LOGINここは元は飲食店らしく、手術室が設けられた二階は宴会もできる座敷だったようだ。多少の改造は加えられているが、かつての光景が簡単に想像できる。建物の表は人も車もひっきりなしに通っており、よくこんな物件を手術場所に使おうと思ったなと、大胆さに呆れるよりも、感心してしまう。
裏口から中に入ったとき、一階の広い炊事場の存在がちらりと視界に入ったが、何も人を治療するためだけにここを利用しているわけではないのだろうと考えてしまうあたり、和彦はすっかり物騒な男たちに毒されていた。 総和会からつけられた案内役の男に促され、階段を下りていると、取り乱した若い女性の声が耳に届いた。少し待つよう男に言われて従う。男が様子を見に先に一階に下り、その間和彦は所在なく、壁に貼られたポスターを眺める。元飲食店らしく、古くなったビールのポスターだ。 すぐに男が戻ってきて、一緒に下りる。 一階も、通りに面している窓はカーテンが引かれているうえに、出入り口も含めてバリケードのようにテーブルやイスを積み上げて外からの侵入を阻んでいる。人の出入りはすべてカウンター横の裏**** 久しぶりに髪を切ったせいか、首筋を撫でていく風の感触が新鮮だった。施術中は、バサバサと落ちていく髪を惜しむ気持ちもあったが、美容室の外に出てしまえば現金なものだ。やはり切ってよかったと思える。 和彦はさっぱりとした後ろ髪を一撫でして、歩き出す。背後を振り返るまでもなく、長嶺組の護衛はついているのだが、傍からは同行者だとわからない程度に、距離は空けてもらっている。これは和彦から言い出したことではなく、賢吾の指示によるものだ。 和彦はまた、長嶺の本宅に滞在している。綾香と会って動揺したことで、ほんの少しだけ体調を崩したのだが、それを見逃す長嶺父子ではない。もっともらしい言葉で丸め込まれてしまった。どうせ塞ぎ込むなら、側に人がいたほうが安心だろうと言われては、逆らえるはずもない。 ただ自分でも意外だったのは、和彦が客間に閉じこもっていたのはわずか一日ほどで、その翌日には、気分転換がしたいと外出できたことだ。外出のために服を選び、馴染みの美容室に予約を入れ、あれこれと予定を立てる一方で、これから先の家族との向き合い方や距離感を思索していたが、その最中に自覚したのは、決して自分が苦悩しているわけではないということだ。 実家について多少俯瞰して見られるようになっていた。佐伯家は、自分の人生におけるすべてではないと薄々わかっていながら、俊哉に望まれるままに身を委ねて生きていくつもりだったが、いつの間にかその感覚は希薄になっている。まるで真水に晒されて、毒が抜けたように。それとも、より強い毒によって染められたのか。 無意識に苦々しい表情になっているのに気づき、ほっと息を吐く。答えの出ない自問に疲れたというのもあるが――。 和彦は頭上を見上げて目を細める。今日は春というより初夏めいて陽射しが強く、気温が高い。この陽気で一気に桜は開花するだろう。自分の中にある硬い蕾めいた陰鬱も、花開いたあとに散ってくれないだろうかと益体もないことを思ってしまう。 もっと陽射しを浴びるためにふらふらと散歩したいところだが、次の行き先の予約時間が迫っている。コインパーキングで待機していた車に、護衛についていた組員と共に乗り込むと、さっそく出発す
どちらにしても、和彦の存在は、綾香の心に刃を突き立てる存在にしかなりえない。そう思いながらもこうして向き合うと、やはり自然と出てしまうのだ。『母さん』と。 皮肉でもなんでもなく、和彦は心の底から綾香に同情していた。幼少時からの綾香の自分に対する態度は、すべてを知った今では理解と許容ができる。「何も……、悪くないでしょう。あなたは。家と大人の勝手な都合に巻き込まれただけで――」 ここまで言って綾香が呻き声を洩らした。「そんな環境が、あなたを追い込んでしまった。だから、あんな連中のところに……」 和彦はハッとして顔を強張らせる。綾香の言う『あんな連中』がなんであるか、即座に理解した。「母さん、ぼくは――」 行き場がなくて長嶺の男たちの庇護下にあるわけではない。そう訴えようとしたが、綾香が続けた悲痛な告白に声が出なかった。「あなたを見ていると、どうしても紗香のことを思い出していた。……妹から取り上げてしまったという罪悪感が、ずっと消えなかったの。でも、また子供を持てて嬉しいと思ってしまう自分もいて、英俊にしていたように素直に大事にはしてあげられなかった。そうしているうちに、あんな事件があって、紗香の母親としての執念を見せつけられて……」 和彦が、側にいるのに触れられない存在になってしまったのだと、綾香は続けた。 歯止めを失ったように心情を吐露し続ける綾香に、ただ和彦は気圧される。綾香が語れば語るほど、母親という殻が剥がれ落ち、その下からおぞましいものが姿を見せそうだ。 今の綾香と重なるのは、幼い和彦の前で壊れていった紗香の姿だった。 込み上げてくるものがあり、口元を押さえる。そんな〈息子〉の異変に気づかず、綾香がぎこちなく微笑みかけてきた。「ああ、ごめんなさい、立たせたままで。さあ、早く上がって」 そう言って綾香が手を伸ばしてきたが、腕に触れられる寸前で本能的に和彦は身を引く。愕然としたように綾香が顔を強張らせた。「ごめん、母さん。今日は帰るよ……」
罵倒されるぐらいで済むだろうかと、和彦は無意識にネクタイの結び目に指をかける。綾香と会うのにどんな服装がいいだろうかと悩む時間もなく、無難にスーツを着込んできた。 ネクタイを緩めかけて寸前で止める。とうとう実家が見えてきたせいだが、車はスピードを落としながら一旦通り過ぎた。監視している者がいないか確認したのだと今の和彦ならわかる。 実家近くで和彦と助手席の組員が車を降りる。もちろん中に入るのは和彦だけで、組員は外の目立たない場所で待機しているという。 インターホンを押すと、今回はすぐに応答があった。淡々とした綾香の声を聞いた途端、心臓が締め付けられたように胸苦しくなる。和彦は一拍置いてから名乗り、門扉を押し開けた。 玄関前に辿り着くまでに、どんどん鼓動が速くなり、手足が冷たくなってくる。それでもなんとかドアを開けると、珍しくワンピース姿の綾香が出迎えてくれた。その姿を見て、和彦は仰け反るほどの衝撃を受ける。脳裏を過ったのは、記憶にある紗香の姿だった。「……おかえりなさい」 顔を強張らせたまま立ち尽くす和彦に、逡巡を見せたあと綾香が声をかけくる。ハッとして、なんとか言葉を絞り出した。「ただ、いま……」 上がるよう言われて和彦は靴を脱ごうとしたが、どうしても先に言っておきたいことがあった。「ごめん、か、さん……。もっと早くに、こちらから連絡するべきだったのに……」「――わたしの存在なんて、頭になかったでしょう」 底冷えするような冷たい声の響きに、和彦は総毛立つ。「そんな、こと……」「昔から、この家のことはなんでもわたし抜きで決まってきたから、仕方ないんでしょうね」 困惑して立ち尽くす和彦に、綾香は初めて見せる自虐気味な笑みを向けた。「あなたの連絡先がわからなくて、俊哉さんの携帯を盗み見てようやく知ったのよ」「それは……、母さんを面倒なことに巻き込みたくないと、父さんなりに考えたんだと思う」「あの人
「はー、ダメだな……」 もうこの世にいない実の母親に対して、感傷的になっているが故の反応かもしれないし、もっと素直な感情の揺れ故の反応かもしれない。 とにかく、このアルバムは和彦にとっての聖域となった。本棚に並べるのははばかられ、デスクの引き出しに仕舞っておく。 片付けを終えてやることがなくなると、コーヒーを淹れるためキッチンに立つ。カップなどを準備していると、テレビもつけていないのにどこからか音楽が聞こえてきて、耳を澄ませる。なんの音だろうかと首を傾げた数瞬後に、慌ててキッチンを飛び出す。いまだに耳慣れていない、スマートフォンの着信音だった。 書斎で充電中だったスマートフォンを取り上げたときには、すでに電話は切れていた。てっきり長嶺父子のどちらかと思ったが、表示された名を見て和彦は苦い表情となっていた。** 言い訳をして後回しにしていた自分が悪いのだ――。 重苦しいため息が出そうになるたびに、和彦はそう自分に言い聞かせる。一方で、気持ちを整理する時間もほしかったのだと、また言い訳を重ねてしまう。 自分のペースで物事を進めたいと願うのは、今の環境では難しい。事情も感情も利害もが絡み合い、嫌でも和彦自身に決断と行動を促してくる。「いや、そう大げさなものでもないのか……」 堪らず独りごちると、運転席の組員が背後をうかがう素振りを見せる。なんでもないと言いかけて、まったく違うことを口にしていた。「本当にすまない。こちらの都合で、いきなり呼び出すことになってしまって」 和彦の言葉に、前列の組員二人はのんびりと笑う。「気にしないでください。組からしてみれば、先生が何も言わずに出かけられるほうが、よほど怖いんで。よくぞ、連絡してくれました」 大層に褒められることでもないのだがと、つい複雑な表情となってしまう。 実のところ、黙ってでかけようかと一瞬思わなくもなかったが、正体不明の人物に尾行されたばかりなのもあって、実行には移せなかった。和彦も命は惜しい。 和彦のスマートフォンに残っていたのは、実家の電話番号
**** 久しぶりに自宅マンションに戻ってきた和彦は、書斎に荷物を運びこんだ組員が引き上げるのを待ってから、腰を落ち着ける前に各部屋を見て回る。 心配するまでもなく手入れが行き届いており、大げさではなく埃一つ落ちていないのではないかとすら思える。カーテンや寝具も入れ替えられており、当然、クローゼットには春物が並んでいる。さらに冷蔵庫の中は、和彦が好みものばかりが収まっていた。「さすが……」 笠野が目を配っていたとのことなので予想はしていたが、まさに至れり尽くせりだ。 書斎に入ってドアを閉めると、ようやく一人きりになったのだと実感する。本宅の居心地は確かによかったのだが、完全に一人きりとなって味わう解放感の心地よさは、別ものだ。 これで心置きなく作業ができると、床の上に座り込んだ和彦は、組員に運んでもらった段ボールを開ける。ログハウスに残してきた和彦の私物で、すでに季節外れとなった冬服の他に、買い込んでいた本や雑誌も入っている。そして何より大事な、和泉家の相続関係の書類や資料も。和彦が長嶺の本宅に滞在し始めた翌々日には、なぜか秦の手によって届けられたものだ。 和彦が鷹津の身の安全についてさほど心配していなかったのは、この荷物の存在があったからだ。秦に手を回せるほど余裕があったということは、総和会に身柄を押さえられなかったという証明になる。 長嶺組――というより賢吾が、鷹津を追っているのかどうかは、正直よくわからない。互いに忌々しい存在だと思っていても、利用できると認め合っている節もある男たちだ。和彦からあれこれは聞けない。 この荷物の中に九鬼の名刺も入っていたので、それ以外のものにも長嶺組のチェックは入っているだろう。和彦が和泉家から受け継ぐことになるものについてどう感じているか、これもまた和彦は賢吾には聞けない。 大蛇の潜む賢吾の目に、肉欲以外の〈欲〉を見たくないのだ。 荷物を取り出し分類していくと、最後に、厳重に梱包されたプラスチック製の食品保存容器が残る。中に入っているものが万が一にも濡れたり、傷ついたりしないようにという、鷹津なりの気遣いだ。
布団の中で抱き合い、絡み合っているうちに、いつの間にか和彦が千尋の上に覆い被さる格好となっていた。待ちかねていたように千尋に背を引き寄せられ、胸に顔を埋められる。子供のように胸の突起に吸い付く千尋の頭を撫でてから、和彦は自ら腰を動かし、勃ち上がった千尋の欲望を刺激してやる。 なんとなく千尋を甘やかしたい気分になっていた。「――和彦」 名を呼ばれて再び唇を重ね、唾液を交わす濃厚な口づけに耽る。その間に、千尋の手に両足の中心をまさぐられ、興奮を兆し始めていた和彦自身を掴まれる。このままだと体が汚れるとか、汗だくになったらまた湯を浴びに行かなければならないとか、つい考えてしまうが、うねりのように押し寄せてきた情欲の前には些細なことだった。 和彦の変化を感じ取ったのか、千尋の目が爛々と輝く。 布団を押し退けられた途端、ひんやりとした空気に肌を撫でられる。抱き合っているうちに浴衣も完全に脱げてしまっていた。「やっぱエアコンついてなくてよかった。暑くなってきた……」 千尋がぽつりと洩らした言葉に、和彦はうっすらと微笑む。 せがまれるまま、千尋が見ている前で足を大きく開き、自らの欲望を刺激してみせる。行為自体は興奮のため抵抗はなかったが、千尋の恍惚とした表情を目の当たりにすると、さすがに羞恥で身が燃えそうになる。「千尋、もういいか――」「ダメ。最後まで見たい」「いままでも、見たことあるだろ……」「和彦が戻ってきてからは、初めてだ」 言おうとしていた言葉は、口中で消えてしまう。結局、達する姿を千尋にじっくりと鑑賞されていた。 肌を汗ばませ、全身を震わせて喘ぐ和彦の姿は、千尋を楽しませるには十分だったらしい。高ぶった己の欲望を扱いた千尋が、達する寸前、素早く動いた。襲い掛かられるのかと身構えたときには、和彦の胸元に生温かな液体が飛び散る。「あっ……」 千尋が獣のように舌なめずりして、和彦を見下ろしてくる。自分の精で和彦を汚せて、満足しきっている顔だった。このときゾクゾクするような感覚が、和彦の中を駆け抜け