Mag-log in「でも――」
「大丈夫、私一人でも平気よ」
澪は車のドアを開け、片足を外へ踏み出してから彼を振り返った。
「すぐ上の階だし、ただのオーディションだから、せいぜい二時間くらいで終わるわ。終わったら電話するわね」
鷹斗は指の関節が白くなるほどスマートフォンを握りしめ、車の外に立つ澪を見つめた。朝の光が彼女の輪郭を柔らかく、それでいて力強く縁取っている。彼女が本心から、自分を困らせまいとしているのがはっきりと伝わってきた。
その気遣いが、今の鷹斗にはどうしようもなく痛かった。
いっそ、もっとわがままになってくれればよかった。自分に向かって腹を立て、「行っちゃダメ、約束したじゃない。破るなんて許さない」とでも言ってくれたら――
だが、澪は決してそういう人間ではない。
同じ頃、市中心部に位置する老舗商業ビルの七階。ここは市内でも有名な老舗の撮影スタジオだった。エレベーターのドアが開くと、壁一面に芸能人のポスターが貼られており、テレピン油の匂いとコーヒーの香りが混ざり合っていた。修が到着した時、利弘はすでにそこにいた。彼は待合エリアの一番隅にあるプラスチック製の椅子に座り、うつむいてスマートフォンを見つめている。画面の青白い光が、彼の血の気のない顔を照らしていた。「修!」綾音はメイク室から顔を覗かせ、笑顔で手を振った。「早く来て、席を取っておいたわ」修は歩み寄り、利弘の隣の空席に腰を下ろした。利弘は顔を上げて彼をちらりと見ると、親指で画面を素早くスワイプし、すぐにロックをかけてポケットに突っ込んだ。「お前も来てたのか」修は口の端を上げた。「……綾音が来いって言うからな。人が多い方が心強いって言うんだよ」利弘の視線がメイク室の方向へ泳ぎ、またすぐに手元へ戻った。修はそれ以上追及しなかった。椅子の背もたれに寄りかかり、視線を向かいの白い壁に落とす。だが、その頭の中で考えていたのは別のことだった。――澪が来ていない。彼が今日、綾音の誘いを受けた理由の半分は、澪も出席すると思っていたからだ。浅野のオーディション通知が澪にも届いていることは知っていた。この機会を利用して、オーディションが終わった後に彼女を引き止め、少し話をしようと思っていた。あの雨の夜のこと、そしてホテルで起きたことについて。 
「でも――」「大丈夫、私一人でも平気よ」澪は車のドアを開け、片足を外へ踏み出してから彼を振り返った。「すぐ上の階だし、ただのオーディションだから、せいぜい二時間くらいで終わるわ。終わったら電話するわね」鷹斗は指の関節が白くなるほどスマートフォンを握りしめ、車の外に立つ澪を見つめた。朝の光が彼女の輪郭を柔らかく、それでいて力強く縁取っている。彼女が本心から、自分を困らせまいとしているのがはっきりと伝わってきた。その気遣いが、今の鷹斗にはどうしようもなく痛かった。いっそ、もっとわがままになってくれればよかった。自分に向かって腹を立て、「行っちゃダメ、約束したじゃない。破るなんて許さない」とでも言ってくれたら――だが、澪は決してそういう人間ではない。「……分かった。終わったらすぐに電話して。迎えに来るから」結局、鷹斗は折れるしかなかった。「分かってるわ」澪は手を振ると、振り返ってビルの入り口へと歩き出した。その背中は、すぐにドアの奥へと消えていった。鷹斗は車の中に座ったまま、ビルの入り口を見つめ、彼女の姿が完全に見えなくなるまで待ってから視線を戻した。エンジンをかけ、車をUターンさせると、会社へ向けて走り出した。スマートフォンが再び振動した。澪からのメッセージだった。【本当に大丈夫だから。しっかり仕事して、変なこと考えないでね】鷹斗は複雑な心境でそのメッセージを見つめた。安心するどころか、逆に一抹の不安が胸の奥から這い上がってくるのを感じた。---
今日の澪は珍しく薄くメイクを施し、髪も丁寧に梳かされていて、普段よりも少しだけ洗練された印象を与えていた。鷹斗はエンジンをかけ、首を傾けて彼女をちらりと見た。「緊張してる?」澪は手を上げて前髪を整えた。「まあまあね。ただ、なんだか変な感じ。自分がオーディションに行くなんて、考えたこともなかったから」「観光に行くつもりでいればいいさ。落ちたら、帰りに美味しいものでもご馳走するよ」澪は不満げに唇を尖らせた。「まるで、私が絶対に落ちるみたいに言うじゃない」鷹斗はあっさりと意見を変えた。「じゃあ、受かったら君が俺にご馳走してくれ」澪は呆れつつも笑ってしまった。「……あなたって、本当にちゃっかりしてるわね」車がしばらく走ると、鷹斗のスマートフォンが振動し始めた。鷹斗はセンターコンソールに置かれたスマートフォンにちらりと視線をやった。画面が点灯し、綾人からのメッセージが表示されている。タップして開くことはしなかったが、プレビュー画面にはすでに文面がポップアップしていた。【会社に重要なクライアントが来ている。どこにいる?すぐに戻れ】立て続けにもう一通届いた。【おばあ様もすでにご存知だ。覚悟しておけ】鷹斗の指がステアリングを握る力を一瞬だけ強めたが、すぐに視線を外し、再び前方の道へと目を向けた。澪はその一部始終をしっかりと見てい
「下心?」澪はきょとんとして首を傾げた。「文化祭の日、俺は留置所にいて、直接見に行けなかったからね」鷹斗の声が少し低くなった。澪がハッと息を呑んだ。鷹斗は言葉を続け、その視線を彼女の顔に落とした。「後でネットに上がっていた動画の切り抜きを見たよ。舞台の上に立つ君は、本当に輝いていた。ただ……生で観られなかったのが心残りでね」二人の間に、数秒ほど静かな空気が流れた。澪の耳先がゆっくりと赤く染まっていく。「……ただ、それだけのために?」鷹斗は少しだけ身を乗り出し、ふっと笑みをこぼした。「ただ、それだけのために。だから、試しに行ってみないか?俺のささやかで、取るに足らない願いを叶えると思って」澪が振り返ると、彼のその透き通った瞳と視線がぶつかり、心臓がトクンと小さく跳ねた。「……あなたがそこまで言うなら。行かないことも、ないけど」「よし。じゃあ時間が決まったら、早めに教えてくれ。その日は休みを取って、朝一番で迎えに行くから」「えっ?休みを取るの?どうして?私のオーディションに付き合うためだけに?」鷹斗は彼女に向かってパチリとウインクをした。「他に理由があると思う?忘れないでくれ。今の君は、この真島家の鷹斗の婚約者なんだ。婚約者のオーディションを、婚約者である俺がそばで見届けないわけにはいかないだろう?」澪の
鷹斗は危うく紅茶を吹き出しそうになり、こほんと咳払いをした。「……お見通しだったか?」なんということだろう、否定すらしない。澪がさらにいくつか皮肉を言ってやろうとしたその時、スマートフォンの着信音が鳴った。彼女のスマートフォンだった。画面に表示された発信者名を見て、彼女は一瞬ぽかんとした。「浅野征二?」「聞き覚えのある名前だね。たしか、有名な脚本家では?」鷹斗は顎を撫でながら考え込んだ。「ええ、前の文化祭で、私たちの舞台を見に来てくれたの」そう言いながら、澪は通話ボタンを押し、スピーカーフォンの設定にした。電話の向こうから、少し疲れた様子ながらも張りのある、快活な男の声が聞こえてきた。「神崎澪さんかな?浅野征二だ。こんなに連絡が遅くなってしまってすまないね。ここしばらくずっと海外の映画祭を飛び回っていて、どうしても時間が取れなかったんだ」「浅野先生、こんにちは。私に何かご用でしょうか?」「実はね、以前君に話したあのドラマの件だが、最近になって新しい進展があってね。私のプロデューサーの友人が、正式に君にオファーを出したいと言っているんだ。オーディションに参加してくれないか」澪と鷹斗は顔を見合わせた。澪は無意識に背筋を正した。「浅野先生、私を信頼してくださって、先生とプロデューサーのご友人には本当に感謝しています。でも、以前もお話しした通り、私はお芝居には……」
「私は買い物のことを言ってるんだけど、あんた、何か変なことでも想像した?」理奈は無邪気な笑みを浮かべて言った。「……先輩!わざとでしょ!」澪は言い合う二人を見て、やれやれと首を振りながらも、自然と口角が上がっていた。こういう平凡で、騒がしくて、何の打算もない時間は、彼女にとってどんな宝石よりも尊いものだった。三人は最終的に、商店街の角にあるティーサロンに落ち着いた。全面ガラス張りの窓の外には行き交う人々の波があり、店内には軽快なジャズが流れ、空気には紅茶と焼き立てのスコーンの香りが漂っていた。席についた途端、澪の視線はふと斜め前方のテーブルに引き寄せられた。鷹斗がそこに座っていた。向かいには身なりの良い中年女性がおり、二人の前には何冊かの書類が広げられ、どうやら真剣な仕事の話をしているようだ。今日の鷹斗はパリッとしたスーツに身を包んでおり、リラックスしつつも集中した様子で、時折ペンで書類に何かを書き込みながら、顔を上げて相手と会話を交わしていた。「……ねえ、何見てるの?おや、ずいぶん奇遇じゃない」理奈は澪の視線の先を追い、片眉をひょいと持ち上げた。彼女はわざと語尾を伸ばし、意味ありげに澪をちらりと見た。澪はすぐさま視線を外し、うつむいてカップの中の紅茶をかき混ぜた。「変な想像しないで。たぶん仕事の話をしているだけだから」「私、何も言ってないけど?何をそんなに焦ってるの?」理奈が意地悪く笑う。「焦ってなんかないわ」ち







