登入妹に婚約者を奪われた。 家族のために働き続け、妹の学費も生活費も負担してきたのに。 それでも、妹を責めることができなかった。 交際記念日の夜、白石澪はホテルの前で信じられない光景を目にする。 婚約者とキスをしていたのは、最愛の妹だった。 すべてを失った雨の夜。 絶望の中で出会ったのは、華道界の若き天才家元・神宮寺綾人。 冷徹で他人に興味がないと噂される彼は、澪を見るなりこう告げた。 「やっと見つけた」 「君は俺の花だ」 どうして私なの? なぜそんな目で見つめるの? 愛されたことのない花屋の女性と、孤高の天才華道家。 これは、誰にも選ばれなかったはずの女性が、世界でただひとりの人に溺愛される物語。
查看更多神宮寺家で迎える朝は、朝から使用人たちが動いている気配はあるものの、穏やかでとても静かだった。 目を覚ました澪は、しばらく天井を見つめ、昨日のことを思い出していた。 白石家を出たこと。 綾人に連れられて神宮寺家へ戻ったこと。 そして、使用人たちに歓迎されたこと。 全部、夢のようだった。「……でも、夢じゃないのよね」 小さく呟いて起き上がる。 その弾みで、澪の胸元でお守りが揺れた。 それを見つめていると、自然と昨日考えていたことが再び蘇ってくる。 綾人はなぜ自分を知っていたのか。このお守りは何なのか。そしてなぜ神宮寺家の人々は、自分を待っていたかのように迎えてくれたのか。 知りたい。 けれど、知るのが少し怖い。 そんな複雑な気持ちを抱えたまま澪が部屋を出ると、廊下で相良と鉢合わせた。「あ、相良さん……おはようございます」「おはようございます、澪さま」 相良が柔らかく微笑む。 その穏やかな笑顔に安心感をなぜか覚える。凛とした佇まい。穏やかな口調には芯があるように感じて、そっとのことでは崩れないような気さえする。――綾人さんが信頼しているのが分かる。 なんて、まだ出会って数日も経っていないのに、澪はそんなことを考えていた。「あの……」 分からないことがあれば相良に聞くと良い、という綾人の言葉を思い出して、澪は思い切って口を開いた。「お聞きしたいことがあるんですが……」「はい、なんでしょう」 相良が柔らかく首を傾げた。 今なら聞けるかもしれない。 そう思った、その時だった。 廊下の向こうから慌ただしい足音が響いてくる。「相良さーん!」 使用人のひまわりだった。 長いエプロンドレスの裾を
綾人が視線を入口へ向ける。「最後に……」 タイミング良く、ノックの音が響いた。「失礼します」 部屋へ入ってきたのは一人の男性だった。 眼鏡をかけた端正な顔立ち。落ち着いた雰囲気を纏っている。年齢は、綾人と同じ二十代後半くらいに見えた。「お初にお目にかかります、澪さま。相良と申します」 穏やかな笑みを浮かべながら一礼する。「綾人さまの秘書を務めております」「秘書……」 澪は小さく呟く。「相良には、俺のプライベートも仕事も、大抵のことを任せている」 綾人が言う。「俺が不在のときは相良に話せ」 その言葉に相良がほんの少しだけ目を見開いた。 どうやら驚いているらしい。「綾人さま」「なんだ」 綾人が相良へと視線を向けた。「そこまで信頼していただけるとは光栄です」 そう言いながらも、なぜか相良はどこか面白そうに笑っていた。 澪は気付かない。 けれど、その場にいた使用人たちは全員気付いていた。綾人が誰かをここまで気遣うのは初めてのことだと。ましてや、澪に自分の右腕である秘書の相良を頼っていいと言うなんて。今までの綾人からはとても想像ができないような態度だった。 だからこそ、神宮寺家全体が澪を歓迎しているのだった。 紹介が終わった頃には、澪の肩の力は少しだけ抜けていた。 知らない場所。知らない人たち。 それなのに、どうしてだろう。 ここにいる人たちとなら、うまくやっていけるかもしれない。 そんなことを、ほんの少しだけ思い始めていた。 綾人や使用人たちとは出会ってから経った二日しか経っていない。 それなのに、ずっと昔からまるで自分がここにいたかのような錯覚を覚えるほど、居心地が良かった。 一体、どうしてなのだろう。 澪は無意識にそっと自分の胸元にある白い花のお守りに触れた。(そういえば……綾人さんは、このお守りのことも、私のことも前から知っているような口ぶりだったけれど……) ふと、昨日の綾人の言葉や仕草を思い出して、澪は考え込む。 綾人だけでなく、使用人たちもまるで澪の来訪を待ちわびていたような歓迎の仕方だった。 誰かに尋ねれば教えてくれるだろうか。 綾人に聞くには、なぜか少し気が引けてしまう。けれど知りたかった。自分の記憶にはないこの白い花のお守りのことも、どうして綾人たちがこんなに
澪の頬から手を離した綾人は、そのまま部屋を見回した。「紹介しておこう」 その言葉に、部屋の中にいた使用人たちが一斉に背筋を伸ばす。 まるで朝礼でも始まるかのような空気だった。「まずは……佐伯」 綾人が視線を向ける。 年配の女性が一歩前へ出た。「改めまして、佐伯梅子と申します」 柔らかな笑顔を浮かべながら頭を下げる。「神宮寺家で女中頭を務めております。この家のことは全て把握しておりますので、何か分からないことや困ったことなどあればご遠慮なくお申しつけくださいませ」「じょ、女中頭……」 澪は思わず復唱した。そんな言葉、物語の中でしか聞いたことがない。 衝撃を受けている澪の表情を見て佐伯はくすりと笑う。「綾人さまがまだこんなに小さかった頃からお仕えしております」 佐伯は手を少し下のほうに下げる仕草をして言った。「そうなんですか?」「ええ」 佐伯はどこか懐かしそうに綾人を見る。「昔は今よりずっと素直で可愛らしかったのですよ」 からかうような視線を佐伯が綾人へと向けると、綾人は小さく咳払いをした。「佐伯」 それ以上何も言うなという意味が込められている。「失礼いたしました」 そう頭を丁寧に下げた佐伯は、全く反省していない顔だった。 使用人たちの間から笑いが漏れる。 ◇「次は君付きになる者たちだ」 綾人の言葉に、三人の若い女性が前へ出た。 全員、澪と同じか少し下の年齢に見える。「森川ひまわりです!」 一人目は元気いっぱいだった。 明るい茶色の髪を揺らしながら元気よく頭を下げる。「趣味は推し活です! あと、スイーツ食べ放題に行くのも大好きで……!」「ひまわり」 佐伯が、制止するように静かに名前を呼ぶ。「はい!」 意味を分かっているのかいないのか、ひまわりは全く懲りていない笑顔で元気よく頷いた。 佐伯と綾人が同時に溜息を吐いたのを見て、澪はくすくすと笑いを零した。 そして、次の女性が一歩前へと出る。「私は水瀬芹香です」 二人目は落ち着いた雰囲気の女性だった。「何かあればいつでもご相談ください」 優しく微笑まれる。たったそれだけで頼もしさを感じるほどだ。 そして、そんな彼女の視線に促され、最後のひとりがおずおずと前へ出てきた。
昨晩通された部屋よりもさらに広い和室に、「どうぞ、どうぞ」と使用人たちによって促される。「澪さま、お疲れでしょう」 肩に手を優しく置かれ、ふわふわな座布団が置かれた座椅子の上に座らされる。「まずは温かいお茶をどうぞ」 間を置かず、澪の前に差し出されるお茶には茶柱が立っていた。「お洋服なども一式そろえております」 次々と声を掛けられ、澪の頭は全くついてきていない。「あ、あの……そんな……」 どう反応すればいいのか分からず、言葉がまごつく。 こんなふうに歓迎されたことなど人生で一度もなかった。 花屋の同僚たちは優しいけれど、それとは違う。 ここにいる人たちは本気で澪を気遣っているように見えるのだ。「澪さま、どうかなさいましたか?」 昨日から何かと世話を焼いてくれる年配の女性が微笑む。「いえ、その……」 澪は戸惑いながら周囲を見回した。「みなさん、どうしてそんなに優しくしてくださるんですか……?」 その瞬間、その場にいた使用人たちが一斉に顔を見合わせた。「どうして、と言われましても……」 年配の女性は不思議そうに首を傾げる。「綾人さまが大切になさっている方ですから」「ぐふっ」 澪は危うく、口をつけていたお茶を吹き出しそうになった。「そ、そんな、それは誤解で……っ」 テーブルに湯呑を置いて、慌てて否定する。「まあまあ」 使用人のひとりがハンカチを差し出しながら、澪をなだめるように言う。「違わないと思いますけど」 また別の使用人がそう顎に指をかけて考え込むように言う。「昨日からずっと機嫌が良いですし」 そしてまた別の使用人が、頷きながら言った。「あら、綾人さま」 部屋に通されてから姿が見えなくなっていた綾人が、部屋の前を通りかかった。呼び止められて、綾人はぴたりと動きを止める。「昨日、朝食を残さず召し上がりましたよね」 使用人の一人が真顔で言う。「は……?」 綾人は何のことだと言わんばかりに、その端正な顔を少しだけ顰めた。「それは確かに珍しいですね」 誰かが頷いた。「朝食を完食なさるなんて、三年ぶりくらいでしょうか」 年配の女性がそう口にする。「いいえ、四年かもしれませんよ」 別に使用人が眉を寄せて言う。「記録を確認しましょうか」 なぜか会議が始まった。 澪は目をぱちぱちと瞬かせる。