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解毒剤をくれなかった彼女は、後悔で狂う

解毒剤をくれなかった彼女は、後悔で狂う

بواسطة:  煌めく孤狼مكتمل
لغة: Japanese
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終末が世界を覆ったあの日から、俺、宇田孝之(うだ たかゆき)は恋人の河越未月(かわごえ みつき)を支え、生存者の小隊を結成した。 ある外部任務でのこと。仲間のふたりを庇った俺は、ゾンビウイルスに感染してしまう。 拠点に残された解毒剤は、わずか2本。未月は「身内びいきを疑われたくない」という理由で、迷わず感染したふたりにそれを与えた。 それでも彼女は目に涙を浮かべ、俺をまっすぐ見つめて言った。 「孝之、私を信じて。症状が出るまでの3日間に、必ず新しい解毒剤を見つけてくるから」 体の奥で焼かれるような激痛に耐えながら、俺はただ頷いた。 そして翌日、彼女は言葉通り、奇跡的に1本の解毒剤を持ち帰る。 だが、その薬液が俺の血管に注がれようとした、まさにその寸前。一度も拠点の外へ出たことのない宮里哲也(みやざと てつや)が、唐突に顔を歪めたのだ。 「くっ。怖いよみっちゃん……頭が痛いんだ。もしかして……感染したのかも」 周囲の視線が集まる中、未月の手がぴたりと宙で止まった。次の瞬間、彼女は迷うことなく哲也へと向き直っていた。 「哲也くんだって、大切な仲間なの。もし何かあれば、隊長の私にも責任があるわ。 孝之、あなたは副隊長で……それに、私の彼氏でしょう?だからこそ、身内びいきだと思われるようなことはできないの」

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الفصل الأول

第1話

哲也の瞳の奥に、歪んだ優越感がよぎるのを俺は見逃さなかった。未月の、有無を言わせぬ冷たい横顔も。

思わず、乾いた笑いが漏れる。

身内びいき、か。

いいだろう。もうすぐ嫌でも思い知ることになる。

俺という存在がいなければ、この小隊などとうの昔に全滅していたという事実を。

未月は哲也へ解毒剤を渡す際、俺の方には一瞥すらよこさなかった。

「哲也くん、これ、先に使って」

まるで喉の渇きを癒すための水を分け与えるような、ひどく淡白な口調。

哲也はそれを受け取りつつ、隠しきれない優越の光を瞳に浮かべている。

次いで未月は、濁った液体の入った小瓶を俺に差し出した。

彼女は頑なに視線を逸らしたまま口を開いた。「抑制剤よ。これで少しは進行を抑えられるはずだから」

こんな気休めの薬が、ここまで進行した俺の感染症状に効くはずがない。

俺は静かに告げた。

「これが俺に効かないことくらい、お前にも分かっているだろう」

未月は目を泳がせ、困ったように眉を寄せた。

「孝之、そんなに感情的にならないで。哲也くんは体が弱いのよ。もし本当に感染していたら……」

俺は鼻で笑い、彼女の言葉を遮った。

「はっ。あいつは入隊してから、一度も任務に出てない。かすり傷ひとつ負ってないのに、どこで感染したっていうんだ?」

未月の声がヒステリックに甲高く跳ね上がった。

「目に見える怪我がないだけでしょう!

ゾンビウイルスには3日間の潜伏期間があるって、あなたも知ってるでしょう?私は隊長なの。みんなの命を預かってるの!

あなたは私の彼氏で、副隊長でもある。だからって、あなただけを優先してほかの人を見捨てたら、みんなはどう思う?そんなことをしたら、これからこの小隊をまとめていけなくなる。身内びいきだと思われるわけにはいかないのよ!」

またしても、その言い分か。

右腕に浮かび上がった灰白色の死斑が、じわじわと肩へ向かって這い上がっていく。皮膚の下を業火で焼かれるような激痛が、さらに苛烈さを増した。

俺は彼女の目を真っ直ぐに見据え、深く息を吸い込む。

「要するに、俺の命よりも自分の立場の方が大事だっていうのか。こんな気休めの紛い物で俺を誤魔化せると思っているのか」

未月の顔から血の気が引いた。

「何よ、その言い方は。明日、西区の研究所に行くって約束したじゃない!絶対に解毒剤を持ち帰るから!

もう一度だけ、私を信じてくれない?」

世界が崩壊する前、訓練校にいた頃から、俺と未月は最高の相棒だった。

彼女が指揮を執り、俺が先陣を切る。彼女が立てた作戦を、俺が実戦で形にする。

誰もが認める、お似合いのふたりだったはずだ。

卒業の日、訓練場で彼女は誇らしげに語っていた。

「孝之、これから先どんなことがあっても、あなたは私を完全に信じていいから」

終末を迎えてからというもの、俺は彼女を支え、生存者の小隊を立ち上げ、自ら裏方である副隊長に回った。

手柄はすべて彼女に譲り、命の危機はすべて俺が背負い込んできた。

3年が過ぎ、小隊は7人から40人を超える大所帯となった。彼女は今や、誰もが敬慕する「河越隊長」だ。

そして今、俺の手元に残ったものは何だろうか。

呪文のように繰り返される「身内びいき」という自己保身と、空虚な「次こそは」という誓い。ただそれだけだ。

感染によって異能さえ封じられていなければ、外へ出た瞬間にゾンビの群れに食い殺されるような状況でさえなければ、彼女に己の命を預けるような真似は、絶対にしなかっただろう。

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第1話
哲也の瞳の奥に、歪んだ優越感がよぎるのを俺は見逃さなかった。未月の、有無を言わせぬ冷たい横顔も。思わず、乾いた笑いが漏れる。身内びいき、か。いいだろう。もうすぐ嫌でも思い知ることになる。俺という存在がいなければ、この小隊などとうの昔に全滅していたという事実を。未月は哲也へ解毒剤を渡す際、俺の方には一瞥すらよこさなかった。「哲也くん、これ、先に使って」まるで喉の渇きを癒すための水を分け与えるような、ひどく淡白な口調。哲也はそれを受け取りつつ、隠しきれない優越の光を瞳に浮かべている。次いで未月は、濁った液体の入った小瓶を俺に差し出した。彼女は頑なに視線を逸らしたまま口を開いた。「抑制剤よ。これで少しは進行を抑えられるはずだから」こんな気休めの薬が、ここまで進行した俺の感染症状に効くはずがない。俺は静かに告げた。「これが俺に効かないことくらい、お前にも分かっているだろう」未月は目を泳がせ、困ったように眉を寄せた。「孝之、そんなに感情的にならないで。哲也くんは体が弱いのよ。もし本当に感染していたら……」俺は鼻で笑い、彼女の言葉を遮った。「はっ。あいつは入隊してから、一度も任務に出てない。かすり傷ひとつ負ってないのに、どこで感染したっていうんだ?」未月の声がヒステリックに甲高く跳ね上がった。「目に見える怪我がないだけでしょう!ゾンビウイルスには3日間の潜伏期間があるって、あなたも知ってるでしょう?私は隊長なの。みんなの命を預かってるの!あなたは私の彼氏で、副隊長でもある。だからって、あなただけを優先してほかの人を見捨てたら、みんなはどう思う?そんなことをしたら、これからこの小隊をまとめていけなくなる。身内びいきだと思われるわけにはいかないのよ!」またしても、その言い分か。右腕に浮かび上がった灰白色の死斑が、じわじわと肩へ向かって這い上がっていく。皮膚の下を業火で焼かれるような激痛が、さらに苛烈さを増した。俺は彼女の目を真っ直ぐに見据え、深く息を吸い込む。「要するに、俺の命よりも自分の立場の方が大事だっていうのか。こんな気休めの紛い物で俺を誤魔化せると思っているのか」未月の顔から血の気が引いた。「何よ、その言い方は。明日、西区の研究所に行くって約束したじゃない!絶対に解毒
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第2話
「お前がその約束を口にするのは、これが初めてじゃないだろう」俺は疲労しきった声で絞り出した。彼女は俺の手をきつく握り、懇願するような瞳を向けてくる。「今度こそ本当よ!これまで死地を潜り抜けてきた時も、あなたはずっと私に背中を預けてくれたじゃない。孝之、最後にもう一度だけ、私を信じて」かつて銃弾の雨が降り注ぐ戦場でも、この手は俺を強く握りしめていた。その確かなぬくもりを見つめながら、気づけば俺は首を縦に振っていた。「……分かった。これが最後だ」未月が安堵の吐息を漏らす。「あなたは先に戻って休んでいて。明日の人員配置とルートは私が完璧に仕上げておくから。明日はきっと、何もかも上手くいくわ」俺は背を向け、黙ってその場を後にした。一度も振り返ることはなかった。部屋を出てすぐ、哲也の押し殺したような声が背中の向こうから聞こえた。「みっちゃん、さっきの孝之さん、すごく怖かったよ……もしかしてもう……」未月が甘やかすようになだめる。「大丈夫、怖がらないで。今はまだ平気だから」隔離室へ戻った俺は、冷たい壁に背をもたれさせ、ずるずると床へ崩れ落ちた。右腕を焦がす灼熱感は、時を追うごとにその猛威を増していく。ゾンビウイルスに侵されてから、これで2日目。通常の感染者であれば、そろそろ筋肉の硬直や感覚の麻痺といった末期の前兆が現れる頃合いだ。だが、俺には一切それがない。肉を焼かれるような熱と、時折走る鋭い激痛を除けば、意識は恐ろしいほどに冴え渡っていた。何より奇妙なのは、血肉の奥底で何かが目を覚まそうとしている、未知の胎動だった。遠く、廃墟の彼方から、ゾンビの飢えた咆哮が絶え間なく響いてくる。決して小規模な群れが発する唸りではない。拠点の外周防衛は、俺の異能による補強が途切れれば、そう長くは持ちこたえられないはずだ。俺は拳を固く握りしめる。手のひらに爪が深く食い込んだ。明日で、運命の3日目を迎える。未月、これが俺からお前に与える、本当に最後のチャンスだ。……夜明け前、空が薄明かりに染まり始めた頃、俺は隔離室を飛び出した。右腕の灰白色の死斑は、すでに肩の半分を無残に侵食しきっていた。夜を越え、大気に澱む腐臭は一段と濃さを増しているように感じられる。外周に蠢く無数の気配が、刻
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第3話
目を覚ましたとき、彼女はこう言っていた。「孝之、もしあなたが先に死んだりしたら、地獄の果てまで追いかけてでも、ぶん殴ってでも生き返らせてやるから」あの日の彼女の瞳には、確かないたわりと、俺を失うことへの本物の恐怖が宿っていた。それが今は、どうだろうか。俺を見つめる彼女の瞳の奥は、冷たく凍りついたままだった。「今日は重要な任務があるの。あなたと言い争っている暇はないわ。哲也くん、出発の準備を」哲也は即座に頷き、鼻血を拭いながら部屋を出ていく。俺の横を通り過ぎる瞬間、ねっとりとした挑発的な視線を向けてきた。俺は未月の手首を強く掴んだ。「あいつを連れて行く気か」未月は煩わしげに俺の手を振り払う。「彼は西区の地理に明るいのよ。それに、今のあなたにこの小隊を任せるなんて、絶対に無理よ。拠点で大人しく待っていて。解毒剤は必ず持ち帰るから」彼女は手早く装備を身につけると、一度も振り返ることなく去っていった。俺はその場に立ち尽くし、がらんとした部屋と、まだふたりの体温が残る毛布をただ見つめていた。その時、体の奥底で未知の力が激しく脈打った。灰白色の死斑が一気に胸元まで広がる。皮膚が内側から裂けそうになる。業火に焼かれるような激痛に、意識を呑み込まれそうになる。それでも、俺は必死に堪えた。拳を強く握りしめる。爪が手のひらに深く食い込み、指の隙間から血が滴り落ちる。未月、お前はまたしても、あいつを選んだのか。だったら、俺たちの絆もここまでだ。よろけながら隔離室へと戻り、冷たい壁にもたれて荒い息を吐き出す。俺の感染症状は明らかにおかしい。それはもはや、確信に変わっていた。やがて、窓の外からエンジン音が聞こえてきた。窓辺へ歩み寄ると、改造された3台のオフロード車が拠点の門を出ていくのが見えた。先頭車の助手席には未月。そのすぐ後ろの席には、哲也の姿があった。哲也が身を乗り出して何か話しかけると、未月が笑った。あの、ふっと力の抜けた無防備な笑い方だ。彼女があんな風に笑うのを見たのは、随分と久しぶりのことのように思えた。土煙を上げ、車列は廃墟の向こうへと消えていく。俺は静かに目を閉じた。未月。もし今日の日没までに戻ってこられなかったなら……お前は今日の選択を、きっと骨の髄まで後悔す
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第4話
俺はシャツの胸元を乱暴に引き開け、無残に這い上がった灰白色の死斑を晒し出した。「未月、よく見ろ。俺の体は、もって今夜までだ。なのにお前が言う『怪我人』の哲也は、声に張りもあって、目も澄み切っている。それでどこが感染の兆候だって言うんだ」周囲の何人かの隊員が、気まずそうにうつむいた。隊員のひとりである石島亮太(いしじま りょうた)が、小さく呟く。「てか、宮里なら普通に避けられただろ……」「石島!」未月が鋭い声で制した。だが、もう遅かった。俺は、すべてのからくりを悟った。哲也はわざと怪我を負ったのだ。未月はまたしても解毒剤をあいつに渡した。全員が見ているこの場所で、再び哲也を選んだのだ。俺は恐ろしいほど静かな声で言った。「お前はまた、あいつのために俺を見捨てたんだな」未月の顔からすっと血の気が引く。「見捨てたわけじゃないわ!ただ……」俺は笑った。怒りよりも深い疲労感が勝った、ひどく乾いた笑いだった。「隊長として、全員の命に責任を持たなきゃいけないからか?身内びいきを疑われたくないためか?それとも、お前の中には、俺という存在などとうの昔にいなかっただけか」彼女は何かを言いかけて口を開いたまま、言葉を続けることができなかった。哲也が彼女の腕にすがり、泣きそうな声で訴えかける。「みっちゃん、孝之さんは僕を信じてくれないのかな。僕、本当に感染したんだよ、ほら……」そう言いながら、手首の包帯をほどこうとする。未月が慌ててその手を押さえた。「駄目、動かないで!」それから彼女は俺の方へと向き直った。その瞳には、はっきりと失望の色がにじんでいた。「……あなたには心底がっかりしたわ。哲也くんは仲間で、しかも怪我をしているの。彼を助けて、何が悪いっていうのよ。それとも、彼を見殺しにしろとでも言うの?そうすればあなたは満足なわけ?」「ああ、それでいい。お前は正しいことをしている。隊長ならそうあるべきだ。どこまでも公平で、公正にな」未月の表情が硬直した。俺は、哲也を庇うように立つ彼女の姿を見た。その背後から得意げな視線をねっとりと送ってくる哲也を。そして周囲の隊員たちの、同情とも忌避とも取れる痛々しい視線を。その瞬間、体の奥底で眠っていた力が、唐突に荒れ狂い始めた。それでも、俺は残された
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第5話
その手が今は、俺の命を終わらせようとしている。体の奥で力が狂ったように暴れ回り、灰白色の死斑がすでに顔の半分にまで這い上がっていた。俺は深く息を吸い込む。全身を苛む激痛が、逆に俺の思考を恐ろしいほど冷徹に研ぎ澄ませていた。「一つ目だ。俺はこの拠点を離れる」自分でも驚くほど、平坦で落ち着いた声が出た。未月が、あからさまに安堵したような表情を見せる。だが、哲也がまたしても口を挟んだ。今度は周囲に響くほど声を張り上げた。「彼をこのまま行かせちゃだめだよ!彼が持っている装備や物資は全部、隊の共有財産なんだよ!それを持たせたまま外に出して、もしゾンビに奪われでもしたら……」未月が不快げに眉をひそめる。「哲也くん!やめてちょうだい!」哲也はさらに声を張り上げた。「僕は事実を言っているだけだよ!あの人はもう副隊長じゃない。ただの感染者じゃないか!大事な隊の資源を、感染者に持ち出させていいわけないだろう!」何人かの隊員が戸惑ったように視線を交わす。同意するように頷く者もいれば、やりすぎだと首を振る者もいた。ちょうどその時、拠点の外周防衛線から、短く鋭い悲鳴が夜気を切り裂いた。全員が、弾かれたように声の方向を振り返った。未月はすぐさま、数人の隊員に外の様子を見に行かせた。それから彼女は、ひどく複雑な表情で俺を見つめ、声を絞り出すように言った。「孝之、あなたの装備……すべて置いていって」俺は笑った。目から涙が滲むほど、声を上げて高笑いした。ひとしきり笑ったあと、俺は頷いた。「ああ、全部くれてやる」俺は身につけていた装備を外し始めた。戦術ベスト、軍用ナイフ、バックパック、食料、そして水。ひとつ外すたびに、地面へ無造作に放り投げた。金属のぶつかる硬質な音が、静まり返った空間に耳障りに響き渡った。未月は顔を背け、頑なに俺を見ようとしなかった。一方で哲也の瞳は歓喜に輝いていた。積み上がっていく装備の山を、欲望に満ちた目で見つめていた。すべて外し終えると、俺の身には普通の戦闘服一着しか残っていなかった。「これで十分か」俺は尋ねた。未月は唇をかすかに震わせたまま、何も言えずにいた。哲也が食い気味に口を挟んだ。「十分だよ、十分!みっちゃん、早く彼を行かせようよ!」未月がようやく俺の
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第6話
目を覚ますと、シーツの敷かれた清潔なベッドに横たわっていた。窓からは柔らかな陽光が差し込み、空気には消毒液の匂いが漂っていた。俺は、生きている。弾かれたように上体を起こし、慌てて自分の腕を見下ろした。灰白色の死斑は完全に消え失せていた。皮膚は傷ひとつなく、以前よりも滑らかで強靭になっている。強く拳を握りしめると、血管の奥底を、かつてない強大な力が駆け巡るのがはっきりと分かる。これは、単に失った異能が戻ってきたという感覚ではない。これは、明確な「進化」だ。「目が覚めたのね」病室の入り口から、ふいに女の声が響いた。顔を上げると、長身の女が扉のそばに立っていた。シンプルな戦闘服に身を包み、黒髪を後ろでひとつに束ねている。端正な顔立ちに、刃のように鋭く冷たい瞳をしていた。彼女の背後にはふたりの護衛が控えていたが、女が軽く手で合図すると、ふたりは音もなく下がっていった。「桐生玲奈(きりゅう れいな)よ」彼女は部屋へ入ると、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。「ここは『曙光』。私はここの責任者よ」曙光。その名なら、俺も聞いたことがある。世界が崩壊して3年。今も残っている避難居住区の中では最大規模を誇り、最も安定しているといわれる巨大拠点だった。鉄壁の防衛設備、潤沢な食料の備蓄、さらにはウイルスの専門研究施設まで備えていると噂されていた。「どうして、俺は……」少し掠れた声で、どうにか問いを絞り出す。「うちの偵察隊が、廃墟で倒れていたあなたを発見したのよ」玲奈は値踏みするような視線で俺を見つめた。「発見時の体温は恐ろしいほどに高くて、全身の皮膚が裂けては塞がるという異常な速度で再生を繰り返していたわ。正直なところ、もう手遅れだと思った」「でも、俺は変異しなかったのか」「ええ、そうね」玲奈が静かに頷く。「あなたはゾンビへと変異しなかった。次の段階へ進化したのよ」彼女は椅子から立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。「あのウイルスの本当の正体を知っている?」俺は無言のまま首を横に振る。「あれは単なる殺戮ウイルスではないわ」玲奈が振り返る。その目には、真剣な光が宿っていた。「あれはひとつの選別機構なのよ。人類の99.9%は、感染すると抗うこともできずにゾンビへと成り果てる。けれど残りのわ
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第7話
「完璧だ……あまりにも完璧すぎる……」彼はうわ言のように呟く。「抗体の濃度は、一般の生存者の実に300倍。しかも驚くべきことに、今も生成され続けている。宇田さん、これが何を意味するか分かりますか」「何を意味するんだ」俺は淡々と聞き返した。「血清の量産が可能だということです」林の瞳が、狂気じみた希望に輝いていた。「抑制剤なんかじゃなくて、正真正銘、本物の血清です!これを注射すれば、24時間以内に体内のウイルスを根絶やしにできます。軽度の感染者であれば完全に回復させられるし、重度の感染者であっても進行をピタリと食い止められるのです!」玲奈が俺の隣に歩み寄り、横に立った。「あなたの全面的な協力が必要なの。定期的な採血と、各種実験への参加。もちろん、あなたにはこれを断る正当な権利があるわ」俺は顔を向け、彼女の目を見た。「もし断ったら?」「その時は、無理強いはしないわ」玲奈の表情は静まり返っていた。「でも、もし協力してくれるというのなら、3ヶ月以内に最初の血清ロットを完成させられる。1年以内には、大規模な接種も開始できるはずよ」3ヶ月。1年。俺は目を閉じた。終末が世界を覆い尽くしたあの日、見慣れた街が地獄へと変わり、通りが鮮血に染まり、悲鳴がこだました光景が脳裏に蘇る。この3年間の地獄で目の当たりにしてきた、数え切れないほどの死の記憶。老人、子供、背中を預けた戦友、名前も知らない誰か。感染してしまったがゆえに、泣き叫ぶ家族の手によって殺された者たち。深い絶望の中で、ゾンビへと堕ちていった無数の人々の顔。「協力する」俺は短く告げた。林は今にも跳び上がらんばかりに興奮を露わにした。玲奈はただ一度、頷いただけだった。まるで、俺がその答えを口にすることを最初から見透かしていたかのように。それからの日々、俺はこの研究センターで、最も特別な「滞在者」となった。毎日欠かさず採血を行い、あらゆるテストに協力する。傷がわずか数分で塞がること、片手で300キロの重りを持ち上げられること、100メートルを7秒で走れることが確認された。それでもなお、俺の身体能力はまだ限界を見せていないらしい。玲奈は頻繁に俺の部屋を訪れた。最新の測定データを持ってくる日もあれば、ただ他愛のない雑談だけをして帰っていく日
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第8話
彼女は俺の目を真っ直ぐに見据えた。「その副隊長って、あなたのことよね」俺は何も答えず、壁際の武器棚へ向かった。「行く気なの?」玲奈が尋ねる。俺は改造された武器を手に取り、冷たい金属製の弾倉を確認する。「助けに行くわけじゃない」「じゃあ、一体何をしに行くというの」「見物に行くだけだ」カチャリと弾倉を装填する。その動きは、まるで何百回、何千回と繰り返してきたかのように淀みなかった。「ついでに、きっちり利子も回収しておくつもりだ」……装甲車列が、廃墟の中を猛スピードで疾走する。玲奈自らが陣頭指揮を執り、精鋭の異能者20名が同行している。装備の質も申し分ない。俺は先頭車両の助手席に腰掛け、窓の外を飛ぶように流れていく瓦礫の街並みを眺めていた。あの死斑が消え去ってからというもの、俺の視力は常人離れするほど鋭敏になっていた。300メートルも先にいるゾンビの眼窩に湧く蛆虫の数さえ、はっきりと見える。ひび割れたコンクリートの隙間から、懸命に伸びる雑草の姿も。そして、遥か彼方の空へ立ち上る、どす黒い硝煙も。あそこが交戦地点だ。「目的地まで、あと2キロです」ハンドルを握る運転手が短く報告した。俺は銃を強く握りしめた。20分後、車列は戦場の縁へとたどり着いた。目の前に広がる光景は、まさに凄惨の一語に尽きるものだった。40人以上もいたはずの大所帯の小隊が、今や20人にも満たないほどに数を減らし、抵抗を続けている。彼らは半壊した商業施設へと追い詰められ、その周囲をゾンビの群れがびっしりと埋め尽くしていた。下級のゾンビではない。素早さも腕力も、下級種とは段違いの凶悪な上位種の群れだった。未月は2階の割れた窓辺から仲間と共に必死の応戦を続けていたが、弾薬は明らかに尽きかけている。哲也といえば、未月の背後に隠れ、真っ青な顔をして、武器を握る手はガタガタと頼りなく震えていた。「直ちに救援を開始する」玲奈が命令を下す。「待て」俺はそれを手で制した。玲奈が視線を俺に向ける。「もう少しだけ見届けてやる」俺は車のドアを開けて飛び降りると、身を隠すのに丁度いい廃墟の高台を見つけ、狙撃姿勢をとった。高倍率のスコープ越しに、未月の顔がはっきりと見えた。やつれ果てていた。目の下には疲労の色濃いくま
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第9話
「移送?」未月は呆然と呟き、その場に固まった。「どこへ移送するというの?」「『曙光』ですよ。あなたたちに、大人しく収容される意思があるのならね」その言葉を聞き、未月の瞳にすがるような希望の光が灯った。だが次の瞬間、施設から逃げ出してきた哲也が俺の姿を視界に捉え、さっと顔から血の気を引かせた。「孝……孝之さん?」その声はひどく上ずっていた。「し……死んで、いなかったのか?」俺は彼を見据えた。ただそれだけで、哲也は激しく怯えたように後ずさり、無様に転びそうになった。「ああ、生きているさ。がっかりしたか」「い、いえ……そんな……」哲也は必死に首を振り、逃げるように未月の背後へ隠れた。「みっちゃん、彼……どうして……」未月は哲也を庇うように前へ出ると、俺を見つめた。「孝之、この前のことは……本当にごめんなさい。でもあの時は、ああするしかなかったの。隊全体の命を優先しなきゃいけなくて……」「分かっている」俺は冷たく言葉を遮った。「身内びいきを疑われたくないため、だろう」未月の顔が、さっと青ざめた。「だが、もう気にする必要はない」俺は淡々と続けた。「俺はもう、お前の隊員じゃない。俺のために『身内びいき』を気にする必要もない」俺は玲奈へと視線を向けた。「桐生隊長、こいつらの受け入れ手続きは」玲奈は未月を一瞥し、それから俺を見た。「原則として、規則を守る意思のある生存者は誰でも受け入れるわ。ただ、こっちの資源には限りがあるから、厳格な審査は必要になるけれど」「なら、審査してくれ」俺はそれだけ告げた。未月が焦った声を上げた。「孝之、待って!私たちは昔……」「昔、か」俺はその言葉を強調した。「未月、お前が俺を拠点から追い出した瞬間から、俺たちの間に残っているのは過去だけだ」彼女が絶望に固まる。その目の縁が、みるみるうちに赤く潤んでいった。そこへ、哲也が唐突に口を開いた。「孝之さん、いくらなんでもひどすぎるよ!みっちゃんだって、あの時はあなたのためを思っていたんだ!あのまま拠点に残って変異していたら、みんな死んでいたかもしれないんだよ!」俺は静かに彼を見て、そして、ゆっくりと歩み寄っていく。哲也が顔を引きつらせ、怯えたように後ずさった。俺は彼の目の前でピタリと足を止め、哲也の腰のホルスター
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第10話
ひとり、ふたり。やがて5人、10人と続き、最終的にその場に取り残されたのは、未月と哲也のふたりだけだった。亮太が俺の目の前まで歩み寄り、深く頭を下げた。「副隊長……本当に、すみませんでした。あの時、俺は何も言ってやれなくて……」「今は言えるようになったのか」俺は尋ねた。彼は頷いた。「分かりました。ついていく価値のない人もいるんですね」俺は彼の肩を軽く叩いた。「乗れ」車列がエンジンを吹かし、出発しようとしたその瞬間。未月が唐突に駆け寄ってきて、俺の腕にすがりついた。「孝之……私を連れていって。お願い」俺は、腕を掴むその手を見下ろした。かつて、俺が心から信頼し、頼りにしていた手だった。今はただ、嫌悪しか湧き上がってこない。「その手を離せ」俺は冷たく告げた。彼女は手を離さない。その瞳から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。「間違っていたって、分かった……本当に分かったの……だからもう一度だけ、最後にもう一度だけ私にチャンスをちょうだい……!」俺はその手を振り払った。「未月、俺はもう三度もお前にチャンスを与えた。一度目、お前は『身内びいきを疑われたくない』と言って、解毒剤をほかの隊員に渡した。二度目、お前は同じ理由で、俺に抑制剤を渡した。三度目もまた同じ理由で、俺を拠点から追い出した」俺は彼女を見下ろした。「四度目はない。俺たちは終わりだ」彼女はその場に崩れ落ち、声を上げて泣き崩れた。哲也が慌てて助け起こそうとしたが、未月は彼を突き飛ばした。「あっちへ行って!もう顔も見たくない!」やがて、車列が無情にも動き出した。サイドミラーの中に映る彼らの姿が、土煙の中でみるみる小さくなっていく。地面に泣き伏せる未月。その傍らで、ただおろおろするだけの哲也。やがて、ふたりの姿は廃墟の闇へと完全に呑み込まれていった。玲奈が隣に座ったまま、静かな声で問いかけてきた。「後悔はしていない?」「何を後悔するんだ」俺は窓の外を流れる景色へ目を向けた。「もっと早く見抜けなかったこと、か」彼女はそれ以上、何も言わなかった。装甲車は廃墟を離れ、曙光へと疾走する。新しい始まりへと。……避難居住区へ戻ってから、林教授の研究は飛躍的な進展を遂げた。俺の血液サンプルから抗体の抽出に成功し、精製と培養を経て
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