LOGIN凪が会場に戻ると、お嬢様たちの視線が一斉に彼女に注がれ、ざわざわと噂する声が聞こえてきた。「あれ、最新作の春のフラワーコレクションじゃない?巨匠のデザインを、もう着ているなんて」「あの新作、体型がかなり出やすいのに、あんなに着こなすなんて。モデルさん並みのスタイルね」「あの綺麗な方、どこの事務所の女優さんかしら?」「特別席のお客さんみたい。どこかの社長夫人か、令嬢でしょう……」そんな声が聞こえてくる中、凪は席に戻らず、食事のエリアへ向かった。空は、彼女が前のパーティーでお腹を空かせていたことを覚えていたようだ。好みのデザートや軽食があることを、メッセージでわざわざ知らせてくれていた。そうやって気にかけてくれる人がいる。凪が、彼のその優しさを無駄にするはずがない。その頃、彼女の後ろでは――葵が、周りのみんなが凪を褒めちぎる声を耳にして、激しい嫉妬に燃えていた。自分の安っぽいドレスを見下ろすと、恥ずかしさで顔が熱くなり、みっともないと感じてしまう。彼女は耐えられず隅のほうへ隠れ、明里に電話をかけた。「お母さん!ドレスのファスナーが壊れちゃって、代わりに予備ドレスを着るしかないの!こんなのじゃ、大輔さんを振り向かせられない!今すぐ代わりにブランドもののドレスを届けて!そうじゃないと、今夜の大輔さんは絶対に落とせないわ!」明里はそれを聞き、一気に慌てだした。「落ち着きなさい!今すぐ人に持って行かせるから、あとで入り口に受け取りに行ってちょうだい。せっかくのチャンスを無駄にするんじゃないよ!」「わかった」葵は嬉しそうに電話を切ると、凪の後ろ姿を鼻で笑った。「ふん、あんたに手に入るものは、私にだって手に入るんだから!」彼女は急いで入り口へ服を取りに行こうとした。しかし、警備員に行く手を阻まれてしまう。「発表会まであと15分となります。この時間帯、会場への出入りは一切禁止させていただいております。今ここを出られますと、二度と戻れませんのでご了承ください」そんなルールなんて聞いてない。戻れないなら大輔はどうするの!?なんで凪のドレスは中まで届けられるの?葵は食い下がったが、警備員たちは譲らず、ルール通り扉を閉めてロックしてしまった。怒りで、葵は頭がどうにかなりそうだった。
凪は、淡々とした視線を向けた。「服一枚で玉の輿に乗れると思っているのかしら。でも周りの目には、服はただの服。それ以上でも以下でもないわよ」「なっ、何ですって!」痛いところを突かれた葵は、悔しさで顔を真っ赤にした。その傍らで、凪はすでにスタッフの案内を受け、自分に合う予備のドレスを選び始めていた。あくまで貸し出し用のものなので、平均的なサイズばかり。華奢な彼女にはどれも少し大きかった。凪は少し眉をひそめた。かつて渉とゼロから起業した際、過酷な仕事の中でも体力づくりのトレーニングに励んでいたため、体つきは引き締まっていた。だが、二宮グループに戻ってからはますます忙しく、体型は以前よりも細身になっていた。スタッフもそれに気づき、水色のマーメイドラインのドレスを持ってきた。「こちらのドレスを試されてはいかがでしょうか。サイズが最も小さく、一点物になっております」「どれ、見せて」凪がそちらへ歩み寄ろうとする。しかし、それよりも早かったのは葵だった。「私のほうがスタイルがいいから、こういうラインの出るドレスは私にお似合いね」彼女はすばやくマーメイドドレスを奪い取り、試着室に駆け込んでしまった。スタッフは申し訳なさそうな顔で凪を見た。「あの……これは……」「いいわよ、彼女に試着させてあげて。私は他を探すわ。後でスタイリストさんに少し手直しをしてもらってもいいしね」凪は落ち着き払った態度で、ずらりと並ぶドレスを選び続けた。ブランド品ではないものの、どれもデザイン性は抜群だった。女性にとって、お洒落は何よりの楽しみだ。だから、少し時間をかけて選ぶのも決して退屈ではなかった。試着室のカーテン越しに凪の言葉を聞いた葵は、鼻で笑った。「何が余裕ぶっちゃって、生意気に……うっ、何よこれ、このドレスきつすぎるわね……」しばらく格闘したものの、最終的に葵は諦め、観念した様子でカーテンの外のスタッフを呼んだ。「ちょっと、来なさいよ!背中のファスナーを閉めなさい!」「はい」スタッフは冷や汗をかきながら必死になって、葵がお腹を引っ込めたのを見計らい、ようやくファスナーを閉め切った。葵は大きく呼吸しながら、何食わぬ顔で試着室から出てきた。腰に手を当てて、凪の前で一回りして見せる。「お姉さん、このドレス
会場の音楽や話し声は、依然として鳴り響いている。中でも、渉の声は特に際立って響き渡った。引き留めようとする直美の手によって、彼の袖口はクシャクシャで、固めていたはずの前髪も乱れていた。その瞳には、隠しきれない不安が満ちている。凪は、どこか遠い記憶の世界を見ているような気分になった。以前、渉がこんなふうに自分を諭そうとするのは、決まって直美の身体がどんなに脆いかを教え込み、自分に理解と譲歩を迫る時だけだった。今の彼は、直美の手を振り払ってまで、自分の前に歩み寄っている。今の自分は、直美よりも大事なのだ、とアピールでもしたいかのように。でも、今の凪にもうそんなことはどうでもいい。自分のことをただの浮気相手だと思い込んでいるような、浅はかな元カレを、ただ可哀想な人を見る目で見つめていた。「ここが、私の席だよ」彼女はそう言いながら、箔押しの文字が輝く招待状を取り出した。このタイプの招待状は、例外なく主催者が客のために一通ずつ個別に誂えるものであり、特別な席にのみ許される待遇だった。渉の瞳に激しい動揺が走った。空が、ただの浮気相手に対して、ここまで周到にお膳立てをするとでもいうのか。凪は手のひらでひらりとその紙面をもて遊ぶと、そっと膝へと下ろして、静かに笑った。「ご心配なく、私は自分の立ち位置を十二分にわきまえている。だから中島社長も、他人の心配よりも、自分の立場を確認したほうがいいんじゃない?」元の恋の炎は、もう決して燃え上がることはない。終わった恋にしがみつく必要などなかった。凪の冷たい表情が、完全に一線を画し、渉を拒み遠ざけている。「凪さん。渉は、ただ黒崎の奥さんにあれこれ言われないか、心配でお耳に入れていたの。お願いだから彼を責めないで」直美が機に乗じて間に入り込んできた。相変わらずどこか清楚で儚げなアピールをしており、薄グリーンの肌を見せた優雅なドレスが、彼女の顔つきをか弱く引き立てて見せていた。シャンパングラスを片手に、直美は身を乗り出して近づいた。「凪さん、前に渉さんが私のぜんそくを理由に凪さんを疑ったこと、ずっと謝りたくて……あぁっ」グラスが揺れる。半分近くまで注がれていたそのシャンパンは見事に放り投げられ、そのまま凪の純白のドレスにかかり、雫となって足元へ垂れてい
大輔は突然、人混みのなかに凪の姿を見つけた。凪と空はまだ結婚式を挙げておらず、K市のセレブの多くは彼女の顔を知らない。彼女は隆だけを連れて入場した。今季の新作である銀白のサテンドレスを身にまとい、繊細な銀の刺繍の花々に包まれている。美しい目元の目尻だけにうっすら施されたメイクが、彼女をいっそう俗世離れした美しさに引き立てていた。大輔は、引き寄せられるように彼女の方へ歩み寄った。「凪さん」「呼び方を間違えていると思うけれど」凪は冷ややかな目で、ちらりと彼を見た。彼女は大輔を相手にしたくなかったのだ。大輔は露骨に嫌がられても気に留める様子もなく、その熱い視線で彼女をじろじろと見つめ続けた。追いかけてきた葵は、ちょうど大輔が凪をうっとりと見つめているのを目にする。大輔、まさか凪に心を奪われてしまったというの?てっきり大輔が怒っているのは、彼が手がけていたプロジェクトを空に奪われ、二宮家に回されたことに対してだと思っていたが……けれど、凪だって同じ二宮家の人間だ。どうしてあの女ばかりが、大輔に気に入られるのか。もしかすると大輔が自分を放置しているのは、家のことではなく、自分を嫌っている凪が何か告げ口でもしたからではないか。一度そう考えると、疑念はどんどん深まっていく。葵はすべての恨みを、凪に向けることにした。彼女は早歩きで歩み寄る。「冷たすぎるわ、お姉さん。家族になる大輔さんなんだから、無視することはないでしょう?まさか、空さんに嫁いだからって見下しているのかしら」大輔は葵が近づいてくるのを見て、不快そうに口をへの字に曲げた。声を聞いた凪がそちらへ視線を向けると、ふと葵の腰まわりの状態が目に入り、少しだけ眉間にしわを寄せた。「あなた……」「立場からすれば、確かに大輔さんにとってお姉さんは目上かもしれないけれど。年の近い身内なのだから、お姉さんもそんな偉そうな態度をとらなくていいんじゃない?」「あのね、私が言いたいのは……」「お姉さん、何を言いたいの?大輔さんのことを見下してなんていないって……」いい加減にうっとうしくなった凪は、彼女の言葉をさえぎった。「あなたの腰元にあるファスナーが開いているわよ」「!」葵はハッとし、露出してしまった腰まわりを見て真っ青になった。
数日後。黒崎グループの新作発表会が、いよいよ間近に迫っていた。会場にはそうそうたる顔ぶれが並ぶ。誰もが招待状を手に入れようと、裏で必死に動き回っていた。明里もその中の一人だ。数日前、明里は忍が大輔のプロジェクトを空に任せることにした、という情報を掴んでいた。本来なら中島グループが進めるはずだった仕事が、今では二宮グループの仕事に変わっている。二宮グループが中島グループの下に就かなくて済むのは良いことだ。しかし、このプロジェクトの黒崎側の責任者は空で、二宮側の窓口は凪なのだ。新婚夫婦がタッグを組んで主導権を握った結果、大地と明里が介入する余地はなくなった。それどころか、娘の葵までもが社内でどんどん追いやられていた。自分たちの立場は危うくなる一方だった。強い危機感を覚えた明里は、あの手この手でようやく黒崎グループの発表会の招待状を手に入れ、娘にきつく言い含めた。「今回こそ絶対に外せないわ!おしゃれして、跡継ぎ候補の大輔を何が何でも仕留めるのよ。じゃないと、凪にいいようにされてしまうわ。ねえ、私たちの未来はあなたにかかっているのよ」葵ももちろん、気合い十分で華やかにドレスアップして臨んでいた。鏡の前に立つと、ぴったりとした黒いドレスが、メリハリのある美しい体のラインを強調していた。ばっちりとメイクを決めた彼女は、少し首をかしげるだけで大人の色気を漂わせていた。葵は満足そうに微笑んだ。「安心して、お母さん。必ず大輔さんを捕まえてみせるわ。彼と早く結婚して、子供さえ産んでしまえば、子供もできない凪たちを、徹底的に見返してやれるんだから!」娘の頼もしい言葉を聞いて、明里はようやくホッとした。自分の娘なら、きっと大輔の心を掴めるはずだ。……発表会の当日、会場で。セレブやモデル、著名人たちが次々と現れ、きらびやかに談笑している。黒いのドレスを身にまとって現れた葵は、白い肌が一際引き立ち、多くの人の目を引いた。葵はプライド高そうに顔を上げて、人混みの中から大輔の姿を真っ先に見つけた。グラスを手に、しなやかな足取りで近づいていく。「大輔さん……」「すまない、まだ急用があるのでこれで失礼する」大輔は冷ややかに彼女を一瞥しただけで、つまらなさそうに目を逸らし、秘書を連れてその場を去っ
【もしも君が頭を下げて、渉さんにお願いさえすれば、これからの仕事はうまくいくと保証してやる】これが、実の父親が娘に言うべきことだろうか。実の娘を取引の道具にして、強請るなんて。厚かましいにも程がある。板挟みになった凪は、この状況を片付けるため、個人的な人脈を使うべきかと悩んでいた。それでも、絶対に大地に屈したくなかったし、渉の元へ頼み込みに行くなんて御免だった。突然、手元の画面がちかちかと点滅した。そこには、空の名前が表示されていた。凪はハッと胸をつかれ、近くにいた部下たちを下がらせてから、空の電話に出た。「下にいる」空の低く、穏やかな声が静かに響いた。凪はきょとんとした。「二宮グループのビルの下ですか?急にどうしたのですか?」話をしながらも、彼女は急いで席を立つと、すぐに階下へと駆け下りた。空はその問いには直接答えず、「待っている」とだけ伝えた。「今、行きます」凪は焦る気持ちのままエレベーターに飛び乗り、スマホを強く握りしめた。空がこうしてわざわざ二宮グループを訪ねてくるなんて、何か大きな事件でもあったのだろうか。息を切らせながら、ロビーの正面玄関へと進む。そこには、セキュリティゲートの脇で静かに佇む空の姿があった。深みのあるブラウンのスリーピース・スーツに身を包み、ピカピカに磨かれたアンティーク調の革靴が目を引く。まるで前世紀から抜け出てきた紳士のようで、その際立った美しいビジュアルのせいか、すれ違う社員たちの視線が集まっていた。凪は足早に進み、セキュリティゲートを出て彼の目の前まで駆け寄った。「あらかじめ言ってくれれば、誰も入り口で引き留めなかったのに」当然ながら、二宮グループの全社員が空の顔を覚えているわけではないのだ。空は、彼女のほんのりと赤くなった頬をじっと見つめた。自分が急に来たために、彼女が走って来てくれたのが伝わってきた。その整った口元が、わずかに緩んだ。凪が自分のために全力で駆けつけてくれるのであれば、いつまで待っても構わないと思っていた。けれど、空はそ知らぬ顔で言った。「少し大事な用件があるんだ」「それなら、あちらの個室へ」凪は彼の案内役を務めて上階へと上がった。自身の執務室に招き入れると、空はバッグから、厚みのある茶封筒
鈍い音がして車のドアが閉まると、外の音は完全に遮られた。渉は遠慮なく言った。「黒崎さんの愛人になる道を選んでも、俺のところには戻ってこないのか?凪、君さえよければ、昔みたいにやり直せるんだ。籍を入れることもできる。ただ……」彼が言い終わる前に、凪が言葉を継いだ。「ただ、私が直美とうまくやっていけるなら、でしょ?渉、あなた頭がおかしいんじゃないの。そんな条件で戻るなんて、結局誰かの愛人になるのと何が違うの?」その時、直美も追いかけてきて、ウサギのように目を赤くしていた。「凪さん!渉さんのこと誤解してるわ。彼はただあなたを心配してるの。それに、みんなで穏やかに暮らせたら
その日の夕食は、二人にとって格別にリラックスできる時間となり、一日の疲れも癒やされたようだ。帰り際、空は先に車に乗り込んだ。化粧直しを済ませた凪は、この借りをどう返そうかと考えながら、レストランを出た。すると、車の前で待つ空の姿が目に入り、彼女は思わず駆け足になった。その時、向かい側に一台のロールスロイスが急停車した。助手席の窓が下りて、直美の蒼白な顔が見えた。「渉さん、あれ、凪さんじゃない?」渉が振り返ると、満面の笑みで他の男に駆け寄っていく凪の姿が見えた。ハンドルを握る彼の指は、力が入りすぎて白くなっていた。それを見た直美は、わざとらしく驚いたふりをして声を
「私が二宮葵だよ」「二宮さんでいらっしゃいますね。大輔様はまもなくお時間が空きますので、どうぞこちらへ」受付の女性はにこやかに笑いながら、案内係を呼んだ。葵は得意げに顎を上げると、凪を冷たく一瞥した。「お姉さん、黒崎家の人たちにはあまり好かれてないみたいね。中に入れてももらえないなんて。部外者の私にさえ劣るのね」凪は絶句した。たかが上の階へ行くだけで、何を偉そうに。凪はそんな些細なことを気にしなかった。葵と大輔の間に何があっても興味はないので、そのまま隣の休憩スペースへ向かった。葵は目を吊り上げた。「ふん、強がってね。下でいつまで待たされるか見ものね。私は、
一階に降りると、ちょうど空が薬を受け取っているところだった。「どうして降りてきたんだ?」凪がうろついているのを見て、空は不快そうだった。凪は面倒なことになるのを避けようと、適当な理由を口にした。「消毒液の匂いが苦手です」彼女がうつむいているのを見て、空はそれ以上なにも聞かなかった。「じゃあ、送っていく」夜の帳が下りた。凪はブリーズ・ガーデンズに戻った。シャワーを浴びて出てきたところで秘書の宮崎泉(みやざき いずみ)から電話があった。「副社長、提携したいというプロジェクトの話が来ています。設立されたばかりの新興企業なんですが、明日の朝9時に二宮グループへ伺いたいと