Partager

2.奥座敷の席

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2026-06-07 16:21:34

朝餉の膳が下げられたあとも、奥座敷にはまだ茶の香りが残っていた。

障子越しの光は、紗和の部屋に届いていたものよりずっと明るかった。庭に面した座敷はよく磨かれ、床の間には季節の花が生けられている。白い花器に挿された枝ものの影が、畳の上に細く落ちていた。茶器は揃いで、菓子皿には淡い色の干菓子が並ぶ。

すべてが整っている。

けれど、どこに座るかで、人の居場所は決まる。

紗和は、床の間に近い上座ではなく、少し下がった場所に座っていた。父はすでに書斎へ下がっている。奥座敷には、美佐乃と華乃、そして紗和が残された。女中が茶を入れ直し、まず美佐乃の前へ置き、次に華乃、最後に紗和の前へと茶碗を運ぶ。

順番は、いつも同じだった。

女中の手つきは丁寧で、茶碗を置く音も静かだった。誰も紗和を粗末に扱っているわけではない。ただ、そこに迷いがないだけだった。

美佐乃は、薄い藤鼠の訪問着をまとっていた。年齢を重ねた女の肌に似合う、控えめで品のよい色だった。帯留めの真珠が、障子の光を受けて小さく光る。動きの一つひとつに余裕があり、茶碗を取る指先にも隙がない。

華族夫人のように見える。

紗和は、幼い頃から何度もそう思ってきた。榊原家は華族ではない。けれど美佐乃は、まるで最初からその場に属している人のように振る舞うことができた。声を荒げない。笑いすぎない。叱る時も、言葉を細く選ぶ。

だからこそ、その言葉は長く残った。

「華乃、その帯はやはりよく似合いますね」

美佐乃が言うと、華乃はぱっと顔を明るくした。

今日の華乃は、淡い紅梅色の着物を着ていた。袖口には細かな花の刺繍が入り、帯は若草色に近い。朝の光の中で見ると、座敷の空気まで華やぐようだった。髪には新しい飾りが挿されている。まだ使い慣れていないのか、華乃は時折、指先でそっと位置を確かめていた。

「本当ですか、お母様。少し子どもっぽくありませんか」

「今のあなたには、その明るさがよいのですよ。若い娘らしくて、座敷が華やぎます」

「では、お稽古にもこの帯で参ってよろしいでしょうか」

「汚さぬように気をつけるならね」

「はい。ああ、でも、お琴のお稽古の時は少し袖が邪魔かしら」

華乃は笑いながら袖を持ち上げた。女中がすぐに身を寄せ、袖の流れを整える。

「お琴の爪も、新しいものが欲しいわ。先のものは少し使いにくくて」

「先月替えたばかりでしょう」

「でも、佐伯のお嬢様が使っていらしたものは、とてもきれいだったのです。貝の細工が入っていて」

「まあ」

美佐乃は困ったように微笑んだ。けれど、その声は叱る時のものではなかった。

「あなたは本当に、きれいなものを見つけるのが上手ね」

「お母様がよいものを見せてくださるからですわ」

華乃は甘えるように言い、美佐乃は満足げに目を細めた。

そのやり取りを聞きながら、紗和は茶碗を両手で包んでいた。茶は温かかった。けれど、手のひらの中にある温度は、自分の内側まで届く前に静かに冷めていく。

華乃の声は好きだった。

明るくて、素直で、よく笑う。小鳥のように次の話へ飛んでいく。紗和を責めるために笑っているわけではない。美佐乃もまた、今は紗和を傷つけるために華乃を褒めているわけではないのだろう。

それでも、座敷の中心は決まっていた。

華乃が何を欲しがり、美佐乃がそれをどう受け止めるか。その周りに、女中たちが動く。紗和は同じ畳の上に座っている。けれど、会話は紗和のところで止まらない。紗和を通り過ぎ、華乃の笑顔へ戻っていく。

「そういえば、華乃」

美佐乃がふと思い出したように言った。

「お稽古先へ持っていくご挨拶の文は、もう清書しましたか」

華乃の表情が、ほんの少しだけ揺れた。

「あ」

その声で、紗和は茶碗を置く手を止めた。

華乃は困ったように眉を下げ、美佐乃の方へ身を寄せた。

「昨日、下書きはいたしましたの。でも、字が少し乱れてしまって。今朝、直そうと思っていたのですけれど、帯を合わせていたら時間がなくなってしまって」

「まあ。困った子ね」

美佐乃の声には、叱責よりも笑みが多かった。

華乃はすぐに紗和を見た。

その目に、悪意はなかった。だからこそ、紗和は胸の奥が小さく沈むのを感じた。

「紗和お姉さま」

華乃が明るく呼ぶ。

「お姉さまの字はきれいだから、少し見ていただけませんか。わたくしが書くと、どうしても最後の方が詰まってしまうの」

紗和は一瞬だけ、返事を探した。

今日の午前には、針箱の中を整理し、先日直清から預かった書きつけも写しておくつもりだった。美佐乃から頼まれていた古い袱紗のほつれも、昼までには直した方がよい。どれも大きな用ではない。だが、小さな用がいくつも重なると、一日は静かに埋まっていく。

それを言ってよいのかどうか、紗和は考えた。

考えた時点で、答えは決まっていた。

「ええ。あとで見ましょう」

華乃の顔がほころんだ。

「助かります。紗和お姉さまなら、すぐできるでしょう」

その言い方も、やはり悪気はない。

美佐乃は扇子を膝の上に置き、穏やかにうなずいた。

「本当に、あなたたちは仲がよいこと。紗和さんは昔から、細かなことに気がつきますからね。華乃も、姉がいて助かりますね」

「はい」

華乃は素直に返事をした。

紗和も、少し遅れて頭を下げる。

「お役に立てるなら」

そう言うと、美佐乃の目が紗和の髪のあたりで止まった。

わずかな間だった。

ほんの一呼吸。けれど紗和には、それが分かった。美佐乃の視線は、紗和の顔ではなく、髪の奥に隠した白藤の簪へ向いていた。

朝、見えにくい位置へ挿したはずだった。正面からはほとんど見えない。けれど座敷に入って頭を下げた時か、茶碗を取るために首を傾けた時か、白い房が少しだけ覗いたのだろう。

美佐乃の笑みは崩れなかった。

「その簪」

紗和の指が、膝の上で止まった。

華乃もつられるようにこちらを見る。

美佐乃は、茶碗を静かに置いた。

「まだ使っているのね」

声はやわらかかった。

ただそれだけだった。

責めてはいない。取り上げようとしているわけでもない。場を荒らすほどの言葉ではない。けれど、その言葉の奥には、紗和が触れてほしくないものを、細い爪でそっと撫でるような感触があった。

まだ。

その二文字が、胸の奥に落ちる。

まだ覚えているのか。まだ離せないのか。まだ白藤のものを持っているのか。

紗和には、そう聞こえた。

「お母様の…」

言いかけて、喉の奥で言葉が止まった。

ここで母と呼ぶのは、誰のことになるのだろう。紗和の母は千鶴で、美佐乃は榊原家の奥様で、華乃の母だった。けれど、この座敷でその違いをはっきりさせれば、空気が曇る。

紗和は、簪へ伸びかけた手を膝の上に戻した。

「古いものですが、傷みは少ないので」

ようやくそれだけ言うと、美佐乃はゆるく微笑んだ。

「物持ちがよいのは結構なことです。ただ、あまり昔のものばかり身につけていると、今のあなたに合うものを見失いますよ」

華乃は不思議そうに紗和の髪を見た。

「白い藤の簪ですか。姉さまらしいですね。静かで、少し寂しげで」

華乃はそう言ってから、自分の髪飾りに触れた。

「わたくしには、きっと似合わないわ」

「華乃には、もっと明るいものが似合います」

美佐乃がすぐに言った。

「花でも、蝶でも、春らしいものがよいでしょう。若い娘は、見ているだけで周りを明るくするものですから」

華乃は嬉しそうに笑った。

紗和は、茶碗の中の薄い茶の色を見つめていた。

白藤が寂しげに見えるのなら、それは自分がそう見せているからなのかもしれない。母が挿していた時、この簪はもっと違う光を持っていたはずだ。少なくとも紗和の記憶の中では、母の横顔に添う白藤は、寂しさではなく、静かな誇りのように見えた。

けれど、紗和はそれを言わなかった。

言えば、母の記憶まで座敷の上に置かれてしまう。美佐乃の言葉に撫でられ、華乃の無邪気な感想に包まれ、いつの間にか別の意味にされてしまう。

それだけは嫌だった。

「華乃さんのお支度の文は、いつまでに整えればよろしいでしょうか」

紗和は、声を乱さないように尋ねた。

華乃はすぐに顔を上げた。

「今日のお昼までにできるかしら。午後にはお稽古へ参りますの」

「分かりました」

「それから、昨日いただいたお返事も、少し見ていただきたいの。何と返せばよいか迷っていて」

「そちらも、お預かりします」

「ありがとう、紗和お姉さま」

華乃はにこりと笑った。

その笑顔を見ると、責める気持ちはどこにも行き場を失った。華乃は本当に助かったと思っている。自分が紗和の時間を受け取っているとは、少しも思っていない。ただ、姉ができることを頼み、姉が引き受けた。それだけなのだ。

美佐乃は満足げに茶を飲んだ。

「では、紗和さん。華乃の文をお願いね。あなたの字なら、先方にも失礼がありません」

「はい」

「それと、出入りの小間物屋への返事も確認しておいてください。華乃の髪飾りをいくつか見せてもらうことになっています。品のよいものを選ぶよう、伝えておいてちょうだい」

「承知しました」

返事は、すぐに出た。

すぐに出るようになっていた。

紗和は、自分の声を遠くで聞くような気持ちで頭を下げた。断る言葉は、胸の中で形になる前に消えていく。場が曇らないこと。美佐乃の笑みが固くならないこと。華乃が困った顔をしないこと。そのために、自分の予定を少しずつ脇へ寄せる。

それがこの家での、紗和の役目だった。

茶の時間が終わり、美佐乃が立つと、華乃も軽やかに腰を上げた。女中がすぐに寄り、華乃の袖を整える。紗和は少し遅れて立ち上がり、茶器の位置と畳に落ちた菓子の粉を目で確かめた。

女中が片づけることは分かっている。

それでも、気づいたものをそのままにすることができなかった。

華乃が部屋を出る前に、こちらを振り返った。

「お姉さま、文は机の上に置いておきますね。あ、便箋は新しいものを使ってください。そちらの方が見栄えがよいでしょう」

「ええ」

「急がなくても大丈夫。でも、お昼までにはお願い」

華乃は笑って、美佐乃のあとを追った。

紗和は座敷に残り、しばらく襖の閉じた先を見ていた。障子から差す午前の光は明るく、先ほどまで華乃が座っていた場所だけが、まだ少し温かいように見えた。

自分の前の茶は、半分ほど残っていた。

紗和はその茶碗を持ち上げ、冷めかけた茶を一口飲んだ。苦みが舌に広がる。簪の重みが、髪の奥でかすかに揺れた。

手を伸ばしかけて、紗和はまた止めた。

ここで触れれば、美佐乃の言葉がそこに残ってしまう気がした。だから触れない。見えない位置にあるまま、そこにあると知っていればよかった。

紗和は静かに茶碗を置いた。

華乃の文を清書し、小間物屋への返事を確かめ、そのあと父の書斎へ向かわなければならない。直清から預かった書きつけがまだ残っている。あれも今日のうちに写しておくべきだった。

誰に命じられたわけでもなく、紗和は用事の順番を心の中で整えた。

自分のことは、そのあとでよい。

そう思いながら立ち上がると、奥座敷の明るい光の中で、膝元の着物の色がひどく控えめに見えた。紗和は裾を直し、茶器を避けて歩き出す。

襖の前で一度だけ振り返った。

華乃の席、美佐乃の席、自分の席。

畳の上には何も残っていないのに、その位置だけは、目を閉じても分かる気がした。

紗和は頭を下げる相手のいない座敷に、小さく一礼した。

そして、華乃の部屋へ向かう廊下ではなく、まず文机のある自室へ戻るため、静かな廊下へ足を踏み出した。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします   104.有馬家の沈黙

    応接室の扉が、再び開いた。紗和は廊下の途中で足を止めた。先ほど貴臣と向き合った窓辺から、ほんの数歩進んだところだった。障子越しの午後の光は、少し傾きを増している。廊下の木目に沿って長く伸びた影が、応接室の扉の前まで届いていた。出てきたのは、有馬忠成だった。その顔には、深い疲労があった。応接室へ入ってきた時の、華族当主としての整えられた顔とは違う。先代の筆跡を見、証文を見、礼状を見、有馬家の名が白藤の記録の中に残っていることを受け止めた男の顔だった。けれど、崩れてはいなかった。忠成は廊下へ出ると、一度だけ息を整えた。それから紗和の方へ向き直る。寿美子は、その少し後ろにいた。扇を持つ手はまだ硬い。顔には形だけの落ち着きが戻っているが、目の奥にあった高慢な光は、以前のようには立っていなかった。何かを言いたそうで、しかし言えば自分の立場をさらに損なうことを知っている顔だった。貴臣はさらに後ろに立っている。先ほどの廊下での会話の余韻を、まだ抱えたままのようだった。紗和を見る目に、言葉にならないものが浮かんでいる。けれど彼もまた、何も言わなかった。有馬家の三人が、同じ廊下にいる。紗和は、その前に立っていた。かつて有馬家の座敷で、自分は言葉を飲み込んでいた。寿美子に何を言われても、貴臣が何も言えなくても、忠成が重く沈黙していても、自分だけが声を小さくし、目を伏せ、場を乱さぬようにしていた。今は違う。黙っているのは、有馬家の方だった。忠成は、紗和の前で足を止めた。「白藤様」その呼び方に、紗和の胸がかすかに震えた。榊原紗和ではない。貴臣の元婚約者でもない。白藤家の主として、呼ばれている。忠成は、ゆっくりと頭を下げた。深くへりくだる礼ではない。華族当主としての体面を残した、抑えた礼だった。けれど、それは先ほど応接室へ入る時の形式的な挨拶とは違っていた。白藤家の記録を確認した後の礼。有馬家が、白藤家へ向き合うための礼。

  • 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします   103.奥様の沈黙

    寿美子は、応接室の扉の内側で、しばらく動けずにいた。机の上には、つい先ほどまで証文と帳簿と礼状が並んでいた。岩倉正倫が確認の記録を整え、有馬忠成が低い声で今後の返答について応じている。佐伯源蔵は白藤家の証文箱を閉じ、書類の順を乱さぬよう、静かに確かめていた。すべてが、丁寧だった。その丁寧さが、寿美子には耐えがたかった。誰も有馬家を罵らなかった。声を荒げる者もいなかった。白藤紗和も、勝ち誇った顔などしていなかった。ただ、紙が示され、筆跡が確認され、礼状が読まれた。それだけだった。それだけで、有馬家は白藤家を見下す言葉を失った。寿美子は、扇を持つ指に力を込めた。力を入れすぎていることに気づき、すぐに緩める。扇の骨が鳴れば、動揺を見せることになる。ここは有馬家の奥座敷ではない。女中たちが寿美子の気配を読んで動く場所でもない。岩倉が整えた、記録を扱うための場だった。寿美子の沈黙を、誰も慰めてはくれない。扉の外から、かすかに声が聞こえた。貴臣の声だった。寿美子は、反射的に顔を上げた。「紗和さん」その呼び方が、扉越しにも聞こえた気がした。寿美子の胸の奥で、鋭い苛立ちが動く。貴臣が、紗和を追った。確認の席が終わるや否や、母である寿美子のそばにいるのではなく、父の横に控えるのでもなく、白藤紗和を追って廊下へ出た。以前なら、すぐに止めただろう。貴臣、と呼んだはずだった。あるいは、扇の陰から紗和へ向けて言ったかもしれない。いまだに貴臣に未練がおありなの。白藤の名を得たからといって、有馬家の嫡男に近づくのはお控えなさい。有馬家を出た方が、今さら何を望むのです。言葉はいくつも浮かんだ。かつてなら、それらは自然に口から出た。声を荒げる必要などなかった。寿美子は、穏やかな笑みと整えた言葉だけで、紗和を一歩下がらせることができた。榊原家から来た、前妻の娘。商家の血を引き、有馬家に迎えられる立場をわきまえるべき娘。

  • 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします   102.優しい言葉だけでは

    紗和は、貴臣の謝罪を最後まで聞いた。廊下には、午後の光が静かに差していた。障子越しに見える庭の木々は、風に揺れている。応接室の扉は少し離れたところにあり、その向こうではまだ岩倉と有馬忠成が低い声で言葉を交わしている気配があった。けれど、この場所だけは別の静けさに包まれていた。貴臣は、紗和の前で頭を下げた。以前にも、彼は謝ったことがある。有馬家の座敷で、婚約破棄を告げられたあの日。寿美子の言葉がすべて終わったあと、貴臣は苦しそうな顔で「すまない」と言った。まるで自分も傷ついているのだと伝えるように。けれど、あの時の謝罪は紗和を守るものではなかった。今日の謝罪は、それとは違う。貴臣は、自分の弱さを言葉にした。母に逆らえなかったこと。紗和が傷ついていると分かっていたこと。分かっていながら、止めなかったこと。守らなかったこと。それを聞いて、胸が痛まないわけではなかった。紗和は、ゆっくり息を吸った。貴臣は悪人ではなかった。それは、紗和にも分かっている。彼は寿美子のように、紗和を真正面から見下す言葉を投げたわけではない。紗和の母の形見を取り上げようとしたわけでもない。わざと紗和を苦しめて楽しんだわけでもない。有馬家にいた頃、貴臣は時折、優しい言葉をかけてくれた。疲れていないか、と聞いたこともある。母上も悪気があるわけではない、と困ったように笑ったこともある。紗和が言葉を飲み込んでいると、申し訳なさそうな顔をしたこともあった。その顔に、紗和は何度も縋りかけた。貴臣様だけは分かってくださるのではないか。いつか、寿美子の前で自分の側に立ってくれるのではないか。この人がいるなら、有馬家でもやっていけるのではないか。そう思おうとした日が、確かにあった。だからこそ、痛かった。優しい顔をしているのに、守ってはくれない。苦しそうにしているのに、選んではくれない。謝ってくれるのに、何も変えてはくれない。

  • 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします   101.遅すぎた謝罪

    貴臣は、何から言えばよいのか分からなかった。廊下の窓から、午後の光が差している。応接室の中にあった重い空気とは違い、ここには庭からの薄い明るさがあった。障子越しに木々の影が揺れ、どこか遠くで人の足音が一度だけ聞こえて、また静かになる。声を荒げるには、あまりに静かな場所だった。そして、言葉を誤るには、あまりに遅すぎる場所だった。貴臣は、目の前に立つ紗和を見た。白藤紗和。そう呼ぶべき人なのだと、先ほど応接室で思い知らされたばかりだった。父が筆跡を否定できなかった証文。白藤商会の帳簿。先代の礼状。有馬家が、白藤家に助けられていたという事実。それらは、貴臣がこれまで見ようとしなかったものを、いくつも照らし出した。白藤という名。紗和が大切にしていた簪。母が軽んじたもの。自分が守らなかったもの。紗和は、静かに立っていた。かつて有馬家の奥で見ていた彼女とは違う。あの頃の紗和は、いつも一歩引いていた。母の言葉を受け、使用人たちの視線を受け、自分が何を言えるのかを測るように、静かに目を伏せていた。今も静かではある。けれど、伏せてはいない。貴臣はそのことが、胸に痛かった。「紗和さん」もう一度名を呼んだ。紗和は答えない。ただ、こちらを見ている。その目は冷たいわけではなかった。けれど、かつてのように貴臣の言葉を待って揺れる目ではない。有馬様。先ほどそう呼ばれた時、貴臣は自分の立っている場所を知らされた気がした。婚約者ではない。彼女の味方であったこともない。白藤家の主に対する、有馬家の嫡男。その距離が、たった一言で置かれた。「僕は……」声が詰まった。謝らなければならない。そう思っていた。応接室で証文を見た時から。父が先代の筆跡を認めざるを得なかった時から。礼状の文面を聞いた時から。いや、

  • 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします   100.応接室の外

    扉が閉じる音は、思っていたよりも静かだった。紗和は廊下へ出てから、しばらくその場に立っていた。応接室の中に残っていた古い紙と墨の匂いが、まだ袖のあたりにまとわりついているようだった。証文箱の金具が閉じられた音。帳簿の紙が重なる音。岩倉の低い声。忠成が絞り出した返答。寿美子の沈黙。それらが、扉一枚を隔てた向こうに、まだ残っている。中では、岩倉が本日の確認記録について、有馬忠成と短く言葉を交わしていた。返済や今後の協議について、この場で決めきるのではない。改めて正式な席を設けること。今日確認した書類の扱い。写しの作成。原本の保管。佐伯もまだ中にいる。白藤家の証文箱は、佐伯の手元にあるはずだった。あの箱は、ただの古い箱ではない。宗一郎が残し、佐伯が守り、岩倉が正当性を確かめてきた、白藤家の記録の入れ物だった。その箱を開き、有馬家の前に示した。紗和は、ゆっくり息を吐いた。廊下は静かだった。応接室の中の重さとは違う、薄く広がる静けさがある。古い木の床はよく磨かれ、障子越しの午後の光が、細く長く落ちていた。遠くで人が歩く気配がする。けれど、その足音も控えめで、ここが誰か一人の家の奥ではないことを感じさせた。有馬家の廊下ではない。紗和は、そのことを強く思った。かつて有馬家の奥へ通された時、廊下を歩くたび、どこかで寿美子の目を気にしていた。歩幅は大きすぎないか。足音は高くないか。襟元は乱れていないか。簪は見えていないか。何かを尋ねられた時、すぐに答えられるか。あの屋敷の廊下は、立派だった。けれど、どこまで進んでも、紗和は自分がその家に受け入れられているとは感じられなかった。奥へ進むほど、逃げ道が細くなっていくようだった。畳の匂いも、磨かれた木の艶も、整えられた座敷も、紗和にはいつも少し冷たかった。ここは違う。ここは岩倉が整えた、中立の場だった。有馬家の奥でも、白藤家の帳場でもない。書類を開き、言葉を記録し、双方が逃げられない形で事実を確かめるための場所。その廊下に、紗和は今、白藤家の主として立っている。

  • 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします   99.見下す資格

    礼状が机の上に置かれたまま、誰もすぐには動かなかった。窓から入る昼の光は、少しずつ傾き始めている。先ほどまでは白く硬かった光が、紙の端に薄い影を落としていた。応接室の中には、古い紙と墨の匂いが残っている。証文、覚書、帳簿、礼状。開かれたものはすべて静かで、声を持たないはずなのに、どの言葉よりも重く場を支配していた。紗和は、机の上の礼状から目を離せなかった。白藤宗一郎殿。封筒に記されたその名を見た時、胸の奥で何かが静かに揺れた。伯父の名。母の兄の名。紗和を白藤家へ迎える道を残してくれた人の名。その名へ宛てて、先代有馬子爵が礼を述べている。有馬家の面目を守ってくれたことへの礼。返済猶予への感謝。白藤家の助力を忘れないという趣旨の言葉。そのすべてを聞いたあと、寿美子は言葉を失っていた。かつて有馬家の奥で、紗和へ向けられたあの静かな高慢さは、今も消えたわけではない。背筋は伸び、顎も乱れていない。着物の襟元も、髪も、扇を置く指先も、表向きには崩れていなかった。けれど、言葉がない。それだけで、紗和には十分だった。怒鳴り返したかった日が、なかったわけではない。白藤の簪を軽んじられた時。母の名を、商家の血として下に置かれた時。有馬家の座敷で婚約破棄を告げられた時。貴臣が何も守らず、ただ苦しそうな顔で「すまない」と言った時。あの時の痛みは、今もどこかにある。礼状一通で、消えるものではない。けれど今日、紗和はその痛みを差し出しに来たのではなかった。白藤家の証文箱を開くために、ここへ来た。白藤商会の帳簿を示すために、ここへ座っている。岩倉が、礼状を丁寧に整え直した。「本日確認した書類について、ここで一度整理いたします」その声で、場の沈黙がわずかに動いた。忠成は顔を上げた。寿美子は扇の上に置いた手を動かさない。貴臣は、先ほどから紗和の方へ視線を向けている気配があった。紗和は、その視線に応えなかった。貴臣の目

  • 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします   4.我慢できる娘

    夕方の光は、廊下の端からゆっくり赤みを帯びていった。紗和は文机の前で、最後の帳面を閉じた。昼過ぎに父へ見せるはずだった贈答品の控えはすでに整え、古い器の数も蔵番の覚えと照らし合わせておいた。返書の清書も済ませ、封をするばかりになっている。華乃の稽古先への文と、小間物屋への返事も片づけた。一つひとつは大きな用ではない。けれど、筆を置き、硯箱の蓋を閉めた時、肩の奥に鈍い重さが残っていた。朝からずっと、誰かの言葉を整え、誰かの用を先に済ませてきた気がする。紗和は指先を軽く揉んだ。墨を使い続けたせいで、右手の親指の付

  • 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします   3.父の書斎

    華乃の文を清書し終えた頃には、障子に映る光が少し高くなっていた。紗和は筆を置き、墨が乾くのを待った。文机の上には、華乃の下書きと、書き直した返書が並んでいる。華乃の文字は丸みがあって可愛らしいが、行の終わりになるほど少しずつ詰まり、言葉の運びもところどころ幼かった。紗和はそれを直しすぎないように気をつけた。華乃らしさを残しながら、先方に失礼のない形へ整える。それが、いちばん波風の立たないやり方だった。小間物屋への返事も書き終え、使いに渡すための包みを整える。美佐乃の好みに合い、華乃の年頃に似合い、なおかつ出入りの者が不快に思わぬ言葉を選ぶ。たった一通の返事にも、気を遣う先はいくつもあっ

  • 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします   1.白藤の簪(かんざし)

    朝の光は、まだ薄かった。障子越しに差し込む白い明かりは、部屋の隅まで届かず、畳の上に細く伸びて、箪笥の下で静かに途切れていた。榊原の帝都屋敷は、朝になるとよく冷える。磨かれた廊下も、きちんと拭き清められた柱も、どこか人の温もりを拒むような澄まし方をしていた。紗和は鏡台の前に座り、櫛を取った。鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらなかった。寝乱れた髪を整え、襟元を直し、帯の締め具合を確かめる。特別に目立つ装いではない。薄い鼠がかった藤色の着物は、古びてはいないが、新しくもなかった。柄も控えめで、座敷の端にいても邪魔にならない色だった。華乃(かの)なら、きっと選ばない色だ。そう思ってから、

  • 身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします   11.華乃の笑顔

    書斎を出たあと、紗和はしばらく廊下を歩く音だけを聞いていた。父の声は、まだ耳の奥に残っている。紗和、お前なら分かってくれるな。その言葉は、怒鳴り声ではなかった。責める響きもなかった。むしろいつもと同じ、穏やかで、家のことを静かに考える父の声だった。だからこそ、紗和の胸の奥に深く沈んでいた。廊下には昼下がりの光が差していた。庭の木々の影が障子に揺れ、古い板の上に明るい筋が落ちている。屋敷はいつも通り静かで、どこか遠くから女中たちの話し声がかすかに聞こえた。この屋敷のどこかで、もう自分の行き先が変わったことを、皆

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status