LOGIN4年後、晩秋の東都国際空港。国際線到着ロビーは、人でごった返していた。アナウンスが多言語でフライト情報を流し、あちこちでキャリーケースの車輪が転がる音が響いている。梓はカートを押しながら、人の流れに乗ってゆっくりと出口へ向かった。彼女は仕立ての良い、オフホワイトのトレンチコートを着ていた。中にはライトグレーのカシミアのセーターと黒いスラックスを合わせている。首に巻いたエルメスのスカーフは、先日F国へ出張した時に買ったものだ。長く伸ばした髪は緩くカールがかかっていて、肩にふわりと流れている。上品な薄化粧に金縁の眼鏡が、知的でクールな印象を一層際立たせていた。長旅で少し疲れている様子だったけれど、瞳は澄んでいて静かだった。落ち着いた雰囲気が漂っている。4年もあれば、人は充分に生まれ変わることができる。頻繁な海外出張やハードな仕事、そして様々な文化に触れるうちに、梓のかつての未熟さや迷いは消え去っていた。多くの経験を積んだからこその、穏やかさと自信に満ちたオーラが身についていた。それは世界に揉まれ、仕事によって磨かれた輝きで、内側から自然と滲み出ていた。今回梓が帰国したのは、母校からの招待があったからだ。「地域文化と現代デザインの融合」というテーマで講演会をする傍ら、国内の大きな観光プロジェクトの打ち合わせも兼ねていた。スケジュールはぎっしりで、東都での滞在は2日間だけだ。出口に近づいた時、梓は無意識に出迎えの群衆に目をやった。様々な名前が書かれたボードと、到着を待ちわびる人々の顔が見える。その時、彼女の視線が不意に止まった。人垣の少し外れた場所に、一人の男が立っていた。勇太だった。彼は、ずいぶん老けたように見えた。歳を取ったというより、精神的にすり減っている感じだ。服装はきちんとしているが、どこか背中が丸まっている。目の下には深い隈があり、表情からは拭いきれない疲労と陰りが感じられた。勇太はそこに突っ立って、ぼんやりと出口のあたりを見渡していたが、やがてその視線が梓と絡み合った。その瞬間、彼は何かに打たれたように固まった。その瞳には驚きや衝撃、信じられないという気持ち、そしてほんの少しの……惨めな期待が浮かんでいた。梓の足は止まらなかった。歩く速ささえ、一瞬たりとも変わらなかった。彼
2年という月日が、まるで風にめくられる本のページのように、あっという間に過ぎ去っていった。梓の人生は、はっきりと右肩上がりの曲線を描いていた。ドリームワークスで、彼女はアシスタントから、中小規模のプロジェクトを一人で任されるデザイナーにまで成長した。梓が手掛けたいくつかの古民家リノベーションや個性的な民宿のプロジェクトは、その土地の文化を巧みに取り入れ、空間での感動体験を大切にしたデザインで高い評価を受けた。さらには、業界でも注目度の高い新人デザイン賞を受賞するほどだった。菖蒲はますます梓を頼りにするようになり、重要なクライアントの多くが彼女を指名するようになった。梓の名前は、デザイン業界の狭い範囲ではあるが、少しずつ知られるようになっていった。それは、誰かの妻としてではなく、一人のデザイナーとしてだった。続けていたヨガやトレーニングのおかげで、体調もどんどん良くなっていった。背中の傷跡はまだ残っていたが、梓はもう平然と向き合えるようになっていた。あるデザインサロンのイベントでは、「傷と再生」をテーマに、不完全な印をデザインのインスピレーションに変える方法を語り、多くの人々の心を打った。彼女は依然として独り身だったが、その生活は充実していた。泳げるようになり、バリスタの資格を取り、さらには外国語の勉強も始めた。週末は同僚と食事をすることもあれば、一人で展覧会やコンサートに出かけたり、家で本を読んだり絵を描いたりして過ごした。自分の時間もお金も、そして気持ちも、すべて自分でコントロールできる自由を彼女は楽しんでいた。そんな梓に転機が訪れたのは、ある国際的なデザイン交流プロジェクトだった。F国の有名なデザイン事務所が、国内のいくつかのアトリエと提携し、優秀なデザイナーを選んでF国で1年間の研修を受けさせるというものだ。ドリームワークスはその枠を一つ獲得し、菖蒲は迷うことなく梓を推薦した。「あなたのデザインには何か特別なものがあるの。静かなのに力強くて、風情をうまく捉えている。でも、ただ記号的に表現しているだけじゃない」菖蒲は彼女に言った。「行ってみて。世界は広いのよ。あなたにはもっと大きな舞台が必要だわ」このチャンスを前に、梓は少しだけためらった。見知らぬ土地、言語の壁、まったく新しい環境。だが
梓は、「ドリームワークス」で、だんだん自分の居場所を見つけることができた。口数は多くないけど、仕事には真剣で責任感も強い。任されたタスクはいつもきっちり仕上げるし、時々出すデザインのアイデアは、はっとさせられるようなものばかりだった。最初はじっと様子をうかがっていた同僚たちも、次第に彼女を受け入れ、親しげに接するようになった。仕事の合間に、梓はヨガ教室にも通い始めた。インストラクターは梓の背中の怪我について知ると、彼女のためにメニューを調整してくれた。まずは、一番基本となる呼吸法とストレッチから始めることにした。最初は簡単なポーズですら、背中の筋肉が引っ張られて痛んだ。でも、梓は諦めなかった。数ヶ月後、嬉しい変化があった。背中のこわばりが軽くなって、雨の日も前ほど辛くなくなったのだ。体の変化は、彼女に大きな自信をもたらしてくれた。梓は改めて、この街を探索し始めた。週末になると、一人で美術館に行って展示を見たり、古い街並みを歩いて個性的なお店を探したり。公園の湖のほとりで、静かに午後を過ごしながら、スケッチをすることもあった。シンプルだけど充実した毎日。心は今までにないほど穏やかで、満たされていた。変わったのは、内面だけではなかった。規則正しい生活に、適度な運動、そして仕事への集中。そのおかげで、梓の顔色はどんどん良くなっていった。かつて青白かった頬には血の気が戻り、瞳は輝きを取り戻していた。梓からは物静かで芯の強い美しさが、自然と溢れ出るようになっていた。ファッションも色々試すようになり、長かった髪も鎖骨のあたりでばっさりとカットした。その軽やかなヘアスタイルは、彼女をより一層、洗練された爽やかな印象に見せた。そんな梓の変化は、当然人の目を惹きつけた。相手は取引先の材料メーカーのエリアマネージャーで、陣内という苗字の男だった。年は30代前半で、仕事もでき、話も面白くて上手い。プロジェクトの打ち合わせで梓と知り合ってから、彼はアプローチを始めた。アトリエに花を贈ってきたり、食事に誘ってきたり。ラインでも、面白かった出来事を共有してきたりした。正直なところ、相手は条件も悪くないし、立ち居振る舞いも紳士的だった。でも、梓は丁寧にはっきりと、彼のアプローチを断った。「どうして?」お昼休み、仲
月曜日、梓は「ドリームワークス」デザインアトリエに時間通り出社した。菖蒲は彼女を歓迎し、チームのメンバーを簡単に紹介してくれた。施工図担当の三浦慎也(みうらしんや)、インテリアコーディネートが得意な小林玲奈(こばやしれな)、それに新卒のインターンが二人。アトリエはこぢんまりとしているけれど雰囲気は良く、みんな自分の役割をこなし、忙しいながらも落ち着いていた。梓のポジションはアシスタントデザイナー。主な仕事は、菖蒲のプランニングを手伝い、パースを描き、素材リストを整理すること。それに、クライアントや施工業者と細かい打ち合わせもする。何年も専門分野から離れていた梓にとって、すべてを一から学び直す必要があった。最新のデザインソフトの画面は見るだけで目がくらみそうで、複雑な素材の仕様も覚えなくてはならない。施工の方法やルールに至っては、まったく知らなかった。同僚たちより数歳年上なのもあって、仕事を覚えるペースは自然と遅れがちだった。最初のうちは、パソコンの前で何時間も固まっていることがよくあった。簡単な平面図を何度も修正したり、ちょうどいい素材のテクスチャを探すのに長い時間を費やしたりした。背中の古傷のせいで長く座っていられず、時々立ち上がって体を動かす必要があった。同僚たちは心配そうに、時には不思議そうに梓を見ていた。でも彼女はいつも笑顔で、「持病みたいなものだから、大丈夫」と答えるだけだった。菖蒲は、梓を特別扱いしなかった。任される仕事も、他のアシスタントと変わらない。でも梓は、菖蒲が陰で自分を気にかけてくれているのを感じていた。ある日、急ぎのパースを仕上げるために夜遅くまで残業したことがある。照明や角度を何度も調整し、自分が心から満足できるまで作業を続けたのだ。翌日、その出来栄えを見た菖蒲は、何も言わずにただポンと彼女の肩を叩いてくれた。もちろん、つまずくこともあった。初めて一人でリノベーション現場の採寸に行ったときは、描いた図面の寸法が合わなかった。そして、施工図担当の慎也にやんわりと指摘された。初めて造作家具のデザインに挑戦したときは、見た目にこだわりすぎて、設置や耐荷重といった現実的な問題を忘れてしまった。結局、菖蒲に突き返され、やり直すことになった。初めて一人で気難しいクライアントに対応したと
離婚が成立した後も、梓はすぐには新しい仕事を始めなかった。彼女は一人、郊外の霊園へと向かった。そこには両親が眠っている。3年前のあの悲惨な事故から、梓は両親をここに弔った。その頃、彼女のそばにいたのは、悲しみに打ちひしがれたふりをしながら、実は腹黒い思惑を隠していた勇太だけだった。あの頃の梓にとっては、目の前が真っ暗になるほどの絶望の中で、勇太が唯一の頼りだったのだ。しかし今、再び両親の墓前に立った彼女の心は、あの頃とは全く違っていた。まだ肌寒い春先の風が、梓のこめかみにかかる後れ毛を優しく揺らしていた。真っ白な菊の花束を墓前に供え、写真に写る両親の優しい笑顔を見つめた。「父さん、母さん」梓は静かに、けれどはっきりとした声で呼びかけた。「会いに来たよ。私、離婚したの」彼女は少し言葉を切り、勇気を振り絞るように続けた。「あの人……勇太と。ごめん。こんなに時間が経って、やっと報告に来ることができたわ。ここ数年、私は……本当に愚かだった。とっくにダメになっていた結婚生活にしがみついて、自分で作った嘘の中で生きてきた。それが恩返しで、責任で、平穏な暮らしだと思い込んでいたの」梓は墓前にしゃがみ込むと、写真に積もった小さな埃を指でそっと拭った。「でも、間違っていたわ。あれは平穏なんかじゃなく、ただの鳥かごだった。愛じゃなくて、ただの同情と嘘。彼は罪悪感で私を縛りつけ、私は感謝の気持ちで自分を閉じ込めていた。二人とも、間違ってたのよ。逝ってしまった時、私のこと、すごく心配だったでしょ?ごめんなさい、ずっとがっかりさせてしまって」彼女は顔を上げた。瞳は少し潤んでいたけれど、涙はなかった。「でもね、私はもう、乗り越えたから。私なりのやり方で、すべてを終わらせたの。ちょっと格好悪い終わり方だったかもしれないけど、結果は良かった。私自身のものを取り戻せたし、何より、見失っていた自分自身を取り戻せたから」松の木を揺らす風が、さわさわと音を立てた。まるで両親が応えてくれているかのようだった。「背中の傷は、今でも痛むことがあるわ。特に雨の日はね。でも大丈夫。この傷は、私がどれだけ勇ましく一人の人間を助けたか、そして、どれだけ愚かにもそのせいで自分を縛りつけてきたかを、思い出させてくれるから。でも今は、この傷跡はもう私の一
勇太は頭を上げ、煙の向こうにいる梓を見た。その目には、紛れもない苦悩と戸惑いが浮かんでいた。「その通りだ。結婚という形でお前を縛りつけ、お金や物で満たしてやることで、俺自身の罪悪感を埋め合わせようとしたんだ。俺の心の中にある、みじめなバランスを保つためにな。それがお前への責任の取り方で、罪滅ぼしなんだと、そう思い込んでいた」梓はずっと静かに話を聞いていた。まるで自分とは関係の無い物語を聞かされているかのように、顔には何の感情も浮かんでいない。勇太が話し終えると、彼女はゆっくりと口を開いた。その声は、静まり返った深い湖のようだった。「じゃあ、あなたが浮気したのは、罪悪感に押しつぶされて誰かに助けてほしかったから?子どもを欲しがらなかったのは、私という存在そのものが、もうあなたの重荷だったから?私の両親が亡くなったことへの罪悪感から、私に対しては『養う』っていう責任しか感じられなかったってこと?」梓の問いかけ一つひとつが、勇太の顔から血の気を奪っていく。「勇太、あなたは最初から最後まで、自分のことしか考えていないのよ。自分の疲れ、自分のプレッシャー、自分の罪悪感、そして自分の息抜きが必要だってことだけ」梓は首を振った。その瞳には、ほんのわずかに、憐れみにも似た嘲りが浮かんでいた。「あなたは私を、あなたの罪滅ぼしのための道具にしたのね。一生かけて奉仕して、償い続けなければならない『債権者』かなにかのように。あなたが与えてくれたもの、結婚も、物も、面倒を見てくれるのも、全部愛なんかじゃなかった。対等な責任ですらない。ただ自分の良心を落ち着かせて、『いい人』でいるための、ただの施しだったのよ。そんな施し、いらない」彼女は、一言一言を区切って、はっきりと続けた。「この8年間、私はひとりよがりの感謝と、あなたの施しの中で生きてきた。あなたの裏切りの影と、冷たいだけの責任感の中でもね。私たち、二人とも自分に酔って、お互いを苦しめていただけ。あの投稿が、すべての見せかけを剥がしてくれるまでは」勇太は、持っていたタバコが燃え尽きて指先を焼くまで気づかなかった。はっと我に返ると、吸い殻を地面に投げ捨て、足で揉み消した。「……お前の言う通りだ」彼はがくりと肩を落とし、力なく認めた。「俺が悪かった。お前を……罪滅ぼしのための道具みた