Masuk*
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仕事のあと、外で食事を終えてから、待ち合わせをしていた〈友人〉に連れられて趣味のいい店に足を運び、美味しいウィスキーを味わう。
ソファに深く腰掛けて足を組み、目の高さまで掲げたグラスを軽く揺らす。鈍く響いた氷の音に、和彦は静かな充足感を味わっていた。「……理想的な夜遊びの時間だ」 和彦が洩らした言葉に、隣に腰掛けた中嶋が反応する。二人掛けのソファを区切る肘掛けにもたれかかるようにして、身を乗り出してきた。「気に入ってもらえましたか?」 中嶋の問いかけに、和彦は頷く。「君と秦の店選びに、失敗はない。……君が選ぶ店は、客層が少し若いかな。だから、気楽に楽しめる」「長嶺組長の信頼厚い俺と一緒なら、護衛もつきませんしね」 信頼しているかどうかは知らないが、和彦と中嶋の関係に、大蛇の化身のような男がひどく関心を示しているのは確かだ。 こうしてなんでもないふ「しっかり撫でろ」 傲慢に命じた南郷に再び唇を塞がれる。嫌悪感から呻き声を洩らした和彦だが、それだけでは逃れることはできない。苦しさから息を喘がせたときには、口腔に南郷の舌が入り込んでいた。 感じやすい粘膜を舐め回されながら、唾液を流し込まれる。和彦が小さく喉を鳴らすと、柔らかな膨らみをまさぐる南郷の指の動きが変わった。脅すためではなく、和彦の官能を刺激するために、巧みに弱みを攻め始めたのだ。堪らず爪先を突っ張らせる。「うっ、うっ……、そこ、やめ――……」「なら、ここか、先生?」 次に南郷が興味を示したのは、昨夜守光に犯された欲望の先端だった。指の腹で強く擦られたあと、じわりと爪を立てられる。和彦は短く悲鳴を上げ、反射的に百足を引っ掻いていた。次の瞬間、南郷が激高するのではないかと、和彦は心底震え上がる。 相手は、自分に情を注いでくれる男たちとは違うのだ。 和彦の反応に、南郷は目を眇める。「俺の言葉は信用できないか? 何度でも言うが、あんたに手を上げたり、声を荒らげることは絶対にしない。――約束する」「だったら、やめてください。放して、ください……」「それはできない。俺の誠意を受け取る代わりに、あんたにはオンナとしての役割を果たしてもらわないとな」 和彦は返事の代わりに、今度はしっかりと百足に爪を立てる。それこそ食い込むほど。痛痒も感じていない様子で南郷は続けた。「俺の誠意なんていらない、というのはなしだ。あんたももう、この世界の男たちのやり口はわかってるだろ。俺たちは恩着せがましくて、悪辣だ。目的のためなら、善悪なんて糞くらえという人種なんだ。それでもあんた相手には、ずいぶん優しくしている」 この瞬間、南郷に対して抱いた強烈な畏怖や嫌悪感には、覚えがあった。かつて、和彦の堅気としての生活を奪った賢吾に対して、抱いたものと同じだ。横暴で傲慢で理不尽で、しかし和彦には抗う力もなく――。 かつての賢吾のやり方を踏襲しているようではないかと、和彦は瞬きも忘れて南郷の顔を凝視する。 唇を啄みながら南郷が言った
「……そういう話は、ぼくじゃなく、長嶺組組長と総和会会長がするべきです」 突然、カランと音がして、和彦は身を竦める。屈んでいた南郷が風呂桶を放り投げ、ゆらりと立ち上がった。素早く動けば逃げられたかもしれないが、百足を見せつけるようにして浴槽に入ってくる南郷に対して、無防備な姿を晒したまま和彦は何もできなかった。「言い方を変えよう。あんたと協力関係を結びたいんだ。俺は、総和会の中での長嶺組の立場を守りたい。あんたは、長嶺組長の立場を守りたい。結果としてそれが、総和会と長嶺組のためになる。そう思わないか? いがみ合ったところで益はない」「だから、あなたのオンナになれと?」「いいや。あんたは昨夜、俺のオンナになった。そう言っただろ」 和彦は急いで湯から出ようとしたが、派手な水音を立てながら南郷が歩み寄り、手首を掴まれた。顔を強張らせる和彦に、南郷は獰猛な笑みを向けてくる。「まだ自覚がないようだな、先生。かつては長嶺組長も、あんたをオンナとして躾けてきたんだろ。だったら俺も、そうしないと」 協力関係を結びたいと言いながら、南郷は平然と恫喝じみたことを口にする。 和彦は手を振り払おうとしたが、反対に引っ張られてバランスを崩す。しかも南郷に足元を払われて、湯の中に倒れ込んでいた。溺れかけ、慌てて体勢を立て直したものの、湯が気管に入って咳き込む。そんな和彦を、南郷はじっと見下ろしていた。「――俺の前でよく転ぶな、先生」 苦しい息の下、和彦は南郷を非難しようとする。「それはあなたがっ……」「危なっかしい。俺が側にいて、しっかりとあんたを守ってやらないと」 こう言われたとき、和彦の視界に嫌でも入ったのは、南郷の脇腹にいる百足だった。次に、南郷の体の変化に気づく。 和彦は短く悲鳴を上げると、湯の中を這うようにして逃げようとしたが、あっという間に首の後ろを南郷に掴まれて動けなくなる。首にがっちりと指が食い込み、顔を湯に押し付けられそうな危機感を持った。 和彦の体の強張りがわかったらしく、南郷は芝居がかった優しげな声で語りかけてくる。「まだ
「……何が言いたいんですか?」 ようやくこちらを一瞥した南郷が、唇の端を動かす。「そう怖い顔をするな、先生。きれいな顔立ちの人間がそういう表情をすると、なかなか凄みがある」「もしかして賢吾さんを――」「恩義ある〈親〉の一人息子を食らおうと思うほど、俺は外道じゃないし、思い上がってない。――この機会だ、あんたに提案がある」 南郷がいくぶん声を潜めたところで、再び強い風が吹き付けてくる。ふらりと和彦の体が揺れ、素早くポケットから手を出した南郷が支えてくる。間近で目が合うと、こう言われた。「長嶺の本宅を出て、俺の家で暮らさないか、先生」** 体を洗っていた手をふと止めていた。髪先から垂れた水滴が肩に落ち、その冷たさに和彦は我に返る。 さきほどの出来事にまだ動揺しているのだと、嫌でも認めざるをえなかった。 湖で、南郷から思いがけない提案をされたとき、まず頭に浮かんだのは、この男は何を企んでいるのだろうかということだった。ただ、意外すぎる提案だったことは確かで、慌てて南郷から離れようとした拍子に、和彦は凍った雪に足を取られ、その場で転んでしまった。 泥と雪に塗れ、すぐには動けなかったところを、南郷に腕を掴まれて引っ張り起こされたのだ。おかげで話を続けるどころではなくなり、足を引きずるようにして別荘に引き返し、風呂場に放り込まれたというわけだ。 なぜ南郷が、長嶺の本宅を出て、自分の家で暮らさないかと言い出したのか、和彦には目的が見当もつかなかった。甘い理由などではないことは、はっきりしている。そもそも、和彦が承諾するはずがないと、南郷自身よくわかっているはずだ。 和彦を動揺させるための冗談か、もしくは、和彦の口から賢吾に伝わることを前提にした、露骨な挑発か――。 和彦はブルッと身を震わせる。さっさと体を洗って出るつもりだったが、水辺での立ち話のせいもあって、すっかり冷え切っている。風邪を引いては堪らないと、手早く泡を洗い流してから湯舟に入る。「疲れた……」 じんわりと体が温まってきたところでそう呟いた和彦
粗野で暴力的な空気をまとっている南郷だが、ときには人を煙に巻くような、皮肉めいていたり、迂遠な物言いには知性が感じられるということを。 和彦がつい聞き入ってしまうのは、そのせいだ。〈言葉〉をよく知っている男なのだ。 南郷が読書家だというのは、世間話程度に賢吾から聞かされてはいるし、総和会の中でも口の端に上ることがあった。書厨と言われるような、ただ本を読むだけでなんの知識も得ない人間ではないのだと、南郷の話を聞いていれば察することができる。 いかにも筋者らしい見た目は他人を威圧する武器になるだろうが、南郷は身の内に、狂暴性とは別の、切れ味鋭い武器を持っているのかもしれない。「……会長と、何を企んでいるんですか」 坂道の勾配は大したことはないが、水たまりを避け、泥に足を取られまいと踏ん張るうちに、息が上がる。それでも和彦は問いかけずにはいられなかった。「ひどい言いようだ。この世界、何も企んでいない奴なんていないだろう。長嶺組長だって例外じゃない」「答える気はないということですか……」「まだ、な。別の質問なら、答えられるかもしれない」 ここでようやく道が開け、見覚えのある景色が目の前に広がる。千尋と訪れたとき同様、湖に氷が張っており、岸にはうっすらと雪が残っている。人が歩いた痕跡はなく、さすがにこの寒さでは、水辺で散歩をしようなどという酔狂な人間は、和彦たち以外にいなかったようだ。 湖を渡ってくる風は突き刺さるように冷たく、和彦は首を竦める。すると、肩に南郷の腕が回された。反射的に体を硬くし、睨みつける。「触らないでください」「誰も見てやしない。恥ずかしがらなくてもいいだろ、先生」 とぼける南郷は腕を離すどころか力を入れたため、やや強引に歩かされる。 突然のことに動揺していた和彦だが、寸前まで自分たちが何を話していたか思い出した。「――……ぼくの役目は、なんですか」「従順なオンナであること。俺たちの求めに逆らわず、協力してくれればいい」「長嶺組長――賢吾さんへの嫌が
再び歩き出したとき、南郷はいくらか歩調を緩め、こちらのペースに合わせ始める。この男の見た目に似合わぬ気遣いがもともと苦手だったが、今はさらに拍車がかかっていた。和彦自身のことなどどうでもよく、守光と賢吾のために、〈オンナ〉を丁寧に扱ってやっていると、そんな南郷の心の声が聞こえてきそうなのだ。 自意識過剰だと、あるいは被害妄想だと嗤われるかもしれないが――。 ふと南郷が振り返り、何もかも見透かしたような一瞥を寄越してくる。和彦は身構えた。「何か……?」「いや……。あんたは、この先にある場所に行ったことがあるか?」 南郷が指さしたのは、車も通れないほどの細い道だった。一瞬、和彦が表情を緩めると、それで南郷は察した。「あるようだな。この先は、いい散歩コースになってる。暖かい時期は釣りや水遊びが楽しめるんだが、さすがに今はな」 知っていると、心の中で頷く。和彦にとっては、微笑ましい思い出を作った場所でもあるのだ。千尋とは雪に塗れてはしゃいだし、三田村や中嶋とはのんびりと釣りを楽しんだ。 そんな場所に南郷と行きたくないなと思ったが、あまりに子供じみた感傷かと、表に出さないよう努める。「――俺はもう、何者にもなれない男だ」 数歩先を歩く南郷が唐突に切り出す。それが自分にかけられた言葉だとわかり、和彦は軽く目を見開いた。「えっ……?」「薄汚い野良犬が、ここまで成り上がれたんだ。望外の出世というやつだ。それもこれも、オヤジさん……長嶺の男たちのおかげだ」「ぼくは……、あなた個人に興味はありません」「だが、俺が、長嶺の男たちに与える影響には、興味があるだろ?」 南郷は前を向いたままで、どんな表情で言ったのか知ることはできない。ただ、和彦を挑発するために言っているわけではないと、不思議な確信はあった。「俺は、オヤジさんが築いてきたもの、築こうとしているものを守りたい。要はそれだけだ。結果としてそれが、あとに続く長嶺の男たちのためになる」「&
それでも、吐いてしまえば、驚くほど楽になった。体調が悪いというより、過度な緊張に胃が耐えられなかったのかもしれない。 和彦はトイレットペーパーで口元を拭って流したあと、ドアに目を向ける。気配を感じたわけではないが、この向こうに南郷がいると確信があった。このまま閉じこもっていると、こんなドアなど簡単に蹴破って押し入ってくるだろう。 おそるおそるドアを開けると、タオルを手にした南郷が立っていた。和彦は何も言わず洗面台で口をすすぐと、差し出されたタオルを受け取る。「レトルトだが、お粥がある。温めようか?」 ダイニングに戻る途中で南郷から提案されたが、和彦は首を横に振る。「サンドイッチ、もう少し食べます。……体調が悪いわけじゃないんで」「まあ無理はしないでくれ」 改めてテーブルにつくと、南郷は紅茶を淹れ直し始める。 見た目からは想像もつかないような南郷の甲斐甲斐しさには、覚えがあった。隠れ家だというもとは保育所だった建物に連れて行かれたときのことだ。皮肉を言われながらも世話を焼かれたが、あのときも、そして今も、もちろん心は動かない。 ただ和彦がどう受け止めようが、南郷には関係ないだろう。重要なのは、〈佐伯和彦〉という存在に利用価値があるという一点のみのはずだ。 和彦は、苦い事実をサンドイッチと共にじっくりと噛み締める。自身の勝手な行動のせいで、総和会に付け込まれたのだ。 情けなくて泣きたくなったが、そんな権利すら今の自分にはないだろう。和彦はぐっと奥歯を噛み締めたあと、無理やりサンドイッチの残りを胃に収めた。** 朝食のあと和彦は、部屋に戻る気にもなれず、別荘の敷地内を歩き回る。守光についている総和会の人間も大半が引き揚げたのか、離れの様子をうかがっても、人の気配は乏しい。当然、吾川の姿も見かけない。 一刻も早くここを出たい和彦としては、このまま軟禁状態が続くのではないかと、気が気でなかった。 庭に出て、南郷が設置したという電気柵の前でしばらく立ち尽くしていたが、ワイヤーに触れてみる勇気もなく、結局、ため息をついて引き返す。







