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第3話

作者: 一時
深夜、蓮司はようやく帰宅した。

慣れない香水の匂いが菖蒲の鼻をついた。

蓮司は後ろから菖蒲を抱きしめ、「菖蒲、まだ起きていたのか?何か話したいことがある?」と甘く囁いた。

菖蒲はこみ上げてくる吐き気を抑え、蓮司の腕から抜け出して、静かに振り返った。

「誕生日プレゼントの追加分、一週間後に届けるわ」

蓮司は彼女が何も気づかれていないと思い、ホッとした。

そしてポケットからベルベットの箱を取り出し、中から高価そうなダイヤモンドのネックレスを取り出した。

「今日のオークションの件は悪かった。驚かせてしまったな」

蓮司は菖蒲の首にネックレスをかけ、低い声で謝った。

鏡に映る自分の姿を見て、菖蒲の胸は締め付けられるように痛んだ。

このネックレスは、渚から送られてきた写真で見たものと同じものだった。渚の首にも、全く同じネックレスがかけられていたのだ。

同じネックレスを二本も買って、二人の女に贈るなんて。

いい加減な扱いをされていることが、これ以上ないほど明白だった。

「渚はどうするの?どうするつもりなの?」菖蒲はさりげなく尋ねた。

蓮司の目に笑みが浮かんだが、声は嫌悪感を装っていた。

「あんな嘘つき女、どうするって言うんだ?金で片付けるしかないだろう」

「あんなに酷い女なのに、どうして彼女を買い取ったの?」菖蒲はさらに追及した。

蓮司は一瞬動きを止めたが、すぐに強がって言い返した。

「もう二度と俺たちの生活に邪魔させないためだ。菖蒲、この件は俺がちゃんと処理するから、もう考えなくていい」

菖蒲は微笑みながら蓮司のネクタイを緩めた。しかし、襟元に口紅の跡を見つけた。

彼女の目は冷たく光り、唇に嘲りの笑みを浮かべた。「やりすぎちゃだめよ。面倒なことになったら困るわ」

蓮司の心臓はドキリとしたが、すぐに気にしすぎだと思った。

彼は菖蒲に覆いかぶさり、誘うようにキスをしようとした。

菖蒲は顔を少しそらし、そのキスを避けた。

「今日は体調が悪いから」

蓮司の目に失望の色が浮かんだが、無理強いはしなかった。

夜、菖蒲は浅い眠りを繰り返した。

夢の中では、蓮司が目覚めた後にプロポーズした時の光景が映し出されていた。涙を流しながら一生愛すると誓った蓮司の姿。

誓いの言葉はまだ耳に残っているのに、現実はすっかり変わってしまった。

悪夢にうなされて目を覚ました菖蒲は、激しい吐き気に襲われ、トイレに駆け込み、嘔吐した。

激しいつわりに、すっかり菖蒲の体力を奪われた。

蓮司は驚いて起き上がり、慌てて駆け寄ってきて、背中をさすったり、水を渡したり、自らキッチンに行ってスープを作ってくれた。

そんな蓮司の優しさに、菖蒲は一瞬、何も変わっていないかのような錯覚に陥った。

まるで、一番愛し合っていた頃のようだ。

しかしその時、スマホの着信音が鳴り響き、つかの間の温かい雰囲気を壊した。

蓮司は発信者の名前を見て、顔色を変え、スマホを持ってキッチンへ入った。

蓮司は声を潜め、苛立ったように話していたが、自然と優しい口調になっていた。

「渚、また何か用か?具合が悪い?

泣くなよ、すぐ行く!」

数分後、蓮司はキッチンから出てきて、申し訳なさそうに言った。「菖蒲、会社で急用ができた。行かなければならない」

「今?」

菖蒲は窓の外の暗い夜空を見つめた。

「ああ、とても急なんだ」蓮司はそう言いながら、すでにコートを着ていた。

菖蒲は彼を見つめたが、引き止めなかった。

引き止める気にもなれなかった。

少し落ち着きを取り戻した菖蒲は、蓮司が作ってくれたスープを飲もうとした。

ところが、スープの中に豆腐が入っていることに気づいた。

彼女は豆腐アレルギーで、ひどい時には呼吸困難になるほどだった。

そのことを、蓮司は誰よりもよく知っているはずだ。

なのに今、渚のために、そんなことさえ忘れてしまったのだ。

菖蒲は笑った。胸が締め付けられるように痛かった。

彼女はスープをシンクに全て捨てた。

そして、あのダイヤモンドのネックレスもゴミ箱に捨てた。

一晩中眠れずに過ごしたが、蓮司は帰ってこなかった。

夜が明け、スマホが振動した。健太からのメッセージだった。

【お腹の子、今日は元気にしてる?昨夜、君が泣いている夢を見て、胸が痛くて目が覚めたんだ】

菖蒲の沈んだ気持ちは、不思議と少し軽くなった。

彼女は微笑んで返信した。【相変わらず、心配性なのね】

すぐに健太からボイスメッセージが届いた。心配そうな声だった。

「あいつが何かひどいことをしたのか?教えてくれ。すぐに会いに行く」

菖蒲は一瞬、言葉を失った。

菖蒲と健太は幼馴染で、本来なら婚約するはずだった。

それでも、慣れないB市で、蓮司のために一人で頑張ってきたのに、結局、傷ついたのは自分だけだった。

それでも、誰かに頼ろうとは思わなかった。

佐藤家の令嬢は昔から決して屈しない、頑固な性格だった。

今、健太の声を聞いて、ほんの一瞬、全てを諦めてしまいたくなった。

胸が震え、【いいよ】と返信しそうになった。

しかし結局、それを消して、新しくメッセージを打ち込んだ。【私がちゃんと処理するわ。N市で待っていて】
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