INICIAR SESIÓN綾音は警察官に連行され、外へ向かう途中、鷹斗の傍らを通り過ぎる瞬間、ふと足を止めた。振り返ると、彼をきつく睨みつける。
「私を引きずり下ろしただけで、勝ったつもりかしら」
彼女の掠れた声には、悪意に満ちた凄惨な響きが混じっていた。
「真島鷹斗。それより澪の心配でもしたらどう?あの子はもう、とっくに汚されているわ。今から駆けつければ、クズどもにボロ雑巾のように蹂躙される無様な姿を、まだ拝めるかもしれないわよ――」
鷹斗の表情には、いささかの変化もなかった。
彼女を一瞥することすらなく、ただ顔を微かに横に向け、傍らの警察官に告げる。
「彼女は精神状態が不安定なようです。至急、病院へ搬送して検査を受けさせることをお勧めします」
「連れて行け」
警察官が手を
「あら、あなたが澪ちゃんね?」葵は大皿を両手に持ったまま歩み寄り、大輪の花が咲くような明るい笑顔を向けた。「ちょうど良かったわ!最後のメインディッシュが焼き上がったところよ」「初めまして、神崎澪と申します」澪は深々と頭を下げ、手土産の入ったデパートの紙袋を両手で差し出した。「駅前で買ったお菓子なのですが……ほんの心ばかりのものです」「まあまあ!そんなに気を遣わなくて良かったのに!」葵は料理をダイニングテーブルに置くと、嬉しそうに目を細めて紙袋を受け取った。「ありがとう、嬉しいわ。さあさあ、そんなところに立っていないで、早く座って頂戴。せっかくの料理が冷めちゃうわ」澪は促されるままテーブルの席に着き、ほっと息をついてから、こぢんまりとした家の中をそっと見渡した。リビングとダイニングがひと続きになった間取りで、家具の数こそ多くはないが、細かなところまで手入れが行き届き、陽だまりのような温かさに満ちている。神崎家の息の詰まるような冷たさとも、真島本家の圧倒的な威圧感とも違う。ここには、本物の「家族の温もり」が生きていた。「あら、私のお茶碗、どこにしまったかしら」キッチンから葵ののんびりとした声が響いた。「俺が探すよ。座ってろ」鷹斗がすっと立ち上がり、キッチンへと向かう。澪はその背中を見つめながら、ふと胸の奥が温かくなるのを覚えた。鷹斗の足取りや声には億劫がる気配など微塵もなく、長年の習慣が身についているか
澪はハッとして息をのんだ。鷹斗はこれまで、あの冷え冷えとした真島家の広大な本邸を「家」と呼んだことが一度もない。彼にとっての「家」とは――彼と、彼の実母が二人で暮らしてきた、あの場所のことだ。『今日、母さんが珍しく仕事の休みが取れてな。腕によりをかけてご馳走を作ってくれているんだ』鷹斗の声がわずかに低くなり、語尾には澪の反応を慎重にうかがうような緊張が滲んだ。『……君も一緒に食べに来ないか?ついでに、母さんに君を紹介したいんだ』トクン、と澪の心臓が跳ね上がった。(鷹斗が……私を、お母様に会わせようとしてる?)妊娠が分かったばかりのこのタイミングで、母親に会わせてもらうなんて――あまりにも話が早すぎはしないだろうか。けれど、すぐに思い直した。あと二週間で、盛大な婚約パーティーが開かれるのだ。婚約相手の母親に挨拶するのは、ごく自然な流れではないだろうか。『澪?』返答に詰まる澪を気遣ってか、鷹斗の声に微かな不安がよぎる。『どうした?もし都合が悪いなら、無理には――』「都合悪くなんかないわ!」澪は慌ててその言葉を遮った。胸の奥がじんわりと熱くなった。「行くわ。ぜひお邪魔させて」『今どこにいる?車を回して迎えに行かせようか』病院の前にいることを悟られたくなかった澪は、すぐに断った。「ううん、大丈夫。住所だけ送ってくれれば一人で行けるから」
澪は下唇を噛み締め、無言で受話器を握りしめた。沈黙を守る娘に、深雪は言葉を続けた。『脅すつもりはないの。ただ……未婚で妊娠することがどれほど過酷なことか、私は痛いほど知っているから。かつて私も、あなたと同じ道を歩んだのだから……』「お母さん……」深雪は深いため息をついた。『昔の話はどうでもいいわ。とにかく、これはひとつの命よ。もしあなたが本気でこの子を産んで育てる覚悟があるのなら――最悪の事態も想定しておきなさい。万が一……あくまで万が一だけど、あなたと真島家の関係に何かが起きた時、あなた一人でこの子を背負って生きていく覚悟があるのかどうか。分かるわね?』長い静寂が二人を包んだ。電波が切れたのかと深雪が不安になりかけた頃、澪の静かだが芯のある声が響いた。『……分かっています。お母さん、ありがとう。……この数日間、しっかり考えてみるわ』電話を切った後、澪は病院のベンチにぽつりと座り込んだ。深雪の重みのある言葉は、浮かれかけていた彼女を冷たい現実に引き戻す楔となった。その時、ポケットの中でスマホが震えた。画面には『真島怜』の文字が表示されている。澪は気持ちを切り替え、電話に出た。「怜ちゃん?」『澪お姉ちゃ〜ん!!』スピーカー越しに届いたのは、甘えるような、泣きつくような怜の大声だった。『お兄ちゃんが私をいじめ
澪の頭の中は真っ白に染まっていた。心のどこかで、懸命に現実を拒絶しようとする自分がいた。(あり得ない……たった一度きりだったのに。まさか、あの一度で妊娠するなんて――)「やっぱり……病院に行くのは、もう少し様子を見てからでも……」澪は震える下唇を強く噛みしめた。「あの、帰りにドラッグストアで……妊娠検査薬を買って試してみます。まずは自分で確かめてから……」深雪はそれ以上無理強いはせず、ただ静かに頷いた。「ええ、分かったわ。どんな結果が出ても、絶対に真っ先に私に知らせるのよ」その日の帰り道、澪は人目を忍ぶようにドラッグストアで妊娠検査薬を買い求めた。家に帰るとすぐに洗面所に鍵をかけ、固唾をのんで三分間、結果が出るのを待った。やがて――白い判定窓に、鮮烈な二本の赤紫色の線がゆっくりと、確実に浮かび上がってきた。指先が小刻みに震え、妊娠検査薬を持つことさえままならなかった。(本当に……赤ちゃんが、いるんだ……)澪はゆっくりと床に膝をつき、自分の腕に顔をうずめた。頭の中は喜びと恐怖、混乱の渦に飲み込まれていた。◇週末、澪は一人で総合病院の産婦人科を訪れた。問診、採血、そして超音波(エコー)検査。静まり返った診察室で、中年の女性医師は手元の検査
ドレスサロンは、街の中心部にある洗練されたショッピングエリアの一角に佇んでいた。店内の壁一面に、眩いばかりの純白のドレスがずらりと並んでいる。気品ある笑顔を浮かべた店員が、静かに歩み寄ってきた。「いらっしゃいませ。本日はどのような衣装をお探しでしょうか?」「この子に着せるドレスを探しているの」深雪が隣の澪を指差し、穏やかに微笑んだ。「来月の婚約パーティー用のものです」店員の視線が澪に注がれた。頭から足元までを一通り見つめると、そのプロらしい笑顔に感嘆の色が浮かんだ。「素晴らしい透明感をお持ちのお嬢様ですね。どうぞこちらへ。まずはベースのデザインから見てまいりましょう」異変が起きたのは、三着目のドレスを試着し終えた時だった。フィッティングルームから出てきた澪に、深雪が温かい紅茶のカップを差し出そうとした。澪が手を伸ばしかけた瞬間――前触れもなく、視界がぐにゃりと歪むほどの激しい目眩に襲われた。「澪……!?」深雪の驚く声が、まるで水底から聞こえるかのように遠のいていく。声を返そうとしたものの、それよりも早く、喉の奥から強い吐き気が込み上げてきた。澪は咄嗟に口元を押さえ、よろめきながら壁に手をつくと、その場に屈み込んで激しくえづいた。「お客様!?大丈夫ですか!?」店員は青ざめ、慌てて椅子を引き寄せた。澪は支えられながら椅子に腰掛け、何度か深呼吸をして吐き気をこらえた。「すみません……少し、低血糖で立ちくらみがしただけです
昴は円香の訴えを聞くうちに、みるみる顔を曇らせていった。「澪が……お前に手を上げただと?」「ええ……!それに、神崎家なんて願い下げだ、二度と戻るつもりはないとまでおっしゃって――」「円香さん」その時、澄んだ静かな声が割り込んできた。早苗だった。彼女は紅茶のカップを手にしたまま、涼しげな笑みを浮かべて円香を見つめていた。「それは、少し筋が違うんじゃないかしら?」円香の泣き声がピタリと止まり、ギクリと体を強張らせた。早苗は優雅に微笑みつつも、その瞳の奥には冷徹な光を宿していた。「だって、お話がおかしいわ。奥様はこの家を自ら捨てて出て行かれたわけではありませんわよね?それなのに、どうして円香さんがそんなふうに奥様を責め立てる必要があるのかしら。奥様は一時的に別宅へ身を寄せられているだけで、神崎家の正妻である事実は何ひとつ変わっていないのよ」「な……っ」早苗はゆったりと言葉を重ねる。「本当は、奥様もお戻りになりたかったはずですわ。ただ素直になれなかっただけで。それなのに、円香さんがそんなふうに追い返すような真似をするから……あら、まさかとは思うけれど、円香さん。ご自分をこの家の『新しい女主人』だとでも錯覚していらっしゃるんじゃないの?」その一言は、昴が抱いていた歪んだプライドの痛いところを、完璧に射抜いた。(……そうだ。早苗の言う通りだ)昴の胸中に納得が広がっていく。深雪はこの家に戻