Se connecter骨のがんは、もう末期だった。医師は私に、脚を切断する手術を受けるかと尋ねた。 息が詰まった。迷いに迷った末、夫の篠宮直哉(しのみや なおや)にメッセージを送った。 【脚を切断する手術で、1年延命できるんだって。私に受けてほしい?】 手術室に入る1分前、ようやくスマホが震えた。返ってきたのは、送金メッセージだった。この3年、私が何を送ってもそうだったように。 スマホを置き、黙り込むしかなかった。 結婚初夜に、1000万円を貸してほしいと頼んでから、彼は私を、友人たちの言う通りの「金目当ての女」だと決めつけている。 流産したときも、父の葬儀に来てほしいと頼んだときも、返ってきたのは送金だけだった。 半年前、私は遺伝性の骨のがんと診断された。遠くない将来、父と同じように、何本もの管につながれ、手足の一部を失った体でベッドに横たわり、死を待つことになる。 耐えきれず、泣きながら長い音声メッセージを97件送った。届いたのは、97件の送金メッセージだった。 そして今、本当に命をつなぐために脚を切ろうとしているのに、彼は幼なじみの水瀬莉奈(みなせ りな)とアイロンビーズを作っている。 莉奈の幸せそうなSNSの投稿と、画面を埋める祝福の言葉を見ながら、私は苦笑して点滴の針を抜いた。 直哉はかつて、憎しみを隠そうともせずに言った。私のような金にしか興味のない女のために莉奈との婚約を破棄したことが、人生で一番の後悔だと。 それなら今度こそ、後悔しないでね。
Voir plus紗夜を失って10年。直哉は40歳になっていた。ある商談の最中、突然、倒れた。検査の結果は、末期の骨のがんだった。医師は診療記録を見てから、こめかみに白髪の交じる男へ目を向けた。目には生気がない。医師はため息をついた。これも、運命なのだろうか。「もう助からないことは、わかっています」直哉は穏やかだった。どこか、ほっとしたようにさえ見えた。「妻と、妻の父と、同じ病気ですね」医師はうなずいた。「それなら、よかった」かすかに笑った。その笑顔には、ほんの少し、本当のぬくもりがあった。「ようやく、あの人の痛みがどれほどだったのか、身をもってわかるんですから」積極的な治療は受けず、痛みを和らげる治療だけを選んだ。会社の仕事を引き継がせ、財産の大半を基金に入れ、もっと多くの骨のがん患者を助けるために使った。けれど、自分の病は進むに任せた。彼にとって、死は終わりではなかった。紗夜に、会いに行くことだった。家へ戻ると、夫婦の寝室のベッドを医療用ベッドに替えさせ、そこに横になった。傍らには、紗夜の骨壺とラブレターを置いた。毎日、その言葉を読み返して、ようやく眠れた。痛みは日ごとに強くなった。骨の奥から広がり、全身をのみ込んでいく。冷や汗が流れ、歯がかちかちと鳴っても、決して声を上げなかった。ただ、骨壺を強く抱きしめた。痛い。こんなにも痛い。紗夜、あのとき、どれほど痛かったんだろう。本当に、死んで当然だ。こんなに苦しんでいた君を、俺はまだ傷つけていた。君の涙も、痛みも、絶望も。ようやく、わかったよ。意識がかすむと、いつも20歳の紗夜が見えた。白いワンピースを着て、陽の光の中で手を振っている。まぶしいほど、笑っていた。そちらへ行こうとしても、見えない壁に遮られた。「紗夜……待って……今度は俺が、痛みも絶望も引き受けるから」かすかな声でつぶやいた。今度こそ、もう少し速く歩けば追いつける。紗夜、もう置いていかないでくれ。……最後の午後は、よく晴れていた。介護スタッフに支えてもらい、窓辺のロッキングチェアへ移った。紗夜の骨壺を抱えたまま、一番上の手紙を手に取った。紙はもろくなっていたが、文字には若々しい勢いがあった。【紗夜、今日、虹を見た。真っ先に、写真を撮って君に見せたいと
莉奈は逮捕され、刑務所へ送られた。罪を恐れて逃げたものの、直哉にはかなわず、数日で連れ戻された。逃亡したことも響き、刑期はさらに2年長くなった。手錠をかけられた瞬間に、ようやく思い知った。恵まれた日々は終わったのだ。これから待っているのは、終わりの見えない地獄だった。……5年後、直哉は35歳になっていた。仕事では以前にも増して冷酷になり、両親とはとうに縁を切っていた。暮らしているのは、紗夜との短い結婚生活を送った、あの家だけだった。家具も配置も変えていない。紗夜が読みかけていた本は、今もソファの同じ場所で開かれていた。再婚は、生涯しなかった。そばに女性を置くことも、誰かと浮ついた関係を持つこともなかった。周囲は知っていた。篠宮社長の心には、若くして亡くなった忘れられない女性がいる。その話には、触れてはいけない。それが、決して逃れられない悪夢なのだと知る人は、ごくわずかだった。直哉は、口数の少ない男になった。毎年、紗夜の命日と誕生日には、数日間、姿を消した。骨壺を抱え、恋人だった頃に訪れた場所へ行った。大学の湖畔、初めてデートした屋台通り、プロポーズをした山の上……骨壺に向かって、この何年かの出来事を話した。どれほど会いたいかを話した。今日、街で後ろ姿の似た女性を見かけ、いくつもの通りを越えて追いかけた末に、人違いだとわかったことも。話しているうちに、顔は涙でぬれていった。体は、すっかり弱っていた。長年の深酒と不規則な食事で、胃も肝臓も傷んでいた。医師の警告にも耳を貸さない。ゆっくりと自分を死なせようとしているようだった。胃からの出血で入院し、一命を取り留めたとき、秘書が目を赤くして言った。「社長。こんなお姿を天国の奥様がご覧になったら、心配なさいます」直哉は、虚ろな目で窓の外を見ていた。「見てくれるわけがない。俺を憎んでいるだろうから」「奥様は、もうお許しになっているかもしれません」「許してもらう必要なんかない」泣き顔よりもつらそうな笑みが浮かんだ。「俺は、覚えていればいい。どれほどひどい男だったか、どれだけ彼女に償わなきゃいけないか。安らぐ資格なんて、一生ないってことを」莉奈は服役3年目に、苦痛と以前の暮らしとの落差に耐えきれず、歯ブラシを使って自ら命を絶とうとしたことがあった
直哉が目を覚ましたのは病院だった。手の甲には、まだ点滴の針が刺さっていた。記憶が戻るなり、勢いよく身を起こし、針を抜き取った。「どこにいる?紗夜はどこだ!」充血した目で叫んでいると、秘書と弁護士が、重い表情で入ってきた。「奥様のご遺体は、病院の霊安室に安置されています。警察は自殺と判断しました」秘書が声を落とした。「ご遺族の署名が必要で……」「俺が夫だ!俺が署名する!家に連れて帰る!」無理にベッドから下りようとする直哉に、弁護士が書類の入った封筒を差し出した。「社長。その前に、知っていただかなければならないことがあります」会場を出る前、秘書に調べるよう命じたものだった。震える手で開くと、調査報告書、写真、銀行の取引明細、診療記録の写しが入っていた。言い逃れのできない証拠が、書類の中にそろっていた。莉奈がどのようにメッセージを握りつぶし、紗夜を詐欺師に見せる証拠を偽造したのか。紗夜の父の本当の診療記録と、苦労しながら娘を育ててきた日々。そして、紗夜が診断を受けてからの、すべての診療記録。そこに記される医師の見通しは、回を追うごとに厳しくなっていた。1枚読むたびに血の気が引いていった。最後には、紙を持っていることさえ難しかった。「水瀬、莉奈」その名を、歯の間から絞り出した。声に、抑えきれない憎しみがこもった。「訴えてくれ」かすれた声は、氷のように冷たかった。「あの女の信用も立場も、すべて失わせる。死んだほうがましだと思うほどに」秘書と弁護士が出ていくと、病室には直哉ひとりが残った。紗夜の診療記録を手に取り、「骨のがん、末期」という文字を指先でなぞった。息ができないほど、胸が痛んだ。スマホの非公開アルバムを開いた。パスコードは結婚記念日。そこには、紗夜に気づかれないように撮った写真があった。料理をする横顔。眠っている姿。陽の光の中で、自分に笑いかける顔。付き合っていた頃、ふざけて撮ったふたりの写真もあった。1枚ずつ見ていると、声もなく涙が落ちた。一生大切にすると、約束したのに。その約束を、破った。「ごめん……ごめん……」子供のように体を丸め、声を上げて泣いた。やがて立ち上がって顔を洗い、鏡の中のやつれきった男を見つめた。自信にあふれていた頃の直哉は、もう死ん
直哉はスマホの画面を見つめた。紗夜が送ってきた、あの言葉があった。【私も、お父さんと同じ骨のがんだと診断されたの】耳の奥が鳴っていた。あの日のことが、突然、鮮明によみがえった。莉奈の部屋にいた。彼のスマホを手にした彼女が、笑って言ったのだ。「紗夜さんが、またお金をねだってきたの?私が代わりに送っておくね」それから……何もなかった。紗夜が何を言っていたのか、ろくに読もうとさえしなかった。本当に、骨のがんなのか。けれど、莉奈が調べたはずでは……両親もずっと言っていた。あの女は裕福な男を狙い、あちこちで金をだまし取っている、と。最初は信じなかった。それでも、結婚した途端に父親が入院して、多額の手術代が必要になるなんて。そんなに都合のいい偶然があるのかと思った。頭が割れそうだった。誰を信じればいいのか、本当にわからなかった。ただ、ひとつだけわかっていた。紗夜を失うことだけは、耐えられない。震える指で、履歴をさかのぼった。びっしりと並ぶ送金メッセージ。その文字が目に刺さった。父が亡くなったと伝えてきた彼女に、自分は20,000円を送っていた。痛みを訴えたときも、心が壊れそうになったときも、助けを求めたときも。返っていたのは、いつだって送金だけだった。その操作をしていたのは、ほとんどの場合、莉奈だった。もし……紗夜が詐欺師ではなかったとしたら。莉奈は、俺のスマホとアカウントを使って、俺が一番愛する人を傷つけ続けていたのか。震えが止まらなくなった。胸の奥から湧き上がった恐怖が、手足の先まで広がっていく。「社長?」電話の向こうで、秘書が控えめに呼んだ。直哉は、もう限界だった。「市立第一病院の記録を調べてくれ。それと、莉奈のことも。今すぐだ!」声はかすれ、途切れた。ただ、怖くてたまらなかった。パーティー会場を飛び出した。背後で莉奈が慌てて呼び止めたが、振り返らなかった。車を飛ばし、古い市街地へ向かった。途中、いくつ赤信号を無視したのかさえわからなかった。位置情報が示していた、あの古い集合住宅。階段を駆け上がり、考える間もなくドアを蹴り開けた。室内はきちんと片づいていて、かすかに埃のにおいがした。寝室の扉は閉まっていた。ここまで来て、急に足がすくんだ。入れない。心臓が、信じられな