの!」彼は笑った。「欲しかったのはこれだろ。何、足りないのか?」苦しくて、自分の髪を引っ張った。頭皮が痛むほど引っ張ってもやめられず、涙で顔がぐしゃぐしゃになった。「そんなに私が憎いなら、どうして妊娠させたの?どうして離婚してくれないの?」それでも彼は、笑うだけだった。「紗夜、すっかり役になりきってるな。自分までだますなよ」あの日を境に、私はあまり話さなくなった。……「お母さん、そんなに焦らなくても」直哉のおばが笑いながら、莉奈をちらりと見た。「この子に期待したって仕方ないわ。莉奈ちゃんのほうが頼りになるでしょう。丈夫そうだし、子供も産んでくれそうだもの」莉奈は頬を赤らめ、うつむいた。すると直哉が、不意に眉をひそめた。「変なこと言わないでくれ。莉奈のことは、ずっと妹みたいに思ってる」「はいはい、わかってるわ。妹みたいにかわいい恋人、ってことね」おばは口元を押さえて笑った。「子供の頃、莉奈ちゃんに書いたラブレター、まだ取ってあるのよ」「あの頃は、まだ子供だったから――」胃がむかつき、もう我慢できなかった。勢いよく立ち上がった拍子に、小皿を倒してしまった。ぱりん、と皿が割れた。その瞬間、全員が嫌悪の目を私に向けた。「ごめんなさい」声が震えた。よろめきながら玄関へ向かった。「紗夜!」直哉が険しい顔で、玄関まで追ってきた。「まともに歩くこともできないのか?また弱ってるふりかよ。本当に具合が悪いなら病院へ行けばいいだろ。何を無理し
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第5話
あの家には帰りたくなくて、父と暮らした実家へ戻った。スマホが震えた。直哉から、3年ぶりに文字のメッセージが届いた。【帰ってきて、莉奈におしるこを作って謝れ】長いこと見つめていると、少し笑いたくなった。ようやく電話でも話せた。彼の声には、いら立ちがにじんでいた。「聞いてるのか?莉奈が、君の作ったものを食べたいって……」「直哉」私は静かな声で遮った。「私が死んだら、悲しい?」何か月も胸につかえていた問いを、ようやく口にできた。向こうが数秒、静かになった。それから、急に声が大きくなった。「最近、いったい何を血迷ってるんだ?誰に教わって、そんな縁起でもないことばかり言う?いくら欲しいのか、はっきり言えばいいだろ。払わないなんて言ってない!今どこにいる?すぐ行く」結局、答えはもらえなかった。でも、もうどうでもよかった。私は電話を切った。子供の頃、父と身を寄せ合って眠った木のベッドに横になった。古いブリキの缶から、昔使っていたスマホを取り出す。そこには、ふたりが20代になったばかりの頃のやり取りが残っていた。【虹を見た。今日なら告白、うまくいくかな】【誰に告白するの?】【松原紗夜(まつばら さや)にね。こっちの気持ちに気づくまで、地球をひと回りできそうなくらい時間のかかる、不思議な子】脚の骨から始まった激痛は、もう全身に広がっていた。体の内側を、いくつもの手で引き裂かれるようだった。笑いたい。泣きたい。叫びたい。声を上げたい。それなのに、何の音も出てこない。目尻が、ほんの少しぬれただけだった。8000件を超えるメッセージを、黙って最後まで読んだ。そして、すべて削除した。残った力で睡眠薬と痛み止めを飲んだ。意識が重くなり、体の痛みが薄れていく。何か月ぶりだろう。ようやく心から笑えた。私は目を閉じた。直哉。もう、楽になれるよ。あなたを恨んではいない。今度こそ、本当に愛している人と結婚できますように。……切れた電話を見つめながら、直哉はいら立っていた。無意識に、位置情報を確かめるアプリを開いた。付き合っていた頃、自分が甘えて紗夜に入れてもらったものだ。あの頃は、しょっちゅう確かめていた。紗夜を詐欺師だと信じるようになってからは、一度も開いていなかった。赤い点
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第6話
直哉はスマホの画面を見つめた。紗夜が送ってきた、あの言葉があった。【私も、お父さんと同じ骨のがんだと診断されたの】耳の奥が鳴っていた。あの日のことが、突然、鮮明によみがえった。莉奈の部屋にいた。彼のスマホを手にした彼女が、笑って言ったのだ。「紗夜さんが、またお金をねだってきたの?私が代わりに送っておくね」それから……何もなかった。紗夜が何を言っていたのか、ろくに読もうとさえしなかった。本当に、骨のがんなのか。けれど、莉奈が調べたはずでは……両親もずっと言っていた。あの女は裕福な男を狙い、あちこちで金をだまし取っている、と。最初は信じなかった。それでも、結婚した途端に父親が入院して、多額の手術代が必要になるなんて。そんなに都合のいい偶然があるのかと思った。頭が割れそうだった。誰を信じればいいのか、本当にわからなかった。ただ、ひとつだけわかっていた。紗夜を失うことだけは、耐えられない。震える指で、履歴をさかのぼった。びっしりと並ぶ送金メッセージ。その文字が目に刺さった。父が亡くなったと伝えてきた彼女に、自分は20,000円を送っていた。痛みを訴えたときも、心が壊れそうになったときも、助けを求めたときも。返っていたのは、いつだって送金だけだった。その操作をしていたのは、ほとんどの場合、莉奈だった。もし……紗夜が詐欺師ではなかったとしたら。莉奈は、俺のスマホとアカウントを使って、俺が一番愛する人を傷つけ続けていたのか。震えが止まらなくなった。胸の奥から湧き上がった恐怖が、手足の先まで広がっていく。「社長?」電話の向こうで、秘書が控えめに呼んだ。直哉は、もう限界だった。「市立第一病院の記録を調べてくれ。それと、莉奈のことも。今すぐだ!」声はかすれ、途切れた。ただ、怖くてたまらなかった。パーティー会場を飛び出した。背後で莉奈が慌てて呼び止めたが、振り返らなかった。車を飛ばし、古い市街地へ向かった。途中、いくつ赤信号を無視したのかさえわからなかった。位置情報が示していた、あの古い集合住宅。階段を駆け上がり、考える間もなくドアを蹴り開けた。室内はきちんと片づいていて、かすかに埃のにおいがした。寝室の扉は閉まっていた。ここまで来て、急に足がすくんだ。入れない。心臓が、信じられな
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第7話
直哉が目を覚ましたのは病院だった。手の甲には、まだ点滴の針が刺さっていた。記憶が戻るなり、勢いよく身を起こし、針を抜き取った。「どこにいる?紗夜はどこだ!」充血した目で叫んでいると、秘書と弁護士が、重い表情で入ってきた。「奥様のご遺体は、病院の霊安室に安置されています。警察は自殺と判断しました」秘書が声を落とした。「ご遺族の署名が必要で……」「俺が夫だ!俺が署名する!家に連れて帰る!」無理にベッドから下りようとする直哉に、弁護士が書類の入った封筒を差し出した。「社長。その前に、知っていただかなければならないことがあります」会場を出る前、秘書に調べるよう命じたものだった。震える手で開くと、調査報告書、写真、銀行の取引明細、診療記録の写しが入っていた。言い逃れのできない証拠が、書類の中にそろっていた。莉奈がどのようにメッセージを握りつぶし、紗夜を詐欺師に見せる証拠を偽造したのか。紗夜の父の本当の診療記録と、苦労しながら娘を育ててきた日々。そして、紗夜が診断を受けてからの、すべての診療記録。そこに記される医師の見通しは、回を追うごとに厳しくなっていた。1枚読むたびに血の気が引いていった。最後には、紙を持っていることさえ難しかった。「水瀬、莉奈」その名を、歯の間から絞り出した。声に、抑えきれない憎しみがこもった。「訴えてくれ」かすれた声は、氷のように冷たかった。「あの女の信用も立場も、すべて失わせる。死んだほうがましだと思うほどに」秘書と弁護士が出ていくと、病室には直哉ひとりが残った。紗夜の診療記録を手に取り、「骨のがん、末期」という文字を指先でなぞった。息ができないほど、胸が痛んだ。スマホの非公開アルバムを開いた。パスコードは結婚記念日。そこには、紗夜に気づかれないように撮った写真があった。料理をする横顔。眠っている姿。陽の光の中で、自分に笑いかける顔。付き合っていた頃、ふざけて撮ったふたりの写真もあった。1枚ずつ見ていると、声もなく涙が落ちた。一生大切にすると、約束したのに。その約束を、破った。「ごめん……ごめん……」子供のように体を丸め、声を上げて泣いた。やがて立ち上がって顔を洗い、鏡の中のやつれきった男を見つめた。自信にあふれていた頃の直哉は、もう死ん
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第8話
莉奈は逮捕され、刑務所へ送られた。罪を恐れて逃げたものの、直哉にはかなわず、数日で連れ戻された。逃亡したことも響き、刑期はさらに2年長くなった。手錠をかけられた瞬間に、ようやく思い知った。恵まれた日々は終わったのだ。これから待っているのは、終わりの見えない地獄だった。……5年後、直哉は35歳になっていた。仕事では以前にも増して冷酷になり、両親とはとうに縁を切っていた。暮らしているのは、紗夜との短い結婚生活を送った、あの家だけだった。家具も配置も変えていない。紗夜が読みかけていた本は、今もソファの同じ場所で開かれていた。再婚は、生涯しなかった。そばに女性を置くことも、誰かと浮ついた関係を持つこともなかった。周囲は知っていた。篠宮社長の心には、若くして亡くなった忘れられない女性がいる。その話には、触れてはいけない。それが、決して逃れられない悪夢なのだと知る人は、ごくわずかだった。直哉は、口数の少ない男になった。毎年、紗夜の命日と誕生日には、数日間、姿を消した。骨壺を抱え、恋人だった頃に訪れた場所へ行った。大学の湖畔、初めてデートした屋台通り、プロポーズをした山の上……骨壺に向かって、この何年かの出来事を話した。どれほど会いたいかを話した。今日、街で後ろ姿の似た女性を見かけ、いくつもの通りを越えて追いかけた末に、人違いだとわかったことも。話しているうちに、顔は涙でぬれていった。体は、すっかり弱っていた。長年の深酒と不規則な食事で、胃も肝臓も傷んでいた。医師の警告にも耳を貸さない。ゆっくりと自分を死なせようとしているようだった。胃からの出血で入院し、一命を取り留めたとき、秘書が目を赤くして言った。「社長。こんなお姿を天国の奥様がご覧になったら、心配なさいます」直哉は、虚ろな目で窓の外を見ていた。「見てくれるわけがない。俺を憎んでいるだろうから」「奥様は、もうお許しになっているかもしれません」「許してもらう必要なんかない」泣き顔よりもつらそうな笑みが浮かんだ。「俺は、覚えていればいい。どれほどひどい男だったか、どれだけ彼女に償わなきゃいけないか。安らぐ資格なんて、一生ないってことを」莉奈は服役3年目に、苦痛と以前の暮らしとの落差に耐えきれず、歯ブラシを使って自ら命を絶とうとしたことがあった
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第9話
紗夜を失って10年。直哉は40歳になっていた。ある商談の最中、突然、倒れた。検査の結果は、末期の骨のがんだった。医師は診療記録を見てから、こめかみに白髪の交じる男へ目を向けた。目には生気がない。医師はため息をついた。これも、運命なのだろうか。「もう助からないことは、わかっています」直哉は穏やかだった。どこか、ほっとしたようにさえ見えた。「妻と、妻の父と、同じ病気ですね」医師はうなずいた。「それなら、よかった」かすかに笑った。その笑顔には、ほんの少し、本当のぬくもりがあった。「ようやく、あの人の痛みがどれほどだったのか、身をもってわかるんですから」積極的な治療は受けず、痛みを和らげる治療だけを選んだ。会社の仕事を引き継がせ、財産の大半を基金に入れ、もっと多くの骨のがん患者を助けるために使った。けれど、自分の病は進むに任せた。彼にとって、死は終わりではなかった。紗夜に、会いに行くことだった。家へ戻ると、夫婦の寝室のベッドを医療用ベッドに替えさせ、そこに横になった。傍らには、紗夜の骨壺とラブレターを置いた。毎日、その言葉を読み返して、ようやく眠れた。痛みは日ごとに強くなった。骨の奥から広がり、全身をのみ込んでいく。冷や汗が流れ、歯がかちかちと鳴っても、決して声を上げなかった。ただ、骨壺を強く抱きしめた。痛い。こんなにも痛い。紗夜、あのとき、どれほど痛かったんだろう。本当に、死んで当然だ。こんなに苦しんでいた君を、俺はまだ傷つけていた。君の涙も、痛みも、絶望も。ようやく、わかったよ。意識がかすむと、いつも20歳の紗夜が見えた。白いワンピースを着て、陽の光の中で手を振っている。まぶしいほど、笑っていた。そちらへ行こうとしても、見えない壁に遮られた。「紗夜……待って……今度は俺が、痛みも絶望も引き受けるから」かすかな声でつぶやいた。今度こそ、もう少し速く歩けば追いつける。紗夜、もう置いていかないでくれ。……最後の午後は、よく晴れていた。介護スタッフに支えてもらい、窓辺のロッキングチェアへ移った。紗夜の骨壺を抱えたまま、一番上の手紙を手に取った。紙はもろくなっていたが、文字には若々しい勢いがあった。【紗夜、今日、虹を見た。真っ先に、写真を撮って君に見せたいと
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