共有

第5話

作者: 一時
菖蒲が病院から帰宅して間もなく、蓮司が怒り狂った様子で飛び込んできた。

蓮司は菖蒲の腕を掴み、怒鳴りつけた。「渚はどこだ!お前、一体何をしたんだ?!」

そんな蓮司の態度に、菖蒲は呆れて笑ってしまった。そして、力強く彼の手を振り払った。

「ずっと家にいたわ。彼女の失踪なんて、私には一体何の関わりがあるっていうの?」

蓮司、今のあなた、本当に情けないわ!私に詰め寄る暇があるなら、早く探しに行った方がいいんじゃない!」

蓮司の口調はさらに激しくなった。「お前と関係ないわけがないだろ?病院で、あんな風に渚を責めたから、渚は出て行ったんだ。全部お前のせいだ!」

菖蒲の声も冷たくなった。「病院で私が言ったことは、どれも事実よ。蓮司、あなたを死に追いやった女のために、私を責めているの?

あなたは私を信じていない!過去のことにいつまでもこだわっている!」

だが、蓮司は一歩も引かず、怒鳴り返した。

「菖蒲、今まであんなに優しいお前が、どうして渚のことだけそんなに冷酷になれるんだ?」

蓮司の言葉が途切れるのとほぼ同時に、スマホの画面が点灯し、ビデオ通話の着信を告げた。

ビデオ通話が繋がり、画面に映ったのは何人かのいかつい顔をした男たちだった。すぐそばに、椅子に縛り付けられ、泣きじゃくる渚の姿があった。

「藤原社長、こいつが俺たちに借金があるんだ。どうする?今日中に返済されなければ、どうなるか分からないぞ」

蓮司は、画面の中の男たちを睨みつけ、血走った目で静かに、しかしはっきりと告げた。「もし彼女に指一本でも触れたら、お前らを地獄に落としてやる!」

男たちのリーダーは高笑いした。「金さえ払えば、当然解放するさ」

そして、今度はふざけた口調で言った。「藤原社長もたいしたものだな。愛人のために、自分の妻とやり合うとは。

奥さんからこいつの居場所を聞いて、彼女を捕まえた途端に、藤原社長は助けに向かうとは。ハハハ、面白い面白い!」

蓮司はまるで雷に打たれたようだった。まさか、全て菖蒲の仕業なのか?

その時、渚がビデオの中で叫んだ。「蓮司、助けて!菖蒲さんを責めないで。きっと、わざとじゃないのよ……」

ビデオ通話は切れた。

蓮司は勢いよく振り返り、凶悪な目で菖蒲を見た。「まだ、お前じゃないと言えるのか?!どう言い訳するんだ?!」

「やってない!」菖蒲は大声で反論した。

「まだ強情を張るのか!」

蓮司は完全に理性を失い、菖蒲が嫉妬で復讐したのだと決めつけた。

「俺が知らないとでも思ってるのか?お前は金のために俺と結婚したんだろ!

菖蒲、忘れるな。藤原家がなかったら、佐藤家はとっくに倒産していたんだ!今も佐藤家は藤原家に頼っている。渚を傷つける前に、佐藤家が藤原家の怒りに耐えられるかどうか、よく考えてみろ!」

その言葉は、菖蒲の心をズタズタに切り裂いた。

全ての努力、全ての愛情は、彼の目には金のためだったのだ。

蓮司も自分が言ってしまったことに気づき、慌てて謝ろうとした。

「菖蒲、そういう意味じゃなかったんだ。俺……」

「あんなひどいことを言った後で、今謝ってどうなるの?」菖蒲の声は静かだった。

「いい加減にしろ!」

蓮司は逆上し、菖蒲を乱暴に車に押し込んだ。

「渚をこんな目に遭わせたんだから、責任を取って助け出せ!」

車は猛スピードで廃工場へと向かった。

傷だらけの渚の姿を見た蓮司は、胸が張り裂けそうになり、菖蒲を見る目は嫌悪感に満ちていた。

彼は拉致犯たちに言った。「彼女を解放しろ。代わりに俺の妻を連れて行け」

菖蒲は信じられないという思いで蓮司を見つめ、震える声で言った。「蓮司……」

「これはお前が招いたことだ。当然の報いだ!」

冷酷な目で、蓮司は菖蒲を拉致犯たちに突き飛ばした。

強い衝撃でバランスを崩した菖蒲は、お腹をコンクリートの柱に激しくぶつけた。鋭い痛みが全身に走った。

菖蒲は苦痛に体を丸め、下半身に温かい液体が流れ出るのを感じた。

赤ちゃん……自分の赤ちゃん……

しかし、蓮司は菖蒲を一瞥もくれず、渚の縄を解き、彼女を抱き上げた。

「金は振り込んでやる」

そう言うと、蓮司は渚を抱えたまま、振り返ることなく去っていった。

拉致犯は面白がるように菖蒲を見ながら、一歩一歩近づいてきた。彼らの手にした鉄パイプが鈍く光る。

このまま死ぬの?

地面に倒れた菖蒲の意識は徐々に薄れ、過去の記憶が蘇ってきた。

当時、意識を取り戻した蓮司は、菖蒲を抱きしめながら、ずっと泣きじゃくり、もう二度と離れないと言った。

菖蒲はそれを信じ、そして感動した。

この瞬間、菖蒲は思った。昔の自分は本当に可哀想だったと。

どうしてあんなに簡単に、全てを捧げてしまったんだろう。

菖蒲は諦めたように目を閉じ、再び涙がこぼれ落ちた。

ぼんやりとした視界の中で、記憶の中の、自分を愛してくれた蓮司の姿が見えた気がした。

彼は言った。「菖蒲、ごめん。遅くなった……」

菖蒲は笑った。でも、その人は蓮司じゃない。

蓮司がこんな優しい口調で話しかけてくれるのは、本当に久しぶりだった。

菖蒲は目の前の人を見ようと、力を入れて目を開けようとした。でも、疲れすぎて、うまく目を開けられない。

健太?

この懐かしい、木々の香り……

菖蒲の視界は暗転し、意識は完全に失った。
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 運命の赤い糸、光のように消えた   第23話

    その後、菖蒲は蓮司に会いに行った。病室で、彼は車椅子に座り、窓の外を眺めていた。後ろ姿はどこか寂しげだった。「来たんだな」彼は振り返らなかった。「絵美を助けてくれて、ありがとう」菖蒲は静かに言った。「俺の娘でもあるからな」蓮司の声は落ち着いていた。「俺にできることは、これしかなかった」二人はしばらく黙っていた。そして、菖蒲が口を開いた。「私、結婚するの」蓮司の体は一瞬硬直したが、すぐに諦めたように笑った。「知ってる。彼はお前によくしてくれる」「ええ」蓮司は少し沈黙した後、何かを決意したように、ポケットから小さなビロードの箱を取り出し、ベッド脇のテーブルに置いた。「これ……返しておく」菖蒲はその箱に視線を落とし、胸が少し高鳴った。彼女が箱を開けると、中にはかつて引き裂かれたお守りが静かに横たわっていた。それは修復されていた。国内の熟練した職人によって、特別な技で、引き裂かれたお守りが修復されていた。蓮司は菖蒲の顔をじっと見つめ、震える声で、希望を込めて言った。「菖蒲、最高の職人を探して、長い時間をかけてやっと直したんだ。俺が悪かった。本当にすまなかった。このお守りのように、俺が君の心を傷つけたから、君はそれを引き裂いたんだね。でも見てくれ、直っただろう……俺たちだって……」しかし、菖蒲の静かな瞳を見た瞬間、彼の言葉は途絶えた。菖蒲はお守りを手に取った。指先には、少しざらついた感触が伝わってきた。彼女はお守りをじっくりと眺め、それから静かに首を振った。「綺麗ね。前よりもっと素敵かもしれない。でも、一度壊れたものは壊れたままなの」菖蒲は小さく笑った。「知ってる?あの時、私はお願いしたの。あなたに愛してもらえるようにって。でも、神様も叶えてくれなかった」彼女は顔を上げ、後悔に満ちた蓮司の目をまっすぐに見つめた。「だから、蓮司、私たちには縁がなかったのよ。このお守り、確かに大切にしていた。でも、どんなに修復しても、引き裂かれた痕跡は消えない。触るたびに、見るたびに、どうやって壊れたかを思い出すだけ。もう……戻れないのよ」菖蒲はお守りを静かに箱に戻し、蓮司の方に押しやった。「過去と一緒に、ここに置いておくわ」「戻れないか……」蓮司はその言葉を呟き、まる

  • 運命の赤い糸、光のように消えた   第22話

    結婚式の前日、雲一つない晴天だった。式場の芝生では明日の式典の準備が最終段階を迎えていて、辺りには幸せな雰囲気が漂っていた。そんな中、思いもよらぬ出来事が起こった。一台の車が、何の前触れもなくバリケードを突き破り、芝生の上で蝶々を追いかけている絵美に向かって、猛スピードで突っ込んできたのだ。運転席には、渚がいた。どこからか逃げ出してきたのか、やつれた様子で、長い髪はボサボサ、顔には狂気じみた笑みを浮かべ、明らかに正気ではなかった。「菖蒲!全部あんたのせいだ!あんたが私の人生をめちゃくちゃにした!あんたにも愛するものを失う苦しみを味わわせてやる!死ね!みんなまとめて死ね!」渚の甲高い叫び声が、静寂を切り裂いた。菖蒲は健太と招待客リストを確認していた。そして、この光景を目にし、血の気が引いた。「絵美!」菖蒲は駆け寄ろうとしたが、距離がありすぎて、間に合わない。その瞬間、一人の人影が飛び出し、絵美をしっかりと抱きしめた。蓮司だった。耳をつんざくような衝突音の後、蓮司は血まみれになって倒れ、両足はぐちゃぐちゃになっていた。渚の車は、飾り噴水に衝突し、停止した。駆けつけたボディーガードに取り押さえられた渚は、それでもなお、「どうして!どうしてまたあんたなの!蓮司、この役立たず!死ぬまで菖蒲をかばうつもりなの!」とわめき散らしていた。倒れた蓮司は、みるみるうちに白いシャツを赤く染めていった。菖蒲は、ただ呆然と彼を見つめていた。「蓮司!」思わず、彼の名前を叫んでいた。蓮司は菖蒲を見て、微笑んだ。「菖蒲……やっと……名前を呼んでくれたか……」震える手で菖蒲の顔に触れようとしたが、力なく腕は落ちていく。「怖がるな……絵美が無事で……よかった……」そう言うと、蓮司の意識は闇に沈んでいった。数時間に及ぶ手術の末、命は救われた。しかし、両足は粉砕骨折で神経を酷く損傷し、二度と立つことはできない。残りの人生を、車椅子で過ごすことになるのだ。病室の外に立つ菖蒲は、かつてはあんなにも輝いていた蓮司が、今、ベッドの上で弱々しく横たわっているのを見て、複雑な思いが胸をよぎった。恨みや憎しみは、この瞬間、どうでもよくなった気がした。健太が菖蒲の手を握り、「中に入ってみるか?」と尋ねた。

  • 運命の赤い糸、光のように消えた   第21話

    菖蒲は娘に絵美と名付けた。その名には、絵のように美しく、いつも笑顔の絶えない、幸せな人生を送って欲しいという、願いが込められていた。絵美が1歳になった時、菖蒲と健太は彼女を連れて帰国し、盛大な誕生日パーティーを開いた。ワインレッドのロングドレスを身に纏った菖蒲は、息を呑むほど美しかった。健太は彼女のそばに寄り添い、隠すことなく愛情を注ぐ視線を向けていた。二人が並んで立つ姿は、誰が見ても理想の夫婦そのものだった。蓮司は宴会場の隅に立ち、遠くからその様子を見ていた。彼は1年前より痩せ、眉間に深い皺が刻まれていたが、どこか大人びて見えた。菖蒲は変わっていた。より美しく、強く、そして……より遠くの存在になっていた。彼女の傍らには、もう別の男がいた。心臓を鷲掴みにされたように、息もできないほど胸が痛んだ。健太が菖蒲にシャンパンを運ぶ姿、そして、彼に向ける菖蒲の眩しいほどの笑顔。それは、今まで見たことのない、心からの安らぎと幸せに満ちた笑顔だった。それを見て、蓮司は悟った。自分と離れて、彼女は本当に幸せに暮らしているんだと。顔を上げると、蓮司と菖蒲の視線が合った。蓮司は深呼吸をし、スーツを整えて、グラスを手に取り、二人に近づいていった。高価な贈り物と、ずっと延び延びになっていたサイン済みの離婚届を渡した。「これ……離婚届だ。もうサインは済ませてある。慰謝料として、藤原グループの株式の半分を譲渡する。せめてもの……償いだ」菖蒲は受け取らず、軽く一瞥しただけだった。健太は一歩前に出て、書類を受け取り、冷淡な口調で言った。「藤原社長、お気遣いありがとうな。だが、菖蒲にはお金は必要ない」蓮司の視線は、菖蒲が抱いている可愛らしい女の子に注がれた。「子供を……見せてくれないか?」かすれた声には、懇願するような響きがあった。菖蒲は少し黙り込んでから、頷いた。蓮司は健太から、小さくて柔らかな赤ちゃんを受け取った。赤ちゃんは菖蒲と同じ美しい瞳で、不思議そうにこっちを見ていた。熱いものが込み上げてきて、気づけば涙が赤ちゃんの産着に落ちていた。自分の娘なのに、その成長を見守る資格を、自ら手放してしまったのだ。彼はなかなか手放せないで、子供を抱きしめていた。パーティーが始まり、健太は子供を抱

  • 運命の赤い糸、光のように消えた   第20話

    一ヶ月後、菖蒲の出産の予定日がやってきた。その夜遅く、菖蒲は最高の私立病院の分娩室へと運ばれた。健太は手続きから心のケアまで、全てを完璧に整え、菖蒲に付き添っていた。手のひらは汗でびっしょりだったが、常に冷静な態度で菖蒲を支えていた。蓮司もすぐに知らせを受けた。彼はすぐに病院へ駆けつけた。分娩室のドアに飛び込むと、健太がドア越しに優しく励ましの言葉を掛けていた。「何でここに?」健太は蓮司を見ると、一瞬嫌悪感が目に浮かんだが、持ち前の育ちの良さでその場で怒りを露わにすることはなかった。「俺の子……菖蒲はどうなんだ?」蓮司は荒い息をつきながら、分娩室のドアにしがみつき、隙間から中を覗き込もうとした。「彼女は大丈夫だ。お前が心配する必要はない」健太の声は冷たかった。その時、看護師が慌てた様子で分娩室から出てきて言った。「斎藤さん、妊婦さんの容態が急変しました。胎児の心拍が少し不安定で、緊急帝王切開が必要かもしれません。手続き上、家族の同意書が必要なのですが、妊婦さんのご主人はどちら様でしょうか?」「俺です!」「俺です!」二人の声がほぼ同時に響いた。蓮司は健太を突き飛ばし、看護師の前に駆け寄り、必死に言った。「子供の父親です!俺がサインします!」看護師は一瞬たじろぎ、彼を見てから隣で冷静な表情の健太を見比べ、困った顔をした。分娩室から、菖蒲の断続的なうめき声が聞こえてきた。「早く、俺がサインします!」蓮司は焦りでいてもたってもいられず、同意書に手を伸ばした。しかし、看護師は同意書を引っこめ、トランシーバーに向かって指示を仰いだ。「先生、入口に男性が二人いて、どちらも妊婦さんの夫だと名乗っています。一人は斎藤さん、もう一人は子供の父親だと名乗る藤原さんという方です。手術の同意書は……」トランシーバーから数秒の沈黙の後、菖蒲の弱々しいながらも毅然とした声が聞こえてきた。「斎藤さんにサインさせてください。私は全て彼に託す。もう一人の男は……追い払ってください」宙に浮いていた蓮司の手は、そのまま固まった。顔からみるみる血の気が失せ、青ざめて、そして灰色のようになった。頼るべき人が最も必要な生死の境で、彼女自身と子供を誰かに託さなければならないその瞬間に、菖蒲は健太を選

  • 運命の赤い糸、光のように消えた   第19話

    蓮司は小さなクマの足の裏を指さした。そこには金色の糸で「絵美(えみ)」という文字が、少し歪んで縫い付けてあった。それは菖蒲の母親から聞き出した、子供の名前だった。これが彼にできる、最も不器用ながらも、最も誠実なアプローチだった。子供を口実にすれば、菖蒲の心が揺らぐと信じていたのだ。しかし、彼女はそれをちらりと見ただけで、そばにあったカゴから、全く同じクマを取り出した。「ぬいぐるみは、健太がもう用意してくれてるわ」菖蒲の声は冷たく、感情が読み取れない。「それに、この子は斎藤家の子供よ。藤原家の子供じゃない」「藤原家の子供じゃない」という言葉が、蓮司の胸に突き刺さる。「菖蒲!この子は俺の子でもあるんだぞ!こんな仕打ち、あんまりだ!」ついに彼は感情を抑えきれず、目に涙を浮かべた。「渚のために、私のお腹の子の命を危険に晒した時、あなたはもうこの子の父親である資格を捨てたのよ」そう言い放つと、菖蒲は部屋に戻ろうとした。「藤原社長、帰って。もう私たちに近づかないで」「帰るものか!」蓮司は一歩も動こうとしない。「菖蒲、まだ俺に腹を立てているのは分かっている。それでもいい。俺は待つ。一日許してくれなければ、一日ここにいる。一年許してくれなければ、一年待つ!」しかし、菖蒲は振り返りもしなかった。その夜、蓮司は本当に立ち去ろうとしなかった。彼は別荘の門の外に立ち続け、夕暮れから深夜まで、ずっとそこにいた。別荘の中では、暖炉の火が勢いよく燃えていた。健太の腕に抱かれながら、菖蒲は静かに尋ねた。「ねぇ、あの人、いつになったら帰るのかしら?」健太は菖蒲の額にキスをした。「さあな。だけど、あいつが何をしようと、俺たちには関係ない」少し間を置いて、健太は付け加えた。「もし嫌なら、明日、あいつを追い払ってやる」菖蒲は静かに首を横に振った。「いいえ、放っておいて。耐えられなくなったら、彼も分かるでしょ。失ったものは、二度と戻らないということを……」蓮司は一晩中、門の外に立ち尽くしていた。別荘の灯りが消えていくのを眺めながら、そこで何が起きているのかを想像し、胸が張り裂けそうだった。悲しくて苦しかったが、それでも耐えた。これは菖蒲からの試練だと、頑なに信じ込んでいた。耐え続ければ、いつかは彼女の心が

  • 運命の赤い糸、光のように消えた   第18話

    その一言は、ため息のように軽く聞こえたのに、健太の耳には雷鳴のように響いた。健太は全身が硬直した。彼は信じられない思いで菖蒲を見つめる。いつも優しい笑みを湛えている瞳に、初めて戸惑いと困惑の色が浮かんだ。この言葉を、どれほど待ち望んでいたことか。あまりにも長い時間、待ち続けたせいで、この言葉は真夜中に見る夢の中でさえ叶わぬ贅沢な妄想と化し、口に出すことさえ憚られる願いになっていた。一生待ち続ける覚悟もできていた。しかし今、こんなにも突然、一番不安に怯えているこの瞬間に、彼女から告げられたのだ。一瞬にして、健太の目に涙が溢れた。悲しみからではなく、10年間抑え込んできた深い愛情が、ついに報われた喜びからだった。何かを言おうと口を開いたが、喉に何かが詰まっているようで、言葉が出てこない。ただ、涙で潤んだ目で、何度も何度も菖蒲の顔を貪るように見つめることしかできなかった。まるで、目の前の現実が、恐怖のあまり見ている幻ではないことを確認するかのように。「菖蒲……」声は震えて、うまく言葉にならない。「もう一度言ってくれないか?」そんな健太の呆然とした様子を見て、菖蒲は涙を拭いながら、笑顔を見せた。そして、つま先立ちで健太の耳元に顔を寄せ、真剣な声で言った。「健太、愛してる」今度こそ、はっきりと聞こえた。もう抑えきれずに、勢いよく頭を下げ、菖蒲の唇にキスをした。10年間の想いが凝縮された、激しく熱いキスだった。九死に一生を得た安堵と、長年の願いが叶った喜びに満ちていた。健太は片手で菖蒲の頭をしっかりと抱きしめ、もう片方の手で彼女の腰を優しく包み込み、自分の腕の中に閉じ込めた。深く、重くキスをしながら、すべての愛をこのキスに込めて伝えようとするかのように。菖蒲も目を閉じ、熱く応えた。この瞬間、過去の傷も迷いもすべて消え去った。一度ひどい目に遭ったからって、全部の男を嫌うのはナンセンスだと、彼女は思い始めた。もう少し勇気を出して、自分にも、健太にもチャンスを与えてみようと思った。騒然の中で、二人はお互いを強く抱きしめ、まるで永遠の時を刻むかのように、深くキスを交わした。騒ぎが収まった後、健太は菖蒲をしっかりと抱きかかえ、家へと連れ帰った。あの夜を境に、二人の間の見えない壁

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status