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それは結婚3年目の冬の夜のこと。
東堂透子(とうどう・とうこ)は、夫である弦也(げんや)の書斎の前に立っていた。
彼女の手には、1枚の油彩画がある。これは弦也の持ち物で、つい先ほど修復を終えたばかりのものだ。
弦也は小さな油彩画を祖父から譲り受け、大事にしていた。 けれど古いものは傷みやすい。 経年劣化でワニスは黄変して黒ずみ、画面には無数の亀裂が走って絵の具が剥がれ落ち、無残な姿になっていた。透子は絵画修復師としての腕を振るい、絵画を見事に蘇らせた。
ボロボロの状態からここまで直すのは苦労したが、夫への誕生日プレゼントだと思えば、つらいことはなかった。(弦也さんは、この絵を思い出の品だと言っていた。きっと喜んでくれる)
弦也の笑顔を想像しながらドアをノックしようとした、その時。
部屋の中から弦也の声が聞こえた。
他の人の声も聞こえる。電話をしているのだろう。
けれど漏れ聞こえた相手の声に気づいて――透子は凍りついた。
聞こえてくる声は、高く甘ったるい猫なで声。
透子にとって敵とも言える、冷泉院(れいぜいいん)まどかの声だった。
スピーカーにしている電話の声は、書斎の扉越しでもはっきりと聞こえる。
「ねえ弦也さん。いつまでお姉様と結婚しているの? そろそろ止め時じゃなぁい?」
わずかに間を開けて、弦也が答える声がした。
「……そうだな。元より透子は冷泉院家が送り込んできた身代わりにすぎなかった。本来、俺に嫁ぐべきだったのは君だ」
透子は小箱を握りしめた。無意識のうちに力が入り、指の関節が白くなる。
「あんなことがあった以上……3年の期限が来たら、俺は彼女と離婚するべきなのだろう」
透子は息をするのすら忘れて、夫の言葉に聞き入る。
扉の向こう、妹とは名ばかりの女と会話する夫は、こう続けた。「その時、君を娶(めと)る」
その宣言に、透子の全身が凍りついた。
様々な問題を乗り越えて、透子は弦也と心を通じ合わせられたと思っていたのに。
それなのに、離婚。別の女と結婚するのだという。
(身代わり。3年の期限……そうだった。私は――)
弦也の言葉が頭の中でぐるぐると回る。
透子は3年前、冷泉院家が自分を訪ねてきた時のことを思い出していた――。 ◇ ◇ 石油ストーブの微かな匂いと、乾いた絵の具や油の香りが混ざり合うアトリエは静けさが満ちていた。3年前の冬。
すきま風が吹き込む冷え切った作業場で、透子は手袋を外したかじかむ指先を息で温めながら、古い油彩画の変色と向き合っていた。
すぐ隣では祖母の志乃がイーゼルに向かい、絵画修復の作業をしている。長年染み付いた確かな手つきだった。
「透子、絵画は生きとる。冬の乾いた時期は特に焦って筆を重ねてもいかんし、溶剤を強くしすぎてもいけない。描いた画家の息遣いを伺いながら、色と呼吸を合わせるんだよ」
「うん、おばあちゃん」
いつもと変わらない静かな午後。
透子のお気に入りの時間だ。透子は絵画修復師として、祖母を尊敬している。透子が同じ道に進んだのも、祖母のような職人になりたいからだった。
いつか祖母と並び立つほどの一流の職人になる。それが透子の夢だ。透子の両親は、子供の頃に事故で他界してしまった。
それ以来、志乃が女手一つで透子を育ててくれたのだ。
志乃は透子にとって大好きなおばあちゃんであり、育ての親であり、尊敬する師匠でもある。世界で一番大事な人だった。
――だが。不意に志乃の筆の動く気配が途切れた。
ガタン、と鈍い音がして、志乃の身体が作業台に崩れ落ちる。
手から滑り落ちた道具が床に転がり、音を立てた。「おばあちゃん……!?」
透子が振り返ると、志乃は胸元を掻きむしるようにして荒い息を吐き出していた。顔色は見る間に土気色へと変わっていく。
「おばあちゃん! しっかりして!」
ただごとではない。
駆け寄って肩を抱き起こす。志乃の唇は紫に変色し、透子の名を呼ぼうと微かに震えていたが、声にはならなかった。
全身の力が抜けて、ぐったりと腕の中に沈み込んでいく。(そんな、どうして! さっきまで元気だったのに! ……いいえそれよりも、救急車!!)
透子は震える指でスマートフォンを掴み、119番のボタンを押した。
「救急車をお願いします! 祖母が、息が……早く来てください!」
凍てつく寒空の下でサイレンの音が鳴り響く。
透子は何が起きたのか理解できないまま、搬送先の地方病院の冷たい廊下で、凍えた手を握り締めて祈るしかなかった。 ◇ ◇ 「……急性の大動脈解離と、それに伴う心不全です」案内された薄暗い面談室で、初老の主治医はレントゲン写真を掲げながら告げた。
「応急処置で一命は取り留めましたが、依然として極めて危険な状態です。いつ容態が急変してもおかしくありません」
「手術を……手術をすれば、助かるんですよね?」
透子は身を乗り出して、すがるように医師を見つめた。
だが医師は痛ましそうに首を横に振った。「当院の設備や体制では、これ以上の外科的処置は不可能です。高齢ということもあり、リスクが高すぎる。志乃さんを助ける道があるとすれば――東京の大学病院にある高度先端医療センターへ転院させて、最先端の補助循環装置を用いた特殊な術式を受けるしかありません」
「なら、すぐに転院させてください。東京へ……」
「蒔田さん、現実的な話をしなければなりません」
医師は言葉を切り、手元のカルテに視線を落とした。
「悪天候の中での医療用ヘリ搬送、集中治療室の維持、高度な診療を含めた専門チームの手術。すべて合わせれば、数千万円単位の費用がかかります。これらの治療の中には、健康保険適用外のものも少なくない。民間の高度医療保障に入っていなければ、全額が自己負担になります」
「数千、万……」
「手配を急がなければ手遅れになりますが、病院側としても費用の目途が立たない段階で受け入れを確定させることはできません。……工面は可能ですか?」
息が詰まった。
工房の預金通帳に残っている額は、せいぜい数百万円。日々の仕入れと志乃のわずかな貯金を合わせたものがすべてだった。家を売り払っても到底間に合わない。(どうすればいいの……)
考えても答えが出るはずもない。透子はきつく拳を握りしめた。
8月の終わりが近づき、吹き抜ける風にほんの少しだけ秋の気配が混じるようになっていた。 東堂グループ本社ビルの会議室では、月例の取締役会が開かれていた。 長テーブルの端に座る弦也の叔父・東堂義隆が、手元の資料を机に叩きつけるようにして声を張り上げた。「いいか、今はグループ全体の利益率を最優先で引き上げるべき時期だ。地方にある採算の合わない関連工房や、昔からの付き合いだけで続いている古い取引先は、今期中にすべて契約を打ち切る。この合理化案に異論はないな」 義隆は周囲の役員たちを威圧するように見回した。 切り捨ての対象として挙げられているのは、先代である弦也の祖父が長年大切にしてきた伝統工芸の工房や、地方の老舗建材メーカーなどだった。いずれも高い技術を持っているが、近年は大量生産品の波に押されて利益が落ち込んでいる。 義隆の派閥に属する役員たちが、次々に賛同の声を上げた。「東堂専務のおっしゃる通りです。過去のしがらみにとらわれていては、株主への説明がつきません」「古い取引先を整理して、コストの安い海外の業者に切り替えるのが妥当でしょう」 会議室の空気が義隆の提案で決まりかける。 これまでの弦也であれば、全体の数字のデータだけを突きつけて義隆と真っ向から対立しただろう。 結果として中立派の役員たちから「若い社長は強引すぎる」と敬遠されていた場面だった。 だが今の弦也は違った。 弦也は落ち着いた動作で立ち上がり、プロジェクターに新しい資料を映し出した。「採算性の改善が必要だという点には同意します。ですが、それらの取引先を切り捨てることには反対です」 義隆が眉をひそめる。「ふん、また先代の思い出話でも持ち出すつもりか。経営に感傷は不要だぞ、弦也」「感傷ではありません。私は先週、リストに挙げられた7つの工房と取引先をすべて直接訪問し、現場の職人や責任者の方々と話をしてきました」 弦也の言葉に会議室の中がわずかにざわめいた。 多忙を極める社長が、自ら地方の小さな工場まで足を運んだとは思っていなかった
『弦也へ。 この手紙をお前が読む時、私はもうこの世にはいないだろう。 お前には、東堂の跡取りとして厳しい教育を強いてきた。 憎まれても仕方がないと思っている。それが東堂を背負う者の宿命だからだ。 だが、お前が重責に押し潰されそうになった時、この庭の光を思い出してほしい。 一緒に泥だらけになって遊んだ夏の日のことを。 私は東堂の跡取りとしてではなく、お前自身の健やかな笑顔を何より愛していた。 どうか、自分をすり減らすだけの人生は送らないでくれ。 お前の幸せを、心から願っている。』 ――お前の幸せを、心から願っている。 その一文を読んだ瞬間。 弦也が長年身にまとっていた冷たく分厚い鎧が、音を立てて崩れ去った。 自分は駒などではなかった。 祖父は、自分を道具として見ていたわけではなかった。 厳しい態度の裏でずっと彼のことを案じ、愛してくれていたのだ。「……ああ」 弦也の口から、くぐもったような声が漏れた。 彼は両手で顔を覆った。 ずっと押し殺していた感情が、行き場を失ってあふれ出す。「俺は、自分自身が東堂の駒としてしか価値がないと……そう思っていた」 弦也の肩が、小さく上下に揺れた。「だが……違ったのか」 嗚咽が室内に響く。 東堂の当主として、決して見せてはならない弱さ。 けれど涙をこぼすのと同時に、弦也の中で失われていた生きる気力と人間らしい感情が急速に満ちていくのを感じていた。 孤独な戦いの中で見失っていた、自分自身の存在価値。 それを祖父の言葉が救い上げてくれた。 しばらくして、弦也はゆっくりと顔を上げた。 充血した目で、透子を見る。 彼女は何も言わず、ただ静かにそこに立っていた。「君が……祖父の心を、救い出してくれたのか」 弦也
長年荒れ果てていたはずの庭。それがいつの間にか、夏の花々が咲き誇る美しい姿に変わっていた。 ひまわりが西日を受けて黄金色に輝き、サルスベリの鮮やかな花が風に揺れている。 その光景を見た瞬間、弦也の胸の奥で何かが小さく動いた。 理由のわからない郷愁が心の奥底にある。喉の奥が詰まるような切なさがこみ上げる。 この景色を知っている。どこかで、こんな風に咲く花を見た記憶がある。 けれど心を固く閉ざしすぎた弦也には、それがいつの誰と過ごした記憶なのか、具体的に思い出すことができなかった。 ただ、その景色がひどく温かいものだったという感覚だけが、空虚な心の中に取り残されていた。 コンコン、と控えめなノックの音がした。「……入れ」 弦也が窓辺から振り返ると、ドアが開いて透子が入ってきた。 両手で平らなボードのようなものを抱えている。「仕事中だ。用件は手短にしろ」 弦也は冷たい声を出した。 透子は足を止めて、弦也を正面から見つめた。「絵の修復が終わりました」 その言葉に、弦也はわずかに目を細めた。「終わった? 予定よりも早いが、こんなに短期間でか」「はい。汚れを落とし、元の色を取り戻すことができました。弦也さんに見ていただきたくて」 透子は抱えていたボードをデスクの上で裏返す。 弦也はゆっくりとデスクに近づいた。 あの黒ずんでひび割れていた廃品のようなキャンバス。 弦也の凍えた心を現すようで、本当は手元に置いておきたくなかった。 いっそ捨ててしまいたかったけれど、どうしてかそれもできなかった。 そこに現れた光景を見た瞬間。 弦也は、足が床に縫い付けられたように動けなくなった。 眩しい夏の光の下、鮮やかなひまわりとサルスベリが風に揺れている。(この風景は) それは、つい先ほど窓から見下ろしていた庭の景色そのものだった。 そして同時に、弦也の脳内にひ
透子は作業台の上で鮮やかに蘇った絵画に視線を向けた。(でも、あれほど美しい庭の絵を遺した人だもの。きっと悪い内容ではないはず) 眩しい夏の光と、生き生きと咲く夏の花々。 こんなにも温かい風景を大切にしていた人が、孫を傷つけるような言葉を遺すとは思えなかった。「大旦那様は、どのようなお気持ちでこの手紙を忍ばせられたのでしょうか」 相良が折りたたまれたままの和紙を見つめて、静かな声で言う。「弦也様は、大旦那様から厳しく接せられた記憶ばかりを抱えて、誰にも頼らず心を閉ざしてしまわれました。この手紙に何が書かれているかは分かりませんが、大旦那様の本当の思いが記されているのかもしれません」「ええ、私もそう思います」 透子は頷き、顔を上げた。「相良さん。私、これを弦也さんに届けます。今すぐに」「奥様……」「絵の修復は終わりました。木枠の調整は後でもできます。でも、この手紙は私たちが中身に触れることなく、1日でも早く弦也さんご自身の手で開いてもらわなければならないと思うのです」 相良は深く頷いた。「おっしゃる通りです。旦那様は本日、休日ですが書斎でお仕事をされています。どうか、そのままお持ちください」 透子はキャンバスを仮のボードに固定し、未開封の手紙をその横に添えて抱え上げた。 アトリエを出て2階の書斎へと向かう。 彼の固く閉ざされた心の扉を、この手紙と絵が開いてくれるかもしれない。 そんな淡い期待を胸に、透子は階段を上っていった。◇◇ 書斎の空気はひどく重かった。 東堂弦也はデスクの前に座り、スマートフォンを耳に当てていた。「……だから、その提案は却下だと言っている。親族の意向など関係ない。市場の動向を無視した投資は、会社の寿命を縮めるだけだ」 電話の向こうで、叔父の1人が声を荒らげているのが聞こえる。 弦也は冷ややかに言い放った。
さらに数日後。 画面全体のクリーニングが完了し、絵は描かれた当時の鮮やかさを完全に取り戻していた。 その絵は夏の東堂邸の庭を描いたもの。 ひまわりやサルスベリが咲き誇り、生命力に満ちている。 画家ではない弦也の祖父の筆だが、生き生きとした筆致は庭と植物を愛しているのだとよく伝わってきた。(素敵な絵……。この風景をなくしてしまわないで、本当に良かった) 透子は絵画を眺めて、ほうと息を吐いた。 早く弦也に見せてやりたかったが、修復はこれで終わりではない。 キャンバスを張っている木枠が長年の湿気で歪んでいるので、このままでは再びキャンバスの張りが緩んでしまう。 そうなれば絵の具に亀裂が入ってしまうだろう。取り返しがつかなくなる。 透子は木枠の歪みを補正するため、キャンバスを木枠から一度外すことにした。「相良さん、少し手伝っていただけますか?」 修復の様子を見に来た相良に声をかける。「はい、奥様。何をすればよろしいでしょうか」「キャンバスを留めている釘を外すので、絵が動かないように軽く押さえていてほしいのです」「承知いたしました」 相良が作業台の向かいに立ち、キャンバスの縁を慎重に押さえる。 透子は専用の釘抜きを使い、古い釘を一本ずつ抜いていった。 長年打ち込まれていた釘は錆びており、力を入れる角度を間違えればキャンバスを傷つけてしまう。「かなり古い釘ですね。錆が深く回っています」 相良が言う。「ええ。木枠も随分傷んでいますから、新しいものに交換した方がいいかもしれません。でも、できるだけ元の部品を残したいので、まずは歪みを矯正してみます」 最後の釘を抜き終えて、透子はキャンバスを木枠からそっと剥がした。 その時だった。 キャンバスの裏打ち布と木枠の内側のわずかな隙間に、何か薄いものが挟まっているのに気がついた。「あら……これは?」
「……よし、この配合でいけるわね」 透子は小さく呟いて、本格的な除去作業に取り掛かった。 作業は1センチ四方ずつ、気の遠くなるようなペースで進められた。 溶剤を含ませた脱脂綿で軽く拭い、すぐに乾いた脱脂綿で余分な溶剤を吸い取る。その繰り返しだ。 数日が経過する頃には、画面の半分ほどから黒ずんだ汚れが消え去っていた。 透子は作業の手を止めて、全体を見渡した。「本当に、きれいな色……」 汚れの下から現れたのは、驚くほど鮮やかな色彩だった。 眩しい夏の太陽の光が描かれている。空はどこまでも青く澄んでいる。 画面いっぱいに咲き乱れるのは、夏の花々。 大輪のひまわりが太陽に向かって顔を上げて、サルスベリの鮮やかなピンク色の花が枝を彩っている。 木漏れ日が地面に柔らかな模様を描く。その光の描写は、描いた画家の温かい眼差しを感じさせるものだった。 ふと。透子は、この風景に見覚えがあることに気がついた。「これは、もしかして……?」 彼女はアトリエの窓から、外の庭を見た。 使用人の青年が、額の汗を拭いながら芝生に水を撒いている。最近の彼はすっかり庭師業が板についてきた。「あ、奥様! 今日もいい天気ですね。ひまわり、すごく元気ですよ!」 青年が窓の向こうから手を振った。 彼の向こう側には花壇が整えられていて、ひまわりが夏の太陽をいっぱいに浴びていた。「ありがとう。お水やり、ご苦労様」 透子も笑顔で手を振り返した。 東堂邸の庭は透子が自ら草を抜き、剪定し、手入れを続けてきた。 改めて絵を眺める。 絵の中に描かれているサルスベリの木の位置と、ひまわりの花壇の配置。 ゆるい弧を描き庭の奥へと続く、石畳のカーブ。 木々は育って大きくなり、花の種類も少しだけ変わっているが、それは透子がこの数ヶ月で整えた現在の庭の風景と重なっていた。







