FAZER LOGINドレスサロンは、街の中心部にある洗練されたショッピングエリアの一角に佇んでいた。店内の壁一面に、眩いばかりの純白のドレスがずらりと並んでいる。気品ある笑顔を浮かべた店員が、静かに歩み寄ってきた。「いらっしゃいませ。本日はどのような衣装をお探しでしょうか?」「この子に着せるドレスを探しているの」深雪が隣の澪を指差し、穏やかに微笑んだ。「来月の婚約パーティー用のものです」店員の視線が澪に注がれた。頭から足元までを一通り見つめると、そのプロらしい笑顔に感嘆の色が浮かんだ。「素晴らしい透明感をお持ちのお嬢様ですね。どうぞこちらへ。まずはベースのデザインから見てまいりましょう」異変が起きたのは、三着目のドレスを試着し終えた時だった。フィッティングルームから出てきた澪に、深雪が温かい紅茶のカップを差し出そうとした。澪が手を伸ばしかけた瞬間――前触れもなく、視界がぐにゃりと歪むほどの激しい目眩に襲われた。「澪……!?」深雪の驚く声が、まるで水底から聞こえるかのように遠のいていく。声を返そうとしたものの、それよりも早く、喉の奥から強い吐き気が込み上げてきた。澪は咄嗟に口元を押さえ、よろめきながら壁に手をつくと、その場に屈み込んで激しくえづいた。「お客様!?大丈夫ですか!?」店員は青ざめ、慌てて椅子を引き寄せた。澪は支えられながら椅子に腰掛け、何度か深呼吸をして吐き気をこらえた。「すみません……少し、低血糖で立ちくらみがしただけです
昴は円香の訴えを聞くうちに、みるみる顔を曇らせていった。「澪が……お前に手を上げただと?」「ええ……!それに、神崎家なんて願い下げだ、二度と戻るつもりはないとまでおっしゃって――」「円香さん」その時、澄んだ静かな声が割り込んできた。早苗だった。彼女は紅茶のカップを手にしたまま、涼しげな笑みを浮かべて円香を見つめていた。「それは、少し筋が違うんじゃないかしら?」円香の泣き声がピタリと止まり、ギクリと体を強張らせた。早苗は優雅に微笑みつつも、その瞳の奥には冷徹な光を宿していた。「だって、お話がおかしいわ。奥様はこの家を自ら捨てて出て行かれたわけではありませんわよね?それなのに、どうして円香さんがそんなふうに奥様を責め立てる必要があるのかしら。奥様は一時的に別宅へ身を寄せられているだけで、神崎家の正妻である事実は何ひとつ変わっていないのよ」「な……っ」早苗はゆったりと言葉を重ねる。「本当は、奥様もお戻りになりたかったはずですわ。ただ素直になれなかっただけで。それなのに、円香さんがそんなふうに追い返すような真似をするから……あら、まさかとは思うけれど、円香さん。ご自分をこの家の『新しい女主人』だとでも錯覚していらっしゃるんじゃないの?」その一言は、昴が抱いていた歪んだプライドの痛いところを、完璧に射抜いた。(……そうだ。早苗の言う通りだ)昴の胸中に納得が広がっていく。深雪はこの家に戻
円香はその揺らぎを見逃さなかった。昴の心が再び深雪へ傾くのを阻止するため、ここぞとばかりに前に出た。「こんなくだらないことで、旦那様がわざわざお出ましになる必要などございませんわ。どうぞそのまま朝食をお続けになってください。私が奥様を『お迎え』に行ってまいりますから」それだけ言い残すと、円香は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、玄関へと向かった。◇門の外、車のかたわらに佇む深雪の姿を認めると、円香は顔に作り笑いを貼り付けたまま、目の奥に冷たい光を宿した。「まあ、奥様。よくもまあ抜け抜けとお戻りになれましたこと。外で若い男でも捕まえて、すっかり神崎家の正妻としての立場をお忘れになったのかと思っていましたわ。旦那様も本当にお可哀そう。よりにもよって、こんな淫乱な女を妻にしてしまわれるなんて。災難としか言いようがありませんわね」深雪の顔から血の気が引いた。「……誰が不貞を働いたというのです。根拠もない嘘で私を辱めることは許しません!」「あら奥様、そうやって突っ張らなくてもよろしいのに。神崎家の贅沢な暮らしが恋しいくせに、素直に謝るのはプライドが許さないんでしょう?この際ですわ、奥様が私に頭を下げてちゃんとお願いするなら、私から旦那様に上手く執り成して差し上げてもよろしいですのよ?何しろ旦那様は、私の言うことなら何でも聞いてくださいますから」深雪は唇を激しく噛み締め、悔しさに全身を震わせた。その時――屋敷のドアが荒々しく開かれ、澪が凄まじい気迫で駆け出してきた。澪は円香の前に立ち塞がると、一切の躊躇なく、その頬へ向けて思い切り右腕を振り抜いた。バシッ――!甲高い破裂音が響き渡り、円香は
婚約パーティーまで、あと十四日。その日の朝、澪はまたしても猛烈な吐き気に襲われ、跳ね起きるように目を覚ました。布団を蹴飛ばして洗面所へ駆け込み、洗面台にしがみついて何度も激しくえづく。胃袋を雑巾のようにぎゅうぎゅうと絞られるような苦痛だったが、口から出るものは何もなかった。鏡を覗き込むと、そこには血の気を完全に失った青白い自分の顔が映っていた。(……昨日の夕食があたったのかしら)深く考えないように自分に言い聞かせ、冷水で顔を洗って着替えを済ませると、一階のダイニングへと降りていった。ダイニングでは、父の昴、異母妹の綾音、そして側室である早苗がすでにテーブルについていた。澪が椅子を引いて席に着くと、メイドの鈴が察して朝食を運び、彼女の前に絞りたてのレモンジュースが入ったグラスを置いて微笑んだ。「澪お嬢様、今朝のレモンジュースはフレッシュな搾りたてでございます。お口に合えばよろしいのですが」澪は吸い寄せられるようにグラスを取った。レモンの強い酸味が口の中に広がり、喉の奥に残っていた不快感が少し和らいだ。彼女は無意識のうちに、立て続けに二口、三口と飲み進めていた。「澪ちゃん、最近好みが変わったの?」向かいに座る早苗が小首を傾げ、どこか探るような、好奇心を帯びた視線を向けてきた。グラスを口に当てたまま、澪の動きがピタリと止まった。昴が読んでいた新聞から目を上げ、わずかに眉をひそめる。「どうした。そのジュースに何か問題でもあったか?」早苗はふふっと上品に微笑んだ。
ずっと後になってこの出来事を振り返った時、澪はようやく違和感の正体に気づくことになる。あの日、修は一体「何」を見たからこそ、あれほどまでに正気を失い、取り乱していたのかを。だが、今の澪にそれを知る術はなかった。◇一方、壊れたスマホの向こう側。涼真は突如として暗転した画面を掲げたまま、不審そうにわずかに眉をひそめていた。前触れもなくプツリと切れた通信。画面をタップしてみても、通話が切断されたことを示す表示が出るだけだった。「どうされましたか?」隣を歩く男が、親切そうに尋ねてきた。半歩前を歩いていた黒澤が足を止め、振り返る。その穏やかな表情には一切の隙もなく、完璧な善人の仮面が張り付いていた。「いやあ、なんでもないですよ!」涼真は咄嗟にスマホをポケットに押し込み、軽快な笑みを浮かべた。「地下に入ったせいか電波が悪くなっちゃって、配信が切れちゃったみたいです」「そうですか」黒澤はそれ以上深追いせず、穏やかに頷いて案内を続けた。「この角を曲がったところが件の鰻屋です。あそこの女将さんは少し気難しいので、撮影されるなら事前に私から一言通しておきましょう」「助かります!ありがとうございます、黒澤さん!」涼真は何も疑っていない様子を装いながら、その背中を追った。――だが、前を歩く黒澤の口角が、誰にも気づかれないようにゆっくりと、暗い愉悦を孕んで吊り上がっていたことには、涼真すら気づいていなかった。
「あれは私の友達よ!」澪は張り裂けんばかりの声で叫んだ。全身の震えは、もはや恐怖ではなく純粋な怒りだった。「私は友達と通話をしていただけ!修、あなたに私の人間関係に口を出す権利なんてどこにあるの!?何様のつもりで私のスマホを踏み躙り、私を尻軽だと侮辱するのよ……!」修は一瞬呆然としたが、二人の間に決定的な認識のズレが生じていることに、ハッと気づいた。「待て……誰がお前を尻軽だなんて――」「あなたでしょう、この最低な男!」澪の声には、一切の情を削ぎ落とした氷のような冷たさが宿っていた。「私が誰とどう付き合おうと、あなたに口出しされる筋合いなんて一切ないわ!」修のこめかみがピクリと跳ねた。咄嗟に言い返そうと口を開きかけたが、怒りを力任せに噛み殺すと、再び強引に澪の腕を掴もうと手を伸ばした。「待てと言ってるだろ、話を――」だが、その指先が触れるか触れないかの瞬間、澪の身体が激しく揺れた。胸の奥から急激に込み上げてきた強烈な吐き気に耐えきれず、彼女はありったけの力で修を突き飛ばした。「触らないで……っ!」修は数歩たじろぎ、すぐに体勢を立て直した。その顔に一瞬、拒絶された痛みが走る。――だが次の瞬間、壁際へ駆け寄り、しゃがみ込んで激しくえづき始めた澪の姿を目にした途端、彼の顔色から一切の血の気が引いた。(……嘘だろ。まさか――)修の脳裏に、ある推測が雷鳴のように閃く。







