ログイン突然、雨音が激しくなった。まるで世界そのものが飲み込まれてしまったかのように。航平の呼吸が、少しずつ浅くなる。「一年前……」彼は低く繰り返した。脳裏に、あの古い写真が徐々にはっきり浮かび上がってくる。ぼやけた新聞の見出し。【本校二年男子生徒、深夜に転落死】そして写真の端には、もう一人の人物が写っていた。――奥田。横顔の半分しか映っていなかった。それでも、航平が見間違えるはずがない。「お前、あいつを知ってるんだな」航平は勢いよく奥田を見た。それは問いではない。確信だった。奥田は長い間、黙っていた。空気まで冷え始めるほどの沈黙。やがて、彼は低く口を開く。「……ああ」その一言が落ちた瞬間。ずっと押し込められていた何かが、ついにひび割れた。航平はゆっくりと拳を握りしめる。「……なんで俺に言わなかった」奥田はすぐには答えなかった。ただ目を伏せ、遠くを見るような表情をしていた。「だって――」「自分でも、忘れたと思ってたからだ」航平は目を見開く。奥田は小さく笑った。だが、その笑みは苦かった。「普通に忘れたんじゃない」「まるで――」「誰かに、あいつに関する記憶だけを、無理やり脳から抉り取られたみたいだった」空気が凍りつく。航平はふと思い出した。これまで感じていた、あの“欠落感”。言葉にできない既視感。あれは、最初から突然生まれたものじゃない。――誰かが、消されていたんだ。その時だった。レストランの照明が再び明滅する。パッ。パッ。接触不良のように、不安定に。そして――突然、テレビ画面が勝手に切り替わった。映し出されたのは、一つの教室。夕暮れ。誰もいない。カメラは固定されたまま、静かにその空間を映している。航平と奥田は同時に硬直した。なぜなら――そこは、記憶の中の教室だったからだ。次の瞬間。教室の扉が開く。誰かが入ってくる。神谷澪。写真の中より、ずっと生き生きとしていた。少し乱れた黒髪。制服の上着を肩に引っ掛けたまま。口元には、気だるげな笑み。そして彼は、カメラを見た。正確には――彼らを見た。「やっと思い出した?」その声が、はっきりとテレビから響く。今度は、無音じゃない。航平の呼吸が止まった。なのにレストランの他の客たちは、誰一人反応しない。まる
雷鳴が消えた。窓ガラスに映る影も、再び正常なものへと戻る。だが航平は、完全に硬直していた。――今のは、絶対に見間違いなんかじゃない。あの“誰か”は。確かに、二人の間に立っていた。まるで無理やり割り込んできた“裂け目”みたいに。奥田も、明らかにそれを見ていた。彼の顔色が、初めて見るほど最悪だった。「……もう、直接現れ始めてる」航平の呼吸が浅くなる。「……あれ、いったい何なんだよ」答える者はいない。その瞬間だった。店内放送が、突然「ジジッ」とノイズを鳴らした。続いて。機械的な女の声が、ゆっくりと流れ出す。『ただいま、落とし物のお知らせをいたします』声自体は、ごく普通だった。だが――問題は。今が深夜だということ。こんな時間に、店内放送が流れるはずがない。航平と奥田は同時に顔を上げた。放送は続く。『二年B組』『落とし物一点』『持ち主の方は、至急お引き取りください』空気が、一瞬で凍りつく。二年B組。それは――彼らのクラスだった。放送の声が、一秒ほど間を置く。そして。ゆっくりと、その名前を告げた。『――神谷 澪』その瞬間。航平の心臓が、どすりと重く沈んだ。奥田も勢いよく顔を上げる。なぜなら。二人とも、その名前を知っていたからだ。いや――“知っているはず”だった。なのに、おかしい。誰一人として、その人物について何も思い出せない。ただ。曖昧な既視感だけが残っている。まるで棘みたいに。記憶の奥深くに刺さったまま。「……神谷澪って、誰だ」航平が低く呟く。奥田は答えない。いや、答えられなかった。名前を聞いた瞬間。彼の頭に、激痛が走ったからだ。大量の映像が、猛烈な勢いでフラッシュバックする。――教室。――夕焼け。――誰かの笑い声。――三人。二人じゃない。三人だった。航平もまた、思わず頭を押さえる。彼にも、見えていた。あの記憶の中で。ずっと曖昧だった“空白”の位置に。ついに、人影が現れる。窓辺に立っていたのは。奥田じゃない。――別の男子生徒。黒髪。少し着崩した制服。窓際にもたれ、笑っている。けれどその視線だけは。ずっと、航平と奥田の二人に向けられていた。そして奥田は。教室の入口に立ち。まるで、その少年を見つめているようだった。空気が、急速に
奥田の身体が、びくりと強張った。――なぜなら。現実でも。同時に。彼の肩へ、“重み”が乗ったからだ。とても軽い。だが。確かに存在していた。航平の瞳が一気に見開かれる。「奥田!!」ほとんど反射だった。彼は勢いよく奥田の腕を掴み、自分の方へ引き寄せる。その直後。――ガタンッ。さっきまで奥田がいた場所へ。テーブルナイフが落下した。耳障りな金属音が、店内に響き渡る。まるで。今そこに、“誰か”が立っていたみたいに。周囲の客たちも、さすがに驚いたようだった。「え、何?」「びっくりした……」怪訝そうな視線が向けられる。けれど。やはり誰も、“あれ”そのものは見えていない。彼らに見えているのは。ただ、ナイフが勝手に落ちたという事実だけだった。奥田の呼吸が明らかに乱れていた。さっきの一瞬。彼は確かに感じたのだ。誰かが。背後にぴたりと張り付いていた。異様なほど近く。わざと身体を屈めて。耳元で囁くような距離で。「……聞こえたか?」航平が低い声で尋ねる。奥田は数秒沈黙したあと。ゆっくり頷いた。その仕草を見た瞬間。航平の胸が、重く沈んでいく。「何て言われた」奥田はすぐには答えなかった。まるで。口にしたくないみたいに。だが最後には、小さく呟く。「――“あいつに近づくな”って」空気が、一瞬で冷え込んだ。航平の指先がぎゅっと強くなる。まただ。また、“距離”。あの存在はずっと。二人の関係に干渉している。まるで。何かを必死に制御しようとしているみたいに。その時だった。航平が、ふと異変に気づく。「……待て」奥田が顔を上げた。「何だ?」航平は、彼の肩をじっと見つめている。「お前の制服……」奥田が視線を落とした。そして次の瞬間。二人同時に、息を止める。制服の肩口に。濡れた手形が浮かんでいた。まるで。雨の中から現れた誰かが。直接触れたみたいに。冷たく。鮮明に。けれどおかしい。店に入ってから。誰一人、奥田の肩には触れていない。奥田の呼吸が止まりかける。航平はほとんど無意識に、その手形へ指を伸ばした。――冷たい。水じゃない。むしろ。“温度だけが残っている”ような冷たさ。その瞬間だった。航平の脳内で。映像が爆発するように流れ込んできた。――長い廊下。
空気が、二秒ほど完全に止まった。――そして。航平が勢いよく立ち上がった。「……何言ってるんだよ?!」その声には、珍しく剥き出しの怒気が混じっていた。レストランにいた数人の客が、ようやくこちらを振り向く。だが次の瞬間には、何事もなかったかのように視線を逸らした。まるで何かが。意図的に彼らの存在感を薄めているみたいに。一方、奥田は動かなかった。ただ俯いたまま。指先を強く握り締めている。「俺はただ……」「推測しただけだ」「推測?」航平は初めて、真正面から彼の言葉を遮った。呼吸が乱れている。「そんなもの、本気で信じるのか?」「記憶なんて簡単に騙される」「映像だって嘘をつく」「でも――感情は違うだろ」奥田の目がわずかに揺れた。航平は低く視線を落としたまま、真っ直ぐ彼を見据える。「もし俺たちが、本当に“同じ人間”なら――」そこで一瞬、言葉が止まった。喉がひどく強張る。「なんで俺は……」「お前に、あんな感情を抱くんだよ」空気が、音もなく凍りついた。奥田の瞳が微かに収縮する。けれど航平は、目を逸らさなかった。――この瞬間になって、ようやく気づいたからだ。自分が本当に恐れていたもの。それは記憶の異常なんかじゃない。もし。“好き”という感情さえ偽物だったらどうするのか。その恐怖だった。窓の外では、雨音がさらに激しくなっていく。奥田は長い間、黙っていた。やがて。ふっと小さく笑う。それはかすかな笑い声だった。けれど同時に、張り詰め続けていた神経がようやく緩んだような、深い疲労も滲んでいた。「……そうだな」彼は静かに言った。「俺、さっき本気であれに引っ張られてた」航平が眉をひそめる。「どういう意味だ?」奥田はゆっくり顔を上げた。その目には、ようやく冷静さが戻っている。「おかしいと思わないか」「“あれ”はずっと、俺たちをある答えに誘導してる」「記憶の分裂」「存在の混乱」「そして、さっきの推論まで」彼はゆっくりとテレビへ視線を向けた。画面はすでに普通のニュースへ戻っている。だが黒いフレームの反射の奥には。まだぼんやりと、人影のようなものが映り込んでいた。「“あれ”は、俺たちに――」「関係そのものを疑わせたいんだ」航平は息を呑む。奥田は続けた。「恐怖よりも」「人を簡単に
テレビの映像は、まだ続いていた。監視カメラの時刻表示が、次々と切り替わっていく。23:47。23:48。廊下に立つ“奥田”が、ゆっくりと顔を上げた。まるで。カメラの存在に気づいたかのように。次の瞬間。画面が一気にズームされる。同時に、店内のテレビ全てから耳障りなノイズが響いた。「ザザザッ――」周囲の客たちは、不快そうに眉をひそめる。だが。妙だった。誰一人として、恐怖を感じていない。まるで――異常が見えているのは、自分たちだけみたいに。航平は勢いよく周囲を見回した。レジ係は下を向いたままレシートを整理している。カップルは小声で会話を続け。窓際の中年男は、黙々とコーヒーを飲んでいた。誰もテレビを見ていない。誰も、“あの奥田”に気づいていない。「……見えてないのか」航平の声が強張る。奥田は答えなかった。なぜなら。テレビの中の“自分”が。ゆっくりとカメラへ向き直ったからだ。そして。笑った。――さっきガラスの反射の中で見た笑みと、まったく同じだった。次の瞬間。画面の中の“奥田”がゆっくり口を開く。音はない。なのに航平には、“何を言ったのか”が分かってしまった。【見つけた】全身の血が一気に冷える。同時に。向かいに座っていた奥田が突然頭を押さえた。「っ、ぁ……!」顔色が一瞬で真っ白になる。まるで頭の中を、何かが無理やり引き裂いているみたいだった。「奥田!」航平は反射的に立ち上がる。だが。奥田は突然、彼の手首を掴んだ。信じられないほど強い力で。「テレビを見るな!」初めてだった。奥田の声が、完全に制御を失っていた。「“あれ”は同期して――」言い終わる前に。テレビ画面が激しく歪む。次の瞬間。監視映像の中の“奥田”が、消えた。代わりに映っていたのは。別の人物。航平。正確には――廊下に立っている“航平”だった。しかも。その航平は。まっすぐカメラを見つめていた。ゆっくりと口元を吊り上げながら。航平の呼吸が止まる。なぜなら。その笑みは、自分のものじゃなかった。なのに――どこかで見覚えがあった。まるで。本来の“自分”なら、そう笑うはずだったみたいに。「……違う」航平は一歩後ずさる。背筋が凍る。だが奥田は。突然顔を上げ、テレビを凝視した。そして
闇は長く続いていた。長すぎて、航平は呼吸することすら忘れかけていた。電話はとっくに切れている。部屋に残っているのは雨音だけ。そして――自分自身の荒い鼓動。パチッ。数秒後。灯りが再び点いた。刺すような白い光が、一瞬で部屋全体を照らし出す。誰もいない。背後には何もなかった。それでも航平は、その場から動けなかった。顔色は真っ青だった。なぜなら彼には分かっていたからだ。さっきの声は――間違いなく、本当に存在していた。しかも。最も恐ろしいのは「誰かが現れた」ことではない。あの声が、自分自身にそっくりだったことだ。あまりにも似すぎていた。声の間の取り方まで、まるで同じだった。航平はゆっくりとうつむく。額には冷や汗が滲んでいた。その時だった。スマホが突然震える。非通知。航平の瞳がわずかに揺れた。通話を取る。電話の向こうは二秒ほど沈黙していた。そして。奥田の声が聞こえた。「……お前も聞いたんだろ」航平は低く答える。「ああ」再び沈黙。今度は。どちらも先に口を開かなかった。二人とも、同じことに気づいていたからだ。事態はもう完全に、「記憶の異常」なんて範囲を超えていた。やがて。奥田が低く呟く。「会おう」——三十分後。深夜。駅近くの二十四時間営業のファミレス。雨はまだ降っている。店内に人影は少ない。白すぎる照明が、妙に冷たかった。航平がドアを開けた時。奥田はすでに一番奥の席に座っていた。帽子のつばを深く下ろし、何かから身を隠すように。航平は歩み寄る。席に座った瞬間。二人は同時に口を開いた。「お前――」そして同時に止まる。空気が少し張り詰めた。結局。先に口を開いたのは奥田だった。「……お前から話せ」航平は数秒黙り込む。そして、さっき起きたことを全て話した。鏡の中の“動きが半拍遅れたこと”。そして――“自分自身の声”。話し終えた後も。奥田はしばらく黙ったままだった。ただ、指先だけが少しずつ強く握られていく。何かを必死に押さえ込んでいるみたいに。「……やっぱりな」低い声だった。航平は眉を寄せる。「何か知ってるのか?」奥田は顔を上げた。その瞬間。航平は初めて、彼の本当の表情を見た。いつもの冷静さじゃない。それは――ひどく疲れ切った顔
西川はゆっくり体を起こし、ベッドサイドのテーブルへ手を伸ばした。スマートフォンを手に取る。画面が点灯した。時刻はすでに零時を回っている。チャットアプリの一覧が、整然と並んでいた。
校舎の裏手にある空き地は、いつもと変わらず静かだった。グラウンドの端から風がゆっくりと吹き抜け、草の先をかすめてかすかな音を立てる。空は澄みきっていて、余計な喧騒もない。わざわざここまで来て邪魔をするような人もいない場所だ。洗い流されたように澄んだ空気の中で、呼吸さえもいつもよりはっきりと感じられる。二人は並んで階段に腰を下ろしていた。夕陽が斜めに差し込み、二人の影を長
「じゃあ……」航平は少しだけ声を落とす。「今のこれは、どんな感じ?」奥田は一瞬だけ考えた。ほんの短い沈黙。そのあとで、静かに答え
ページの角がなだめられると、紙は再び机の表面にぴたりと寄り添った。航平の指先はまだその一角に触れたままだった。すぐには手を離さない。まるで、その感触を確かめるように、ほんのわずかな時間そこに留まっている。彼の視線は、ずっと挿絵に向けられていた。騎士の横顔。風を受けて揺れるマント。