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幼馴染の代わりだと気づいた私は、大スクープを追う

幼馴染の代わりだと気づいた私は、大スクープを追う

By:  楓Completed
Language: Japanese
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松尾篠(まつお しの)はクラブの片隅で、薄暗い照明の下で騒ぐ男女を眺めながら、自分でもどうかしていると思っていた。 こうなったのも、とある噂がきっかけだった。「増田家と松尾家の結婚が延期になったのは、元恋人が何者かに拉致されたため、増田社長は自分の結婚式が控えていたにも関わらず、その女性を助けに行ったから」 その噂を確かめるためだけに、篠ははるばる江川市までやって来たのだ。 だが、増田宗介(ますだ そうすけ)といえば、あの増田家の御曹司で、経済誌の表紙を飾り、チャリティーパーティーではスピーチを任されるほどの人物。そんな彼が、本当にこんな場所へ現れるのだろうか? 篠が帰ろうと、グラスをテーブルに置いたその瞬間―― バンッ! けたたましい音を立てて、入り口の扉が激しく弾き開けられたのだ。

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Chapter 1

第1話

松尾篠(まつお しの)はクラブの片隅で、薄暗い照明の下で騒ぐ男女を眺めながら、自分でもどうかしていると思っていた。

こうなったのも、とある噂がきっかけだった。「増田家と松尾家の結婚が延期になったのは、元恋人が何者かに拉致されたため、増田社長は自分の結婚式が控えていたにも関わらず、その女性を助けに行ったから」

その噂を確かめるためだけに、篠ははるばる江川市までやって来たのだ。

だが、増田宗介(ますだ そうすけ)といえば、あの増田家の御曹司で、経済誌の表紙を飾り、チャリティーパーティーではスピーチを任されるほどの人物。そんな彼が、本当にこんな場所へ現れるのだろうか?

篠が帰ろうと、グラスをテーブルに置いたその瞬間――

バンッ!

けたたましい音を立てて、入り口の扉が激しく弾き開けられたのだ。

そのまま店内になだれ込んできたのは、ひどく殴られた様子の、血まみれの男たちだった。「増田!お前は十何年も前に裏社会からは足を洗ったはずじゃねえのか!それなのに、たかが女ひとりのためにこっちに戻ってくるわけじゃねえだろうな?」

宗介はドアの前に立ち、彼らを冷たく見下ろしながら言った。

「戻りたいわけないだろ?もうあんな血なまぐさい生活からは足を洗って、真っ当に生きてくって決めたからな。

でも、お前たちは菖蒲が俺の女だったと知っていながら手を出した。それは、俺をこっちに引き戻したいってことじゃないのか?」

目の前の宗介は、篠の知っている男とはあまりにも違っていた。クラブは静まり返っているはずなのに、篠の耳鳴りは止まらない。

「あの女は俺たちの決まりを破りやがったうえに、3つも俺たちのシノギを潰しやがった」リーダー格の男は痛みに顔を歪めながら叫ぶ。「増田。あんな女に加担しやがって。女ひとりのためにここまで大事にして、お前の婚約者の耳に入るのが怖くねえのか?」

しかし、宗介は答えることはなく、無表情に手を上げた。すると、彼の後ろに控えていた男たちが前に出てきたと思ったら、すぐに鈍い音が数回響き、騒ぎはあっという間に終わった。

「こいつらを菖蒲のところに連れて行け。あいつに処分させろ」宗介はチンピラから視線を外しながら、そう命じた。

宗介が立ち去ろうと背を向けた瞬間、隅の方に宗介の目線が止まる。

篠は宗介が自分に気づいたのだと思った。

しかしその瞬間、宗介の隣に来た部下が彼に耳打ちする。

「久保さんが目を覚ましました。しかし、ひどく興奮していて、割れたガラスで自傷行為をしようとしています」

宗介はすぐに視線を隅の方から外し、足早に去っていった。

音楽が再び流れ始め、ダンスフロアでは人々が体を揺らし始める。

その場に立ち尽くしていたのは篠だけだった。とっくに消えてしまった宗介の後ろ姿を思い浮かべる。だが、体はすっかり冷え切っていた。

「大丈夫ですか?」クラブテンダーが心配そうに声をかけてきた。

篠は軽く頷く。

すると、クラブテンダーは笑いながら言った。「初めてだと、今のにはびっくりしますよね。でも、宗介さんがあんなに派手にやるのは久しぶりに見ました。あの幼馴染の女の子とはもう完全に縁が切れたんだとばかり思ってましたが。いやいや、やはりたいしたもんですね」

篠の指先がかすかに震える。「幼馴染?」

「ええ」クラブテンダーはグラスを拭きながら言った。「宗介さんと菖蒲さんは、昔から一緒に修羅場をくぐり抜けてきた仲なんですよ。組を分け合っただけじゃなく、宗介さんは菖蒲さんのために裏社会から足まで洗ったんですから」

彼はため息をついた。「まあ、残念なことに、二人ともプライドが高すぎて喧嘩別れしちゃったらしいんです。

どっちも折れなかったって聞きました。そんなことがあってから、宗介さんは一度も戻ってきていなかったんですけど、まさか今回、菖蒲さんが危ないと聞いて、婚約者を放ってまで駆けつけるとはねえ」

篠は胸が締め付けられるようだった。

クラブテンダーはカウンターの下から、少し色褪せた一枚の写真を取り出した。

「ほら、これ。宗介さんが菖蒲さんにプロポーズした時に撮った写真。お似合いでしょう?」

写真の真ん中では、シンプルな黒いTシャツを着た宗介が片膝をついていた。どこかまだやんちゃな少年のような雰囲気がある。そして、久保菖蒲(くぼ あやめ)を見上げるその顔には、満面の笑みが浮かんでいた。

篠が知っている男とは別人だった。自分が知る彼は、シャツのボタンを一番上まできっちりと留め、袖口には皺一つなく、計算しつくされた笑みを浮かべる男なのに。

そして、その女性の顔が……

篠は目を逸らしたが、グラスを握る手は震えていた。

クラブテンダーも篠の顔と写真を交互に見比べた。「あれ?あなたと菖蒲さん、よく見ると似てますね。でも、雰囲気は全然違うかな。菖蒲さんは近寄りがたい感じだったけど、あなたはいかにも育ちが良さそうに見えます」

その夜、篠はカウンターに座りつづけ、まるで自分自身を痛めつけるかのように、クラブテンダーが語る宗介と菖蒲の昔話に耳を傾けていた。そして、彼が本当に誰かを好きになった時、どんな風になるのかを思い知らされた。

自分に向けられる、あの丁寧で優しいけれど、決して心のこもっていない態度とは全く違うらしい。

空が白み始めた頃、篠は裏通りに出た。スマホが震え、父親である松尾陸(まつお りく)の名前が画面に表示される。

電話に出るなり、怒号が飛んできた。「お前は男一人しっかりと捕まえておくことすらできないんか!あれだけ追いかけて、やっと結婚までこぎつけたというのに、当日にすっぽかされるなんて。俺たち松尾家の面子が丸潰れもいいところだ!

さっさと増田さんを連れ戻して結婚式を挙げろ。それができないなら、お前とはもう勘当だ!」

「結婚はしないよ」

陸はまだ何か怒鳴っていたが、篠は構わずに電話を切った。

道を渡ろうとした時、通りの向こうにある朝ごはん屋が目に入った。窓際の席には、宗介と一人の女性が座っている。

その長い髪の女性は、写真で見た菖蒲だった。彼女は小さな口で食事をしている。そして宗介は、魚の骨を取り、身だけを菖蒲のお皿に乗せてあげていた。

そこには、長い年月をかけて育まれた二人だけの世界があった。

篠はふと思い出す。去年、熱を出して本当に辛かった時があった。思わず宗介に電話してしまったのだが、彼から返ってきたのは、「お大事に」という一言だけだった。
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第1話
松尾篠(まつお しの)はクラブの片隅で、薄暗い照明の下で騒ぐ男女を眺めながら、自分でもどうかしていると思っていた。こうなったのも、とある噂がきっかけだった。「増田家と松尾家の結婚が延期になったのは、元恋人が何者かに拉致されたため、増田社長は自分の結婚式が控えていたにも関わらず、その女性を助けに行ったから」その噂を確かめるためだけに、篠ははるばる江川市までやって来たのだ。だが、増田宗介(ますだ そうすけ)といえば、あの増田家の御曹司で、経済誌の表紙を飾り、チャリティーパーティーではスピーチを任されるほどの人物。そんな彼が、本当にこんな場所へ現れるのだろうか?篠が帰ろうと、グラスをテーブルに置いたその瞬間――バンッ!けたたましい音を立てて、入り口の扉が激しく弾き開けられたのだ。そのまま店内になだれ込んできたのは、ひどく殴られた様子の、血まみれの男たちだった。「増田!お前は十何年も前に裏社会からは足を洗ったはずじゃねえのか!それなのに、たかが女ひとりのためにこっちに戻ってくるわけじゃねえだろうな?」宗介はドアの前に立ち、彼らを冷たく見下ろしながら言った。「戻りたいわけないだろ?もうあんな血なまぐさい生活からは足を洗って、真っ当に生きてくって決めたからな。でも、お前たちは菖蒲が俺の女だったと知っていながら手を出した。それは、俺をこっちに引き戻したいってことじゃないのか?」目の前の宗介は、篠の知っている男とはあまりにも違っていた。クラブは静まり返っているはずなのに、篠の耳鳴りは止まらない。「あの女は俺たちの決まりを破りやがったうえに、3つも俺たちのシノギを潰しやがった」リーダー格の男は痛みに顔を歪めながら叫ぶ。「増田。あんな女に加担しやがって。女ひとりのためにここまで大事にして、お前の婚約者の耳に入るのが怖くねえのか?」しかし、宗介は答えることはなく、無表情に手を上げた。すると、彼の後ろに控えていた男たちが前に出てきたと思ったら、すぐに鈍い音が数回響き、騒ぎはあっという間に終わった。「こいつらを菖蒲のところに連れて行け。あいつに処分させろ」宗介はチンピラから視線を外しながら、そう命じた。宗介が立ち去ろうと背を向けた瞬間、隅の方に宗介の目線が止まる。篠は宗介が自分に気づいたのだと思った。しかしその瞬間、宗介の隣
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第2話
その後も結局、宗介の秘書である鈴木が薬と栄養ドリンクを届けにきただけだった。あの時はまだ、宗介は仕事第一の人だから、自分が我慢をしなくては……と自分に言い聞かせていた。飛行機を降りると、篠はそのまま会社へ向かった。「中村さん、宗盛キャピタルが利益操作をした疑いについての原稿、もうまとめてありますので」「松尾?」中村英樹(なかむら ひでき)はパソコンの画面から顔を上げた。「1週間の有給をとったんじゃなかったのか?まだ2日目だろ……」「仕事が一番ですから」そう言いながら篠はもう一枚、申請書を英樹の前に差し出す。「E国への研修申請です。本社に交換研修の枠がありますよね?それに応募したいんです」英樹の視線は申請書から、デスクの縁に置かれた篠の左手へと移った。薬指には何もなくなっていた。そこにはプラチナの結婚指輪が輝いているはずなのに。英樹はすべてを察し、責任者欄にサインをした。「会社としても、君にはぜひ行ってもらいたいと思っていたんだよ。君ほどの才能があれば、外の世界を見て視野を広げることで、もっとジャーナリズムの世界で活躍できるだろうからね」篠は静かに微笑んで、「ありがとうございます」とだけ言った。一日中、彼女は山のような資料に没頭した。座りっぱなしで腰や背中が痛くなってきた頃、ようやく顔を上げる。スマホの画面には、たくさんの通知が溜まっていた。陸からの不在着信と、怒りに満ちたメッセージの数々。友人たちからの心配の連絡。そして……宗介からのメッセージ。篠は電源を落とすと、新聞社のビルを出て、隣のよく知る路地へと入っていった。「鴉鳴ラーメン」の看板が、温かいオレンジ色の光を放っている。「あら、松尾さん。いらっしゃいませ」女将はテーブルを拭きながら、入ってきた篠に気づいて笑顔で話しかけた。「今日はお一人ですか?増田さんはご一緒じゃないんですね」「彼はちょっと忙しくて」そう答えながら、篠はいつもの席に座り、いつものを注文する。店は空いていて、すぐに大きな丼に入ったラーメンが運ばれてきた。立ちのぼる湯気で視界がかすみ、ぼんやりとした意識の中で、向かいに座る宗介の姿が見えた気がした。初めて宗介をこの店に連れてきた日のことを思い出す。あの時は、篠のアプローチが実を結び、宗介が初めて食事の誘いに応じてくれたのだった
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第3話
振り返った篠は、初めて菖蒲と対面した。宗介が眉をひそめる。「安静にしてろって言っただろ?」「あなたには関係ないから」菖蒲は口の端を吊り上げた。「わざわざこの女を助けに戻ってきたぐらいなんだから、私のことなんてどうでもいいくせにさ」宗介は菖蒲に近づき、低い声でなだめる。「そんなこと言うな。お前はまだ怪我が治ってないんだから。部下に家まで送らせるよ」篠は普段の宗介とは違う、人間らしい一面を垣間見た気がした。ただ何も言わず、静かにその場を立ち去った。翌朝、篠はウェディングプランナーから電話を受けた。「松尾さん、お世話になっております。増田さんとの結婚式でご使用予定でした貴重品なのですが、当ホテルの金庫にてお預かりしております。近いうちにお引き取りに来ていただくことは可能でしょうか?」篠は眉間をもみほぐす。「申し訳ないんですが、郵送してもらうことはできますか?」しかし、ウェディングプランナーは困っているようだった。「品物が高価なものですので……当ホテルの決まりでは、直接ご本人様にお渡しすることになっておりまして」篠は数秒黙ってから、答えた。「わかりました。取りに伺います」担当者は若い女性で、ホテルに着いた篠を見るや否や、すぐににこやかな営業スマイルを浮かべる。「松尾さん。どうぞこちらへ」案内されたのは、個室の応接室だった。ベルベットの宝石台の上で、きらびやかに輝いているものがある。それは一対のダイヤモンドの指輪。これは篠の雰囲気に似合うと思ったからと、宗介がオークションで落札してくれたものだった。そのことを知った時、篠はしばらくの間、こっそりと喜びに浸っていた。隣にはドレスが二着。裾にはスズランの模様が、細かく刺繍されている。これも宗介が海外から取り寄せたものだった。だが、篠が好きな花はカスミソウで……他にも、お揃いのジュエリーやベール……どれもこれも、目を見張るほど高価な品だった。篠がただ静かにそれらを見つめる横で、担当者が残念そうに話し始める。「あと、こちらもあるんですが……」担当者はパソコンから動画をUSBメモリに移し、篠に手渡した。「結婚式の最初に流す予定だった、お二人の相性診断クイズ動画です」篠は一瞬なんのことだかわからなかったが、しばらくしてようやくそのことを思い出した。あれはまだ、結婚
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第4話
二つの声が時を越えて、今この瞬間に重なり、篠の心を締め付ける。篠は認めざるを得なかった。宗介にとって、自分はただの代わりでしかなく、彼が自分に心を動かされた瞬間でさえも、菖蒲との思い出をそのまま再現したものだったなんて。胸が息苦しいほど詰まるのに、その気持ちを吐き出す場所はどこにもなかった。その時、母親の松尾理恵(まつお りえ)から電話がかかってきた。「篠、今夜は家にご飯食べにこない?そこでお父さんに謝ったらいいんじゃないかな?あの人はカッとなりやすいけど、あなたのことを心配してるからこそなのよ」いつも自信がなく、誰かに媚びるような理恵の声色に篠は胸が苦しくなった。陸の前では一度だって、自分自身を出したことのない理恵の姿を思い出し、ため息をつく。「わかった」父の怒りは無視できても、自分にできる限りの愛情を注いでくれた母を、無視することはできなかった。篠が手土産を持って実家のドアを開けると、陸の怒鳴り声が聞こえてきた。「誰が帰ってこいと言った?」理恵は出来立てのおかずをキッチンから運びながら、困ったように笑う。「ちょうどよかった。さあ、手を洗ってごはんにしよう」その一言で、陸の怒りの矛先は理恵へと向かい、彼は手を振り上げると、理恵が持っていたお皿を叩き落とした。「全部お前が甘やかしたせいだ!そもそも、お前たち親子を呼び戻すべきじゃなかった。そうすれば、恥をかかされることもなかったんだからな」服が料理の汁で汚れた理恵は、うつむきながら立ち尽くしている。その姿を見た篠は、怒りで呼吸も荒くなり、一歩前に出て理恵を背後にかばった。理恵は慌てて篠を引き止め、やめてと懇願するように首を横に振った。「何してるんだ!言いたいことがあるなら言わせろ!」陸は額に青筋を浮かべて叫ぶ。「こいつのせいでこんな大事になったんだ。それでもまだ何か言えるっていうのか?」篠は怒りで歪む陸の顔をまっすぐに見つめ返した。「たとえ、私たちが恥をかいたとしても、あなたほどじゃないと思うけど。長年、妻と娘を放ったらかしにして、愛人と江川市で気ままに暮らしてたくせに。年を取って相手にされなくなって初めて、ずっとあなたを待っていてくれていたお母さんの存在をやっと思い出したんでしょ?それで、哀れみからか何か知らないけど、私たちを呼び戻しただけじゃない!
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第5話
宗盛キャピタルについての記事が出ると、世間はすぐに大騒ぎとなった。世間の関心が高まる一方、篠のもとには宗盛キャピタルから一通の手紙が届いていた。【記事の詳細について、一度話し合いの場を設けたい】という内容だった。スタッフに案内され、柔らかい絨毯が敷かれた長い廊下を進む。重厚なドアの前までくると、スタッフは立ち止まった。部屋の中には一人の女性が立っていた。その顔を見た瞬間、篠の頭は一瞬で真っ白になる。菖蒲だったのだ。「松尾さん、はじめまして」菖蒲は篠に近づいてきて、手を差し出した。「自己紹介させていただきますね。宗盛キャピタルの久保菖蒲です」篠はなんとか手を伸ばし、その手を握る。「あなたが……どうしてここに?」菖蒲は優雅に微笑んだ。「そんなに驚くことですか?宗盛キャピタルの本当のオーナーが宗介だと知っていて、わざと彼に近づいたんでしょう?あんなに彼を追いかけ回して、結婚まで持っていったのも、全部内部情報を探るためだったんじゃないんですか?」あまりにも侮辱的な言葉に、篠は思わず拳を握りしめた。爪が食い込む痛みで、なんとか理性を保つ。「そんなこと、考えたこともありません」「まっ、そんなことはどうでもいいんですけどね」菖蒲は全く気にしていない様子だ。「ただ、あなたがちょっと可哀想になっただけなんです。女のプライドを全部捨てて男を追いかけたのに、結局は結婚式当日にゴミみたいに捨てられるなんて」菖蒲は唇の端を吊り上げて笑う。「女は、やっぱり自分から追っちゃいけないんですよ?昔、宗介は私に猛アタックしてきました。告白もプロポーズも、全部彼から。だって、『こういうことは男がするものだ。好きな女にそんなことはさせられない』って、彼は言ってましたから」こういった言葉は、宗介を追いかけると決めてから、色々な人から何度も言われてきた。もう聞き飽きて、慣れたはずだった。だが、菖蒲本人から言われると、今までにないほどの屈辱と悲しみがこみ上げてくる。それでも篠はすぐに気持ちを立て直し、まっすぐに菖蒲を見つめ返した。「好きな人を勇気を出して追いかけることが、馬鹿にされるようなことだとは思いません」篠の声はいつも通りだったが、かすかに震えている。「それにあなたこそ、人の恋愛に口出ししてくるなんて、その方がどうかと思いますけど?」一瞬
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第6話
篠はスマホを握りしめた。骨の髄まで凍るような冷気が、彼女の全身を包み込んむ。宗盛キャピタルの本当のトップは宗介だ。つまり、彼はあの報道が事実だと知っていながら、こんなやり方で自分のすべてを否定したのだ。だが、悲しみに浸っている時間なんてない。篠は急いで会社に戻ると、すべてのデータソースを整理し直してバックアップを取った。訂正記事を出す準備だ。自分のせいで会社の評判を落としたり、同僚たちの努力を水の泡にしたりするわけにはいかない。篠が原稿を持って英樹のところへ向かうと、彼は気まずそうに篠から目をそらした。英樹は黙って一つの封筒を差し出した。そこには、丁寧な字で「退職届」と書かれている。「すまない」英樹の声は乾いてかすれていた。「君は俺が育てた。こんな立派な記者に成長してくれたこと、本当に誇りに思っているよ」篠にとって、英樹はただの上司ではなく、人生の道を示してくれた本当に尊敬している人でもあったのだ。だから彼女は、ただ一言だけ尋ねずにはいられなかった。「誰かから、圧力をかけられたんですか?」英樹はただ苦笑いを浮かべるだけ。「松尾、分かってほしい。俺には、守らなければならない人が他にも大勢いるんだ」篠はすべてを察し、両手で退職届を受け取った。そして一歩下がり、英樹に向かって深くお辞儀をした。英樹は目を赤くし、顔をそむけてようやく声を絞り出した。「E国への研修の件だけは、なんとか残しておいたから。会社の名前じゃなくて、個人で行くことになるがな……3日後に出発だ」「ありがとうございます」篠は会社のビルを出て、道端の手すりにもたれかかり、黙って遠くを見つめた。すると、すぐ近くから下品な怒鳴り声が聞こえ、何だか騒ぎが起きていた。露店で小物を売っていた老人が誰かに突き飛ばされ、商品も地面に散らばっている。篠は、ほとんど本能的に駆け出した。ポケットに手を伸ばし、「私は記者です」という言葉が喉まで出かかった時――名刺を取り出そうと伸ばした手は、宙で固まる。老人を突き飛ばしていた男が、篠をちらりと睨みつけ、イラついた声で言った。「なんだよ?見てんじゃねえよ!用がないならどっか行け!」その瞬間、篠はどうしていいか分からなくなった。結局、篠は何もできなかった。ただ黙って老人と散らかった物を拾うと、大事な書類
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第7話
「篠、ご飯ちゃんと食べてる?増田さんと一緒に、またこっちに帰ってこない?結婚式のこともあるし、そろそろみんなで話し合わないと……」「お母さん」篠は理恵の言葉をさえぎった。「私、あの人とは結婚しないから」電話の向こうで、数秒間の沈黙があった。やがて、いつものようにおどおどした理恵の声が聞こえてくる。「増田さんは条件もいいし、あなたにも優しくしてくれる。あんな人、めったにいないんだから、そんなこと言わないの。優しい人なんだから、あとは我慢すれば全てがうまくいくわ」また「我慢」だ。理恵はずっと我慢ばかりの人生だった。プライドを捨て、自分を押し殺すことが彼女の運命だと信じ込んでしまうほどに。篠の胸はぎゅっと締め付けられるように痛んだ。深く息を吸い込んで、尋ねる。「お母さん、私と一緒にここを出て行く気はある?」「出ていく?」理恵は戸惑った。「お父さんは最近やっと私に優しくしてくれるようになったし、私が出て行くったって、どこに行けるっていうの?篠、早まっちゃだめ。増田さんと結婚すれば、お父さんも喜ぶし、そうすれば、うちは……」その先の言葉を、篠はもう聞いていなかった。ぎゅっと目をつぶり、喉の奥にこみ上げてくるものをこらえる。「またかけるね」とだけ言って、電話を切った。近くの大型モニターでは経済ニュースが流れていて、女性キャスターが、はきはきとした声で原稿を読み上げている。「江川市出身の久保菖蒲氏が、この度、宗盛キャピタルの新CEOに就任しました。関係者によりますと、彼女の背後には巨大な資本関係が存在するとのことです。また、宗盛キャピタルの利益操作を報じて問題となっていた松尾記者ですが、本日付けで辞職したことが独自取材で判明しました。宗盛キャピタルが同記者への訴訟を続けるかは、まだ分かっていません。また、この松尾記者の評判は以前から悪かったようで、記者という立場を利用して圧力をかけたり、気に入らない相手は記事にしてマイナスなイメージを植え付けると公言していたとの情報も入っており……」モニターには、あの夜のラーメン屋でのインタビュー映像が映し出された。金髪の男が、憤慨した様子で篠を非難している。立ち止まって見ていた通行人たちも、ひそひそと話し始めた。「最近の記者って、注目を集めるためなら何でも書くんだな」「本当。無
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第8話
スマホの画面を点けては消し、また点ける。宗介が篠とのトーク画面を開くのは、これで三度目だった。最後に表示されているのは、彼が送ったメッセージ。【来月にちょうどいい日がある。結婚式の準備をやり直したいから、話したいんだけど、いつが都合いいかな?】しかし、返信がないのだ。宗介は、イライラとスマホの縁を指でなぞる。いつもの篠なら、どんなに忙しくても【わかった】の一言くらいは返してくる。そうでなければ、何かしら簡単なメッセージが返ってきてるはずだった。だが、今回は丸一日経っても既読さえつかない。まだ、怒っているのだろうか。まあ、それも当然か。結婚式の当日に、篠を置き去りにしてしまったのだから。後でいくら説明しても、埋め合わせをしても、非があるのは自分の方だった。宗介は内線電話のボタンを押す。「プレゼントの準備はできたか?」「準備できております、社長。以前ご注文された真珠のアクセサリーですよね。包装も済んでおりますが、今すぐ松尾さんにお届けしますか?」と、鈴木の声が聞こえた。「ああ。篠の勤め先か、マンションに届けてくれ」宗介は少し間を置いて言った。「もし外出中なら、行き先をきちんと確認して、必ず今日中に彼女に直接渡すように」「承知いたしました」窓の外の街に、灯りがともり始めた。宗介は最後の一通の契約書に目を通し終えると、再びスマホを手に取ったが、トーク画面は、相変わらずあのままだった。いらだちが胸をかすめ、彼はジャケットを手に取った。直接会いに行こう。顔を合わせれば、篠もきちんと話を聞いてくれるかもしれない。エレベーターが目的の階に到着し、宗介はドアの前まで歩いていくと、インターホンを押した。しかし、応答はない。すると、隣の部屋のドアが開き、中年の女性が顔を出した。「松尾さんにご用事ですか?」「はい。今日、彼女は戻ってきていましたか?」「朝、スーツケースを引いて出かけていくのを見ましたよ。出張か何かじゃないですか?」女性はそう言って首を傾げた。出張?篠の勤め先で、長期の出張が必要な仕事があるとは聞いていない。考え込んでいると、スマホが鳴った。画面には、「菖蒲」の名前。「今どこ?瑞豊グループとの契約条項で、いくつか最終確認してもらいたい点があるんだけど、先方の責任者が明日の朝一の便で帰る
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第9話
宗介ははっと顔を上げた。「訴訟?誰がそんなことを?」「久保さんのご指示です。あんな事実無根の報道に法的措置で態度を明確にしないと、真似をする連中がもっと出てきて、宗盛の評判に傷がつく、とおっしゃっていました」「ふざけるな」宗介の声は低くなった。「報道の件は俺がなんとかするから、訴状は取り下げろ」彼はスマホを手に取り、篠の勤め先に直接電話をかけた。「もしもし、中村さん?増田です。少しお伺いしたいのですが、篠は今どこへ出張に行っていますか?いつ頃戻る予定でしょうか?」電話の向こうで数秒の沈黙があった。「増田さん。松尾はもう退職しましたよ。数日前に手続きはすべて終わっています」退職?宗介はスマホを握る指にぐっと力を込めた。「どこへ行ったんですか?」「詳しいことは……申し訳ありません。私はまだ仕事が残っておりますので」電話は一方的に切られた。宗介はその場に立ち尽くした。頭の中は一つの事実だけ。篠は自分に何も言わずに去った……その時、オフィスのドアが開き、菖蒲が入ってきた。彼女は宗介が握りしめるスマホと、デスクに広げられた訴状の草案に目をやり、すべてを察したようだった。「もう知っちゃった?」宗介は顔を上げた。「お前の仕業か?お前が篠に圧力をかけて、辞めさせたのか?」「私が何をしたって?」菖蒲はソファにゆったりと腰掛けた。「記事を書いたのはあの女。辞めると言い出したのもあの女。そして、ここから去ることを選んだのもあの女自身でしょ?まさか、私が銃か何か突きつけて脅したとでも思ってるわけ?」「じゃあ、この訴訟は何だ?」宗介は書類を前に押しやった。「誰が勝手に篠を訴えろと?」「会社の利益のためよ。これが世論を黙らせる一番手っ取り早い方法だもの」菖蒲は彼の視線をまっすぐに受け止め、一歩も引かなかった。「それとも何?心配でもしてるの?」宗介は胸に込み上げる感情をなんとか抑えた。「菖蒲、そんなこと言うなよ。この件は俺が処理するから。訴訟は見送りだ」菖蒲はしばらく彼を見つめていたが、ふっと鼻で笑った。彼女は立ち上がると、宗介のデスクまで歩み寄り、デスクの縁に両手をついて少し身を乗り出す。「宗介、ひとつ質問させて」菖蒲は宗介の目をじっと見つめ、一語一句ゆっくりと言った。「もし私が今、『考えが変わった。あなたと結婚し
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第10話
3年後。『エリート教育の影:明徳国際学校における校内暴力の実態を暴く』という詳細な調査報道は、国内のメディア業界に大きな波紋を広げた。この報道は、学校側が意図的に隠蔽してきた数々の暴力事件を記録しただけではなく、その背後に複雑に絡み合う利権構造まで、鋭く分析していた。明徳国際学校は、毎年発表される「名門校ランキング」で常にトップに君臨していたが、その背後には、歴史ある名家や巨大資本の存在があった。記事が公になると、業界は騒然となった。もちろん称賛の声もあったけど、それ以上に多くの人が、「M.S.」と署名した記者の身を案じていた。なぜなら、きらびやかな世界の化けの皮を剥がすことは、巨大勢喧嘩を売るのと同じことだからだ。国際線の到着ロビー。背中に光を受けながら、篠はスーツケースを押して歩いていた。手のひらのスマホは、ひっきりなしに震えている。篠は画面に表示された名前に目をやり電話に出ると、わざと不機嫌そうな声で言った。「斎藤さん、こっちは帰ってきたばっかりだっていうのに、何この鬼電?」電話の向こうからは、明るくて早口な男の人の声がする。「おいおい、松尾さん。君には休んでる暇なんかないだろ?君のあの記事がどれだけ反響を呼んでるか分かってるのか?俺のメールボックスは、各方面からのありがたいご挨拶でパンク寸前なんだから!」「反響があるのはいいことじゃなくて?私たちみたいな報道の仕事が、まだ世の中のタブーに切り込む力を失ってないって証拠でしょ?」篠はタクシー乗り場へ向かいながら、口の端をかすかに上げた。「力があるのは結構だけど、その力が強すぎて、君が消されやしないか心配なんだよ」斎藤充(さいとう みつる)は電話の向こうでため息をついた。その心配は本物だった。「明徳の闇がどれだけ深いか、取材した君が一番よく分かってるだろ?向こうの連中がもう『じっくり話がしたい』って言ってきたぞ。こっちに着いてからの予定は?住む場所は絶対に誰にも言ってないよな?」「ええ、友達に頼んで探してもらった家だから安全だよ」篠はタクシーのドアを開けて乗り込み、行き先を告げてから電話口に向かって続けた。「心配しないで。ネタを掘り起こしたのも、記事を書いたのも私だから。どうすればいいかは分かってる。証拠は完璧に揃ってるし、裏付けも何度も取った。記事の内容自
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