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第29話
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輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした 第30話
紬は黄ばんだ書類を掴み、赤い唇をかすかに震わせた。成哉と結婚する前、彼女はこの結婚に憧れを抱いていた。たとえ成哉が冷たくあしらおうとも、いつか氷山のような心が溶ける日が来ると信じていたのだ。あの頃、まだ世間知らずだった紬は、どうすれば男性の心を掴めるのかとネットで助言を求めた。ユーザーたちは好き放題に意見を述べ、最終的に紬は「婚前契約書」と銘打ちながらも、実際には恋人同士の約束事にすぎない条項を一字一句書き連ねた。第一条、夫は毎日妻を三回抱きしめること。第二条、夫は出かけるとき、妻の額にキスをすること。第三条、夫は毎日、心から妻を一度褒めること。第四条、週に四回、夫婦の営みをすること。……紬はそれ以上目を通し続けることに耐えられなかった。恥ずかしさと怒りで、胸の奥が焼けつくようだ。成哉は頭がおかしくなったのではないか。「これが、あなたが急いで私にサインさせようとした契約書？」紬は信じられず、成哉が何か勘違いしているのではと疑ったほどだ。あのとき彼にこの契約書を差し出した瞬間、成哉は一瞥しただけでゴミ箱に放り捨てた。そのときの、深い嫌悪を宿した表情を紬は今でも鮮明に覚えている。「二度とこんなゴミを俺の前に出すな」どうして成哉は、今さら金庫からこれを取り出してきたのだろう。確かに、これは当時の紬自身の筆跡だった。「無論だ」成哉は微かに頷き、瞳に冷たくも妖しい光を宿したまま立ち上がり、紬のそばへと歩み寄った。「これはお前がずっと望んでいたことだろう？合理的な範囲内でなら、お前の要求をいくつか満たしてやってもいい。だが、お前もそろそろ分別をわきまえろ。子供や家族、他人の前で、そんな駆け引きじみた真似はやめるんだ。俺はお前の遊びに付き合う気はない。この契約書にサインすれば茶番は終わりだ。今夜家に戻って、契約を履行し始める」成哉は紬の肩を押さえつけ、瞳の奥にむき出しの欲を深めていく。紬は背筋を悪寒が走り、思わずその手を振り払った。「あなた、これ全部、私の駆け引きだと思ってるの？」成哉は尊大な態度で鼻を鳴らした。「違うのか？」「あなたをこんなに気持ち悪いと思ったこと、今まで一度もない！」言葉をわざと「協議書」と濁して紬を呼び戻し、差し出してきたのは婚前契約書
輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした 第29話
理玖の着替えを待つあいだ、紬はスマホのメッセージを確認した。少し前に、成哉から連絡が入っていた。【紬、家に戻ってこい。話がある。あの協議書の件だ。待つ暇がないんだ】紬は、爪が白くなるほどスマホを強く握りしめた。――なんだ、届いていたのか。捨てられなくてよかった。紬は小さく溜息をついた。迷った末、紬はやはり二人が着替え終わって出てくるのを待ち、申し訳なさそうに別れを切り出した。「ごめんなさい、次は私がご馳走するから」唯が寂しげに紬の服の裾を掴む。「きれいなお姉ちゃん、すごく大事な用事があるの？」「ええ、とてもね」紬は唯の小さな頬を優しく撫でた。そして唯は視線を理玖へ移し、唇を軽く噛む。「お先に失礼します、神谷さん。手術の件は、早急になんとかしますので」理玖は伏し目がちに手元の書類を見つめていた。眼鏡のレンズが冷ややかな光を返し、人を寄せ付けない空気を纏っている。紬が立ち去るまで、彼は一言も発さなかった。その場にいた文人は、心の中で「終わった」と叫んだ。この様子じゃ、今夜の残業はオフィスの電気が消えるまでコースだ。……紬は急いで宝山の別荘地へと戻った。「奥様、お帰りなさいませ」紬の帰宅に気づき、執事や使用人たちが一斉に挨拶をしてくる。使用人たちは、屋敷のあちこちに散乱したパズルや積み木を片付けているところだった。以前、紬が家にいた頃は、子供たちに自分の玩具は自分で片付けさせていたため、こんなふうに散らかり放題になることなど滅多になかった。使用人たちは皆、紬がいた頃の日々を懐かしく思っていた。紬も子供たちを可愛がってはいたが、望美のように無制限に甘やかすことはなかったからだ。紬はそっけなく頷いた。部屋へ向かう途中、子供たちと望美の姿が見当たらないことに少しだけ胸がざわついた。紬は二階の書斎へ向かい、ドアをノックする。「入れ」書斎に入ると、紬は単刀直入に切り出した。「協議書には目を通した？何か付け足すことは？」「そんなに急ぐことはない」成哉はサインの手を止めた。「まずはじっくり話し合うべきだろう。この家を、今のままにしておくべきじゃない」紬は彼の言葉をさえぎり、冷静に告げた。「天野さん、あなたは私を愛してなんていないでしょう？あの夜の間違いがなけれ
輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした 第28話
理玖は手のひらをそっと握り、その傷跡を隠すようにしながら、低く柔らかい声で囁いた。「……ごめんなさい。私が責任を取ります」その言葉に、紬の目はさらに赤く滲んだ。文人は内心で盛大に毒づいた。――まさか社長が十数年前の傷跡まで持ち出して、女の子を騙そうとしているだと！？やれやれ、どこまで獣道を突き進むおつもりか。さっき強制的に歯を抜かれた唯様を連れ戻して、この豹変ぶりを見せてやるべきだった！「どう責任を取ってくれるんだ？」理玖は口角をわずかに上げ、そっと手を伸ばす。紬の目尻にこぼれ落ちかけた涙を拭おうとした瞬間――紬はすっと顔を背け、服の裾で目を素早くぬぐい、彼の手を避けた。「お金を貯めて……一番腕の良い整形外科の先生をお願いしますから」理玖：「？」文人：「ぷっ……！」文人は普段プロ意識だけは高いつもりだったが、この瞬間ばかりは堪えきれなかった。紬は目の前の男の顔がどんどん曇っていくことに気づかず、真剣な面持ちで続けた。「今は傷跡修復の技術がとても発展していますし……確か海原にも腕のいい先生がいたはずです。理玖さんの手を診てもらえるよう、必ず一番の先生をご紹介します」理玖は作り笑いを浮かべた。「紬さんはずいぶん裕福なんだな。ご足労、ありがたいよ」――そんなに急いで俺と縁を切りたいのか？薄情なやつだな。俺のことなんて、全部忘れたの？「いいえ、そんなにたくさんは……でも、一生懸命お金を稼ぎます。そんなに長くはお待たせしません」紬は皮肉に気づかぬまま、首を振って言った。もうすぐ成哉と離婚する。天野家のやり方なら、成哉の財産はおそらく一円ももらえない。もっと働かなければ。傷跡の治療は、遅れれば遅れるほど難しくなるのだ。理玖は紬の真剣な横顔をちらりと見て、喉が渇くのを感じた。「ああ、待ってる」「えっと……夫のお金は、関わりたくないので」紬は、理玖に余計な誤解をされまいと小声で付け加える。「ああ、急がなくていいよ」理玖はスープジャーを手に取り、ポタージュをスプーンでゆっくりかき混ぜた。成哉の金すら使わないのか。よほど愛想が尽きたのだろう。理玖は内心ほくそ笑んだが、顔には出さなかった。しかしそのわずかな変化は、文人の目は見逃さなかった。文人は驚きを隠せな
輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした 第27話
これは、数え切れないほど繰り返された、何度目かの出来事だった。顔に張り付いたような鈍痛が波のように押し寄せ、紬にその存在を否応なく意識させる。理玖の顔から笑みが消え、紬の頬の傷をじっと見据え、冷ややかな声が落ちた。「部屋で待ってろと言っただろう？なんで入らなかった？」ちょうどその時、文人が戻ってきてしまい、この光景に鉢合わせた。できることなら、そのまま自分をエレベーターに押し戻して逃げ出したいくらいだ。ああもう、社長があんなに急いで戻ってきたのに、結局間に合わなかったなんて！「突っ立って殴られるだけで反撃もしないなんて、事情を知らないやつが見たら、紬さんに特殊な癖があるのかと誤解するぞ」紬は唇を噛み締めた途端、鼻の奥がつんと熱くなる。さっき絵美に殴られた時でさえ、泣こうなんて思わなかった。成哉が絵美をかばい、あまつさえ紬の目の前で望美を追いかけていった時ですら、涙は出なかった。だが、理玖の言葉は、なぜだか胸の奥を無性に締め付けた。――きっと彼は、私が面倒ばかりかけることを疎ましく思っているのでしょう。それも当然ね。神谷さんと会ったこの数回、私が彼にもたらしたものは厄介事ばかりなのだから。紬は小さく鼻をすすると、顔を背けた。目頭がじわりと熱を帯びる。「ごめんなさい、神谷さん。お邪魔しました」次第に赤く染まっていく紬の目元を見て、理玖は心の中で自分を罵った。――なんで、あんな言い方をしてしまったんだ。あの状況で、紬に選択肢などあるはずがないのに。文人は見ていてじれったくて仕方がない。――社長よ、今こそつけ入る隙でしょうが！何をしてるんですか？！彼女の機嫌を取って、慰めてあげてくださいよ！理玖は気持ちを立て直すように、それまで気だるげだった立ち姿をゆっくり正した。しばらくして、ようやくぎこちなく口を開く。「……それだけか？」文人：？？？――はい、奥様候補消滅のお知らせですね。理玖が文人を鋭く睨み、視線で合図を送る。文人は即座に反応した。「私、紬さんのお薬をもらってきます！」紬が「結構です」と言いかけた時には、すでに文人は脱兎のごとく走り去っていた。理玖は振り返り、わざと隙間を開けておいたドアを押し開けた。舌先で唇をなぞり、呆れを含んだ笑みがこぼれる。鍵がかか
輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした 第26話
成哉は細めていた目を、さらに細くした。先ほど絵美に平手を食らった時でさえ、紬はここまで激しい反応は見せなかった。成哉は顔をしかめ、紬の腕から弁当箱を力ずくで引き離そうとする。男の力は容赦がない。紬は必死に弁当箱を守り、先ほど叩かれて赤くなっていた頬は、いまや怒りと必死さでさらに赤みを帯びていた。このポタージュは、犬にやるほうがまだまし。この人たちには絶対に渡さない。押し合いへし合いの最中、ついに成哉が声を荒らげた。「いい加減にしろ！手を離せ！」紬は歯を食いしばって耐えるが、やはり男の力には抗えない。弁当箱が奪われる寸前、整った骨格の、涼やかな白さが際立つ手が横から伸び、弁当箱を押さえた。そして、静かに落ち着いた声がその場に割って入る。「ここで屋台でも開くつもりですか？」引き合いは一瞬で終わった。紬は倒れそうになった弁当箱を胸に抱きしめ、安堵と感謝を滲ませながらその人物を見上げる。理玖は今日、病衣ではなく黒いトレンチコートを纏っていた。もともと高い身長と切れ長の輪郭が、その装いでさらに鋭さを増している。黙っているときの、嵐の前の静けさにも似た冷気を含んだ雰囲気に、誰も真正面から視線を合わせられない。紬は視線をそらし、軽く頭を下げて一歩引いた。理玖は、彼女の頬に残る痛々しい手形に気づき、瞳の奥を静かに暗くした。一方、成哉は理玖が姿を見せた瞬間、無意識のうちに手を離していた。成哉は言葉もなく、その男を睨む。この男、どこかで見たような気がする。あの日、病院で紬を庇った男……あれはこいつだったか？理由はわからない。ただ胸の奥がひどくざわつき、落ち着かなかった。望美が不安げに視線を彷徨わせながら、柔らかい足取りで成哉に寄り添い、そっと腕に触れる。「もしかして……神谷さんでいらっしゃいますか？本当に申し訳ございません。すぐに退きますので……」その一言で、成哉はすべてを理解した。彼は名刺を取り出し、理玖に差し出す。「お噂はかねがね伺っております。神谷淳（かみや じゅん）さん、ですよね」神谷家には二人の息子がいる。長男・神谷淳は穏やかで控えめ、すでに家を継ぎ、家庭を持つ実力者で、次男・神谷理玖は海外に滞在することが多く、国内で姿を見ることさえ稀だ。成哉は、目の前の男を当
輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした 第25話
紬の瞳に宿る冷たさは、まるで鋭く研ぎ澄まされた刃のように、その場にいる一人ひとりを射抜いた。「お義母さん、年長者としての敬意を表して、最後に一度だけ『お義母さん』と呼びます。本当に私のことがそんなにお嫌いなら、息子さんに早く離婚を承諾させてください！」絵美は紬の眼差しに気圧され、一瞬だけ言葉を失った。この小娘……数日会わないだけで、なぜこんなにも偉そうになったのか。「あそう、あなたの大事な孫と息子さんに聞いてみればいいんじゃありません？どうしてこんなにも長く熱が続いているのに、一向に下がらないのかって」紬は腕を組み、人々の前に堂々と立った。華奢な顎をわずかに上げる。その頬には痛々しい平手打ちの跡がくっきり残っているにもかかわらず、そこには怯えも屈服も微塵もなかった。その言葉に、成哉と悠真の表情がすっと変わった。「余計なことを言うな」成哉の目は冷たく光る。彼は内情を知っていたが、悠真は天野家の次代を担う存在だ。こんな場所で触れるべき話ではない。絵美も息子が隠そうとする気配を察し、矛先を変え、胸元を押さえて大袈裟に泣き叫んだ。「成哉、これはあなたが選んだ嫁よ！離婚よ、絶対にこの女と離婚しなさい！」成哉は胸の痛みを訴える母を支えながら、険しい表情をした。「紬、どうしてもこんなふうに騒ぎ立てるつもりか？」彼はこの一件を大きくするつもりはない。「母さんがお前を叩いたのは確かに悪い。だが、母さんは少なくともお前の目上だ。お前の普段の謙譲や親孝行はどうした？どうしてそんなに根に持つんだ？」紬は驚かなかった。今まで何度絵美と衝突しようと、成哉が立つのは常に母の側。絵美が紬を叩いても、彼はまず紬を黙らせ、「どっちも悪い」と責任を曖昧にする。いや、むしろ紬に圧力をかけ、絵美に頭を下げさせることが常だった。そして案の定、成哉の次の言葉が落ちてくる。「母さんに謝れ。それでこの話は終わりだ」紬はただ静かに、成哉を見つめた。この六年間、自分はどれほど目が曇っていたのか。どうしてこんな男のために、あらゆる場所で耐え続けてきたのか。その視線に、成哉は居心地悪そうに眉をひそめた。「そんな目で俺を見て、何が言いたい？」「あなたの頭がおかしいんじゃないかって、気になって仕方ないだけよ」「…
