Masuk賢吾の指示を待っていたように、障子にスッと人影が映る。いつの間にか廊下に控えていたようだが、賢吾との行為に夢中になっていた和彦はもちろん気づかなかった。
廊下に人がいたというのも意外だったが、姿を見せた人物は、さらに意外だった。 丁寧な動作で障子を開けたのは、中嶋だった。和彦と賢吾の姿に驚いた様子もなく、それどころか和彦に笑いかけてくる。おそらく、廊下にいる間、行為の声をすべて聞いていたのだろう。「ど、して……」 中嶋が障子を閉めたのを機に、ようやく和彦は声を洩らす。愛撫の手を止めないまま賢吾が答えた。「俺が呼んだ。いままで、総和会との連絡役は別の人間だったんだが、若い連中の中で抜きん出て見所があるし、先生と親しいということで、新たに中嶋を指名した。長嶺組長の本宅に出入りできる、総和会でも数少ない男というわけだ」 いつの間にそういう話が決まったのかと思ったが、これは組の細かな決定事項の一つだ。賢吾が和彦に知らせる必要はない。ただし賢吾は、和彦の反応を見たいがために、この瞬間まで隠鷹津は油断ならない。長嶺組と手を組んでいる一方で、しっかりと動向は探っているのだ。 一瞬手を止めかけた和彦だが、鷹津に心の内を悟られたくなくて、何事もないふりをする。「どうしてそんなことが気になる。ぼくが、長嶺組の都合に振り回されるのは、珍しいことじゃない」「朝、お前が慌てた様子で電話をかけてきたから、何事かと思うだろ。いままで、少なくとも携帯に連絡してくるなと言ったことはなかったしな」 話す義理はないと突っぱねたかったが、それでは鷹津が引かないだろうと予測できた。和彦は手を動かしながら簡潔に答える。「……連休の間、三田村と一緒だった」 鷹津は軽く鼻を鳴らしたものの、それ以上は何も言わなかった。おかげで、処置室の静けさを意識してしまい、和彦も声を発することができなくなる。 抜糸を終え、傷跡を覆うようにテープを貼ると、鷹津が慎重に手を動かす。物言いたげな視線を向けられたので、立ち上がった和彦は片付けをしながら説明する。「縫い跡を固定するためだ。あんた絶対、抜糸してすぐに無茶をするだろ。特に手なんだから、注意しないと」「お優しいことで。――お前、ヤクザなんかと関わらなきゃ、まともな医者をやってたんだろうな」「余計なお世話だ。やることはやったんだから、さっさと出て行ってくれ。あんたが来るということで、長嶺組の人間にずっと駐車場で待ってもらっているんだ。ぼくも早く帰りたい――」 ここでふとあることが脳裏を過り、反射的に背後を振り返る。ブルゾンを掴んだ鷹津が、軽く首を傾げた。「どうした?」「いや……」 一度は口ごもった和彦だが、前に鷹津が言っていたことが気になり、それが今の自分にとっては大事だということもあって、切り出す。「――前にあんた、ぼくの兄の国政出馬の話を、昔馴染みの新聞記者から聞いたと言ってたな」「それがどうした」「まだ、ぼくの実家の情報を集めているのか?」 怪訝そうな顔をした鷹津だが、和彦の真剣な様子から察するものがあったらしい。次の瞬間、ニヤリと笑った。「何かあったみたいだな
「現にぼくがそうだった。大学に入ってからは、実家に顔を出す必要もなくなったし、向こうからもそれを求められなかった。ごくたまに、大事な行事には出席して、佐伯家の一員として振る舞っていたぐらいだ。それ以外では、連絡すら取り合っていなかった。……兄さんの出馬の件で、事情が変わったんだ。それがなければ、ぼくがどんな相手と寝ていようが、知らん顔をしていたはずだ」 話すべきことを話し終え、ここまで張り詰めていたものがふっと切れる。和彦はしばらく黙り込むが、その間、賢吾もまた口を開かなかった。和彦に対して助言どころか、命令することすら可能なはずだが、そうしないということは、こちらが出す答えを待っているのだろう。 自分はどうすべきなのか、まだ結論が出せない和彦は、心に溜まる澱を取り留めない言葉として吐き出した。「……あんたたちと知り合ってなかったら、ぼくは今ごろ、どうしていただろうな。とっくに佐伯家と縁を切っていたか――いや、そんなことはしないな。抗えない力に逆らわず、子供の頃から変わらない、無害な存在として家族とつき合っていたはずだ。そして、兄さんにいいように使われて……」 自分で言って、和彦は自己嫌悪に陥る。物騒な男たちに囲まれて生活している、今の信じられないような状況にあっても、自分と佐伯家との関係は何一つ変わっていないと痛感したのだ。 和彦の気持ちを掬い上げるようなタイミングで、賢吾が切り出した。「先生は今、〈力〉を持っている。物騒で危険きわまりないが、先生を守るためにある力だ。そのうえで、自分がどうしたいか考えるといい」「ぼくは――……」「先生のためなら、どんな汚い仕事でもしてやる」 そう言った賢吾の表情は穏やかだった。だからこそ、本心を読み取ることはできない。和彦を怖がらせないための配慮なのかもしれないが、それすら知ることはできない。 このとき和彦は、自分はすっかりこの物騒な世界に染まってしまったのだろうかと、つい考えていた。 賢吾の怖い台詞を聞いて、胸の奥がじわりと熱くなったからだ。**
「落ち着いている。――兄さんのことを考えたくなくて、あんたに八つ当たりしているんだ」「八つ当たりどころか、先生には俺を責める真っ当な権利があると思うが」 本当にそうしようと思えば、いくら時間があっても足りない。心の中で応じた和彦は、賢吾を睨みつける。そんな和彦の視線を受け、平然とした顔で賢吾が問いかけてきた。「――家族が恋しくなったか?」 一瞬うろたえた和彦だが、すぐに首を横に振る。「それは……、ない。ぼくにとっての家族は、一緒にいて心安らげる存在じゃなかった。一人暮らしを始めたときは、ほっとしたぐらいだ」「先生がそう感じていることと、過剰なぐらい痛みを苦手にしていることは、関係あるのか? 誰だって痛い思いはしたくないだろうが、先生の場合は様子が違う」 確信を得ているような賢吾の口調だった。これまでの和彦の言動から、感じるものがあったのだろう。 これは佐伯家に対するささやかな報復だと思いながら、和彦は口を開いた。「……物心ついた頃から、ぼくは痛みを与えられていた」「虐待か?」 わずかに眉をひそめた和彦は曖昧に頭を振る。「そういうものとは違う……とぼく自身は思っていた。兄さんも、弟を虐待しているなんて意識はなかっただろうな。そうする権利が自分にはあると、信じていたんだ。多分、今も」「その口ぶりだと、先生を痛めつけていたのは、兄貴だけなのか」「親には手を上げられたことはない。そんなことをするほど、ぼくに興味がなかったんだ」 腕組みをした賢吾が、じっと和彦の顔を見つめてくる。和彦は静かに見つめ返していた。賢吾を見つめながら、その内に潜んでいる大蛇の姿を捉えようとしていたのかもしれない。反対に賢吾のほうは、和彦の内に何かを感じたようだった。「――……前にも似たようなことを言ったはずだが、先生は身の内に、冷たい体温の生き物を飼っているようだ。誰も捕まえられない、触れさせることすらしない、大蛇よりも硬い鱗で体を守りながら、とんでもなく臆病で神経質な、そんな生き物だ」
** 憔悴しきった自分の姿を取り繕う余裕すら、和彦にはなかった。そんな和彦を、座卓についた賢吾がじっと見つめてくる。「――……千尋からの電話で聞いてはいたが、ひどい顔色だ、先生。できることなら、さっさと休ませてやりたいが、その前に、何があったのかを知っておかねーとな」 わかっていると、和彦は浅く頷く。話し始めようと一度は唇を開いたが、震えを帯びた吐息が洩れ、声が出なかった。 賢吾は急かすことなく、ただ見つめてくる。過度の優しさも気遣いもうかがわせることのない、だからこそこちらに精神的負担を与えてこない、不思議な眼差しだ。マンションから本宅に向かう車中、動揺して震える和彦の肩を抱きながら、千尋も同じような眼差しを向けてくれたのだ。 和彦はぎこちなく深呼吸をしてから、やっと言葉を発した。「あんたが、里見さんとの連絡用に持たせてくれている携帯に、兄さんから電話がかかってきた。里見さんの携帯を盗み見して、そこにあった怪しい番号にかけたら、ぼくが出たんだそうだ」「と、言われたか?」 揶揄するような賢吾の口調が気になり、ちらりと視線を上げる。賢吾は、口元に柔らかな微苦笑を浮かべていた。「……どういう意味だ」「震え上がるほど苦手にしている兄貴から言われたことを、すんなり信じるなんて、先生は人がいい」 数十秒近くかけて、賢吾の言葉を頭の中で反芻する。そして和彦は、あっ、と声を洩らした。目を見開き、賢吾を凝視する。「俺は悪党だから、まずはこう考えるんだ。先生の兄貴と、先生の初めての男が手を組んだんじゃないかってな。先生が信用した頃を見計らって――」「里見さんはそんなことはしないっ」 感情的に声を荒らげた和彦だが、次の瞬間には、自分が今誰と向き合い、話しているのかを思い出し、我に返る。 賢吾の口元にはすでにもう笑みはなかった。無表情となり、大蛇を潜ませた目でまっすぐこちらを見据えてくる。戦慄した和彦は、自分の失言を噛み締める。しかし賢吾は怒りや不快さを表には出さなかった。「いまだに信頼しているんだな、里見を。やっぱり
『それでもお前は、わたしの弟だ。これは、わたしにはどうしようもない。だったら、せいぜい利用させてもらう』 英俊が向けてくる冷たい悪意は、電話越しでもしっかりと伝わってくる。どれだけの言葉を費やそうが、気持ちは決して交わることはなく、ただ一方的に搦め取られそうになる。「ぼくに何ができる? 兄さんが言うとおり、おぞましい画像を撮られて、いつスキャンダル沙汰になってもおかしくない人間だ。そんなぼくが佐伯家にできることと言ったら、存在を隠すことだけだ」『そんなお前でも、利用価値はある。佐伯の血を引いているという一点でな』 ゾクリとするような感覚が、全身を駆け抜けた。 和彦は、〈血〉の怖さと重さを知っている。長嶺の男たちによって教えられたのだ。切り捨てることも、逃げ出すこともできないものであるということも。『父さんは、お前を外で自由にはさせていたが、手放す気は一切ないぞ。……わたしにとっては忌々しいがな』 不穏な空気を感じ取った――わけではないだろうが、なんの前触れもなく、書斎のドアが開いた。「あっ、先生、ここにいたんだ」 ピンと張り詰めた空気を壊すように、上半身裸の千尋が緊張感のない声を発する。即座には状況が呑み込めなかった和彦だが、対照的に、英俊の反応は早かった。『誰かいるのか?』 ハッと我に返った和彦は、慌てて千尋に駆け寄ると、片手で口を塞ぐ。大きく目を見開いた千尋が何か言おうとしたが、和彦の異変に気づいたのだろう。すぐに険しい表情となって目を眇めた。「……兄さんには関係ない」『若い声だったな。先生、と呼んでいたということは、患者か? お前がまだ医者をしているようだと里見さんは言っていたが、どうやら本当だったようだな』 このままでは英俊のペースに巻き込まれると思い、和彦は早口に告げた。「もうかけてこないでくれ。あなたと話すことは……ない」『ああ、電話はかけない。だが、お前はわたしと、直接会うことになる』「その気はない。悪いけど……」『お前が意
ここで英俊が低く笑い声を洩らす。和彦に向けて毒を放つとき、英俊はよくこんな笑い方をするのだ。そして案の定、英俊が吐き捨てるように言った。『バカがっ。何が危ない目だ。あんなおぞましい画像を撮られて、みっともなくて父さんの前に顔を出せないだけだろ。あんなものが外に出回るんじゃないかと、うちの人間がどれだけ危惧したと思っているんだ。そのくせお前からは一切説明はないし、連絡すら取れない。肝心の里見さんも、お前に丸め込まれているようだし』「里見さんはっ――」『お前の性癖についてとやかく言うつもりはない。こちらに迷惑をかけない限りはな。どうせ、佐伯家の跡継ぎを期待される立場でもない。女だろうが男だろうが、好きなほうと、好きなだけ寝ればいい』 相変わらず、自分を傷つけるための言葉を心得ている人だと思い、和彦は唇を引き結ぶ。どれだけ佐伯家と距離を取り、関わるまいとしようが、電話で少し会話を交わすだけで、和彦の意識は過去へと簡単に引き戻される。自分という存在がまったく尊重されず、必要ともされていなかった、佐伯家で生活していた頃に。 自分を守るために身につけた術だが、和彦は心を凍りつかせる。動揺すらもあっという間に鎮まり、英俊と同じような淡々とした口調で応じた。「だったら、ぼくに連絡をしてくる必要はなかっただろ。ぼくは今、好きなように生きている。兄さんたちが関わってこないなら、ぼくからも関わる気はない」『それがそうできないから、お前と連絡を取ろうとしていたんだ。里見さんから聞いたが、お前も少しは、こちらの動向を把握しているんじゃないのか』「――……兄さんが出馬するという話なら」『それだ。珍しくはないだろ。官僚から政治家へ転身という話は。父さんも、すでにあちこちに根回しをしていて、とにかく忙しい。そんな状況で、〈身内〉に足を引っ張られたくない』 佐伯家は相変わらずだと、そっと和彦は嘆息する。かつて父親は、省内の権力争いに血道をあげて勝利し、絶対的な支配力を誇っていたが、定年が間近に迫り、すでに天下り先も決めている。だからといって、そこがゴールではない。父親と酷似した道を歩んできた英俊は、ここにきて新たな権力の道を見出し、進もうとしてい
和彦は、賢吾が自分に持っているかもしれない執着心を想像するだけで、ゾクゾクするような興奮を覚え、身震いする。三田村の腕がその震えすら受け止めてしまうことにも、快感めいたものを覚える。 賢吾の手が尻から腰を撫で回し、さらに上へと移動して胸元に這わされる。興奮のため硬く凝ったままの突起を抓るように刺激され、引っ張られる。和彦は小さく悦びの声を上げ、三田村の首筋に顔を寄せた。意図しないまま熱い吐息をこぼすと、三田村の肩が微かに揺れる。 ふいに賢吾に腰を抱え直され、和彦のものは掴まれる。 「まだイかせない。いつもは先にたっぷりイかせてやるのが俺のやり方だが、今
何も要求せず、ただ抱き締めてくれる腕の強さが心地よかった。和彦は顔を上げると、相変わらず感情をどこかに置き忘れたような無表情の三田村を見つめる。無表情ながら、今日はわずかに感情が透けて見えそうな気もして、和彦は間近に顔を寄せる。 「……人を慰めながら、弱みを探ってるんだろ。ヤクザのやり口はわかってるんだ」 「わかっているなら油断するな、先生。あんたは口は悪いが、根本的なところで、優しくて、甘い人間だ。だから、ヤクザなんかにつけ込まれる」 もっともな言葉に思わず苦笑を洩らした和彦は、指先を三田村のあごの傷跡に這わせてから、てのひらを三田村の頬に押し当て、撫
「心配するな。本当だ。――……澤村先生が、ぼくにそんなに友情を感じてくれていたなんて、意外だな」 「茶化すなよ。俺は、お前とくだらないことを言い合うのが、けっこう気に入ってたんだ。俺と張り合うレベルぐらいにはイイ男だと、認めてたんだぜ」 なんとも澤村らしい言葉に、久しぶりに和彦は屈託なく笑うことができた。そしてふっと現実に戻る。 何事もなかったように話してくれる澤村も、和彦が辱めを受けながら感じている写真を見ているのだ。あんな目に遭った和彦がどんな選択をしたのか知ったら、軽薄そうに見えて人のいい元同僚は、どんな顔をするだろうか――。 こんなこ
和彦は口元に手をやり、眉をひそめる。千尋はもう、和彦と自分の父親の関係を察している。そのことが、千尋になんらかの行動を起こさせるきっかけになったのだとしたら、和彦は無視するわけにはいかなかった。 「どうかしたのか、佐伯」 「……いや、クリニックを辞める前に、もう一度あの店に顔を出せばよかったなと思って。そうしたら、長嶺くんに挨拶ぐらいできたかもしれない」 「そうだなー。こうも突然だと、寂しいよな」 澤村の口調には、わずかな苦さが込められていた。昼休みによく通っていたカフェから馴染みのウェイターがいなくなっただけでなく、クリニックからは和彦もいな