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第5話

Author: レイ
越也は、一言も発しない枝里子を無理やり車に乗せた。シートに座らせた瞬間、枝里子の腹部に滲む血を見て、思わず息を呑む。

「……枝里子、痛くないのか?」

伸ばしかけた手を、枝里子は冷ややかに払った。

そして、かすれた声が落ちる。

「触らないで……気分が悪くなる」

越也の拳が、膝の上で硬く握られる。

「……迎えに行くのが遅れて、本当にすまない。俺、知らなかったんだ……あんなことになるなんて」

枝里子の視線とぶつかり合うが、その言葉は霧のように虚しく消えていく。

知らなかった?そんなはずはない。

誘拐の目的は、金か女と決まっている。廃墟同然の倉庫に置き去りにすれば、どんな結末になるか予想できたはずだ。

彼にとって本当に守りたかったのは詩織、それだけのことだ。

沈黙する枝里子を前に、越也は押し殺すように低く言った。

「全部俺が悪かったんだ。必ずやった奴に報いを受けさせる」

車は唸りを上げて街を駆け抜け、停車した瞬間、越也はシートベルトを外して降りようとする。

だが先にドアを開けたのは枝里子だった。彼女は何も言わず、ただ前だけを見て歩き去っていく。

追いかけようとしたその時――

「越也さん……!」

背後から声が飛び込んできた。

振り返れば、襟元の乱れた詩織が立っている。白い肌には青紫の痕が散り、乱れた髪と涙で腫れた目のまま、彼の胸に飛び込んできた。

「越也さん……痛い……私、汚されちゃった……もう、あなたに顔向けできません……」

越也の呼吸が荒く、重くなる。

「……何があったんだ?」

詩織は、去っていく枝里子の背を一瞬見やり、ためらいながら唇を噛んだ。

「……さっき知ったんです。実は桐谷さん、犯人と取引して……私の住所をバラしたんです。家に戻ったら、もう廊下で待ち伏せされてて……私は必死で逃げてきたけど……」

震える肩が、越也の心を揺らす。瞳が鋭く細まり、声がわずかに上ずった。

「枝里子、これは……お前が仕組んだのか?」

枝里子の瞳は、冷ややかな光を放つ。

「やっていないことを、認めるつもりはないわ」

揺るぎのない視線に、越也は一瞬言葉を失う。

だが、詩織が彼の袖を掴み、嗚咽まじりに告げた。

「さっき通報したんです。犯人はもう捕まって、警察ももうこっちに向かってるって」

「……そうか。なら、警察の調べを――」

その言葉を、鋭い叫びが遮った。

「あいつだ!」

サイレンが近づき、パトカーから引きずり降ろされた男が枝里子を指差す。

「あいつが俺と取引したんだ。江川詩織って女の情報をくれたし、何をしてもいいから自分を見逃せってな」

唾を飲み込み、男はさらに続けた。

「しかも『あの女は旦那をたぶらかした女だから、恥ずかしい写真でも撮れたら金をやる』って……」

その瞬間、詩織が泣き崩れた。

「桐谷さん、私……確かに越也さんを愛しています。でも、あなたの幸せを願って身を引こうと思いました。それなのに……なぜこんなひどいことを?」

枝里子は、これは自分を陥れるための罠だと悟り、むしろ滑稽の感さえ覚えていた。

彼女は詩織をまっすぐに見据え、冷えた声で問いかける。

「私がやったと言うけど……何か証拠はあるの?」

詩織は震える手で襟元を裂いた。青紫の痕が、白い肌に露わになる。

「これが証拠よ!これ以上、どう説明しろっていうの?」

張り詰めた空気が場を支配した。

やがて、その静寂を破ったのは越也の低い声だった。

「……もういい」

彼は上着を脱いで詩織の肩にかけると、枝里子を見据える。その瞳には、失望の色だけが残っていた。

「犯人自身がそう言ったんだ。まだ言い逃れるつもりか?」

そして背後の用心棒に向き直り、冷たく命じる。

「……地下室に入れて、頭を冷やさせろ」

「越也……」枝里子の声が震えた。「私が閉所恐怖症なの、知ってるでしょう?」

彼はわずかに目を伏せ、しかし容赦なく言い放つ。

「知っている。だからこそ罰になる。……詩織に謝れば、すぐに出してやる」

用心棒が枝里子の腕を掴み、強引に引きずっていく。すれ違いざま、男は小声でつぶやいた。

「……桐谷さん、恨まないでください。今、社長が愛しているのは江川さんなんです」

重い扉が閉ざされると、地下室は闇に満ちた。人を呑み込む檻のようなその場所で、枝里子は隅に身を縮める。

湿った空気が肺を圧迫し、耳鳴りが始まる。吐き気が込み上げ、呼吸も荒くなっていく。

「……誰か、助けて……」

暗闇と恐怖は鉛のように彼女を押し潰した。

愛する人に自分の弱さを利用され、刃に変えられる――これは二度目だ。

時の感覚が薄れてきた頃、不意に扉が開き、光が差し込む。

逆光の中に、歪んだ笑みを浮かべた詩織の顔が浮かんだ。

彼女は近づくと、枝里子の髪を鷲掴みにする。

「……あんた、いったい何をしたの?越也さんは、やっぱりあんたと結婚するって言うのよ!」

頭皮を裂くような痛みに、枝里子は声を出すことすらできない。

詩織は鼻で笑い、耳元で囁いた。

「答えないなら……もっと酷い目に遭えばいい」

彼女が背後から持ち出したのは、金属の檻。中では数十匹の鼠が蠢いていた。

枝里子の背筋が凍り、思わず後ずさる。

だが檻は無造作に開けられ、彼女の足元へ投げ込まれた。

「存分にお楽しみくださいませ、『奥様』」

再び闇が戻ると同時に、腕に焼けつくような痛みが走った。鼠に噛まれたのだ。

激痛に全身が震え、必死に振り払って隅へ逃げ込む途中、机の角に額を打ち、視界が揺らぐ。

その夜、枝里子は鼠のチュウチュウという鳴き声だけを聞きながら、終わりのない恐怖とともに夜を明かした。
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