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3.父の書斎

Author: 中岡 始
last update publish date: 2026-06-07 16:21:50

華乃の文を清書し終えた頃には、障子に映る光が少し高くなっていた。

紗和は筆を置き、墨が乾くのを待った。文机の上には、華乃の下書きと、書き直した返書が並んでいる。華乃の文字は丸みがあって可愛らしいが、行の終わりになるほど少しずつ詰まり、言葉の運びもところどころ幼かった。紗和はそれを直しすぎないように気をつけた。華乃らしさを残しながら、先方に失礼のない形へ整える。

それが、いちばん波風の立たないやり方だった。

小間物屋への返事も書き終え、使いに渡すための包みを整える。美佐乃の好みに合い、華乃の年頃に似合い、なおかつ出入りの者が不快に思わぬ言葉を選ぶ。たった一通の返事にも、気を遣う先はいくつもあった。

紗和は最後に自分の指先を見た。

墨はついていない。爪の間も汚れていない。けれど、筆を持ち続けた指にはかすかな強張りが残っていた。

そこへ、戸の外から声がした。

「紗和様。旦那様が書斎へおいでになるようにと」

紗和は顔を上げた。

父が。

胸の奥が、ほんの少しだけ持ち上がる。

「すぐ参ります」

返事をして、書き上げた文を乱れないようにまとめた。華乃の用向きは女中に託し、紗和は部屋を出た。

父の書斎へ向かう廊下は、奥座敷へ向かう時とは空気が違っていた。人の出入りが少なく、足音も控えめになる。壁際には古い刀掛けがあり、今は刀ではなく、拵えだけが飾られていた。榊原家がまだ武家だった頃の名残だと、幼い頃に父から聞いたことがある。

紗和はその前を通るたび、少し背筋を伸ばす。

自分も榊原の娘なのだと、そう思いたかった。

書斎の前で膝をつき、声をかける。

「紗和でございます」

中から、直清の穏やかな声がした。

「入れ」

紗和は襖を開け、静かに頭を下げた。

書斎には、墨と古い紙の匂いが満ちていた。壁一面の書棚には、先祖代々の書付や漢籍、家の記録が並んでいる。大きな文机の上には、硯箱、筆立て、封書、いくつかの帳面が置かれていた。床の間には、先代が大切にしていたという書が掛けられている。

力強い筆跡だった。

紗和にはその書の意味をすべて読み解けるわけではない。けれど、そこに込められた重さだけは伝わってくる。榊原という名の重さ。父が守ろうとしているもの。自分が、その端にでも触れていたいと思ってきたもの。

直清は文机の向こうに座っていた。

痩せた面立ちに、静かな疲れがある。美佐乃のように整えた笑みを浮かべる人ではない。華乃のように無邪気に人を呼ぶこともない。ただ、こちらを見る目は穏やかだった。

その穏やかさだけで、紗和の肩から力が少し抜ける。

「忙しいところを呼んだな」

「いいえ」

紗和は下座に座り、手を膝の上に重ねた。

直清は机の上の書付を一枚取り上げた。

「先日頼んでおいた写し、よくできていた」

紗和は一瞬、息を止めた。

「ありがとうございます」

「字がよい。乱れが少ない。女の手としては、落ち着きがある」

直清の声は、ただ事実を述べるように静かだった。

それでも、紗和の胸は温かくなった。

褒められた。

父に。

それだけのことが、こんなにも胸に残るのかと、紗和は自分でも少し驚いた。奥座敷で華乃が帯を褒められた時のように、顔いっぱいに笑うことはできない。けれど、膝の上の指先がかすかに緩む。

「父上のお役に立てたなら、嬉しゅうございます」

直清はうなずいた。

「お前は昔から、騒がずに物事を済ませる。こういうところは、母親に似たのかもしれんな」

その言葉に、紗和の視線がわずかに揺れた。

母。

直清の口からその言葉が出るのは、あまり多くない。千鶴の名を出すことはさらに少ない。父の中で母がどう残っているのか、紗和には分からなかった。懐かしんでいるのか、遠ざけているのか、それとも榊原家の過去の一つとして、静かに棚の奥へ置いているだけなのか。

それでも、母に似ていると言われると、胸の奥に小さな灯がともる。

紗和は頭を下げた。

「もったいないお言葉です」

「そう固くならずともよい」

直清は少しだけ笑った。

その笑みは、華乃へ向けるものほど柔らかくはないかもしれない。けれど、紗和には十分だった。十分だと思いたかった。

直清は机の上の帳面を開いた。

「それで、いくつか見てほしいものがある」

「はい」

「来月、帝都へ出ている親類筋がこちらへ寄る。返書を書かねばならんのだが、こちらの言い回しが少し固すぎる気がしてな。お前の字で清書しておいてくれ」

紗和は目を落とした。

机の上には、下書きの書付が三枚ほど重ねられている。

「承知しました」

「それから、贈答品の控えだ。先方へ何を送ったか、誰から何を受けたか、少し乱れている。美佐乃も華乃の支度で忙しい。お前なら落ち着いて見られるだろう」

「はい」

「あと、蔵から出した古い器の控えも確かめておいてくれ。数が合わぬと困る。私は午後に客がある」

直清は淡々と続けた。

紗和は一つずつ聞き、必要な順番を心の中で整えていく。返書の清書。贈答品の控え。器の数。華乃の文はすでに終えているが、美佐乃に頼まれた小間物屋への返事は使いへ渡す前に一度確かめた方がいい。袱紗のほつれは夜になるかもしれない。

できる。

そう思うより先に、できなければならない、という考えが浮かんだ。

「ご心配には及びません。今日中に整えておきます」

直清は満足そうにうなずいた。

「助かる。華乃にはまだ難しいだろうからな」

その言葉は、静かに置かれた。

紗和の胸の温かさが、少しだけ形を変えた。

華乃にはまだ難しい。

だから、自分に頼む。

それは父に信頼されているということなのだろうか。自分の落ち着きを認めてくれているのだろうか。書付を任せてもよい娘だと、そう思われているのだろうか。

そう思いたかった。

けれど、別の声が胸の底で小さくささやく。

華乃は難しいことから遠ざけられる。

自分は難しいことを渡される。

華乃は守られる。

自分は、役に立つ。

紗和はその声を、すぐに押し込めた。

父は自分を嫌っているわけではない。今もこうして声をかけてくれた。字を褒めてくれた。落ち着いていると言ってくれた。華乃と同じように甘やかされなくても、別の形で必要とされているのなら、それは十分にありがたいことではないか。

そう思わなければ、膝の上で指をそろえていられなかった。

直清は別の帳面を手に取った。

「お前は本当に手が早い。こういうところは、家のためになる」

「家のために、務めるのは当然でございます」

口にした言葉は、よく整っていた。

整いすぎていて、紗和自身のものではないようにも聞こえた。けれど直清は、その返事を喜んだようだった。

「そうだ。榊原の娘は、家を思わねばならん」

榊原の娘。

その言葉に、紗和は顔を上げそうになった。

父の声には、疑いがなかった。少なくともこの時、直清は紗和を榊原の娘と呼んだ。それが形式だけのものでも、家に役立つ者としての言葉でも、紗和はその響きに縋りたくなる。

自分はこの家の外にいるわけではない。

奥座敷で一歩下がっていても、華乃の文を清書していても、美佐乃の視線に白藤の簪を隠していても、父がそう呼ぶなら、まだここにいていいのかもしれない。

「はい」

紗和は静かに答えた。

直清はその返事に満足したのか、軽く息をついた。

「美佐乃も、華乃のことになると細かなところまで気を配る。あれはあれで大変なのだ。お前がこうして内向きのことを助けてくれると、家が回る」

家が回る。

紗和は、その言葉を胸の中で繰り返した。

自分がいなければ困る、という意味に聞こえた。けれど、自分がいれば楽になる、という意味にも聞こえた。どちらなのかを確かめる勇気はなかった。

「母上も、華乃も、お忙しゅうございますから」

紗和はそう言った。

母上。

美佐乃をそう呼ぶたび、舌の奥にわずかな違和感が残る。だが、榊原家の娘として、その呼び方を間違えることはできない。

直清は気づかない。

「うむ。華乃はまだ子どもっぽいところがあるが、明るい。あれは場を華やかにする娘だ」

「はい」

「お前は華乃とは違う。控えめで、堅実だ。派手さはないが、こうした務めには向いている」

褒めている。

父は、褒めてくれている。

そう分かっているのに、紗和はなぜか、胸の奥のどこかが細く冷えるのを止められなかった。

派手さはない。

務めには向いている。

華乃とは違う。

その違いを、誇ってよいのか、諦めとして受け取るべきなのか、紗和にはまだ分からない。

「ありがとうございます」

それでも礼を言った。

直清は筆を取り、何かを思い出したように書付の端へ印をつけた。

「この返書は、明日の朝まででよい。贈答品の控えは、昼過ぎに一度見せてくれ」

「承知しました」

「無理はせずともよいが、お前なら大丈夫だろう」

その言葉は優しかった。

優しいはずだった。

けれど、紗和には分かっていた。大丈夫だろうと言われれば、自分は大丈夫でいなければならない。できないとは言えない。困っているとも言えない。もし疲れていても、別の用があっても、父の信頼を曇らせるようなことは言いたくなかった。

信頼なのか、都合なのか。

その境目がどこにあるのか、紗和はまだ見つけられない。

直清が顔を上げた。

「紗和」

名前を呼ばれて、胸が小さく跳ねた。

「はい」

「頼りにしている」

その一言で、先ほどまで胸の底に沈んでいた冷たさが、また温かいものに覆われた。

頼りにしている。

娘として愛している、ではない。寂しくはないか、とも言われない。華乃のように、何か欲しいものはないかと尋ねられるわけでもない。

それでも、父の口から自分に向けられた言葉だった。

紗和は深く頭を下げた。

「精いっぱい務めます」

顔を上げた時、直清はすでに机上の書類へ視線を戻していた。話は終わったのだと分かり、紗和は帳面と書付を丁寧にまとめる。紙の端が折れないように揃え、胸の前に抱えた。

「失礼いたします」

「うむ」

短い返事を背に、紗和は書斎を出た。

襖を閉めると、墨の匂いが薄く遠ざかった。廊下の空気は、書斎の中よりも少し軽い。けれど腕の中の帳面は重かった。紙の重さだけではない。父の言葉と、榊原の名と、頼りにしているという短い一言が、そこに一緒に載っているようだった。

紗和は廊下の途中で足を止めた。

壁に掛けられた古い額の中に、榊原家の家訓が記されている。幼い頃から何度も見てきた文字だった。家を守ること。名を汚さぬこと。己を慎むこと。

紗和はその前で、自然に頭を下げた。

自分も榊原の娘なら。

父にそう呼ばれた娘なら。

家のために役立つことは、きっと悪いことではない。

そう思おうとした。

腕の中で、帳面の角が着物越しに胸へ当たる。少し痛かった。けれど紗和は持ち替えなかった。その痛みごと抱えていれば、父に任されたものを落とさずに済む気がした。

髪の奥で、白藤の簪が小さく揺れた。

母なら、何と言っただろう。

問いは浮かんだが、すぐに消した。

今は、父の用を済ませなければならない。華乃の返書も、美佐乃の言いつけも、まだ残っている。

紗和は帳面を抱え直し、静かに歩き出した。

頼りにしている。

その言葉だけを胸の中で繰り返しながら、紗和は自室へ戻る廊下を進んだ。

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