FAZER LOGIN数分も経たないうちに、二階から捜索する慌ただしい物音が響いてきた。綾音の視線は階段の入り口に釘付けになり、その唇は血の気のない一本の線のように引き結ばれている。
「報告します!二階書斎の隠し戸棚からこれを発見しました。中には未使用の注射器が三本、そして大量の白い錠剤が入っています。現場での簡易検査ですが、S-77系の幻覚剤と推測されます」
一人の警察官が足早に二階から降りてきた。手には黒いアタッシュケースを提げている。
綾音の身体がぐらりと揺れ、あやうくその場に崩れ落ちそうになった。
「それは濡れ衣ですわ!私、そんなもの全く知りません!誰かが私を罠にはめたんですわ――」
綾音は金切り声を上げ、その声は完全に裏返っていた。
「綾音さん」
リビングの入り口から、ひどく静かな声が響いた。
「澪、すまない。こいつらの悪ふざけは気にしなくていいからな」鷹斗は自分に言い聞かせるように穏やかな声で澪を気遣った。「泊まるのも、帰るのも、君の好きなようにしていい。帰るなら、俺がちゃんと車で家まで送るから」いつもの理性的で紳士的な鷹斗だった。決して澪の意に反するような無理強いはしない。けれど――彼女の肩を抱く指先には、わずかなためらいが感じられ、間近で見つめ返してくる濃紺の瞳の奥には、かすかだが隠しきれない「期待」が、確かに揺らめいていた。「……確かに、もうこんな時間ですね」葵と怜の熱烈な引き留めを前に、澪は恐縮しつつも小さく頷いた。けれど、彼女が泊まりを受け入れた理由はそれだけではなかった。澪の胸の奥には、鷹斗にどう切り出すべきか分からない言葉が、いくつも澱のように沈んでいたからだ。――バッグの底に眠る、あの妊娠を告げる診断書。そこまで思考が及んだ瞬間、澪の頬にカッと熱が集まった。鷹斗の視線から逃げるように慌ててうつむいたものの、意志に反して耳たぶまでほんのりと朱に染まっていくのを止められない。結局、澪は今夜この家に泊めてもらうことになり、ごく自然な流れで――鷹斗の自室で一晩過ごすことになった。◇夜十時。怜から借りた着替えを身にまとい、シャワーを浴び終えた澪は、緊張で唾を飲み込みながら鷹斗の部屋へと足を踏み入れた。室内は余計な装飾のない、驚くほど整理された静謐な空間だった。ダークトーンで統一された家具の隅にはトレーニング用の器具がいくつか置かれており、一目で鷹斗という大人の男の生活
二人の楽しげな笑い声が水音とともにキッチンに響く中、葵はリビングのソファに深く腰を下ろし、隣に座った鷹斗へ静かに視線を向けた。「鷹斗、やるじゃない」葵は小さく微笑み、息子の横顔を覗き込んだ。「よくあんな良い子を見つけてきたわね。今どき、あそこまで育ちが良くて、気遣いのできる真っ直ぐな子なんて滅多にいないわよ。……なんだか昔の自分を見ているみたいだわ」鷹斗は呆れたように片眉を跳ね上げた。「母さん、それは澪を褒めてるのか、自分を美化してるのか、どっちなんだ」「決まってるでしょ、両方よ」葵は悪戯っぽく笑ってみせた。だが、その瞳の奥にあった光は、次の瞬間、すっと冷ややかなものに変わった。鷹斗が静かに、本題を切り出したからだ。「……そういえば母さん。二週間後の俺の婚約パーティー、来てくれるよな」葵の表情が一変し、唇が引き結ばれた。「……無理よ。あんたも分かっているでしょう。真島家の人間たちにとって、私はとっくに『死んだ人間』なんだから」葵は視線を窓の外、暮れゆく街の景色へと逃がした。かつて真島家の冷酷な支配から逃れるため、そしてあの男――真島雅也の執着を断ち切るために、自らの死を偽装し、社会から姿を消したのだ。あの呪われた一族のもとへ、再び足を踏み入れる気など毛頭なかった。「……本当を言えばね、あんたが一人の女の子のために真島家へ戻って、後継者争いに身を投じるなんて言い出した時、私は心の底から反対だったのよ」葵の
「あら、あなたが澪ちゃんね?」葵は大皿を両手に持ったまま歩み寄り、大輪の花が咲くような明るい笑顔を向けた。「ちょうど良かったわ!最後のメインディッシュが焼き上がったところよ」「初めまして、神崎澪と申します」澪は深々と頭を下げ、手土産の入ったデパートの紙袋を両手で差し出した。「駅前で買ったお菓子なのですが……ほんの心ばかりのものです」「まあまあ!そんなに気を遣わなくて良かったのに!」葵は料理をダイニングテーブルに置くと、嬉しそうに目を細めて紙袋を受け取った。「ありがとう、嬉しいわ。さあさあ、そんなところに立っていないで、早く座って頂戴。せっかくの料理が冷めちゃうわ」澪は促されるままテーブルの席に着き、ほっと息をついてから、こぢんまりとした家の中をそっと見渡した。リビングとダイニングがひと続きになった間取りで、家具の数こそ多くはないが、細かなところまで手入れが行き届き、陽だまりのような温かさに満ちている。神崎家の息の詰まるような冷たさとも、真島本家の圧倒的な威圧感とも違う。ここには、本物の「家族の温もり」が生きていた。「あら、私のお茶碗、どこにしまったかしら」キッチンから葵ののんびりとした声が響いた。「俺が探すよ。座ってろ」鷹斗がすっと立ち上がり、キッチンへと向かう。澪はその背中を見つめながら、ふと胸の奥が温かくなるのを覚えた。鷹斗の足取りや声には億劫がる気配など微塵もなく、長年の習慣が身についているか
澪はハッとして息をのんだ。鷹斗はこれまで、あの冷え冷えとした真島家の広大な本邸を「家」と呼んだことが一度もない。彼にとっての「家」とは――彼と、彼の実母が二人で暮らしてきた、あの場所のことだ。『今日、母さんが珍しく仕事の休みが取れてな。腕によりをかけてご馳走を作ってくれているんだ』鷹斗の声がわずかに低くなり、語尾には澪の反応を慎重にうかがうような緊張が滲んだ。『……君も一緒に食べに来ないか?ついでに、母さんに君を紹介したいんだ』トクン、と澪の心臓が跳ね上がった。(鷹斗が……私を、お母様に会わせようとしてる?)妊娠が分かったばかりのこのタイミングで、母親に会わせてもらうなんて――あまりにも話が早すぎはしないだろうか。けれど、すぐに思い直した。あと二週間で、盛大な婚約パーティーが開かれるのだ。婚約相手の母親に挨拶するのは、ごく自然な流れではないだろうか。『澪?』返答に詰まる澪を気遣ってか、鷹斗の声に微かな不安がよぎる。『どうした?もし都合が悪いなら、無理には――』「都合悪くなんかないわ!」澪は慌ててその言葉を遮った。胸の奥がじんわりと熱くなった。「行くわ。ぜひお邪魔させて」『今どこにいる?車を回して迎えに行かせようか』病院の前にいることを悟られたくなかった澪は、すぐに断った。「ううん、大丈夫。住所だけ送ってくれれば一人で行けるから」
澪は下唇を噛み締め、無言で受話器を握りしめた。沈黙を守る娘に、深雪は言葉を続けた。『脅すつもりはないの。ただ……未婚で妊娠することがどれほど過酷なことか、私は痛いほど知っているから。かつて私も、あなたと同じ道を歩んだのだから……』「お母さん……」深雪は深いため息をついた。『昔の話はどうでもいいわ。とにかく、これはひとつの命よ。もしあなたが本気でこの子を産んで育てる覚悟があるのなら――最悪の事態も想定しておきなさい。万が一……あくまで万が一だけど、あなたと真島家の関係に何かが起きた時、あなた一人でこの子を背負って生きていく覚悟があるのかどうか。分かるわね?』長い静寂が二人を包んだ。電波が切れたのかと深雪が不安になりかけた頃、澪の静かだが芯のある声が響いた。『……分かっています。お母さん、ありがとう。……この数日間、しっかり考えてみるわ』電話を切った後、澪は病院のベンチにぽつりと座り込んだ。深雪の重みのある言葉は、浮かれかけていた彼女を冷たい現実に引き戻す楔となった。その時、ポケットの中でスマホが震えた。画面には『真島怜』の文字が表示されている。澪は気持ちを切り替え、電話に出た。「怜ちゃん?」『澪お姉ちゃ〜ん!!』スピーカー越しに届いたのは、甘えるような、泣きつくような怜の大声だった。『お兄ちゃんが私をいじめ
澪の頭の中は真っ白に染まっていた。心のどこかで、懸命に現実を拒絶しようとする自分がいた。(あり得ない……たった一度きりだったのに。まさか、あの一度で妊娠するなんて――)「やっぱり……病院に行くのは、もう少し様子を見てからでも……」澪は震える下唇を強く噛みしめた。「あの、帰りにドラッグストアで……妊娠検査薬を買って試してみます。まずは自分で確かめてから……」深雪はそれ以上無理強いはせず、ただ静かに頷いた。「ええ、分かったわ。どんな結果が出ても、絶対に真っ先に私に知らせるのよ」その日の帰り道、澪は人目を忍ぶようにドラッグストアで妊娠検査薬を買い求めた。家に帰るとすぐに洗面所に鍵をかけ、固唾をのんで三分間、結果が出るのを待った。やがて――白い判定窓に、鮮烈な二本の赤紫色の線がゆっくりと、確実に浮かび上がってきた。指先が小刻みに震え、妊娠検査薬を持つことさえままならなかった。(本当に……赤ちゃんが、いるんだ……)澪はゆっくりと床に膝をつき、自分の腕に顔をうずめた。頭の中は喜びと恐怖、混乱の渦に飲み込まれていた。◇週末、澪は一人で総合病院の産婦人科を訪れた。問診、採血、そして超音波(エコー)検査。静まり返った診察室で、中年の女性医師は手元の検査







