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列車のお好きな主様との旅路はハイケンスのセレナーデにのせて。
オルゴールの音色を小耳に授かってから到着の案内放送が始まります。 切り揃えた黒髪がゆらりゆらりと横に振れる列車の客室。手を止めて諦めた物言いをクリスカさんはしました。しかしそれが、私の紡いだ口をこじ開けます。「——私は、行ってみたいです。クリスカさんの隣で色んな景色を見たい。いずれは貴方様にお仕えする使用人になりたいです。吸血鬼の主様に仕えることが私の夢です……一度は折れましたけど、私はクリスカ様のお傍でずっと」 思わず漏れた本望。クリスカさんは立ち上がり傍へ寄って、「なら、決まりね」 そう言って、ノートパソコンを消して私の手を取りました。「決まりなのですか」 「行ってみたいんでしょう。旅に」 その通りなのですが、私には返せるものは何もない。だから正直に言います。「私が返せるものなんてありませんよ」「あるじゃない。その身体に」 「身体……?」 「なぜ顔を赤くするのよ」 「だって、私の身体って申しましたので」 そりゃ、身体を求めるなんて言われたら赤くなります。「あぁそういう事。勘違いしないでよ。私はあなたの血で贖ってと言っているの。年下の幼気な少女を抱く趣味なんてないわよ?」 「はいごめんなさい」 「よろしい」 嘆息されながらも、お許しをいただけました。私は視線が外れているのを良い事に微笑みます。「これがひと段落したら、出発するわよ」 「もう、ですか!?」 「思い立ったが吉日。もうチケットも取っちゃってるから」 薄青の切符を背のまま誇らしげに掲げていました。いつ取られたんでしょうか。未来でも見据えているような行動力です。 私は立ち上がりました。門出は唐突ですが、それもまた旅の楽しみ方というものなのか、今の私にはわかりません。 私物の入ったトランクを開けて、私は荷物を入れ替えました。いらない私物は乱雑に放り投げて、数日分の着替えと、カメラと、正装でもある給仕服、棚の中にいつしか主となる方にと用意した紅茶の茶葉のボトルを詰め込んで、私は吸血鬼と旅に出ることにしました。
明くる空は眠って逃して、眼が覚めたのは夕方でした。 目線の霞を払うように瞬きしていると、差し込む蛍光灯の光が目に飛び込みます。身体は以前よりも軽くて、腕に力を入れると少しだけ痛みました。 そして、目の前にいたあのお方の素顔もなく、慌てていつの間にか掛けられていた布団を剥ぎました。「あら、おはよう」 まず耳にした透き通る肉声。もう決して聞き間違えることのない声に私は眼を向けます。 私の机を拝借して、端麗な紅い眼光を据える体躯は見るからに少女のそのお方は、見紛いませんクリスカさんです。蒼白の指でキーボードをさぞ忙しなく打ち込む彼女にまるで付け入る隙がなく、たじろいでいます。 ですが、何をしているのでしょうか。ちゃっかり私のパソコンを使っているようにも見えるのですが。「五月蠅かった?」 「い、いえ。むしろ心地良いです」 ぼんやりする思考回路と腑抜けた私の声音にクリスカさんがタイプに励む手を止めました。「あっ寝るなぁ!」 「ごめんにゃひゃい」 「まったく」 背中に腕を回してくれて、倒れかけた私は仕方ないので起きることにしました。 するとクリスカさんは眼を眇めて私の首筋を見つめます。「……なんでしょう?」 「ちょっと痛そうだったから、どうなのかなって」 その痛そうな傷を作ったのは昨晩のクリスカさんですよと、頭の中で一言。「痛みはないんですが、熱を帯びていてちょっと落ち着かないです。腫れてしまっているような感覚です」 と素直に告げました。 クリスカさんの介護を糧に自力で立ち上がって、窓際の椅子に腰かけます。彼女も仕事の続きを始めながら、まるで医者のように体調を伺ってきました。「吸血の量は?」 「身体に異常はありませんし、大丈夫です。それと」 「それと?」 「クリスカ様の吸血を拒んだことを謝りたくて……申し訳ないです」 「些細な事よ。気負うことはないわ」 些細と一蹴。トラウマも克服する努力をしなければいけませんね。「この仕事が片付いたら、話の続きをしましょう」 「話の続き?」 「あなたの進退よ。私に付き従うか否かのね」 「あ……はい」 気まずく眼を細めて反らす私。考えは未だ纏まっていません。 きっと、父が差し伸ばした庇護で暮らしていければ、不自由のないことは自明です。二度と病むことのない世界は、理想です。 仮に
私は声に出して言いました。素直な感想を、回りくどい言葉などで誤魔化さず、クリスカさんに言いました。 とても、とても痛かった。目の前で血を吐き捨てられたりもした。屋敷を去るときの軽蔑するような目にも刺された。苦しくて、悔しくて、どうしようもないと諦め続けた。家の名を傷つけて家族にも迷惑を沢山掛けてしまった。 ついには家の使用人になることを受け入れてしまった。今更、謝られたってとも思った。 込み上げてくるのはそんな痛みの数々。灰黒の流星を見た時からクリスカさんはその様に思われていたと、背負うことを決めたのだと知ります。 吸血鬼からしたら、ほんの一瞬の出来事だったはず。たった一人の、落ちぶれ廃れていくだけの使用人だった私の凄絶な痛みをこのお方は一人で引き受けようとしてくれていたのです。 凍り付いてしまいそうな肌がとても暖かく感じられました。呼吸も乱れて泣きじゃくる私を離して、目配せをします。「辛い思いをずっとさせ続けたこと、吸血鬼の長だった者達の一員としてあなたにお詫びしたい」 「ちょっと変ですよ」 「変?」 「確かにいっぱい酷いことをされました。でもクリスカ様は、クリスカ様です。私に謝る道理なんてどこにもない」 けれど、彼女が背負う必要なんてどこにもありません。恨んでもいません。だから、私を連れ出したときの笑顔を、吸血鬼には似つかわしくない燦然と輝く笑みを濁さないでください。 懇願を言葉に出力しようと口を動かした時、声が被ります。「クリスカ様」 「光莉」 重なった地点で押し黙ると譲り合いが始まって、結局はクリスカさんが喋ることになり、黙々と耳を傾けました。「もし、もしさ。私の旅のお供になってほしいって頼んだら、あなたは引き受けてくれるかしら?」 言葉の真意はそのままで理解するのにそれほど時間は掛かりませんでした。けれど、私は即答できず、目線を彷徨わせます。「こっちを向いて」 「えっと、あの、ひゃっ」 ベッドが私の身体を優しく受け止めす。「どうなの? 私の隣に来るか、それとも、この屋敷の壁を見るだけの人生を送るか」 「考えさせ」 「ダメ。私にはあまり残ってる時間がないの。ここで決めなさい」 迫られてしまい、さらにおどおどと目まぐるしく視線が迷い、沈黙を作り出してしまいました。 何もできない私を連れて、あなたになんのメリッ
ベットに一頻り八つ当たりして落ち着いた私は天井をただひたすら静止画のようにぼーっと見つめながら、下の階で対談する父とクリスカさんの事を想像していました。 その内容は恐らく、私の処遇。お互い数時間とはいえ、あんな立ち振る舞いをされては業腹でしょう。それも明確な上下関係が存在する吸血鬼と使用人だった少女の間柄です。言い訳は愚か、弁明の余地もなくこの家にすら居られなくなってしまう。 大袈裟のように聞こえますが、最後の最後で家の名にも泥を塗ってしまったのです。事の重大さに眼をやると、眼が潤んできました。 気が付いたのか、部屋で私の世話をこなす使用人がベットの縁へ静かにハンカチを置いてくれました。恥ずかしさで思わず袖で拭ってしまいましたが、頭を上げてその背中に軽い会釈をして感謝します。 すると、扉を控え目にノックする濁音が微かに聞こえました。「お嬢様、お客様がお見えです」 そう声を掛けられても、再び体重を預けた私はもう微動だにしませんでした。思考の迷宮に迷い込んだままで、扉が開いて中に入ってくる影にも、その人物の言葉で部屋から出ていく使用人の雑音にも、気が付きません。 そして、白色の光をその相貌で経たれた時、驚いてまた悲鳴を上げてしまいます。「のわぁぁぁぁぁ!」 あまりに唐突すぎるクリスカさんの登場に私は片手で布団を握りしめて壁際に後退りします。「ちょっと、驚きすぎよ」 「ど、どどどど、どうされたのですか?!」 「どうって、もうすぐ朝でしょう? だから眠たくて」 「ベットとか棺なら他の部屋に空いている箇所がありますので! 今、私めが案内致しますから」 飛び起きて部屋着のまま、連れ出そうとします。 しかし、それを断ち切ってしまうように、クリスカさんはさっきまで私が寝ていたベットへ倒れこんでしまったのです。「んにゃは。眠たくて立ってでも眠れてしまいそう。アザラシみたいに」 「あの、起きててください」 このまま爆睡されてしまっては、私一人で運べるかどうか。家の使用人に手伝ってもらうのも、今なら自分で出来ることをわざわざ頼むのは気が引けて、部屋から離れるのを止め、踵を返して傍へ寄ります。 そして彼女の冷たい身体に触れようとした瞬間、腕を掴まれるとベットへと引き戻されました。「びっくりしたでしょう?」 言葉が出ません。視界が派手に横回転した
「かつてこの家から出た者に若い頃の血は恐ろしく不味かったと書かれていた人間がいたと記述されていたの。けれどその続きにはなぜか、天寿を全うするその日まで仕えたと追記してあったわ。なぜだかわかるかしら?」 「恋慕やそれに似た感情がお互いを引き寄せたとかでは、ないのでしょうか?」 「数百年前のお話だけど、当時から我が家は縁談に関してだけは厳しいわよ? ましてや、当主の権限が一家一族の全てを掌握していたから、現代の吸血鬼一族ほど、本人の意思を尊重するなんて弛みはないし、駆け落ちシンデレラストーリーなんてしようものなら追放よ?」 ロマンチックなのは結構。さすがに命までは取らないが、戒律を乱そうものなら容赦はしない。アルタリィ家の家訓とも言うべき文化だが、現在は時代の流れで本人の意思も汲んでくれるようにはなったそうです。 真っ向から切り捨てると、紅茶で一呼吸を置いてクリスカさんはその答えを示します。「吸血を重ねるたびに血が変化し、主だけが感じられる魔性の味になったそうなの。特異体質なんて一時は家族でも話題になったけれど、数百年間の時が経つにつれて、偶然だったと誰もが思っていた」「特異体質……?」 「後に原因不明の突然変異と結論づけられた。その再来とも呼ぶべきかしら」 目尻を鋭く伸ばして睨むように士郎を見つめたクリスカさん。曇り始める表情にすかさず反応します。「何か心配事でも?」 「いえ……こう申し上げるのは大変失礼に当たると存じますが……確証はあるのでしょうか?」 「確証? あぁ、そうね」 考える素振りを見せ、口角を上げました。そんなの端から分かり切っていることのように。「あるわけないじゃない」 士郎が咽ます。唐突な不意打ちに慌てて呼吸を整えます。「何かおかしいことでも?」 「いえ、てっきり光莉が伝記に当てはまるような体質なのだと、確信を得ているものと推測していたもので」 「可能性の話よ。境遇もその使用人と似ているし」 でなければ、二年間も吸血鬼に棄てられ続ける理由が見当たりません。そもそも吸血鬼と契りを交わした使用人の血は配偶しようともその遺伝を消滅させます。吸血鬼の唾液には血液の変容を促す作用があるのも吸血鬼の間では周知の事実で、その法則に倣えば彼女の血も不味いはずがないと、クリスカさんは長年身内が培った研究成果を根拠に考えを固めました
その頃、下の階の応接間では、クリスカさんと父『七見 士郎』が正対して紅茶を前に、当事者抜きで談笑をしていました。 暖色の落ち着いた照明に彩られる静かな高級感を放つ一室。革張りのアンティーク調のソファーにクリスカさんは座り、秘書も兼ねる壮年の使用人がすかさず紅茶を注いでテーブルに出します。 「こちらへいらっしゃるとお電話で頂いた時は驚きましたが、光莉と一緒だったとは」 「あの子とは偶々よ。高速列車のホームで声も漏らさずに泣いているのだもの。気になるじゃない?」 「娘がお見苦しい場面を。その寛大な慈悲に感謝を申し上げます」 座ったまま一礼し、士郎はティーカップを取りました。澄んだ茜色のフレーバーティーは柑橘系の爽やかな香りを部屋に漂わせていて、クリスカさんも釣られて紅茶に口をつけました。 「先ほどの様子を見るに、道中数々のご無礼があったと見受けられるのですが、どうかお許し願いたい」 カタンとティーカップが受け皿に置かれて、クリスカさんはキョトンと士郎を見つめました。身震いして小さく笑ったのはその直後の事です。まるで思い違いを面白がっているように顔を背けて、堪えるように丸めた身体を真正面に直します。 「無礼なんてとんでもない。突然連れ出したのは私ですし、名乗らなかったのは事実。顔が本家の使用人に空似していたから、躊躇ったというのもあるのだけど」 「左様でございますか」 力強い視線がクリスカさんから返り、士郎もホッとした様子で肩の力を少しだけ抜きました。 「無礼と言えば、あなた達の方がよっぽど目に余るわ」 それを悟ってか、クリスカさんの放った一言が二人の空気を凍らせます。 「……僭越ながら、理由をお伺いしても?」 「光莉の瞳、死んでいたわ。あそこまで娘を放置するなんて、常軌を逸している、としか言えないもの」 「事情を伺われたのですね」 「数多の星が輝く空の下で洗いざらい、ね」 「追い出され続ければ、傷だらけにもなりましょう。身の程を知り、大人になればいずれ自ずと道を開いてくれると、信じて好きなようにさせてはいましたが」 刹那、クリスカさんの表情が強張りました。 「大人になる——ね。フフッ」 「何かございますか?」 「そしたら私は、まだ子供と言うことになるわよ?」 「クリスカ様が子供?」







