Share

第4話

Author: レイ
しばらく待っても、越也からの返事はなかった。

怪訝に思った枝里子が視線を上げると、彼の携帯の画面には、メッセージの吹き出しが幾つも並んでいた。送り主のアイコンは、やはり詩織だった。

越也は顔を上げ、どこか沈鬱な表情で言った。

「枝里子……今度はなんの真似だ?なぜ江川を放っておいてくれない?」

彼は画面を枝里子の目の前に突きつける。

そこに振込明細が映っていた。振込人は枝里子で、受取人は詩織、金額は四千万円。

しかし、その写真には粗い加工の跡がはっきりと残っていた。

枝里子は鼻で笑う。こんな拙い細工を、越也が信じるとは――やはり男にとって、惚れた女の言葉こそ絶対なのだ。

「私は、こんな低俗な取引をした覚えは一度もないわ」

枝里子は静かに告げた。だが、越也は失望を隠さぬ目で首を横に振る。

「やっていない?じゃあ江川が自作自演したって言うのか?あんなに純粋な子が、お前を貶めるわけがないだろう。

江川が母親のことで金に困っているのを知って、そこを突いて彼女を俺から引き離そうとしたんじゃないのか?

お前……海外で何を学んできたんだ?力を笠に着て人を踏みつけることか?俺は、お前を見誤ったよ」

その言葉を置き捨て、越也は背を向けた。

その後の二日間、越也は一度も姿を見せなかった。

窓の向こうに見えるのは、詩織と肩を寄せ合い、廊下を並んで歩く後ろ姿ばかり。

退院の日も、枝里子は一人ぼっちだった。

だが、病院を出る直前に事態は急変する。

視界がふっと暗転し、次に目を開けたとき――鼻腔を刺したのは、鉄錆の匂いだった。

周囲を見渡せば、冷たいコンクリートの床に無機質な壁。

そこは人気のない倉庫で、鋭い目をした男たちが数人、無言で立っている。

枝里子と詩織は、隣同士の椅子に縛り付けられていた。

男のひとりが銀色のナイフを弄びながら、刃先を二人の顔すれすれになぞる。

「さて、この新品の切れ味……どっちで試してやろうか」

詩織は顔面を真っ青にして、甲高い悲鳴をあげた。

「誰なの!触らないで!」

枝里子は手首の縄に指を探り、わずかな緩みを感じる。しかし、焦れば動きが悟られる。

胸の奥の動悸を押し殺し、枝里子は詩織の声を制して時間を稼ぐ。

「……あなたは?私たちをさらって、いったい何が目的なの?」

男は目を細め、詩織の顔を舐めるように眺めた後、刃先を枝里子の喉元へと押し当てた。

「西原社長には前からお世話になっててね。最近はちょっと金欠だから、お借りしようと思って。

それにしても、西原社長が羨ましいね。しとやかな婚約者にエロい愛人……社長に選ばせるのなら、どっちを選ぶと思う?」

刃の冷たさが頬をかすめ、枝里子の背筋にぞくりと震えが走った。

不自由など知らずに育った彼女にとって、こんな場面に耐えられるわけがない。

それでも、怯えを悟られてはならない。

「今すぐ私たちを解放したほうが身のためよ。越也は、もうこちらへ向かっているはず。

あの人は、脅されることを何より嫌う……このままだと、あなたの命が危ないわ」

手首を縛る縄は、あとわずかで外れる。

枝里子は倉庫の隅々へ視線を走らせ、逃げ道を探った。

男の目に、一瞬だけ迷いの色が宿った――その瞬間。

倉庫の扉が轟音とともに蹴り破られ、大きな人影が飛び込んできた。

目を凝らすと、それは越也だった。枝里子の胸の奥に、かすかな希望が灯る。

越也は荒い息をつきながら駆け寄ってくる。

朝、犯人からの連絡を受けるや否や通報し、それでも警察を待たずにこの場所へ駆けつけたのだ。

髪も服も乱れた二人の前に立ち、越也は鋭い眼差しで犯人を睨んだ。

「彼女たちを解放しろ。金はいくらでも払う」

犯人の男は、越也の背後に誰もいないことを確認すると、薄笑いを浮かべた。

「さすが西原社長、話が早いな。一億だ。ただし助けられるのは一人だけ。もう一人は……」

男はいやらしく口角を上げる。

「そうだな、西原社長の女なら、ベッドでも優秀だろう。女と寝るのは久しぶりだ、ありがたくいただくとするよ」

越也の表情が鋭く引き締まった。低く抑えた声が響く。

「この俺と交渉するつもりか?いい度胸だ……二人とも返してもらうぞ」

しかし男は、あざ笑うようにナイフを詩織の肩へ滑らせ、血の筋を刻んだ。

「これは俺のゲームだ。俺がルールを決める」

詩織は顔を真っ青にして悲鳴を上げていたが、越也を見ると、強がりの笑顔で言った。

「越也さん……桐谷さんはあなたの婚約者。どうか彼女を助けてください。私は……大丈夫ですから、どうせ価値のない人間だし……

私が死んだら、家族のことだけ見ていただければ……」

その言葉が終わる前に、刃が再び鎖骨を裂いた。詩織の叫びが倉庫に響き渡る。白い服は瞬く間に赤く染まり、その光景は目を背けたくなるほど生々しい。

男はナイフについた血を舐め、苛立ちを滲ませた声で言った。

「社長、急げ。このままじゃ二人とも死ぬぞ」

紙切れがひらりと宙を舞い、越也の足元に落ちる。そこには口座番号が書かれていた。

「二分以内に、この口座へ一億を振り込め」

越也は苦渋に満ちた眼差しを枝里子へ向け、それから血まみれの詩織へと移す。

数秒の沈黙――そして、目を閉じ、掠れた声が漏れた。

「……わかった。詩織を放せ」

枝里子の顔から、さっと血の気が引いた。十年の絆を、彼はためらいもなく手放したのだ。

やはり、男の約束など信じるべきではなかった。

枝里子は目を閉じ、天井の暗がりを仰ぐ。涙が顎を伝い、床に落ちては静かに滲んでいく。

その瞬間、彼女は決めた――もう二度と、越也に幻想も期待も抱かないと。

「了解」犯人は口の端を吊り上げ、薄笑いを浮かべた。「もっと早く決断してくれれば、このお嬢さんも苦しまずに済んだのにな」

まもなく、一億が犯人の口座へ振り込まれた。

越也は枝里子を見ようともせず、詩織にだけ声をかけた。「さあ、帰ろう」

抱き上げられた詩織の影が、枝里子の視界を横切る。越也は一瞬だけ足を止めかけたが、そのまま背を向けて歩き去った。

越也を完全に見限ったのか、枝里子の心は湖面のように静まっていた。

彼女は無言で二人の後ろ姿を見送り、こっそりと縄を解く。懐から防身用のナイフを抜くと、胸の奥で決意が固まった――これから自分を守れるのは、自分だけ。

そのころ、犯人は鉄の扉を閉め、服を脱ぎながら手を擦っていた。

「捨てられちまったな、かわいそうに。だが安心しな、この俺が慰めてやるよ」

枝里子の瞳が鋭く光る。ナイフの切っ先が相手をまっすぐ射抜いた。

「……近づけば、殺す」

しかし、言葉は虚しく空を切る。

男と女の力の差は歴然。犯人は彼女の乱れた突きをかわし、あっさりと手首の関節を極めて地面へ押しつけた。

骨が軋むような音とともに、激痛が枝里子の全身を貫く。汗が額から滴り落ちる。

犯人は下卑た笑いを漏らしながら顔を近づけ、鼻先を首筋に押しつけた。

「さすが西原社長の女……いい匂いだな」

貪るような手が、枝里子の身体を這う。

服が破れかけたその瞬間、枝里子の膝が、容赦なく男の急所を打った。

男が呻いた隙に、彼女は痛みに耐えて再びナイフを握る。

今度、その刃は自らに向けられていた。

「私が死ねば、西原家も桐谷家も黙っていないわ。この街から、あんたを追放するでしょうね」

そう言って、彼女はためらいなく刃を腹に突き立てた。血が溢れ出し、服を濡らす。それでも枝里子の口元には、薄い笑みが浮かんでいた。

「……今日は、とことん付き合ってあげるわ。度胸があるなら、この倉庫から出てみなさい。あんたの死期も、そう遠くないはずよ」

狂気を帯びたその気迫に、男の肩がわずかに震えた。

ついさっき大金を手に入れたんだ。それを捨てるまで狂った女に付き合う理由はない。

結局、男は悪態を吐き捨て、背を向けて逃げていった。

残された静寂の中、枝里子は床へ崩れ落ちた。

今度こそ、自分の力で生き延びた。

しばらくして、枝里子は息を整えながら立ち上がり、暗い倉庫を後にした。

外に出ると、乱れた服の越也が駆け寄ってきた。

越也は枝里子を見るなり、ほっとするように言う。

「ごめん、枝里子。お前を見捨てたわけじゃないんだ。江川は手術明けで精神的にも危うかったから、彼女を助けたんだ。

お前は優秀だから、一人でも大丈夫だと思った。ほら、昔、海外で誘拐されたときも、自力で逃げただろ?」

枝里子は彼の手を振り払った。唇に冷たい笑みが浮かぶ。

かつて自分が打ち明けた過去が、まさか彼の言い訳となり、自分を傷つける刃になるとは。
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 追憶の荒野   第14話

    枝里子は思いもよらなかった。越也が連れてきたのは、二人の母校だったのだ。懐かしさと違和感がないまぜになった校門。留学して以来、一度も足を運んだことのない場所。後悔とも、未練ともつかぬ思いが胸に広がる。枝里子が意図的に距離を取って歩くと、越也は一歩後ろから彼女の小さな背を追いながら、校庭を指差して口を開いた。「一年の頃は夜まで授業ばかりだったな。授業が終わると必ずこのグラウンドを歩いて……その日あったことを話し合って。飽きることなんてなかった」食堂の前に差しかかると、彼は足を止めて横顔を向ける。「ここ、お前が一番好きだった食堂だ。まだお気に入りの店、残ってるかな。入ってみるか?」「いいえ」枝里子は首を横に振る。過去を辿るより、恩師の元を訪ねたい。心から助けてくれた先生に会いたかった。だが越也はその気持ちを読み取らず、大きなエンジュの木を見上げて続ける。「ここ、カップルの聖地だったな。よく一緒に日向ぼっこして……熱くなって、キスしたりすることも……」「やめて」枝里子はきっぱり遮った。「私にとっては、それはもう美しい思い出でもなんでもない。できることなら、あなたと出会わなかったことにしたいくらい」傷が深ければ深いほど、過去の甘美な記憶は皮肉にしか響かない。その時、背後から呼び声がした。「枝里子?越也?」振り返ると、そこに立っていたのは、懐かしい恩師だった。枝里子の顔に、ぱっと花が咲くような笑みが広がる。それは彼女が帰国後、越也が一度も目にしたことのない笑顔だった。胸の奥に鋭い痛みが走る。恩師は二人が別れたことを知らないまま、枝里子の留学の話を聞き、越也に向かって言った。「これからも彼女を大事にしなさいよ。三年もかかるはずの単位を、枝里子は二年で修めて身体を壊すほど頑張ったんだ。全部、君と早く一緒にいたいからだってね」事情をまったく把握できていない越也は呆然とつぶやいた。「……二年制だって、彼女が言ってたが……」恩師は笑って答える。「心配させないために、ついた小さな嘘だよ」枝里子も笑みを添えて、しかしきっぱりと言った。「先生、もう彼とは別れました」短い言葉に、恩師は一瞬言葉を失う。だが枝里子は気まずさを与えまいと、すぐに恩師の腕に自分の手を絡めて明るく話題を変えた。「先生のお

  • 追憶の荒野   第13話

    越也の動揺がまだ収まらないうちに、枝里子はバッグを掴んで足早に会場を後にした。途中、アルコールを染み込ませたティッシュを取り出し、触れられた肌を何度も拭う。あの男に汚されたところを、綺麗にしないと。車に戻ると、ハンドルを握る清臣がちらりと視線を向ける。彼は枝里子の変化を敏感に察知し、あえて平静を装いながら探るように口を開いた。「……何かあった?」三年のあいだ、枝里子はかつての恋人について多くを語らなかった。清臣が知っているのは、西原越也という男が彼女の婚約者で、裏切りによって関係が破綻したということだけだ。調べようと思えば調べられる。しかし清臣は、それを彼女自身の口から聞きたいと思っていた。清臣がキャップを緩めたネラルウォーターを差し出すと、枝里子はそれをひと口含み、しばらく沈黙したのち、唐突に切り出す。「……あなたには、私と越也の過去をちゃんと話すべきかもしれない。その上で、まだ私を好きでいられるかどうか考えてほしいの」それは、誰にとっても耐え難いほど暗い記憶だった。自分の恋人が、そんな屈辱と苦難を味わっていたと知れば、受け止められないかもしれない――そう思っての言葉だった。しかし、清臣は眉を寄せ、不機嫌そうに首を振った。「……もういい。言わなくていい」枝里子の手からペットボトルが滑り落ちそうになる。彼がこんなふうに冷たく見えるのは初めてだった。やっぱり受け入れられないのだろうか。だから、彼にとって自分は「時間の無駄」で、自分の過去を聞く必要もないと思った。それなら仕方がない、と枝里子は心の中で自分に言い聞かせる。笑って冗談でも飛ばして空気を和ませたいのに、頭が真っ白で言葉が出てこない。ただ、目尻に滲んだ涙を慌てて拭い、ドアに手を伸ばした。「ごめん、ちょっと急用を思い出したの」だが、ドアは開かなかった。ロックがかけられていた。次の瞬間、清臣は枝里子に近づいてきた。普段は澄んだ光を宿す瞳が、今は底知れぬ暗さを帯びている。「僕が好きなのは今のあなたで、これからのあなただ。過去なんて関係ない。あなたが西原に傷つけられた過去など、そんなことを話せば、過去の傷を抉るだけだ。枝里子さん、僕が望むのは、あなたが何のしがらみもなく笑っていられることだ。僕たちの関係は澄んだものでいい。余計な

  • 追憶の荒野   第12話

    三年後、A市で開かれた「海外優秀人材歓迎会」。枝里子と清臣は、国外での実績を評価され、この都市に招かれる形で凱旋した。市のトップたちが催した歓迎会とあって、会場となったホテルの大広間は、きらびやかなシャンデリアの光で満ちていた。枝里子はドレスに身を包み、毅然とした笑みを浮かべて来賓と握手を交わしていた。隣に立つ清臣もまた、端正な立ち姿で人々の注目を集める。握手した市の幹部が、微笑みながら言う。「いやぁ、まさに才子佳人。もしご結婚が近いようなら、ぜひ私にも知らせてくださいね」清臣が即座に一歩出て応じる。「それはもちろんです」幹部が離れると、枝里子は軽く眉を寄せて清臣を睨む。「まったく、どうしてそういうことまで平然と返すの?」三年という月日を共に過ごした二人は、今や互いに遠慮のいらない関係になっていた。清臣は何度も想いを告げてきたが、枝里子はいまだ返事を保留にしている。清臣は誠実で優秀な男だ。その真摯さに心惹かれないはずはない。だが彼女は、帰国してから結論を出そうと決めていた。なぜなら、帰国すれば必ず越也と顔を合わせることになる。そのとき、清臣が自分の過去をどう受け止めるのか……彼女自身もわからなかったからだ。舞台に上がり表彰を受けるとき、枝里子は強い視線に気づいた。その視線は、人混みの中でもひときわ濃く、彼女を逃さぬように絡みついてくる。――やはり。視線の先にいたのは、越也だ。久しぶりに見る彼の顔は、かつての輝きを失い、少し老け込んでいた。枝里子は内心、驚きを覚える。一方の越也は、込み上げる感情をどうにも抑えられなかった。歓迎会に参加する前から、彼は枝里子が帰ってくると知っていた。しかしその情報は夢のように儚かく、今日、枝里子と目があった瞬間、ようやく実感が湧いたのだ。三年の間、彼は一度たりとも枝里子を探すことをやめなかった。国内外に事業を広げる傍らで、枝里子の痕跡を追い続けた。だが世界はあまりに広く、彼女の行方は霧のように掴めなかった。それでも、彼女が自ら戻ってきた、自分のそばへ。人々が彼女と清臣のことを、「美男美女のカップル」と口々に称える声を耳にしても、越也は動じなかった。彼の心には絶対的な自信があった。枝里子の青春はすべて自分に捧げられた。その記憶を凌ぐ存在など、あるは

  • 追憶の荒野   第11話

    飛行機に乗り込んだとき、枝里子の心は不思議なほど静かだった。悲しみも、昂ぶりもない。前回帰国したときの胸のざわめきとは、まるで別物の落ち着きだった。アイマスクを手にした瞬間、通路から長身の影が近づき、彼女の隣で立ち止まった。「すみません、僕は窓側の席です」落ち着いた声が耳に届く。枝里子は思わず顔を上げ、その男の顔を目にして一瞬固まった。越也の顔立ちは整っているほうだ。長い時間を彼と過ごしてきたせいで、他の男を見ても「格好いい」と思うことはほとんどなかった。けれど、この男は違った。柔らかな気配をまといながらも、凛とした立ち姿で、不思議と目を引きつけられる。そのとき、枝里子の携帯が震えた。担当教員からの着信だ。教授の名を口にし、流暢な外国語で受け答えをしていると、隣の男がちらりとこちらに視線を寄越すのに気づく。通話を終えて顔を上げると、彼は微笑みながら枝里子の向かう大学の名を口にした。「……奇遇ですね。僕もその大学の学生なんです」思いがけない言葉に、枝里子も思わず微笑む。「ええ、本当に奇遇ですね」それ以上言葉を交わす間もなく、機内アナウンスが離陸を告げる。枝里子は軽く会釈し、アイマスクをつけて目を閉じた。空港に降り立ったとき、二人は一度すれ違いざまに目を合わせたが、すぐに人波に飲まれた。枝里子は追おうとはしなかった。ただの一期一会の校友、それだけのことだ。大学に戻ると、教授はまるで家族のように彼女の身を案じた。枝里子が少し打ち明けただけで、教授は不器用ながらも、枝里子の母国語で憤りを露わにする。「そんな男、目が曇ってるわ!あなたみたいに優秀な人を傷つけるなんて!」枝里子は苦笑し、静かに首を振った。教授はすぐに気を取り直し、机の引き出しから書類を取り出した。「落ち込むことはないわ。別れを選んだ彼のほうが損をしたのよ。この資料を見てごらんなさい。君にぴったりの研究プロジェクトを申請しておいたの。君の祖国に関わるテーマなのよ。成功すれば未来は大きく開けるはず。ただ、このプロジェクトは極秘で進められているから、外部との連絡はできないし……それに、帰国の目処も立たないのだけれど」教授の説明が終わる前に、枝里子はもう頷いていた。「問題ありません。祖国のために力になれるなら、ぜひ参

  • 追憶の荒野   第10話

    携帯に、動画と音声ファイルが一つずつ残されていた。「越也さん、見ちゃだめ!」詩織が泣き叫び、必死に飛びかかろうとするが、すぐに越也の部下に止められた。越也の手は震えていた。動画を開くと、暗い部屋で隠し撮りされたような粗い映像が流れた。最初に聞こえてきたのは、枝里子の声だった。「……あの車の事故、本当に偶然だったんですか?本当のことを話してくれないなら、あなたは刑務所に行くことになります」――あの車の事故。越也の全身が強張る。脳裏に、血まみれで倒れ込む詩織の姿が蘇った。あの瞬間から、彼の心は大きく揺らいだ。ただひたすらに自分を愛してくれる詩織を、枝里子が理不尽に傷つけた――そう思い込み、彼女を信じることができなくなってしまったのだ。まさか……あの事故は嘘だったのか?重苦しい吐息を漏らすより早く、動画の中の運転手が低く呟いた。「違います……あれは、誰かに頼まれたんです。『あの女を軽くはねて怪我をさせろ。血糊の袋は自分で割るから心配するな』って……終わったら二百万くれるって言われて……病気の母の治療費に充てろって」「……お母さんの名前は?」枝里子の静かな声が響く。「林田しのぶ、です」その名を聞いた瞬間、越也の視線は鋭く詩織に突き刺さった。目の奥が赤く染まっていく。林田しのぶ(はやしだ しのぶ)。越也はすぐ思い出した。詩織の寝たきりの母親もその名前だ。しかも、枝里子の帰国を祝う宴の夜も、詩織が「母の体調が悪い」を理由に彼を呼び出したのだ。こんなことまで……嘘だったのか。「いや、違う!全部桐谷さんが仕組んだ罠なんです!」詩織は首を激しく振り、必死に叫ぶ。だが先ほどの挙動不審な様子が、もはや何よりの証拠だった。林田本人は病院にいる、確認は簡単だ。越也はすぐ助手に調べるよう電話をかけた。だが詩織の蒼白な顔を見た瞬間、越也は確信した。調べるまでもない、すべてこの女の仕業だと。何もかもが詩織が仕組んだ罠なのに、越也は彼女だけを信じ、何度も何度も枝里子を傷つけた。指の関節が白くなるほど握りしめ、越也は深呼吸をしてから次の音声ファイルを開いた。今度は、詩織と例の誘拐犯の会話だった。男のねっとりとした声が流れ、詩織は息を呑んだ。越也に携帯を奪われる前にチェックしていたが、録音を最後まで聞いて

  • 追憶の荒野   第9話

    雨は容赦なく車の屋根を叩き、轟音が車内を震わせていた。ハンドルを握る越也の視線は、必死に闇の中を探している。見慣れたあの背中を、この雨の帳の向こうに見つけられると信じたかった。だが、二時間が過ぎても成果はなく、焦燥だけが積もっていく。枝里子がどこへ向かったのか、見当もつかない。帰国して間もない彼女にとって、この国はまだ異国同然だ。頼れる人も少なく、しかもこんな夜更けに――越也は何度も彼女に電話をかけた。しかし返ってくるのは虚しい呼び出し音だけ。繋がらず、切られもせず、延々と続くプープーという音が彼の神経をすり減らす。「……越也さん、まだ桐谷さんと連絡がつかないのですか?」助手席から詩織の不安げな声がした。彼はちらりと横目をやり、蒼白な顔をした彼女を見て少しだけ声を和らげた。「まだだ。防犯カメラも調べさせてるが……」言葉を遮るように、助手からの報告が入る。「社長、雷雨のせいで周辺の防犯カメラがダウンしました。復旧には時間がかかりそうです。空港の情報も追っていますので、もう少々お待ちください!」「空港?」詩織の目がかすかに輝く。思わず口元が緩みかけ、慌てて咳払いで誤魔化した。「もし桐谷さんが本当に出て行ったら……明日の結婚式はどうなるんでしょう。招待客の前で、お一人で立たれるおつもりですか?」彼女はさらに身を乗り出し、抑えきれない熱を帯びた声を重ねた。「越也さん……もしよかったら、私が代わりを務めます。ベールを被れば、誰も気づきませんから――」「ふざけるな!」怒気を含んだ声が車内を切り裂いた。薄い唇は強く結ばれ、血の気が引いている。「俺の隣に立てるのは枝里子だけだ。詩織、二度とそんなことを口にするな」その一言で車内は一気に凍りついた。雨音だけが激しく響くなか、越也はひたすらハンドルを握りしめ、無意味な探索を続けた。結局、成果は得られぬまま家へ戻ることになった。玄関をくぐった瞬間、全身から滴る水よりも、胸の奥の冷たさのほうが勝っていた。枝里子と口論になることは今までにもあった。だが彼女は決して黙って去ったりしなかった。互いに頭を冷やし、最後には必ず話し合いの場を持とうとしてくれた。今回はそうではなかった。越也はまるで沼にはまったかのように、息をするのも苦しい。携帯の画面には、枝里子

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status