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第8話

Author: レイ
詩織は大きなベッドに抱き上げられると、頬を赤らめ、越也の首に腕を回した。

「……越也さん、ありがとうございます」

さらに何か言おうとした瞬間、越也は彼女をそっと押し離し、険しい顔で遮った。

「待て」

彼はすぐさま部屋を飛び出したが、廊下には人影すらない。

頭が真っ白になり、近くを通った助手の胸ぐらを掴む。

「枝里子はどこだ?見張っておけと言ったはずだろう!」

「しゃ、社長が気にかけているのは江川さんのほうだと思って、その指示をあまり気にしていなかったんです……」

「何をバカなことを!枝里子は俺の婚約者だ、勝手な判断をするな!今すぐ探してこい!」

怒声とともに浮き上がった血管が、彼の焦りを物語っていた。

部屋へ戻り、車の鍵を探しながら携帯を掴む。枝里子に電話をかけようとしたが、詩織が腕を取って阻んだ。

「越也さん……私を病院へ連れて行っていただけませんか?あの事故の傷が、また疼き始めて……」

一瞬、越也の脳裏に枝里子の後ろ姿がよぎった。

「……わかった。佐藤に車を出させる」

だが、詩織は彼の腕を強く握ったまま離さなかった。

明日は結婚式。枝里子を追い出した今夜さえ乗り越えれば、自分の未来は変えられる。その思いに縋りつきながら、彼女は涙をこぼした。

「越也さん……桐谷さんは、あなたと駆け引きをしてるだけです。困らせて、謝らせたいだけ。だから放っておけば、必ず戻ってきます。

私……さっき桐谷さんに突き飛ばされたとき、傷口が開いてしまったみたいで……本当に痛いんです。お医者さまに診てもらわないと炎症になるって……だから、越也さんに送ってほしいんです、だめ?」

涙に濡れた顔で懇願され、越也は長く沈黙した。だがやがて、はっきりと首を横に振った。

「詩織。何があっても、枝里子は俺の妻だ。それは子どもの頃から決まっていたことだし、変わることもない。さっきは俺も感情的になって、あいつを傷つけてしまった。

だからちゃんと説明したいんだ。明日、彼女をこの世で一番幸せな花嫁にするとな」

「……越也さん……私は、あなたを奪うつもりなんてありません。ただ、せめて最後に一晩だけ……私にくれませんか?私はあなたを、誰よりも愛しているんですよ……」

詩織はすすり泣きながら唇を寄せた。

外は黒雲に覆われ、胸の奥まで押し潰されるような圧迫感が広がる。

越也
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