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第3話

Author: 無き物
「凜、こんなところで何を......?」

バルコニーの入り口から、夢乃の声が聞こえてきた。

彼女の視線が一夏をかすめる。

その笑みはどこまでも穏やかで上品だった。

「......凜の会社の人かしら?ここは冷えるから、早く入りましょう?」

一夏の指先が、体の脇で小さく丸まった。

爪が手のひらに食い込む。

彼が周囲に紹介している世界において、自分はただの、いてもいなくてもいい「会社の人」に過ぎなかったのだ。

凜は向き直った。

その口調には、どこか不自然さが混じっている。

「夢乃こそ、どうして出てきたんだ?」

夢乃は彼の腕に絡みつき、顔を上げて甘えるように言った。

「ゲームでまた負けちゃったの。代わりにお酒、一杯だけ飲んでくれない?お願い」

その声は柔らかく、甘ったるい響きで、彼への依存に満ちていた。

それは、一夏がこれまで一度も口にできなかった言葉だった。

彼女は自立しすぎていた。

病気の時でさえ、彼に迷惑をかけるのを恐れて、一人で耐え抜いてしまうほどに。

凜の視線が一夏の顔に注がれる。何かを言いかけようとした。

夢乃は彼の腕をゆすった。

「ねえ、いいでしょ?一杯だけ。それを飲んだら一緒に帰りましょう」

「......わかった、一杯だけだぞ」

凜は低く応じ、彼女に引かれるまま宴会場へと戻っていった。

一夏はその場に立ち尽くし、寄り添い合う二人の後ろ姿を見送った。

自嘲気味にふっと笑い、深く息を吸い込む。

目頭に浮かんだ、滑稽なほど熱いものを無理やり押し戻した。

一夏はロビーへ向かい、都木への誕生日プレゼントを置いた。

それからタクシーを拾い、会社へと直行した。

パソコンを立ち上げ、ファイルを整理し、退職届を印刷する。

彼女がその書類を上司の五十嵐(いがらし)に差し出すと、五十嵐はそれを一瞥し、鼻で笑った。

そして退職届を二つに引き裂き、ゴミ箱に放り捨てた。

「どういうつもり?」

鋭い声が響く。

「伊礼さんの顔がなきゃ、あなたなんて面接だって通りゃしなかったのよ。ここまで育ててやって、伊礼さんも今や飛ぶ鳥を落とす勢い。あなたを窓口にして伊礼家と契約できると思ってたのに、結局、使い物にならない無能だったわけね!」

五十嵐は一夏の目の前まで歩み寄り、一文字ずつ吐き捨てるように言った。

「まあ、無理もないわ。こんな貧乏くさい女が、夢乃お嬢様に敵うはずがないもの」

言葉の一つ一つがナイフとなって、一夏の心臓を深く突き刺した。

一夏は信じられない思いで彼女を見つめた。

この3年間、五十嵐は確かに自分をよくしてくれていた。

残業の時には夜食を差し入れてくれ、体調が悪い時には病院へ行くよう促し、誕生日にはこっそりケーキまで用意してくれた。

一夏はずっと、それが本心からのものだと思っていた。

男尊女卑の激しい家庭に生まれ、彼女は幼い頃から、自分は弟ほど大切にされない存在だと知っていた。

母親はいつも言っていた。

「お姉ちゃんなんだから、弟に譲りなさい」

「女の子がそんなに勉強して何になるの?」

「早く嫁に行って、お金を家に入れるのが務めだよ」

幼少期のトラウマは、一生消えない。

彼女は必死で勉強し、必死で働き、自分が愛される価値があることを証明しようとしてきた。

五十嵐に出会った時、ようやく自分を心から大切にし、妹のように面倒を見てくれる人に出会えたのだと本気で信じていた。

けれど、その優しさのすべてには、あらかじめ「値札」がついていたのだ。

一夏の声が震える。

「この3年間......私は会社に貢献できるよう、ずっと頑張ってき――」

「そんなのどうでもいいわ。私が欲しいのは――利益よ」

五十嵐は嘲笑い、引き出しから一通の契約書を引っ張り出すと、机に叩きつけた。

「伊礼さんにこれのサインをさせなさい。そうしたら辞めるのを許してあげる。さもないと、あなただけじゃない。親友の小林も道連れよ。あの子の母親、ガンが見つかったばかりで金が必要なんでしょう?」

一夏の心臓が急激に収縮した。

彼女はついに手を伸ばし、その書類を手に取った。

オフィスビルを出た時には、すでに深夜になろうとしていた。

一夏は交差点に立ち、生まれて初めて、これほどまでの茫然自失を味わった。

――どこへ行けばいいのだろう。

凜は今頃、夢乃に付き添っているはずだ。

高級レストランで夜食を食べているか、あるいは彼女を家まで送った後か。

故郷の両親は、電話をすれば「いつ送金してくるのか」「弟の結婚式に金が足りない」と聞くだけだ。

千暁だって自分のことで手一杯だ。

これ以上、迷惑をかけられるはずがない。

この世界はこんなにも広いのに、傷口を舐め合える場所など、どこにもなかった。

冷たい風に吹かれ、彼女は自分の腕を強く抱きしめた。

ふと、3年前のあの冬を思い出した。

北部の鉱山地帯にある仮設住宅には暖房もなく、彼女と凜は狭いベッドで身を寄せ合い、分厚い掛け布団を二枚被っていた。

彼は彼女の凍えた足を自分の胸に抱き寄せ、笑って言った。

「一夏、金が貯まったら、大きな家を買えよう。最高級の床暖房を入れて、冬に震えることなんて二度とないようにするから」

あの時の彼女は、ただ彼の胸に顔を埋めてこう返した。

「大きな家なんていらない。ずっとこうして抱きしめていてくれるなら、それでいいの」

凜は彼女の額にキスをして、誓った。

「バカだな。言わなくても一生、こうして抱きしめてやるよ」

「一生」とは、こんなにも短いものだったのか。

わずか3年だった。

幼い頃からこれほど苦労してきたのは、凜に出会うための運命の埋め合わせだと思っていた。

けれど実際には、彼はもう一つの深淵だったのだ。

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