LOGIN見知らぬ環境だったこともあり、千温が再び一人きりの生活に慣れるまでには、一週間ほどかかった。 その間、優和から連絡が来ることは一度もなかった。 初めから千温の人生に存在していなかったかのように、彼の消息も気配も、跡形なく消えてしまった。 もともと二人には、家の外で顔を合わせるような接点などほとんどなかった。別々に暮らすようになった今、会う機会はもうどこにもない。 初めのうち、千温は毎日のように泣いた。 朝、見知らぬ天井の下で目を覚ますたび、優和のいない現実を思い知らされた。夜になれば、別荘で彼の帰りを待っていた頃の癖が抜けず、玄関のほうへ何度も目を向けてしまう。 それでも日が経つにつれ、涙まで残らず流し尽くしてしまったかのように、少しずつ泣かなくなっていった。 新しい部屋へ移ってから二週間が過ぎた頃、千温はようやく、久しぶりに外へ出てみようと思った。 少し街を歩き、陽の光を浴びたかった。 優和が用意したマンションは、都心から遠く離れた辺鄙な場所にあった。 辺りは静かで暮らしやすいものの、近くには買い物を楽しめるような商業施設がほとんどない。 どこへ行こうかと考えているうちに、ふと、赤ちゃんのための品物を見てみたいと思った。 けれど、どこへ行けばいいのか分からない。 考えた末、千温は昔の記憶を頼りに電車へ乗り、数年前に優和が連れていってくれたショッピングモールへ向かった。 あの頃の優和は、どうにか千温を喜ばせようとしていた。 モールに並ぶ店を一軒残らず回ろうとする勢いで、どの店へ入っても一番よいものを選び、惜しげもなく千温へ買い与えてくれた。 ただ一軒、ベビー用品店だけは、千温とともに入り口で足を止めただけで、中へは入らなかった。「いつか俺たちに子供ができたら、この店にあるものを全部買ってやる」 あの日、優和は確かにそう言った。 千温はその言葉を覚えている。 いつか優和との間に子供が生まれたら、二人でこの店へ来るのだと、密かに信じていた。 本当に赤ちゃんを授かった今、隣に優和はいない。 千温はたった一人で、あの日入れなかった店へ足を踏み入れた。 店内には、色とりどりの商品が所狭しと並んでいた。 小さな衣服も、柔らかそうな毛布も、見たことのない育児用品も、すべてが千温には新鮮だった。どこから見ればよいのか分からず、入り
以前の千温なら、優和が何を言っても、何を求めても、どうにか応えようとしただろう。 けれど、今はもう応えたくなかった。 足が無意識に一歩、後ろへ下がる。 千温は胸の前で両手を固く握り合わせた。指先の震えを抑えようと力を込めても、身体の震えまでは止められない。 優和を拒むには、とても大きな勇気が必要だった。「私……疲れたの、優和」 二人にはもう、これから先などない。 優和は自分を捨て、この部屋へ置き去りにしようとしている。 それなのに、どうして今さら自分を抱こうとするのか、千温には理解できなかった。 身体を重ねることも、本来は愛し合う者同士がすることのはずなのに。 千温が後ずさるのを見た瞬間、優しさを装っていた優和の表情が崩れた。口元から笑みが消え、眼差しがたちまち冷たくなる。 そのまま手を伸ばし、逃がさないよう千温の手首を掴んだ。 もともと優和は、千温の身体を求めるとき、彼女の意思を尊重したことなど一度もなかった。 だが、強く引き寄せようとした瞬間、携帯電話の着信音が響いた。 今夜、千鶴から電話をすると言われていた。 千温を掴んでいた優和の手が、ぴたりと止まる。 彼はすぐに手を離すと、真っ先に携帯電話を取り出し、急いで通話に出た。『今、どこ?』 受話口から聞こえてきた千鶴の声には、ほとんど感情が滲んでいなかった。 優和は一度息を吐き、昂っていた感情を落ち着かせる。 口を開いた途端、先ほどまでの冷たさは消え去った。声には自然と甘さが滲み、唇にも柔らかな笑みが浮かぶ。「千鶴。今ちょうど家へ帰ろうとしていたところだよ。すごく会いたい」 電話の向こうから、千鶴がその甘い言葉に笑う声が聞こえた。『そんなに仕事が忙しいの? じゃあ、家に着いたら少しビデオ通話しようよ。私も優和の顔が見たい』「分かった。家に着いたら連絡する」 千鶴にそう言われれば、優和がここへ残る理由などなかった。 一刻も早く帰ろうと、迷うことなく玄関へ向かう。 部屋を出る直前、優和は最後に千温を振り返った。 肩を落とし、見知らぬ部屋に一人で立ち尽くす千温は、置き去りにされた子供のようで、ひどく哀れに見えた。 それでも、そばへ戻ろうとは思わなかった。「千温、ここで大人しくしていろ。勝手なことをして、俺に面倒をかけるな。分かったな」 それだけを言い残し
優和は泣き腫らした千温の顔を一瞥し、淡々と言葉を続けた。「何年も俺のそばにいたんだ。その分の面倒くらいは、最後まで見てやる」 ここまで来てしまえば、もう何を言っても変わらない。 千温は身体をかすかに震わせながら、渡された現金とカードを黙って鞄へしまった。 金銭に関してだけは、優和は昔から惜しみなく与えてくれた。 それでも千温は、優和一人に負担をかけてはいけないと考え、いつも節約していた。彼からもらった金を使うことに後ろめたさを覚え、必要なものがあっても我慢することのほうが多かった。 俯いたまま何も言わず、肩を小さく震わせている千温を見て、優和はまた泣いているのだと思った。 その声が、先ほどよりもわずかに柔らかくなる。「もう泣くな。これからも時間があるときには、俺が会いに行ってやる。……それに、俺に抱かれたくなったら、沢田を通して連絡すればいい」「……」「沢田、車を出せ」「かしこまりました、社長」 伝えるべきことは、これですべて伝えたつもりなのだろう。 優和は千温の返事を待つことなく、沢田へ出発を命じた。 新居の住所は、あらかじめ沢田へ伝えてあったらしい。沢田は行き先を確認することもなく、静かに車を発進させた。 優和は東京都内に、複数の不動産を所有していた。 そのうち二軒は両親から買い与えられたもので、ほかにも投資目的で自ら購入した物件がいくつかある。 今回、千温を一人で住まわせるために用意した部屋は、新たに購入したものだった。 高級住宅と呼べるほどではなく、都心からも、優和の別荘からも遠く離れている。 別荘を出てから一時間近く経った頃、車はようやく、閑静な住宅街にあるマンションの前へ停まった。 優和は今度ばかりは沢田に任せず、自ら千温の鞄を手に取った。 千温を連れ、マンションの中へ入っていく。 優和の感覚からすれば、ひどく狭い部屋だった。 それでも間取りは三LDKで、一人で暮らすには広すぎるほどだ。家族で住んでも、十分な余裕がある。 優和は鍵を使って玄関の扉を開けると、そのまま千温の手のひらへ鍵を置いた。「家具と家電は一通り揃えさせた。ベッドや寝具も、家政婦に頼んで用意してある。ほかに足りないものがあれば、自分で確認して、さっきのカードで買えばいい」 優和は自分なりに、千温のことを十分考えてやったつもりだった。
別荘へ入ったとき、千温の目はすでに真っ赤になっていた。 沢田は彼女の二、三歩後ろを歩き、そのまま寝室まで付き添った。 千温はどうすればいいのか分からない様子で、しばらく自分の部屋の入り口に立ち尽くしていた。やがて零れそうになる涙を懸命に堪えながらクローゼットを開け、普段よく着ていた服を取り出していく。「……小北さん、よろしければ、私がお手伝いいたします」 沢田も荷造りを手伝いたかった。 しかし、千温が片づけているのは身につける衣服だ。本人に頼まれてもいないのに勝手に手を出すわけにもいかず、少し離れた場所から見守るしかなかった。「……大丈夫です」 頬を伝う涙に気づいた千温は、沢田に見られまいと俯いたまま、小さな声で答えた。「では……私は部屋の外でお待ちしています。何か必要でしたら、いつでもお声がけください。よろしいでしょうか」「はい……」 沢田が部屋を出ていった途端、千温は力を失ったように床へ崩れ落ちた。 声が外へ漏れないよう両手で口元を押さえ、身体を震わせながら泣いた。 入院していた数日間、優和にどれほど残酷な言葉を浴びせられても、心の片隅では小さな期待を捨てきれずにいた。 もしかしたら、優和は本心から言っているわけではないのかもしれない。 自分を傷つけるために、わざと嘘をついているだけなのかもしれない。 けれど、違った。 優和の言葉は、すべて本気だった。 初めから千温を迎えに来るつもりなどなく、退院した今は、一刻も早く自分の家から追い出そうとしている。 それでも千温は、いつまでも泣いているわけにはいかなかった。 優和を長く待たせれば、また怒らせてしまうかもしれない。不機嫌にさせて、もっと嫌われてしまうかもしれない。 千温がこの家へ来たとき、持ってきたものはほとんどなかった。 もともと大した荷物を持っていなかったうえに、優和は千温が以前着ていた服を嫌っていた。 今この部屋にあるものは、当時、優和が買い与えてくれたものばかりだった。 千温は高価な品々には手を触れず、普段着にしていた服を数枚だけ鞄へ詰めた。 荷造りを終えて部屋を出ると、廊下で待っていた沢田へ頭を下げる。「すみません、お待たせしました、沢田さん。準備できました」 沢田は、千温が手にしている鞄へ何度か目を向けた。 中にはほとんど何も入っていないように
「わあ……」 思わず、小さな感嘆の声が漏れた。 先ほどまでの悲しみを忘れたように、千温は窓の外へ見入っている。やがて抑えきれないほど目を輝かせ、嬉しそうに優和を振り返った。「優和、ここ……すごくきれいだね」 何も知らない子供のようにはしゃぐ千温を見て、優和は小馬鹿にするように鼻で笑った。 それだけで、返事をしようとはしなかった。* 最後にいつだったか思い出せないほど長い間、千温は優和と外で夕食をともにしていなかった。 ましてや、これほど素敵な店へ連れてきてもらったのは初めてだ。 優和の家で暮らすようになってから、彼が千温を連れて外出することはほとんどなくなった。恋人らしいデートも、一度としてしたことがない。 二人の関係は、もう恋人とは呼べないほど曖昧なものになっている。ほんの数時間前まで、千温は悲しみに耐えきれず泣いていた。 それでも今この瞬間、胸が紛れもない喜びで高鳴っている。 美しい夜景を眺めながら、向かい合って食事をする。 まるで本当に、優和とデートをしているようだった。 食事の間、優和は終始気乗りしない様子だった。 食欲もないらしく、メインのステーキにはほとんど手をつけない。その一方で、料理に合わせて出された赤ワインだけは何杯も飲み続け、とうとう一本すべて空けてしまった。 千温は何度も優和へ話しかけようとした。 内容など何でもよかった。ほんの少しでも、彼と言葉を交わしたかった。 けれど、表情を失ったように冷たい顔をしている優和を見ると、声をかけるのが怖くなる。何度も唇を開きかけ、そのたびに言葉を呑み込んだ。 ようやく声をかけることができたのは、食後のデザートが運ばれてきてからだった。「優和……私、もうお腹いっぱいかも……」「そうか。もう食べられないなら、帰るぞ」 優和の前に置かれたデザートにも、まだ一口も手がつけられていなかった。 千温が本当にもう食べなくていいのか、せっかく運ばれてきたデザートを残しても構わないのか。そんなことを尋ねることもない。 千温が満腹だと言うなり、優和は迷いなく席を立った。 そばにいた給仕を呼び止め、ポケットから取り出したカードを渡して会計を済ませる。その一連の動作にも、食事の余韻を惜しむ様子は少しもなかった。 優和が酒を飲んでいたため、食事を終える頃には、車を運転するために沢
結局、優和は自分が満足するまで、千温を離そうとはしなかった。 彼女の身体に自分の子供がいることさえ、忘れてしまったかのようだった。 この数日間、満たされずにいた欲望をすべてぶつけるように、優和の動きには少しの容赦もない。 千温はついに耐えきれなくなり、身体を小さく縮こまらせた。 両手で下腹部を庇う姿を目にして、優和はようやく子供の存在を思い出したらしい。そこで初めて、彼女を押さえつける力をわずかに緩めた。 すべてを終えたあとも、優和の口から千温の身体を気遣う言葉が出ることはなかった。「千温、もう考えはまとまったか? 子供は諦めろ。お前一人でまともに育てられるはずもないし、俺も厄介事を抱えるつもりはない」 千温は何も答えなかった。 脚にはほとんど力が入らない。それでも震える手を動かし、乱れきったワンピースを慌てて整えた。 優和は手を貸そうともせず、千温が一人でどうにか身なりを整える様子を、黙って眺めているだけだった。 しばらく待っても、子供を諦めるという返事はない。 優和はそれ以上問い詰めず、無言のまま運転席へ戻った。 帰りの車内でも、優和は終始黙り込んでいた。重苦しい空気に押し潰されそうになり、千温も何一つ口にできない。 車が自宅へ向かっていないことに気づいたのは、しばらく走ってからだった。 やがて車は、高級ホテルの地下駐車場へと入っていく。 優和は千温をホテルの一室へ連れていき、シャワーを浴びて着替えるよう命じた。 レストランへ連れていくと約束した以上、このままの格好で店へ入らせるわけにはいかない。乱れた服をまとった女を連れて歩けば、自分が恥をかく。 彼が考えていたのは、千温の気持ちではなく、どこまでも自分の体面だった。 シャワーを終えた千温が部屋へ戻ると、優和の秘書が届けた新しい服が、すでに用意されていた。 用意されていたのは、真新しいワンピースだった。洗練されたデザインと上品な色合いは、先ほどまで千温が着ていたものとは比べものにならない。 床の隅へ無造作に置かれた紙袋には、千温でも知っている高級ブランドの名が記されていた。 優和が自分のために用意してくれたものなら、きっと今季の新作なのだろう。 そう思っただけで、沈みきっていた千温の胸に、ほんのわずかな温かさが灯った。 千温はワンピースを大切そうに手に取り、言われ