Masuk夕方の光は、廊下の端からゆっくり赤みを帯びていった。
紗和は文机の前で、最後の帳面を閉じた。昼過ぎに父へ見せるはずだった贈答品の控えはすでに整え、古い器の数も蔵番の覚えと照らし合わせておいた。返書の清書も済ませ、封をするばかりになっている。
華乃の稽古先への文と、小間物屋への返事も片づけた。
一つひとつは大きな用ではない。けれど、筆を置き、硯箱の蓋を閉めた時、肩の奥に鈍い重さが残っていた。朝からずっと、誰かの言葉を整え、誰かの用を先に済ませてきた気がする。
紗和は指先を軽く揉んだ。
墨を使い続けたせいで、右手の親指の付け根が少し張っている。痛いと言うほどではない。ただ、その小さな張りが、今日一日自分が何をしていたのかを静かに教えていた。
その時、廊下を走りかけて止まる足音がした。
「紗和お姉さま」
華乃の声だった。
紗和は手を止め、姿勢を正した。
「はい」
襖が少し開き、華乃が顔をのぞかせた。夕方の光を受けて、紅梅色の着物がいっそう明るく見える。昼間より少し髪飾りが傾いていたが、それも華乃には愛嬌になっていた。
「今、少しよろしいかしら」
「どうしました」
「明日のお稽古に持っていくものなのですけれど」
華乃は遠慮しているような顔をした。けれど、その遠慮は断られることを恐れるものではなく、甘える前に形だけ整える時の表情だった。
紗和は、すでに嫌な予感を覚えていた。
「お琴の譜と、先生へのお礼の品をまとめておかなくてはいけないの。あと、佐伯のお嬢様にお借りした本も返すので、文を添えたいのだけれど」
華乃はそこで、少し困ったように笑った。
「私、こういう細かいことは苦手なの。何をどこへ入れたらよいか、すぐ分からなくなってしまって」
紗和は、机の上に積まれた父の書付を見た。
返書はまだ封をしていない。夜までに確認し直すつもりだった。美佐乃に頼まれた袱紗のほつれも、針箱の横に置いたままだ。
ほんの少しだけ、今日はもう休みたいと思った。
その気持ちは、声になる前に胸の奥で小さく縮んだ。
華乃は紗和の沈黙に気づかないまま、部屋へ一歩入ってきた。
「お姉さまは何でもできるから、本当に羨ましいわ。私もお姉さまみたいに落ち着いていられたらよいのに」
その言葉には、棘がなかった。
褒めているつもりなのだろう。華乃は本気でそう思っている。自分が困った時に、紗和が整えてくれることを疑っていない。できる人に頼むのは自然で、姉が妹を助けるのもまた自然だと思っている。
紗和は膝の上の手を握りかけ、すぐにほどいた。
「明日の支度ですね。今から見ましょう」
華乃の顔がぱっと明るくなった。
「本当? ありがとう、紗和お姉さま」
「本とお礼の品は、華乃さんのお部屋にありますか」
「ええ。でも、どの包みに入れたらよいか分からなくて。お母様は、先方に失礼のないようにとおっしゃるのだけれど、失礼のない形がたくさんありすぎて」
華乃は楽しそうに肩をすくめた。
紗和は立ち上がろうとして、ふと机の上の書付へ目を戻した。父に任されたものを途中で置いていくことに、かすかな後ろめたさがあった。けれど華乃の支度もまた、家の用だった。
何を先にしても、誰かの用だった。
「では、すぐに参ります」
その時、廊下の向こうから美佐乃の声がした。
「華乃、こちらにいたのですね」
華乃が振り返る。
「お母様。明日の支度を、紗和お姉さまに見ていただこうと思って」
美佐乃が襖の前に立った。夕暮れの廊下で、その姿は少し影になって見えた。けれど声はいつものようにやわらかい。
「まあ、また紗和さんに甘えているの」
言葉だけなら、華乃をたしなめているように聞こえた。
紗和は反射的に頭を下げた。
「私でよければ、お手伝いいたします」
美佐乃は穏やかに微笑んだ。
「助かります。華乃はまだ、そういう細かな用向きに慣れておりませんから」
「お母様、私も頑張っているのですけれど」
「分かっていますよ。けれど、あなたは明日のお稽古で恥をかかぬよう、まず自分の支度をきちんとなさい。細かな包みや文のことは、紗和さんの方が向いています」
向いている。
紗和は、その言葉を静かに受け止めた。
朝から何度も聞いた種類の言葉だった。字がよい。落ち着いている。細かなことに気がつく。家のためになる。向いている。
それらは褒め言葉の形をしている。
けれど、褒められるたびに用が増えていく。
美佐乃は紗和へ視線を移した。
「紗和さん。華乃はこれから人前へ出る機会も増えていきます。姉として、支えてやってくださいね」
「はい」
答えは自然に出た。
美佐乃の声は少しも荒くない。命じているというより、当然のことを確認しているだけの響きだった。
「榊原の娘が外で恥をかけば、家の名に関わります。あなたは落ち着いているのですから、華乃が足りないところを少し見てやればよいのです」
華乃は申し訳なさそうに笑った。
「お姉さま、ごめんなさい。でも、お姉さまがいてくださると安心なの」
紗和は、その笑顔を見た。
安心。
その言葉は、どこか父の「頼りにしている」と似ていた。違うはずなのに、胸の奥に同じ場所へ落ちてくる。
紗和は、自分の中に残っていた小さな抵抗を探した。
疲れている。父の書付が残っている。今日はもう、指が痛い。
言えそうな言葉はいくつかあった。けれど華乃の明るい目と、美佐乃の静かな視線の前で、それらはどれも身勝手なわがままのように思えた。
「お支度を整えてから、父上の書付に戻ります」
美佐乃は少しだけ首を傾げた。
「まあ、旦那様からも何か頼まれていたの」
「はい。返書と控えを少し」
「それなら、なおのこと手早く済ませなければなりませんね。あなたならできるでしょう」
その言葉に、紗和はうなずいた。
できるでしょう。
できなければならない。
そこへ、廊下の奥から足音が近づいた。直清だった。書斎から出てきたのだろう。手には折りたたんだ書付を持っている。
「何をしている」
美佐乃が柔らかく振り返った。
「華乃の明日の支度のことで、紗和さんに少し手伝ってもらおうと思いまして」
直清は紗和を見た。
その目は穏やかだった。責めてもいない。案じてもいない。ただ、いつものように家の中の一場面を見ているだけだった。
「そうか。紗和はよく気がつく。家の中が助かるな」
胸の奥で、何かが静かに決まった。
その一言は、褒め言葉だった。
父は本当にそう思っているのだろう。紗和がいると助かる。華乃を支え、美佐乃の用を受け、書斎の書付を整え、家の内側を乱さずに動く。それを見て、父は安心している。
ならば、自分が疲れていると言えばどうなるのだろう。
美佐乃の笑みが薄くなる。華乃が困る。父が少しだけ眉を寄せる。家の中に、小さな曇りが生まれる。
それが嫌だった。
父に失望されたくなかった。華乃を泣かせたくなかった。美佐乃に、やはり前妻の娘は扱いにくいと思われたくなかった。
紗和は静かに頭を下げた。
「私でお役に立てるなら」
直清は満足そうにうなずいた。
「無理はするな」
その言葉だけが、ひどく遠く聞こえた。
無理をしているかどうかを、誰が見るのだろう。
紗和は顔を上げ、いつものように微笑んだ。
「はい」
華乃の部屋で支度を整える頃には、夕暮れはすっかり濃くなっていた。
譜を風呂敷に包み、礼の品を傷まぬよう薄紙でくるむ。佐伯家の娘へ添える短い文を考え、華乃の言葉として不自然にならないように整えた。華乃は横で何度も感心し、美佐乃は途中で様子を見に来て、静かにうなずいた。
父の書付に戻った時には、廊下の行灯に火が入っていた。
紗和はそれでも、返書を封じ、控えを確かめた。誤りがあってはならない。父に任されたものだった。華乃の支度も、家の用だった。どちらも投げ出すわけにはいかない。
すべてを終えて自室に戻ると、夜の静けさが部屋に沈んでいた。
昼間のざわめきが嘘のように、文机も鏡台も暗い。行灯の小さな灯りだけが、畳の上に丸い明かりを落としている。
紗和は鏡台の前に座った。
髪に挿した白藤の簪を、ゆっくり抜く。
一日中、見えない場所で揺れていた簪が、手のひらに落ちる。銀の地は行灯の光を受け、白い藤の花が淡く浮かんだ。昼間、美佐乃に見つけられた時の言葉が、まだどこかに残っている。
まだ使っているのね。
紗和は簪を見つめた。
母なら、何と言っただろう。
よく務めました、と言ってくれるだろうか。無理をしてはいけないと、止めてくれるだろうか。それとも、榊原の家にいる以上、そうするしかないのだと静かに諭すだろうか。
答えはなかった。
母の声は、もうはっきりとは思い出せない。残っているのは、紙の匂いと、冷たい指先と、この白藤の簪だけだった。
紗和は簪を布に包み、小さな箱へ戻した。
蓋を閉じる前に、もう一度だけ白藤の房に指を触れる。細い金具が指先に当たり、ひんやりと冷たかった。
今日も、誰にも困っているとは言わなかった。
明日も、きっと同じように過ごす。
そう思うと、胸の奥が少しだけ重くなった。けれど涙は出なかった。泣くほどのことではない。誰かに叱られたわけでも、ひどい言葉を投げられたわけでもない。むしろ褒められた。頼りにされた。助かると言われた。
それを悲しいと思う自分の方が、間違っているのかもしれない。
紗和は箱の蓋を閉じた。
行灯を消す前に、その箱へそっと手を置く。
大切にされる娘ではなくても。
我慢できる娘なら、この家にいられる。
その考えが、夜の静けさの中でゆっくり胸に沈んでいった。
紗和は手を離し、灯りを落とした。
暗くなった部屋の中で、簪をしまった箱の場所だけを、指先がまだ覚えていた。
応接室の扉が、再び開いた。紗和は廊下の途中で足を止めた。先ほど貴臣と向き合った窓辺から、ほんの数歩進んだところだった。障子越しの午後の光は、少し傾きを増している。廊下の木目に沿って長く伸びた影が、応接室の扉の前まで届いていた。出てきたのは、有馬忠成だった。その顔には、深い疲労があった。応接室へ入ってきた時の、華族当主としての整えられた顔とは違う。先代の筆跡を見、証文を見、礼状を見、有馬家の名が白藤の記録の中に残っていることを受け止めた男の顔だった。けれど、崩れてはいなかった。忠成は廊下へ出ると、一度だけ息を整えた。それから紗和の方へ向き直る。寿美子は、その少し後ろにいた。扇を持つ手はまだ硬い。顔には形だけの落ち着きが戻っているが、目の奥にあった高慢な光は、以前のようには立っていなかった。何かを言いたそうで、しかし言えば自分の立場をさらに損なうことを知っている顔だった。貴臣はさらに後ろに立っている。先ほどの廊下での会話の余韻を、まだ抱えたままのようだった。紗和を見る目に、言葉にならないものが浮かんでいる。けれど彼もまた、何も言わなかった。有馬家の三人が、同じ廊下にいる。紗和は、その前に立っていた。かつて有馬家の座敷で、自分は言葉を飲み込んでいた。寿美子に何を言われても、貴臣が何も言えなくても、忠成が重く沈黙していても、自分だけが声を小さくし、目を伏せ、場を乱さぬようにしていた。今は違う。黙っているのは、有馬家の方だった。忠成は、紗和の前で足を止めた。「白藤様」その呼び方に、紗和の胸がかすかに震えた。榊原紗和ではない。貴臣の元婚約者でもない。白藤家の主として、呼ばれている。忠成は、ゆっくりと頭を下げた。深くへりくだる礼ではない。華族当主としての体面を残した、抑えた礼だった。けれど、それは先ほど応接室へ入る時の形式的な挨拶とは違っていた。白藤家の記録を確認した後の礼。有馬家が、白藤家へ向き合うための礼。
寿美子は、応接室の扉の内側で、しばらく動けずにいた。机の上には、つい先ほどまで証文と帳簿と礼状が並んでいた。岩倉正倫が確認の記録を整え、有馬忠成が低い声で今後の返答について応じている。佐伯源蔵は白藤家の証文箱を閉じ、書類の順を乱さぬよう、静かに確かめていた。すべてが、丁寧だった。その丁寧さが、寿美子には耐えがたかった。誰も有馬家を罵らなかった。声を荒げる者もいなかった。白藤紗和も、勝ち誇った顔などしていなかった。ただ、紙が示され、筆跡が確認され、礼状が読まれた。それだけだった。それだけで、有馬家は白藤家を見下す言葉を失った。寿美子は、扇を持つ指に力を込めた。力を入れすぎていることに気づき、すぐに緩める。扇の骨が鳴れば、動揺を見せることになる。ここは有馬家の奥座敷ではない。女中たちが寿美子の気配を読んで動く場所でもない。岩倉が整えた、記録を扱うための場だった。寿美子の沈黙を、誰も慰めてはくれない。扉の外から、かすかに声が聞こえた。貴臣の声だった。寿美子は、反射的に顔を上げた。「紗和さん」その呼び方が、扉越しにも聞こえた気がした。寿美子の胸の奥で、鋭い苛立ちが動く。貴臣が、紗和を追った。確認の席が終わるや否や、母である寿美子のそばにいるのではなく、父の横に控えるのでもなく、白藤紗和を追って廊下へ出た。以前なら、すぐに止めただろう。貴臣、と呼んだはずだった。あるいは、扇の陰から紗和へ向けて言ったかもしれない。いまだに貴臣に未練がおありなの。白藤の名を得たからといって、有馬家の嫡男に近づくのはお控えなさい。有馬家を出た方が、今さら何を望むのです。言葉はいくつも浮かんだ。かつてなら、それらは自然に口から出た。声を荒げる必要などなかった。寿美子は、穏やかな笑みと整えた言葉だけで、紗和を一歩下がらせることができた。榊原家から来た、前妻の娘。商家の血を引き、有馬家に迎えられる立場をわきまえるべき娘。
紗和は、貴臣の謝罪を最後まで聞いた。廊下には、午後の光が静かに差していた。障子越しに見える庭の木々は、風に揺れている。応接室の扉は少し離れたところにあり、その向こうではまだ岩倉と有馬忠成が低い声で言葉を交わしている気配があった。けれど、この場所だけは別の静けさに包まれていた。貴臣は、紗和の前で頭を下げた。以前にも、彼は謝ったことがある。有馬家の座敷で、婚約破棄を告げられたあの日。寿美子の言葉がすべて終わったあと、貴臣は苦しそうな顔で「すまない」と言った。まるで自分も傷ついているのだと伝えるように。けれど、あの時の謝罪は紗和を守るものではなかった。今日の謝罪は、それとは違う。貴臣は、自分の弱さを言葉にした。母に逆らえなかったこと。紗和が傷ついていると分かっていたこと。分かっていながら、止めなかったこと。守らなかったこと。それを聞いて、胸が痛まないわけではなかった。紗和は、ゆっくり息を吸った。貴臣は悪人ではなかった。それは、紗和にも分かっている。彼は寿美子のように、紗和を真正面から見下す言葉を投げたわけではない。紗和の母の形見を取り上げようとしたわけでもない。わざと紗和を苦しめて楽しんだわけでもない。有馬家にいた頃、貴臣は時折、優しい言葉をかけてくれた。疲れていないか、と聞いたこともある。母上も悪気があるわけではない、と困ったように笑ったこともある。紗和が言葉を飲み込んでいると、申し訳なさそうな顔をしたこともあった。その顔に、紗和は何度も縋りかけた。貴臣様だけは分かってくださるのではないか。いつか、寿美子の前で自分の側に立ってくれるのではないか。この人がいるなら、有馬家でもやっていけるのではないか。そう思おうとした日が、確かにあった。だからこそ、痛かった。優しい顔をしているのに、守ってはくれない。苦しそうにしているのに、選んではくれない。謝ってくれるのに、何も変えてはくれない。
貴臣は、何から言えばよいのか分からなかった。廊下の窓から、午後の光が差している。応接室の中にあった重い空気とは違い、ここには庭からの薄い明るさがあった。障子越しに木々の影が揺れ、どこか遠くで人の足音が一度だけ聞こえて、また静かになる。声を荒げるには、あまりに静かな場所だった。そして、言葉を誤るには、あまりに遅すぎる場所だった。貴臣は、目の前に立つ紗和を見た。白藤紗和。そう呼ぶべき人なのだと、先ほど応接室で思い知らされたばかりだった。父が筆跡を否定できなかった証文。白藤商会の帳簿。先代の礼状。有馬家が、白藤家に助けられていたという事実。それらは、貴臣がこれまで見ようとしなかったものを、いくつも照らし出した。白藤という名。紗和が大切にしていた簪。母が軽んじたもの。自分が守らなかったもの。紗和は、静かに立っていた。かつて有馬家の奥で見ていた彼女とは違う。あの頃の紗和は、いつも一歩引いていた。母の言葉を受け、使用人たちの視線を受け、自分が何を言えるのかを測るように、静かに目を伏せていた。今も静かではある。けれど、伏せてはいない。貴臣はそのことが、胸に痛かった。「紗和さん」もう一度名を呼んだ。紗和は答えない。ただ、こちらを見ている。その目は冷たいわけではなかった。けれど、かつてのように貴臣の言葉を待って揺れる目ではない。有馬様。先ほどそう呼ばれた時、貴臣は自分の立っている場所を知らされた気がした。婚約者ではない。彼女の味方であったこともない。白藤家の主に対する、有馬家の嫡男。その距離が、たった一言で置かれた。「僕は……」声が詰まった。謝らなければならない。そう思っていた。応接室で証文を見た時から。父が先代の筆跡を認めざるを得なかった時から。礼状の文面を聞いた時から。いや、
扉が閉じる音は、思っていたよりも静かだった。紗和は廊下へ出てから、しばらくその場に立っていた。応接室の中に残っていた古い紙と墨の匂いが、まだ袖のあたりにまとわりついているようだった。証文箱の金具が閉じられた音。帳簿の紙が重なる音。岩倉の低い声。忠成が絞り出した返答。寿美子の沈黙。それらが、扉一枚を隔てた向こうに、まだ残っている。中では、岩倉が本日の確認記録について、有馬忠成と短く言葉を交わしていた。返済や今後の協議について、この場で決めきるのではない。改めて正式な席を設けること。今日確認した書類の扱い。写しの作成。原本の保管。佐伯もまだ中にいる。白藤家の証文箱は、佐伯の手元にあるはずだった。あの箱は、ただの古い箱ではない。宗一郎が残し、佐伯が守り、岩倉が正当性を確かめてきた、白藤家の記録の入れ物だった。その箱を開き、有馬家の前に示した。紗和は、ゆっくり息を吐いた。廊下は静かだった。応接室の中の重さとは違う、薄く広がる静けさがある。古い木の床はよく磨かれ、障子越しの午後の光が、細く長く落ちていた。遠くで人が歩く気配がする。けれど、その足音も控えめで、ここが誰か一人の家の奥ではないことを感じさせた。有馬家の廊下ではない。紗和は、そのことを強く思った。かつて有馬家の奥へ通された時、廊下を歩くたび、どこかで寿美子の目を気にしていた。歩幅は大きすぎないか。足音は高くないか。襟元は乱れていないか。簪は見えていないか。何かを尋ねられた時、すぐに答えられるか。あの屋敷の廊下は、立派だった。けれど、どこまで進んでも、紗和は自分がその家に受け入れられているとは感じられなかった。奥へ進むほど、逃げ道が細くなっていくようだった。畳の匂いも、磨かれた木の艶も、整えられた座敷も、紗和にはいつも少し冷たかった。ここは違う。ここは岩倉が整えた、中立の場だった。有馬家の奥でも、白藤家の帳場でもない。書類を開き、言葉を記録し、双方が逃げられない形で事実を確かめるための場所。その廊下に、紗和は今、白藤家の主として立っている。
礼状が机の上に置かれたまま、誰もすぐには動かなかった。窓から入る昼の光は、少しずつ傾き始めている。先ほどまでは白く硬かった光が、紙の端に薄い影を落としていた。応接室の中には、古い紙と墨の匂いが残っている。証文、覚書、帳簿、礼状。開かれたものはすべて静かで、声を持たないはずなのに、どの言葉よりも重く場を支配していた。紗和は、机の上の礼状から目を離せなかった。白藤宗一郎殿。封筒に記されたその名を見た時、胸の奥で何かが静かに揺れた。伯父の名。母の兄の名。紗和を白藤家へ迎える道を残してくれた人の名。その名へ宛てて、先代有馬子爵が礼を述べている。有馬家の面目を守ってくれたことへの礼。返済猶予への感謝。白藤家の助力を忘れないという趣旨の言葉。そのすべてを聞いたあと、寿美子は言葉を失っていた。かつて有馬家の奥で、紗和へ向けられたあの静かな高慢さは、今も消えたわけではない。背筋は伸び、顎も乱れていない。着物の襟元も、髪も、扇を置く指先も、表向きには崩れていなかった。けれど、言葉がない。それだけで、紗和には十分だった。怒鳴り返したかった日が、なかったわけではない。白藤の簪を軽んじられた時。母の名を、商家の血として下に置かれた時。有馬家の座敷で婚約破棄を告げられた時。貴臣が何も守らず、ただ苦しそうな顔で「すまない」と言った時。あの時の痛みは、今もどこかにある。礼状一通で、消えるものではない。けれど今日、紗和はその痛みを差し出しに来たのではなかった。白藤家の証文箱を開くために、ここへ来た。白藤商会の帳簿を示すために、ここへ座っている。岩倉が、礼状を丁寧に整え直した。「本日確認した書類について、ここで一度整理いたします」その声で、場の沈黙がわずかに動いた。忠成は顔を上げた。寿美子は扇の上に置いた手を動かさない。貴臣は、先ほどから紗和の方へ視線を向けている気配があった。紗和は、その視線に応えなかった。貴臣の目
華乃の文を清書し終えた頃には、障子に映る光が少し高くなっていた。紗和は筆を置き、墨が乾くのを待った。文机の上には、華乃の下書きと、書き直した返書が並んでいる。華乃の文字は丸みがあって可愛らしいが、行の終わりになるほど少しずつ詰まり、言葉の運びもところどころ幼かった。紗和はそれを直しすぎないように気をつけた。華乃らしさを残しながら、先方に失礼のない形へ整える。それが、いちばん波風の立たないやり方だった。小間物屋への返事も書き終え、使いに渡すための包みを整える。美佐乃の好みに合い、華乃の年頃に似合い、なおかつ出入りの者が不快に思わぬ言葉を選ぶ。たった一通の返事にも、気を遣う先はいくつもあっ
朝餉の膳が下げられたあとも、奥座敷にはまだ茶の香りが残っていた。障子越しの光は、紗和の部屋に届いていたものよりずっと明るかった。庭に面した座敷はよく磨かれ、床の間には季節の花が生けられている。白い花器に挿された枝ものの影が、畳の上に細く落ちていた。茶器は揃いで、菓子皿には淡い色の干菓子が並ぶ。すべてが整っている。けれど、どこに座るかで、人の居場所は決まる。紗和は、床の間に近い上座ではなく、少し下がった場所に座っていた。父はすでに書斎へ下がっている。奥座敷には、美佐乃と華乃、そして紗和が残された。女中が茶を入れ直し、まず美佐乃の前へ置き、次に華乃、最後に紗和の前へと茶碗を運ぶ。順番は
朝の光は、まだ薄かった。障子越しに差し込む白い明かりは、部屋の隅まで届かず、畳の上に細く伸びて、箪笥の下で静かに途切れていた。榊原の帝都屋敷は、朝になるとよく冷える。磨かれた廊下も、きちんと拭き清められた柱も、どこか人の温もりを拒むような澄まし方をしていた。紗和は鏡台の前に座り、櫛を取った。鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらなかった。寝乱れた髪を整え、襟元を直し、帯の締め具合を確かめる。特別に目立つ装いではない。薄い鼠がかった藤色の着物は、古びてはいないが、新しくもなかった。柄も控えめで、座敷の端にいても邪魔にならない色だった。華乃(かの)なら、きっと選ばない色だ。そう思ってから、
書斎を出たあと、紗和はしばらく廊下を歩く音だけを聞いていた。父の声は、まだ耳の奥に残っている。紗和、お前なら分かってくれるな。その言葉は、怒鳴り声ではなかった。責める響きもなかった。むしろいつもと同じ、穏やかで、家のことを静かに考える父の声だった。だからこそ、紗和の胸の奥に深く沈んでいた。廊下には昼下がりの光が差していた。庭の木々の影が障子に揺れ、古い板の上に明るい筋が落ちている。屋敷はいつも通り静かで、どこか遠くから女中たちの話し声がかすかに聞こえた。この屋敷のどこかで、もう自分の行き先が変わったことを、皆







