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第66話 奇妙な置き土産

last update Last Updated: 2025-10-06 20:36:10

 辺境の城は、巨大な蜂の巣と化していた。

 王都から「討伐軍編成」という絶望的な報せが届いてから数日。城と町を覆っていたのは、もはや悲嘆や恐怖ではなかった。それは、来るべき戦いを前にした、静かで、そして熱を帯びた闘志だった。槌の音は、防衛用の柵や櫓が組まれる音へと変わり、兵士たちの鬨の声は、以前にも増して鋭く、空気を切り裂いた。誰もが、自分たちの未来を、そして敬愛する主君と聖女を、自らの手で守り抜く覚悟を決めていた。

 その蜂の巣の中枢、かつて大会議室だった場所は、今や巨大な作戦司令室へと姿を変えていた。壁には辺境一帯の巨大な地図が何枚も掲げられ、テーブルの上には城の防衛計画を示す図面や、兵站管理のための帳簿が山と積まれている。その全ての中心で、ライナスとセレスティナは、ほとんど不眠不休で指揮を執り続けていた。

「…以上が、現在の備蓄状況です。食料は民からの供出もあり、籠城戦となっても半年は持ちます。ですが、矢を作るための鉄と羽が、圧倒的に不足しています」

 セレスティナの声は、疲労でかすれながらも、その内容は常に冷静で的確だった。彼女は、もはや貴族令嬢の面影をどこにも残していなかった。そのすみれ色の瞳は、無数の数字と情報を瞬時に処理し、最善の一手を導き出す、冷徹な軍師のそれだった。

「鉄は、鉱山から急ぎ運ばせよう。だが、羽か…」

 ライナスは、腕を組んで唸った。それは、彼の武力でも、セレスティナの知恵でも、すぐには解決できない問題だった。

 二人の間に、重く、しかし充実した沈黙が流れる。この、絶望的な状況の中で、共に考え、共に戦う。その事実が、彼らの魂を、かつてないほど強く結びつけていた。

 その沈黙を破ったのは、部屋の外から聞こえてきた、慌ただしい足音だった。

「失礼いたします!」

 入ってきたのは、側近のギデオンだった。その顔には、いつもの実直さに加え、わずかな困惑の色が浮かんでいる。

「どうした、ギデオン。何かあったか」

「はっ。先日、廃坑で捕らえたヴァインベルクの手下どもですが、その最後の所持品検査が、先ほど完了いたしました」

 疫病テロの実行犯。彼らのリーダー格は、ライナスによって生け
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