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第7話

Auteur: トフィー
夜。

研究所の学生たちが一人、また一人と帰っていき、研究室には芙美子ただ一人が残されていた。

臨床試験のデータは良好だった。彼女は別の製薬会社とも連絡を取り、近いうちに製品化へ進められると確信している。

片づけを終え、帰ろうとしたその時、ドアの前に立つ見慣れた影が、彼女の目に映った。

芙美子の表情がわずかに冷えていく。

「聞いたわよ。臨床データがもう整理できたって?」

雲雀が靴音を響かせて中へ入り、周囲を見回した。

視線はやがて机の上の書類に止まった。

「あなたには関係ないわ。出ていって」

芙美子は冷たい声で言い放った。

「関係ない?忘れたの?今、その論文は『私のもの』なんだから」

雲雀の唇が意地悪く歪んだ。

「優しい葉山さん、本当にありがとう。このご恩は一生忘れないわ。私が出世したら、ちゃんと感謝してあげる」

彼女が手を伸ばし、書類を奪おうとした瞬間――芙美子はその腕を勢いよく払いのけた。

「仲程、二審は半月後よ。本気でまた運に頼れると思ってるの?」

この臨床データは、夕星でさえ見たことがない。

雲雀の敗訴は、もはや確定していた。

だからこそ、彼女は焦ってここへ来たのだ。

「……いいわ。お金で解決しましょう。いくら欲しいの?」

雲雀の声が低くなる。

「分かってるでしょう?夕星さんが雇ってるのは最高の弁護士よ。あなたが上訴しても、勝ち目なんてないの」

「本当にそう思うなら、今夜ここへ来たりしなかったでしょう。

もう出ていきなさい。さもないと警察を呼ぶわ」

芙美子はもはや相手にする気もなく、背を向けた。

雲雀の歯がきしみ、その目に狂気の光が走った。

彼女は机の脇にあった実験用の灯油缶を掴み、蓋を開けて中身を書類にぶちまけ、そして火を点けた。

「だったら、みんな燃えちゃえばいいのよ!!」

炎が研究室の薬品とぶつかり合った瞬間、火の手が一気に上がり、研究室全体を呑み込んだ。

芙美子は慌てて駆け寄り、体で火を押さえつけようとしたが、いくつもの資料が次々と燃え落ちていった。

雲雀の顔が真っ青になる。想像以上の火勢に、完全に取り乱していた。

炎は円を描き、二人を隅へと追い詰めた。

「どうにかしてよ!早くっ!!」

叫ぶ彼女を、芙美子は冷たい目で見つめた。

――愚か者。

こんな場所で叫んでも、酸素が減るだけだ。

芙美子は身を縮め、呼吸がどんどん浅くなっていくのを感じた。

狭い空間、薄い酸素。

視界が暗く、霞んでいく。

外から足音と叫び声が響いてくる。

「芙美子!雲雀!」

夕星の焦った声だった。

雲雀はすぐさま泣き叫んだ。

「夕星さん!先に私を助けて!」

消防士の声が重く響いた。

「陸川さん、火の勢いが強すぎます!木造ですから、いつ崩れてもおかしくありません……今は、一人しか救えません」

夕星は唇を固く結び、顔を歪めた。

「助けてよ、夕星さん!私を守るって言ってくれたじゃない!?」

雲雀の嗚咽が響く。

芙美子の顔は蒼白に染まった。

「夕星、私のお腹には――」

「……雲雀を先に」

言いかけた言葉が、喉の奥で途切れた。

――彼は、もうとっくに決めていたのだ。

ロープが投げ込まれ、雲雀はそれを腰に結ぶ。

消防士に引き上げられると、夕星が彼女を抱きとめた。

「夕星さん……葉山さん、まだ中に……」

雲雀が涙声で言う。

夕星の動きが一瞬止まり、低く答えた。

「……ここは危険だ。まずお前を外へ。すぐに戻る」

炎の向こうで、芙美子は彼が雲雀を抱えて人混みの中へ消えていく光景を見ていた。

一度も、振り返らなかった。

彼女が救出される頃には、すでに煙を吸いすぎて意識が遠のいていた。

倒れた棚に押しつぶされ、芙美子は動けないまま地面に崩れ落ちた。

意識が薄れていく中、走馬灯のように記憶が流れていった。

――なんて皮肉だろう。あんなに優しかった彼が、今ではこんなにも遠い。

愛ってなんだろう。どうして彼の子を身ごもっているのに、彼女はいつも負ける側なのだろう。

芙美子には、分からなかった。

……

目を覚ますと、病室の白い天井があった。

芙美子は五日間も昏睡した。

左脚は棚に長く押し潰され、膝が完全に壊死していた。

もう一生、普通に歩くことはできない。

病院に運ばれたとき、体中は血に染まり、お腹の子どもも――助からなかった。

いつかは中絶することになると分かっていたけれど、その知らせを聞いた瞬間、芙美子の涙が止まらなかった。

この世界で唯一、自分と血を分けた存在が、消えてしまったのだ。

退院の日が近づいても、夕星は一度も姿を見せなかった。

おそらく、雲雀のそばにいたのだろう。

裁判所はすぐに離婚を認めた。

彼は、訴状を冗談か何かと思ったのか、出廷さえしなかった。

だがもう、どうでもいい。

離婚すれば、彼女は完全に自由になる。

久しぶりに寺を訪れ、亡き子のために供養をした。

芙美子は仏前に膝をつき、深く三度、頭を下げた。

その三つの礼は、もはや夕星とは無縁のものだった。

帰り際、寺の門前で、彼女は夕星と雲雀に出くわした。

包帯だらけの芙美子を見て、夕星は一瞬動きを止め、その瞳に微かな後悔と痛みを滲ませた。

「すまない、芙美子。あの時は……状況が……」

「夕星」

彼女は静かに言葉を遮った。

「私たちの子ども、もういないの」

夕星の表情が凍りつき、思わず彼女を抱きしめようと手を伸ばした。

「知らなかったんだ……もし分かっていたなら、俺は――」

芙美子は微笑んだ。

「もしやり直せるなら……『子どものために』私を選ぶの?それとも、『妻の私』を選ぶの?」

――夕星、あなたって人は、本当に残酷ね。

彼女はもう何も聞かず、彼の肩をすり抜けて去った。

家で、子のために灯す蝋燭が、小さな炎を揺らしながら燃えている。

燃えさかる蝋燭を見つめながら、芙美子は静かに息を吐いて、涙も少し滲んだ。

――これまでの過去も、夕星との縁も、この炎のように、燃え尽くせばいい。

子どもとも、夕星とも、結ばれる縁はあっても、共に歩む運命はないのだ。

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