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第4話

Author: 無き物
一夏は、重いサンプル箱と契約書を抱えて伊礼グループの本社ビルへとやってきた。

受付の女性は、マニュアル通りの完璧な微笑みを浮かべる。

「どなたをお探しでしょうか?」

「伊礼社長をお願いします」

「伊礼社長はまだ出社されておりません。ご予約はございますか?」

一夏は言葉に詰まった。

――予約。

かつて寝食を共にし、互いの呼吸の速さまで知り尽くしていた相手と、今や会うために列に並んで予約を取らなければならない。

彼女は黙ってロビーの隅へと下がり、足元にサンプル箱を置いた。

長いこと待っていると、ガラスドアの向こうにようやく見慣れた人影が現れた。

凜は濃いグレーのスーツを纏い、その傍らには夢乃が寄り添っている。

夢乃は顔を上げて何かを話し、目を細めて楽しそうに笑っていた。

凜はわずかに顔を傾けて聞き入り、その横顔のラインは柔らかい。

一夏は立ち上がり、重いサンプル箱を抱え直して歩み寄った。

箱は重く、角が腕に食い込んで痛む。

凜が彼女に気づき、足を止めた。

一夏の手が震え、抱えていた箱がぐらりと揺れて落ちそうになる。

夢乃がサッと手を差し出して支えた。

「気をつけて」

彼女の声は優しかった。

手を離す際、一夏が抱えているものに目を留める。

「この箱、結構重いわね。誰か運ぶ人を呼びましょうか?」

凜はすでに手招きをして、アシスタントを呼び寄せていた。

サンプル箱が引き取られ、一夏は空になった手でその場に立ち尽くした。

指先がまだ微かに震えている。

凜が彼女を見た。

「どうしてここへ?」

その口調は、まるで一般の訪問客に問いかけるように冷静だった。

一夏はバッグから契約書を取り出し、淡々と答えた。

「うちの会社が伊礼グループと進めたいと考えております、スマート掃除ロボットのプロジェクトです。今日はサンプルと契約書をお持ちしました。ご確認を」

凜は契約書を受け取ると表紙を一瞥し、頷いた。

「LINEで一言言ってくれれば済んだのに......」

一夏は何も言わなかった。

昨夜、メッセージを送ったのだ。

でも彼は返さなかった。

おそらく読みさえしなかったのだろう。

三人はエレベーターへと向かう。

前を行く凜と夢乃。

一夏は半歩後ろを歩いた。

夢乃が興味深そうに、アシスタントが持つサンプル箱を覗き込む。

「このロボット、デザインがすごく可愛いね。後ろの『CleanTech』っていうロゴ、スマート清掃系かしら?」

凜は驚いたように彼女を見た。

「そんなこともわかるのか?これは最新世代のSLAMナビゲーション掃除ロボットだ。レーザーレーダーでマッピングして、自ら経路を......」

彼の口調には、隠しきれない賞賛が混じっていた。

それを聞きながら、一夏は手のひらに爪を立てた。

このロボットは、彼女とチームが三ヶ月間、不眠不休で作り上げたものだ。

試作機のテストに成功した日、彼女は200万円のプロジェクトボーナスを受け取った。

その日の夜、凜のベンチャー企業は資金繰りに行き詰まった。

彼女はその200万円のすべてを、彼に送金した。

着金を確認した彼は目を真っ赤に腫らし、彼女を抱きしめて声を枯らした。

「この金は必ず何千倍、何万倍にして返すから......!」

お金は返せるだろう。

けれど、愛情はどうなのだ。

エレベーターが最上階に到着した。

見晴らしの良いオフィスに入ると、夢乃が腕時計に目をやった。

「もうすぐ12時ね。昨夜は遅くまでバタバタしたから、お腹が空いた。先に注文しておくから、二人はお話してて」

彼女は一夏に礼儀正しく微笑み、部屋を後にした。

ドアが閉まる。

凜はデスクの向こう側に座り、一夏への言い訳のように口を開いた。

「昨夜は夢乃の医療関係の調整を手伝っていたんだ。彼女、来月手術なんだよ」

一夏は相槌を打たず、ただ契約書を彼の前へと押し出した。

事務的なトーンで告げる。

「伊礼社長、これを。条項に問題がなければ、今日中に締結できます」

凜は契約書をめくり、数ページに目を通すと、迷いなく署名した。

契約書を閉じると、彼は顔を上げて彼女を見た。

「この二日、別荘に戻ってないようだけど。どこにいたんだ?」

「仕事が忙しいから、昔の家に泊まってた」

凜は頷き、それ以上は何も聞いてこなかった。

一夏は契約書をしまい、立ち上がる前に一瞬だけ躊躇い、口を開いた。

「......あの家、売ることにしたよ」

その言葉を聞いた凜は、顔を上げて彼女を見た。

「金に困ってるのか?」

一夏の心臓が激しく収縮した。

彼は気づいてくれると思っていた。

この数日間の沈黙、回避、目の奥の充血。

その理由が何であるかを。

せめて、「まだ怒っているのか?」と聞いてくれると思っていた。

けれど彼は、ただ彼女が金に困っているのだと考えた。

今の彼にとって、彼女の異常はすべて「金欠」という言葉で片付けられるものらしい。

一夏は口角を上げ、力なく笑った。

何も言わず、出口へと向かう。

ドアノブに手をかけた時、外から扉が開いた。

夢乃がテイクアウトの容器を提げて入ってくる。

食欲をそそる香りが広がった。

一夏は身をかわして道を譲った。

視界の端に、容器の中の真っ赤な料理が映る。

辛い料理ばかりだった。

凜は胃が弱く、辛いものは食べられないはずだ。

この3年間、彼女は料理に強い香辛料を使うことを決してしなかった。

けれどオフィスの中から、凜の楽しそうな声が聞こえてきた。

「いい匂いだな」

優しく、そして甘やかすような声。

一夏の指が震えた。

彼は本当に、夢乃のことを愛しているのだ。

自分の習慣さえ曲げ、不快感さえ飲み込んでしまえるほどに。

かつて、一夏が彼のためにしてきたことと同じように。

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