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第5話

Author: まわりまわり
雫の全身の血が瞬時に凍りついた。剛は彼女をロックオンすると、警備員の制止を振り切って飛びかかってきた。

「この金食い虫が!親父を見つけたらさっさと来やがれ!俺を追い返そうとしやがって!」

彼の怒声は大きく、その一言で周囲の視線が一斉に雫に突き刺さった。雫は掌を強く握りしめた。

「ここは会社よ、あなたが暴れていい場所じゃないわ」

彼女は声を押し殺した。剛は唾を吐き捨てた。

「会社がどうした、俺は死にかけてるんだ!さっさと金を出せ!」

雫が口を開くより早く、傍にいた怜奈が歩み寄り、柔らかな声で割って入った。

「おじ様、落ち着いてお話しください。南秘書に何かご用ですか?」

怜奈はいかにも金持ちといった身なりをしており、剛は目を輝かせた。

「お前は?」

「私は司の婚約者です」

怜奈は微笑んだ。

「南秘書のお父様ということでしたら、何かお困りのことがあれば私たちが力になりますよ」

雫は鋭く彼女を見た。

「橘さん、私のことに関わらないで!」

いつの間にか司が現れていた。その黒い瞳は冷淡に雫を掃射し、表情は厳しかった。

「雫、十分やる。自分の始末をつけろ」

彼の口調には隠しきれない嫌悪があった。雫の胸が一瞬痛んだが、すぐにそれを押し込め、平静を装った。

「承知いたしました、社長」

「司」

怜奈は司の腕に手を添えた。

「南秘書のご家庭が大変なら、プロジェクトからは外してあげたほうがいいんじゃないかしら」

そう言って彼女は雫に向き直り、思いやるような口調で言った。

「行ってあげて。プレッシャーを感じなくていいわ、会社のことは私がうまく処理しておくから」

司は肯定も否定もせず、ただ視線を雫の蒼白な顔に向けた。

「社長、私的な事情で公務に影響は出しません。それに橘さんはまだ不慣れですし……」

言い終わらぬうちに遮られた。怜奈は軽く笑った。

「あら、南秘書は私の能力不足が心配なの?司、安心して。私、必ず南秘書よりもうまくやってみせるわ。信じてくれる?」

男は眉をわずかに顰めた。怜奈は彼のためらいを感じ取り、淡々と言い添えた。

「だって、南秘書の家庭の事情は複雑でしょう?どうしても気が散ってしまうわ。このプロジェクトは重要だから、ミスは許されないもの」

司はまだ決定を下さず、その場に立つ雫を冷ややかに一瞥すると、背を向けて会社の中へと入っていった。怜奈はそれを見て下唇を噛み、不服そうに後を追った。

「司、さっきの提案はダメなの?」

彼女は早足で司に追いつき、食い下がった。

「さっき見たでしょう?司、あんなチンピラみたいな父親に育てられたのよ、南秘書もきっと……」

言葉が途中で止まった。司の黒い瞳が不快感を露わにし、表情は冷え切っていた。

男の目付きに、怜奈は心臓が縮み上がる思いがした。残りの言葉を飲み込み、彼女は平静を装ったが、内心では動揺していた。

――司は自分が雫の悪口を言ったのが不満なの?彼の心の中での雫の地位は、想像以上に高いのかもしれない。なら、なおさら彼女を残しておくわけにはいかない。

二人が会社に入っていく一方、雫は剛を非常階段へと引きずっていった。

「早く金を出せ!」

剛は待ちきれない様子だ。雫は彼を振り払い、冷たい目で見た。

「これが最後よ」

彼女は送金操作をした。

「また会社に来て騒いだら、もう一円もやらないから」

「さっさと出せばいいんだよ、疫病神が!」

剛は悪態をつきながらスマホで入金を確認し、金額を見て顔色を変えた。

「ふざけんな!たったこれっぽっちか!乞食に恵んでるつもりか!」

こめかみがズキズキと脈打つ。雫は眉間を揉み、疲れ切った声で言った。

「お母さんの手術費を払ったばかりで、もうこれしか残ってないの。大事に使って」

「ケッ!金食い虫が、お前を育てるのは何のためか!来月の分は早めに寄越せよ、じゃなきゃぶっ殺してやる!」

彼が罵りながら去っていくと、雫はもう立っていられず、壁にもたれて座り込み、力なく目を閉じた。剛は底なし沼だ。だが母のためには、どうすることもできない。

しかし幸い、今抱えているプロジェクトを成功させれば、かなりのインセンティブが入る。そうすれば母の医療費の目処が立ち、剛も当分は黙らせられるはずだ。

そう考えて、雫は大きく息を吐き、無理やり立ち上がった。身だしなみを整え、一点の隙もないようにして会社へ戻った。

「小島さん、プロジェクトの資料をまとめて、一部渡して」

アシスタントを見つけ、雫は指示した。

「でも南さん、プロジェクトの責任者は橘さんに変更になりましたよ?お渡しできません」

小島は言い淀んだ。

「橘に?誰が決めたの?」

雫は眉を寄せた。

「き、桐生社長の命令です」

桐生司、そんなに急いで愛しい人のために道を切り開きたいの?ロビーで怜奈が担当変更を提案した時、司は即答しなかった。

彼が少しは情けをかけてくれたのか、少なくとも仕事では信頼してくれているのだと思っていた。だが今思えば、それは自分の独りよがりな幻想に過ぎなかった。

雫は体の横で拳を固く握りしめ、胸を激しく上下させた。

「わかったわ」

彼女は踵を返し、社長室のドアをノックした。

「入れ」

男の冷淡な声が響く。

雫はドアを開けて入り、感情を押し殺して言った。

「社長、プロジェクト責任者の変更について、説明を求めます」

「会社の利益を考慮した結果だ」

司は冷めた目で彼女を見た。

「今朝の件は会社のイメージを著しく損なった。お前がプロジェクトチームに残るのは不適切だ」

雫は信じられなかった。

「でも、あの案件は私が苦労して取り付けたものです。社長、これはあんまりです!」

「南秘書、どうしてそんなに興奮しているの?」

社長室に備え付けの休憩室から突然怜奈が出てきて、無垢で驚いたような顔で雫を見た。

「その原因は、橘さんが一番よくご存じなのでは?」

雫の声は歯の間から絞り出されたようだった。

「南秘書、なんで私を睨むの?」

怜奈は哀れっぽく司を見た。

「司、やっぱりプロジェクトは南秘書にお返しするわ。誤解されたくないもの」

そう言いながら、彼女は付け加えた。

「ただ、取引先があの朝の騒ぎを知ったら、提携を拒否されるかもしれないけど」

二人の女が同時に彼を見ていた。一人は可憐に、一人は激昂して。ペン先が紙を滑る。司は書類にサインを終えると、温度のない声で言った。

「雫、会社の決定はお前が異議を唱えるためにあるんじゃない。ただ実行すればいい」

今朝の件は箝口令が敷かれており、取引先が知る由もない。だが怜奈は不確定要素だ。彼女の思い通りにならなければ、いつでもこの件をばらすだろう。司はそんなリスクを冒さない。

司の考えなど雫には知る由もない。彼女は今、全身が氷漬けになったように寒かった。

滑稽だ。司の決定に異議を申し立てに来るなんて。自分に何の資格があるというのか。怜奈の前で、自分など何者でもないのだ。身の程知らず。

雫は自嘲気味に笑い、もう何も言わず、覚束ない足取りで背を向け、部屋を出た。
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