LOGIN澪が洵と結婚して三年余り、彼のプライベートジェットに乗るのは今日が初めてだった。機体はエアバスACJ319。マットブラックのボディにゴールドのラインが入り、落ち着きと高級感を兼ね備えていた。今回のM国行きは、表向きは駆と月子の結婚式に出席するためだが、実際にはやるべきことが山ほどあった。例えば、ビジネスの商談だ。洵は佐々木だけでなく、FZZLプロジェクトの幹部や関係者を数名、さらに腕の立つボディガードを二人同行させていた。FZZLプロジェクトとは、千晃が言及していた、篠原グループと三木グループが共同出資し、セレスティ・メドがメインで研究開発を担当している「AI支援診療システム」のことだ。現在、AIの応用は幅広く、人々の日常生活や生産活動のあらゆる分野に浸透している。AIを活用した診断システムも、決して前例がないわけではない。しかし、AI技術はまだ発展途上であり、医療という業界の特殊性も相まって、現在のAIシステムの精度や普及率はまだ十分とは言えなかった。セレスティ・メドは、AIと医療の融合に特化した新興の医療テクノロジー企業だ。洵は以前からこの分野への参入を狙っていたが、セレスティ・メドの提携先はずっと三木グループだった。セレスティ・メドはM国に拠点を置いており、今回洵はM国へ行くついでに、セレスティ・メドが新たに採用したという新入社員と面会する予定だった。セレスティ・メド側の話によれば、その新入社員は遺伝学の専門家であり、診療データの誤差が大きいFZZLシステムに遺伝学のデータアルゴリズムを組み込み、システムの精度を大幅に向上させることができるという。今回、千晃は同行していなかった。洵が例の土地を譲ったため、最近の千晃はその土地の開発に注力していたからだ。商談に加えて、洵はM国で澪との離婚手続きも進めなければならなかった。M国での離婚手続きはA国ほど複雑ではなく、夫婦揃って役所へ出向く必要はない。M国では、夫婦の署名が入った離婚協議書を裁判所に提出しさえすれば、離婚が成立した証として離婚届受理証明書を発行してもらえる。非常にシンプルだ。澪はすでに洵に離婚の手順を確認済みだった。飛行機に搭乗する前、洵は澪に向かってスッと手を出した。洵は何も言わなかったが、澪にはその意味がすぐに分かっ
洵は軽く鼻で笑った。「分かった」彼は茶碗一杯の漢方薬を飲み干し、空になった茶碗を佐々木に返した。「下がれ。今月の歩合給は半額だ」佐々木は呆然としたが、一切弁解することなく、大人しく茶碗を受け取って退室した。社長室のドアを閉め、ガラスドアを背にした佐々木は、小声で独り言を呟いた。「私は本当に、嘘をつくのが下手ですね」社長室で、洵は胃の奥からじんわりと温かくなるのを感じた。先ほどよりもずっと楽になっていた。漢方薬がこれほど即効性があるはずがないのに、なぜか今の薬のおかげだという気がしてならなかった。スマホを手に取り、ラインを開こうとしたその時、再び社長室のドアが開かれた。千雪が入ってきても、洵は驚かなかった。ノックなしで社長室に入る特権を与えられているのは、彼女だけだからだ。「洵、オフィスが漢方薬の匂いでいっぱいね」「胃痛が再発してな。さっき薬を飲んだところだ」「ごめんなさい、私があなたのために煎じてあげるべきだったのに……」千雪の顔に浮かんだ深い自責の念を見て、洵は首を振った。「お前のせいじゃない。お前を疲れさせたくなかったんだ」「うん……あなたが私を一番大事にしてくれてるの、分かってる」千雪はにこりと微笑んだ。彼女はまだ「洵の妻」という名分は得ていないものの、常に洵の「彼女」として振る舞ってきた。洵のために薬を煎じるのは、当然自分の役目だと思っている。だが、以前何度か煎じた後、洵は「お前が疲れるから」と言って、彼女に薬を煎じさせるのをやめさせたのだ。「洵、ちょうどよかった。お菓子を持ってきたの。全部私の手作りよ。バタークッキーに、タロイモクリームのケーキ、それにスポンジケーキもあるわ」千雪がランチボックスを開けると、中には精巧で可愛らしいお菓子が並んでいた。しかし洵は手を伸ばさず、かといって彼女を追い払うこともしなかった。千雪は自分からクッキーを一つ手に取り、洵の口元に運んだ。「あーん……」千雪は口を開けて見せた。高校時代、二人が付き合っていた頃は、よくこうして洵にお菓子を「あーん」して食べさせていた。洵もそれを受け入れ、人前でそうやってイチャつくのも好きだった。洵は少しだけ躊躇した後、口を開き、千雪が差し出したクッキーを一口かじった。「味はどう?
少年院の外を吹き抜ける風は、冷たく身を切るようだった。澪は駆にきつく抱きしめられていても、少しも温かさを感じなかった。温かくないどころか、指先はどんどん氷のように冷たくなっていった。駆はいくら待っても澪からの返事がなく、焦って言葉を続けた。「夏目さん、僕を選んでくれれば、僕は月子とは結婚しない。二人で一緒に綾川市を出て、どこへでも行こう……」「あなた……そんなことして、石川さんに無責任だと思わないの?」澪の言葉は決して声を荒らげたものではなかったが、冷や水を浴びせられたように駆の熱を芯から冷やした。「あなたが石川さんを愛しているかどうかは別として、結婚を承諾したのはあなたよ。招待状だって親戚や友人に配り終えているのに、この土壇場になって婚約破棄するつもり? 彼女の立場をどう考えているの?」澪は駆を突き放した。「僕は……」澪の正論に、駆は返す言葉がなかった。ただ一つ分かっているのは、自分が月子を好きではないということだ。最初から好きではなかった。ただ一族のため、会社のために、両親の取り決めに渋々従っただけだ。駆自身は、自分が月子にそこまで顔向けできないことをしているとは思っていなかった。なぜなら、月子も自分を愛してはいないと思っているからだ。月子は名門の令嬢であり、自分との結婚も一族と会社のためだ。愛というより、彼女は自分を征服し、支配し、所有したいだけなのだ。「夏目さん、愛は元々利己的なものだ……」「でも、私はあなたを愛していないわ」その一言を、澪はきっぱりと言い放った。駆の顔色が変わった。胸にナイフを突き立てられたような激痛が走った。「どうして?僕のどこがダメなんだ?どこが篠原に劣っているっていうんだ!?」両肩を強く掴まれ、澪は痛みに顔をしかめた。「ごめん、ごめん……わざとじゃないんだ……」駆は慌てて手を離し、何度も謝った。澪は少し疲労を感じた。本来なら、駆とはとても良い友人になれると思っていた。だが、駆がこうして想いをぶつけてくる以上、もう友人として付き合うことはできない。「送ってちょうだい。結婚式のジュエリーを石川さんに渡すのを忘れないでね」澪のあまりにも冷淡な態度に、駆の顔は苦痛に歪んだ。カラカラに乾いた唇を何度も開いたが、澪を引き留める言
「私、お母さんから十億円を受け取って、あなたと縁を切るって約束したのよ。だから、今のこの状況は明確な契約違反になるわ」自分の言葉に対する澪の冷淡な反応に、かつての友人である自分にもう関心がないのかと感じ、駆の心は傷ついた。「ここには誰もいないじゃないか……」このまま彼に従わなければ、駆が自分を送り届けてはくれないだろうと察し、澪は仕方なく彼と並んで少年院の方へ向かって歩き出した。最初は、駆はずっと沈黙していた。澪も無理に話題を探そうとはしなかった。駆の隣を静かに歩きながら、彼が口を開くのを待った。「夏目さんは……篠原とは、まだ離婚していないの?」ついに駆が口を開いたが、その話題は澪にとって意外なものだった。「もうすぐよ……あなたたちの結婚式に出席するためにM国へ行った時に、そのまま現地で離婚する予定なの」澪は駆に隠すことなく、正直に答えた。「じゃあ……離婚した後は、どうするつもりなんだ?」「え?」澪は首を傾げた。「離婚した後……自分のスタジオの経営を続けて、自分の人生を生きる!」「違う、そういうことじゃなくて」駆の口調が少し焦りを帯びた。突然、彼女の手が駆に握られた。澪は驚き、手を引き抜こうとしたが、駆の力が強すぎて振りほどけなかった。二人はちょうど、少年院の前に立っていた。少年院という背景は、男女が揉み合うにはあまりにも不釣り合いだった。しかし、澪を見つめる駆の瞳は真剣そのもので、燃え盛る炎のように輝いていた。「夏目さん、篠原と離婚すれば、自由になる。堂々と他の誰かを愛することができる……」澪は、駆の顔が真っ赤に染まっているのに気づいた。「僕……僕は、ずっと……夏目さんのことが好きだったんだ……」たどたどしい言葉で、駆はついに澪への想いを打ち明けた。彼は元々、両親の取り決めに従うつもりでいた。それは自分が生まれ持った宿命のようなものだと受け入れていた。しかし、月子と一緒にいればいるほど、澪の良さを思い出さずにはいられなかった。もし許されるなら、一生この少年院の見習い教師として働き、心理カウンセラーである澪と、平凡だが甘い恋愛をしたかった。「あの時、この少年院で夏目さんが僕を助けてくれた時から、ずっと惹かれてたんだ……」駆の告白を聞いて、澪の心
佐々木に漢方薬を渡した後、澪は車で「新越(しんえつ)不動産」へと向かった。月子と待ち合わせをし、結婚式で使うジュエリーを直接渡すことになっていたのだ。新越不動産には馴染みがなく、今回が初めての訪問だった。月子からのラインによれば、彼女自身は結婚式の準備で忙しくて取りに行けないため、アシスタントを向かわせるので、午後二時に第三号館に来てほしいとのことだった。澪は警備員に道を尋ね、案内板を頼りに第三号館を探して歩いていた。「夏目さん!」突然、背後から声をかけられた。澪が振り向くと、見開かれた彼女の瞳に駆の姿が映った。今日の駆は、いつもと少し違った。白いショート丈のダウンジャケットに、ライトブルーのジーンズ、頭には黒のニット帽を被っている。頭の先から爪先まで、大企業の御曹司というオーラは微塵もなく、世間知らずの平凡な大学生のように見えた。澪は愕然とした。目の前にいる駆のこの服装は、彼女が初めて彼に会った時の印象そのものだった。「どうしてここに?」駆は、まるで澪と偶然会ったかのように装った。実際には、ここで彼女を待ち伏せしていたのだ。「石川さんに、結婚式用のジュエリーを届けに来たの」澪は手に持った紙袋を軽く持ち上げて見せた。「アシスタントの人が第三号館で待ってるって言われたんだけど、まだ第三号館が見つからなくて」「大丈夫、僕に預けてよ。僕が彼女のところへ案内するから」「え?」澪が戸惑うと、駆は続けて言った。「ちょうど月子のところへ行く用事があったんだ。万が一、彼女がジュエリーを気に入らなかった時のために、夏目さんも一緒に行こう」「うーん……じゃあ、そうさせてもらうわ」澪は駆の隣を歩き、新越不動産の敷地を出た。二人の間には、人一人分の距離が空いていた。澪は気づいていた。駆と月子はもうすぐ結婚するというのに、駆は彼女の名前を呼ぶたび、その口調はなんだが親しくなく感じる。「まずは僕の車に乗って。すぐ近くに停めてあるから。終わったら僕が送っていくよ」駆がそう言い張るので、澪は仕方なくあの派手な赤い高級車の助手席に乗り込んだ。澪が車に乗ったのを確認し、駆は密かに安堵の息をついた。彼が今日着ているこの一見地味な服は、実は入念に選び抜かれたものだった。澪との「偶然の再会」を
佐々木は恐縮しきりだった。澪と洵の離婚は、もはや時間の問題であり確定事項だ。だが、まだ離婚が成立していない以上、澪は依然として社長の妻である。そんな彼女と二人きりで食事をするのは、佐々木にとって少なからず居心地が悪かった。しかし、電話での口ぶりから、澪が何か頼み事があって自分を呼び出したのだということは察していた。洵の最も有能なアシスタントとして、佐々木は他人から見れば洵の側近中の側近だ。これまでにも、洵から便宜を引き出す目的で、意図的に佐々木に近づき機嫌を取ろうとする人間は後を絶たなかった。だから普段、佐々木は他人の食事の誘いには簡単には応じない。しかし、澪は違った。他のことは断言できなくても、澪が私利私欲のために自分を利用するような人間ではないことだけは、佐々木にも確信できた。佐々木は二種類のカニ料理セットを注文した。一つは自分の直感で選び、もう一つは澪のおすすめにした。結果として、澪のおすすめの方がずっと美味しかった。篠原グループの周辺には美味しい店がないため、佐々木はこの食事に大層満足した。「食事も済んだことですし、そろそろご用件を伺えますか?」澪がなかなか本題に入らないため、佐々木の方から単刀直入に切り出した。すると、澪が一つの大きな紙袋を彼に手渡した。「これは……」「漢方薬よ」「漢方薬」という言葉を聞いた瞬間、佐々木は澪の意図をすべて悟った。この漢方薬は、間違いなく社長のために煎じられたものだ。佐々木は手元の紙袋に目を落とした。かなりの量が入っている。「毎日三回、一回一袋飲ませて。これは一週間分よ。M国へ行く時も、忘れずに持って行ってね」澪はそう念を押しながら、心の中で思った。一週間後には、自分と洵はM国で離婚届を出すはずだ、と。「洵にこの薬を飲ませる時……あなたが煎じたって言ってくれないかしら」佐々木はまぶたを上げた。澪がそう言うことは、彼の予想通りだった。「社長は信じないと思います」佐々木は真面目な顔でそう答えた。その答えもまた、澪の予想通りだった。彼女はため息をつき、言った。「じゃあ、千雪さんが煎じたことにして」今度は、佐々木が眉をひそめた。そして、「社長は信じない」とは言わなかった。佐々木は結婚どころか彼女すらお
澪の瞳は美しかった。だが、その眼差しは複雑だった。怒り、失望、苦痛……言葉にするのも難しいほどに複雑な感情が渦巻いている。洵は淡々と口を開いた。「なんだ、嫉妬か?」澪は黙っていた。これ以上話すことはない。洵は踵を返して歩き出した。オフィスのドアを出ようとしたその時、背後から澪のはっきりとした声が響いた。「洵……そんなに私に辞退してほしいの?」洵は振り返った。答えなかった。それは肯定と同じだ。「じゃあ、賭けをしましょう」「賭けだと?」洵の冷たく沈んだ瞳に、初めて興味の色が浮かんだ。澪は洵が食いついたのを見て取り、続けた。「今回のコン
洵が熱気球の後ろから、三段重ねの大きなケーキを押して現れた。彼は伴奏なしで、バースデーソングを歌っていた。その歌声は……とても美しかった。伴奏がない分、その声の良さが際立っていた。澪は一瞬、十三歳のあの頃に引き戻されたような気がした。夢を見ているようだった。瞬きをした。目の前の光景が信じられない。洵が猛アタックしてきた大学時代でさえ、これほどロマンチックなサプライズを用意してくれたことはなかった。洵は澪の前に立ち、微笑んでいた。その深情けな瞳は、光を湛えた海面のようだった。澪はその瞳に吸い込まれそうになった。息を止め、高鳴る心臓を抑えようとした。「誕
心臓を土足で踏みつけられたような痛みを感じた。澪は力任せに洵を突き飛ばした。洵の手からワインがこぼれ、彼自身にかかった。白シャツが染まり、スーツも濡れたが、その唇に浮かぶ自信に満ちた笑みは微動だにしなかった。澪は洵を睨みつけ、両手を握りしめた。いつもこうだ。洵は簡単に自分の感情をかき乱すが、彼自身は常に余裕綽々としている。澪は下唇を噛んだ。この騒ぎに、ピーターと千雪が駆けつけた。月子は、駆が何度もテラスの方を気にしているのに気づいた。まるでそこに、とても大切な何かがあるかのように。あるいは、誰かが。月子もそちらを見た。ピーターと千雪がそれぞれ澪と
洵は千雪の手を振り払わなかった。澪の予想通りだ。洵は千雪との関係を公には認めていない。だが、千雪が彼に触れるのを許し、一度も拒絶しないこと、それがすべてを物語っていた。公輝は洵と千雪を見る目を曖昧なものに変えた。彼は四人を招き入れ、アシスタントにお茶を用意させた。公輝はジュエリーコレクター協会の会長ではないが、毎年一人の新人デザイナーを選んで協会に推薦するという不文律があった。それこそが、洵とピーターが彼を選んだ理由だ。ピーターと澪が早く着いたため、公輝はアシスタントに命じ、澪のデザイン画を千雪のものと一緒に受け取らせた。彼を訪ねるデザイナーは、自分のデザイン理







