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第56話
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貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った 第70話
澪は本音を言えば、先に入りたくなかった。洵を警戒していたからだ。この本家で、もし洵がその気になれば、祖父の手前、大声で抵抗するわけにもいかない。それに前回無理強いされた時、死に物狂いで抵抗しても無駄だった。洵はキーボードを叩いていたが、澪が動かないのを見て顔を上げた。視線が合った瞬間、考えを見透かされた気がした。洵は笑った。普段は冷たい目が三日月のように細められ、艶めかしく、危険な香りを漂わせていた。澪が何か言う前に、彼は立ち上がり、先に浴室に入っていった。シャワーの音が聞こえ、澪はほっと息をついた。今回はいつもより長かった。澪がデザイン画を一枚描き終えても、洵はまだ出てこない。しかもシャワーの音が止み、人の気配がしなくなった。のぼせて倒れたのではないかと心配になったが、洵に限ってそんなことはないだろうとも思った。「洵？」浴室のドアをノックした。「大丈夫？」返事がない。ノブを回すと鍵はかかっていなかった。ドアを開けた。洵の長身が目の前に立ちはだかった。危うく胸板にぶつかるところだった。シャワーを浴びた洵は、腰にバスタオルを巻いただけの姿だった。鍛え上げられた腹筋が男性的な力強さを主張し、滴る水滴が色気を放っている。澪は硬直した。洵もまた、ドアの前に澪がいたことに少し驚いたようだった。「急いでたか？」と彼が聞いた。「誰と話しているの？」聞き覚えのある女性の声がして、澪はようやく洵がスマホを手にしていることに気づいた。「なんでもない」洵は電話の相手にそう言い、澪に言った。「どいてくれ」澪は道を塞いでいたことに気づき、慌てて体をずらした。浴室に入り、ドアを閉める際、洵がまだ通話を続けているのが見えた。つまり、浴室に長くいたのは倒れていたわけではなく、ラインでやり取りしていたからだ。文字だけでは物足りず、電話までしていたのだ。澪には分かった。電話の相手は千雪だ。シャワー後のパジャマ姿を見られて欲情されるのではないかと心配していた自分が馬鹿みたいだ。洵の頭の中は千雪でいっぱいなのだから。澪は自嘲気味に苦笑した。自意識過剰もいいところだ。彼女は時間をかけて入浴した。これだけ時間が経てば、洵も寝ているだろう。パジャマに着替え、浴室
貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った 第69話
トランクから洵がすでに買い物袋を取り出していた。「私が持つわ！」澪は洵のそばに行き、手を伸ばした。結婚して三年、買い物はすべて自分一人でこなし、どれだけ量があっても一人で運んできたのだ。洵は彼女を一瞥したが、無視して歩き出した。二人は並んで別荘に入った。厳は庭の家庭菜園に水をやっていた。洵と澪が一緒に来て、しかも洵が荷物を持っているのを見て、厳は嬉しそうに顔をほころばせた。澪が挨拶をすると、厳の笑顔の意味が分かった。洵の突然の気遣いは、すべて厳へのパフォーマンスだったのだ。しばらく厳の話し相手になった後、澪は台所へ向かった。誕生会の料理は品数も多く大変だが、本家には料理人も手伝いもいるため、自宅で一人で作るよりは楽だった。もっとも、あの「自宅」はもう彼女の家ではないが。澪が台所で忙しくしている間、洵は厳と将棋を指していた。「それでいい。澪を大切にしろ。あんないい子は、今の時代そうそういないぞ」洵はこっそりと手を抜きながら、淡々と「ああ」と答えた。夜の十時までかかって、ようやく翌日の下準備を終えた。台所を出ると、まだ厳が起きており、洵と将棋を指しているのに気づいた。「お爺さん、お薬飲みました？」澪が声をかけた。傍らの介護士が困った顔をしている。それを見て、澪は祖父がまた薬を嫌がっているのだと悟った。厳は心臓だけでなく持病も多く、医者の指示で大量の薬を飲まなければならない。だが歳を取って頑固になり、薬を飲むと寿命が縮むような気がして、時々駄々をこねて拒否するのだ。他の家族がいくらなだめても聞かない。だが、澪の言うことだけは聞く。「私がお相手しますよ！」澪が言うと、厳はすぐに洵を手で追い払った。「ほれほれ、澪と交代だ。洵は下手くそで話にならん」澪は苦笑した。洵がわざと負けてあげているのを知っているからだ。「お爺さん、お相手しますけど、もし負けたら私の言うことを一つ聞いてくださいね」「いいとも。澪の頼みなら何でも聞くぞ」厳は快諾し、そしてあっさり負けた。澪は将棋の相手をする時、決して手加減しない。厳は洵ほどではないが、決して弱くはない。洵は、澪が将棋を指せるだけでなく、かなりの腕前であることに少し驚いていた。「負けた負けた。澪は手加減と
貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った 第68話
澪は呆気にとられた。まさか会社で私的な話をされるとは思わなかった。「私たちはもう……」「まだ離婚していない。それに、土曜日が何の日か忘れたとは言わせないぞ」洵は顔も上げずに言った。土曜日が何の日か、もちろん覚えている――祖父の七十歳の誕生日だ。洵に言われなくとも意味は分かる。祖父の誕生日には、昔の友人が集まる。そして彼らがこぞって絶賛するのが、自分の手料理なのだ。「わかった」厳のためなら澪が断らないと分かっていた洵は、満足げに微笑んだ。「以上だ。下がっていい」澪は社長室を出た。席に戻っても、複雑な気持ちは晴れなかった。離婚を決意したはずなのに、洵からも、篠原家からも逃れられない。金曜の夜、退社後すぐに澪は篠原家の本家へ向かう準備をした。祖父の古希の祝いだ。篠原家にとっても、自分にとっても重要な日だ。昼休みにメニューを考え、明日の朝市で買う必要のない食材は、退社後に大型スーパーで買い込んだ。両手に大きな買い物袋を提げ、道端でタクシーを待っていると、黒の高級車が目の前に止まった。窓が下がり、予想通り洵の顔が見えた。「俺も帰る。乗れ」洵は澪が本家へ行くことを知っている。毎年厳の誕生日には、澪が前もって準備をするからだ。澪は少し迷ったが、乗ることにした。洵も帰るのなら、別々に行けば祖父に余計な心配をさせてしまう。少なくとも祖父の誕生日の節目に、波風を立てたくはなかった。荷物をトランクに入れ、いつものように助手席へ向かったが、ドアを開けたところで動きを止めた。以前、当然のように助手席を開けたら千雪が座っていたことを思い出したのだ。誰も乗っていなかったが、彼女はドアを閉め、大人しく後部座席に乗り込んだ。今の助手席は、千雪の指定席なのだろう。事実がどうあれ、なんとなく座りたくなかった。洵は表情を変えずに澪の行動を見ていた。ドアを開け、閉め、後ろに座るまでの一連の動作を黙って見届け、ただ口角をわずかに上げただけだった。車が走り出した。目的地は篠原家の別荘だ。澪はいつものように沈黙を守った。以前、佐々木から洵は運転中に気を散らされるのを嫌うと聞いていたからだ。千雪が話しかけてもいいのは、彼女だけの特権だ。自分にはない。市街地から別荘までの道の
貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った 第67話
「千雪、本当に気にならないの？夏目、厚かましすぎない？」青子と千雪はコーヒーメーカーのそばに立っていた。その声はわざと澪に聞かせているかのように大きかった。「社長が愛してるのも、追いかけてるのもあなたなのに、よくもまああんなに媚びへつらえるわよね」千雪は困ったように微笑んだ。「仕方ないわよ、洵が魅力的すぎるんだもの！」篠原グループ全体で、洵を名前で呼ぶのは千雪ただ一人だった。「あらあら、甘すぎるわね」青子は千雪をからかい、千雪は赤くなった頬を押さえながら、澪のデスクの方をちらりと見た。澪は本来、噂など気にしない性格だ。いずれ洵とは離婚するのだし、全社員が洵と千雪をカップルだと思っていようが、訂正するのも面倒だった。しかし、「愛人」の濡れ衣を着せることだけは我慢ならなかった。数日もすれば噂も消えるだろうと思っていた。みんな面白がっているだけだと。だが不思議なことに、噂はますます広まり、社内では千雪に同情する声が高まった。社員食堂の配膳係のおばさんでさえ、「愛人になんか飯はやらないよ。外で買ってきな！」と言い放つ始末だった。おばさんを責めるつもりはない。誰だって不倫女は憎いものだ。だが、これ以上放置して名誉を傷つけられるわけにはいかない。愛人は千雪の方だ。なぜ自分が汚名を着せられなければならないのか！「おばさん、誤解です。私、愛人じゃありません。彼氏がいるんです。彼氏はとても優秀な人です。それに私くらいの条件なら、お金持ちと結婚したいと思ったとしても、わざわざ愛人になんてならなくても相手は見つかりますよ！」澪の言葉を聞いて、おばさんは少し納得したようだった。もともと澪のことは気に入っていたのだ。美人で礼儀正しく、いつも「ありがとう」と言ってくれる。だが社内中で澪が洵に媚びる愛人であり、千雪との仲を引き裂こうとしているという噂がまことしやかに囁かれていたため、信じてしまっていたのだ。「そうだよねえ、あなたなら選び放題だもんね。まだ若いんだから、道を踏み外しちゃだめだよ」澪は苦笑した。おばさんがまだ半信半疑なのは明らかだった。「今度彼氏を連れてきますから。そうすれば信じてもらえますよね」「俺も見てみたいものだな……」不意に背後から声がして、澪は飛び上がった。振
貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った 第66話
グランド・エンペラー・ホテルの部屋に放り込まれるまで、澪は抵抗しなかった。会社の忘年会中だ。洵との間に何があろうと、騒ぎを大きくして社員たちの笑い者になるのだけは避けたかった。しかし、部屋に二人きりになると、緊張せずにはいられなかった。洵は全身の毛を逆立てたハリネズミのような澪を見て、口角を上げた。「このドレスが六千万だって？」彼は澪を上から下まで品定めした。ZMというブランドを知らないわけではないが、通常価格は二百万円前後のはずだ。洵が何を考えているか、澪には分かった。自分と蘭が着ているのはZMの限定新作だ。決して吹っかけたわけではない。「まさか社長ともあろうお方が、たかだか六千万を出し渋るつもり？」説明したところで洵は信じないだろう。澪はそう確信していた。「払えるさ」洵は静かに、しかし断固として言った。「六千万どころか、六千億だって払える」澪は背中で両手をきつく握りしめた。千雪のためなら、洵はどれだけ金を積んでも惜しくないのだ。「ただ言っておくが、次はもっとマシな稼ぎ方を考えろよ」澪は洵の言葉に呆れて笑いそうになったが、何も言わなかった。この六千万は正当な対価として堂々と受け取ればいい。金の話は終わった。帰ろうとした時、ルームサービスで新しいドレスが届けられた。「そんな格好で恥ずかしくなくても、俺が恥ずかしいんだよ。自分が誰の秘書か忘れるな」洵は新しいドレスを持って澪の前に立った。澪の胸元には酒がかかり、ベアトップのドレスの色が濃く変色していた。確かに目立つ。洵が胸元を見ているのが分かり、澪は居心地が悪かった。手を伸ばした。「貸して。自分で着替えるわ」「後ろを向け」洵の声は相変わらず淡々としていたが、拒否を許さない命令口調だった。澪は苛立ったが、部屋で二人きりの今、洵を怒らせても得はない。結局、大人しく背を向けた。ドレスのファスナーが下ろされ、ひんやりとした空気が背中に触れると同時に、洵の指先の熱を感じた。澪の体が強張った。洵が何をしようとしているのか分からない。あの夜の無理強いされた記憶が恐怖となって蘇り、全身の産毛が逆立った。「ただ着替えを手伝うだけだ。そう緊張するな。お前にそこまでの魅力はない」洵の冷たい声が耳元を掠めた。
貴方は海で笑う夜、私は愛を葬った 第65話
「言い終わった？」澪の表情は穏やかだった。彼女はゆっくりと酒を飲み、莉奈と洋子に向かって言った。「洵が千雪さんを心から愛していると言うけれど、じゃあどうして彼は千雪さんと結婚しないのかしら？私は少なくとも家政婦にはなれたけど、千雪さんは家政婦になる資格さえないってこと？それに、私と洵の間には婚姻届受理証明書があるわ。千雪さんと洵の間には何があるの？ 何かあるなら是非見せてちょうだい。洵の不倫の証拠として使わせてもらうから。忠告しておくけど、ここで私を罵ってる暇があったら、洵を説得しに行ったらどう？千雪さんが歳をとって魅力がなくなってもまだ愛人のままだったら、あなたたち二匹の犬は飼い主を失った野良犬になっちゃうわよ」澪が痛快に言い返した直後、洋子から酒を浴びせかけられた。澪が口を開くより先に、隣の蘭が悲鳴を上げた。騒ぎは多くの人々の注目を集め、洵と千雪も気づいた。「洋子、どうしたの？」千雪は口では洋子を気遣っていたが、酒まみれになった澪を見て、その目には隠しきれない得意げな色が浮かんでいた。澪はこんな無様な姿を洵に見られ、嫌悪されるだろうと覚悟していた。しかし、最初にティッシュを差し出したのは洵だった。彼女を見つめる洵の眼差しは想像以上に優しく、その凛々しい顔立ちはどの角度から見ても発光しているかのようにハンサムだった。洵の手からティッシュを受け取り、澪は少し躊躇したが「ありがとう」と言った。酒をかけられたのは洵と関係があるとはいえ、洵のせいにするわけにはいかない。「ごめんなさい澪さん、洋子はわざとじゃなかったの」千雪は謝罪し、まるで澪が追及するのを恐れるかのように、緊張した面持ちで洵の腕にしがみついた。「わざとかどうかは、監視カメラを見れば分かるわ」澪は冷ややかに言った。「分かったわ。このドレスいくら？私が洋子の代わりに……」「弁償する」という言葉が出る前に、横から洵が淡々と口を挟んだ。「俺が払う」この騒動を多くの人が見ていたが、洵が千雪の代わりに金を払うと言い出したことで、人々の関心は別の方向に移った。「やっぱり社長と千雪さんは付き合ってるんだ」「社長が追いかける最中らしいよ」「初恋の人だもんね。長年追いかけても手に入らなかった高嶺の花だよ」野次馬たちが
